岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内

金鶏山

奥州藤原氏の埋蔵金伝説がある山。過去5回埋蔵金の発掘が行われたとされ、その関係者が怪死したという言い伝えがある。

金鶏山(きんけいざん)とは、岩手県西磐井郡平泉町にある山である。

、平泉を成すユネスコ世界遺産の一つとして登録されている。2014年3月18日には「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝に指定された。しかし、その全高は98メートルほどしかなく、山と言うよりは丘に近い外観だ。

奥州藤原氏によって山頂に大規模な経塚が営まれた信仰の山で、
「造り山」の異名を持ち、この山には金の鶏が埋められているという伝説から、金鶏山と呼ばれる。

伝説では、平泉の鬼門の方向(北東)から北上川まで人の列を作らせて土砂を運ばせ、一晩で築いたといわれる。
実際に、毛越寺の鬼門(北東)に位置し、平泉を守るために雌雄一対の黄金の鶏を埋めたことされている。

高さは100m足らずの小山だが、登り口付近には源義経妻子の墓と伝えられる五輪塔や毛越寺の別院とされる千手院(藤原清衡、基衡、秀衡の位牌、秀衡の木像などが安置されている)がある。

この山に霊が出ると噂されている理由は、この山に埋蔵金伝説があるためだ。
日本には未だ数多くの埋蔵金が埋められているといわれており、徳川の埋蔵金、豊臣秀吉の埋蔵金などの有名なものや、その他大小の発掘されていない埋蔵金を合わせると、その総額はなんと時価200兆円にも上るといわれる。

そんな埋蔵金伝説の一つである『藤原家の財宝』が、この金鶏山に眠っているといわれる。
この財宝は、かつて藤原家のものであったが、かの源頼朝によって滅ぼされたのち、源氏に加わった北関東の名族、結城家のものとなった。しかし徳川が天下を平定した後、平泉の黄金を手に入れることを画策する。この時、源家はこの財宝を徳川家に渡さぬよう、自領のどこかに密かに隠したとされる。
 家康は結城家の元家臣の一人を捕らえて埋蔵地を聞き出すのだが、発見できずに関東一帯に結城家の持つ財宝の探索を禁止したのである。
だが、8代将軍吉宗の代になると、その禁止令を破り、埋蔵金探しが始まる。晴朝の隠居所だったといわれる城跡を発掘を行ったが、穴がくずれるなどして死者を出し、失敗に終わる。その後、幕末にもう一度財宝の探索が行われたが、その全てが失敗に終わたのである。

昭和5年になると、再び周辺の採掘作業が行われた。

この時には金の鶏こそ見つかりませんでしたが、頂上付近から
銅製経筒、陶器の壺など貴重な美術品が掘り出されている。

こうした埋蔵金発掘は徳川の代から今に至るまで、過去5回の発掘が行われている。しかし、どの発掘工事でも関係者の中で事故死や変死、または行方不明となるものが相次ぎ中止された。
その原因は、この財宝を残した藤原家の霊や、財宝を隠した結城家の霊が現れるせいであると噂されており、今でもこの山には落ち武者風の霊が度々目撃されるという。

た、この金鶏山は義経伝説にも縁が深い場所でもある。
その昔、世常が平泉の衣川館に居たところ、不意に襲ってきた手勢に囲まれてしまう。家来の弁慶坊も含めた僅かな人数で応戦しなんとか戦い続けたが、最期の時を覚った義経は持仏堂に籠もり、家族である幼い娘と妻を殺害。その後、義経自身も自刃し果てたとされる。
この時、敵がたの手によって、親子の遺骸は否応なく引き離され、手柄首である義経の遺体は鎌倉に運ばれていった。そして、平泉に残された妻子の亡骸は、結城家の手によって、この金鶏山に葬られたともされており。義経家の怨霊が現れるとも伝えられている。

この金鶏山に発掘作業は現在行われていないものの、一説によればこの山には黄金作りの鶏二羽、漆一万盃に黄金一億両 が今なお埋められていると言われており、現在も調査が続いている。