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「平家物語」や「太平記」などに書かれた怪僧の怨霊が、巨大なネズミの妖怪に変化した。鉄鼠の名称は、後代の命名。
平安時代に、頼豪という名の、阿闍梨(あじゃり)の位まで上った僧が実在、白河天皇に仕え、皇子の誕生を祈念した。無事に親王が生まれたので、褒美として、本山である三井寺の別院建立の願いを申し出たが、かなわなかった。
「平家物語」によると、怨んだ頼豪は、自分の祈祷で誕生した親王を呪い、断食に入った。やがて、頼豪は怨みをのんで死ぬが、その頃から親王の夢枕に、妖しい白髪の老僧が立つようになった。親王は、幼くして、この世を去る。
更に、「平家物語」の流布本である「延慶本」や、「源平盛衰記」などに、頼豪の怨念が巨大なネズミと化し、対立する延暦寺の経典を食い荒らしたとする記述が現れる。以後、大きなネズミを「頼豪鼠」と呼ぶようになったという。
また、「太平記」によれば、頼豪の怨念は、石の体と鉄の牙を持つ8万4千匹ものネズミとなって、経典ばかりか仏像をも食い破ったとされる。
江戸時代になると、曲亭馬琴が、この頼豪鼠の伝説を踏まえて、「頼豪阿闍梨恠鼠(かいそ)伝」の題で読本を出した。
木曾義仲の遺児・義高が諸国遍歴の途中、夢の中に頼豪が現れ、かつて父が征夷大将軍の地位を狙い、頼豪の祠に願書を寄進した縁で、義高に力を貸すと告げる。こうして、頼豪から秘術を受け継いだ義高が、ネズミを操って、父の復讐をくわだてる。
この小説の中では、大ネズミやネズミの大群が出現して、義高の危機を救ったり、敵をおびき出すために、ネズミの顔を持つ怪人を呼び出すなどの趣向を凝らしている。
有名な葛飾北斎が、挿絵を担当したことでも、充実した内容になっている。
そして、鳥山石燕が「画図百鬼夜行」の中、「鉄鼠」の題で、ネズミの姿に変じた頼豪を描き出した。
妖怪の絵を多数、収録した「狂歌百物語」では、三井寺にあやかり、三井寺(みいでら)鼠の名で、同趣の妖怪を載せた。
ネズミの妖怪としては、他に旧鼠(きゅうそ)がいた。ネズミが、歳月を経て妖怪となったという。
「翁草」によると、宝暦年間に、中京に旧鼠が出現した。毎晩のように、行灯の火が消える家があった。実は、夜中に旧鼠が現れて、行灯の油を舐め取っていたのだ。そこで、旧鼠を退治すべく、ネコを用意して夜を待った。ところが、旧鼠はネコに捕まるどころか、ネコの喉に噛みついて、まんまと逃げ去ってしまった。
今度は、年取ったネコを探して、再び旧鼠に挑ませた。しかし、またもや旧鼠は逃げ去った。
旧鼠の名は、「窮鼠(きゅうそ)却て猫(ねこ)を噛む」ということわざとの語呂合わせとの説もある。
「絵本百物語」には、大和国にいた旧鼠は、その毛色が赤白黒の三毛のもので、いつもネコを食べていたとある。
旧鼠は、ネズミは人間と契り、千年の歳月を経て体色が白く染まったネズミだという説もあった。「絵本百物語」にも、北宋時代の「太平広記」からの引用として、旧鼠は人の娘と契ったと記されている。
また文明年間、出羽国のある家に旧鼠が棲みつき、母屋にいる雌ネコと仲良く遊んでいた。やがて雌ネコは5匹の子ネコを産んだが、後に毒を食って死んでしまう。旧鼠は、夜な夜な通って来て、子ネコの世話をし、無事に育った後にどこかへと姿を消した。
これを聞いた松尾芭蕉は、これと逆に、ネコがネズミを育てたこともあると指摘したという。
香川では、猫又と旧鼠の対決もあった。吉野川のほとり、寺で飼われていたネコが猫又になった。一方、寺の本堂には、7貫もの旧鼠が棲みついていた。猫又は、人々を食い殺そうと狙っていることを住職に教え、他のネコと協力して、旧鼠を退治したという。