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江戸時代に人気があった、かわいらしい妖怪。竹笠をかぶり、手には豆腐を載せた丸盆を持つ姿で、出版物や玩具などに多く、そのモティーフが使われた。
豆腐小僧が特異なのは、怪談としての伝承や、崇りにつながるタブーに関係なく、出版物から登場した妖怪と推定できるからだ。
初めて、豆腐小僧がお目見えしたのは、安政年間の黄表紙「妖怪仕内評判記」と言われている。この中では、イタチが人間の子供に化けた姿と説明されていた。「狂歌百物語」でも、外見は普通の子供と変わらない。
更に、当時の川柳に「豆腐小僧は、化けものの小間使ひ」とまで詠まれている。
これらの本は、洒落や風刺で世相を面白く描写した、パロディ絵本だったから、豆腐小僧も、まったく妖怪らしくなく、ただ使い走りをする役割に過ぎなかった。それどころか、他の妖怪にからかわれた挙句に、豆腐を取り落としたりもした、情けない存在だった。
豆腐小僧の父は見越入道、母はろくろ首、入道の孫などと書いた小説もあった。これほど、江戸の大衆には妖怪が浸透していたのだ。
文化・文政期以降は、こういった出版も盛んで、一方で、歌舞伎が最初の絶頂期に達した時代だった。大衆向けの文化は、次第に子供を対象にしたおもちゃ絵、すごろく、かるたなどの玩具などにまで広がりを見せ、明治の最初まで、豆腐小僧のモティーフも多様されたのだ。
何と、歌舞伎の中にも豆腐小僧が登場していたのかもしれない。当時の歌舞伎役者が、この妖怪に扮した絵が残っているからだ。
豆腐小僧のイラストは水木しげるも描いているが、基本のフォルムは「妖怪仕内評判記」に従っているようだ。同書では、豆腐小僧は、頭が大きく、4、5歳に見えて、眼はぱっちりとしていると書かれていた。少し後の「夭怪着到牒」でも、頭の大きな豆腐小僧が描かれている上、「大頭小僧」と名が付いている。
豆腐小僧が着る着物の柄は、他の本でも、当時の流行病だった天然痘除けとして、春駒、ダルマなどの縁起物だったり、童子格子に似た格子だったりした。
雨がしょぼしょぼ降る、夕方から夜にかけて現われることが多かったともいう。よく人のあとを付け、悪くすると仇をすると、当時の読物には書いてあるが、実際どうだったかは判らない。
後になると、今度は一つ目の豆腐小僧も登場する。読物や絵本には、一つ目小僧や河童、タヌキなども、豆腐小僧と同じく、ただ使い走りのような軽い扱いでよく登場した。「化皮太鼓伝」では、豆腐柄の着物を着た子供姿に擬人化したタヌキが顔を見せ、他にも豆腐を持った一つ目小僧や河童の例も少なくなかった。
「夭怪着到牒」で面白いのは、豆腐屋を脅かして「一丁しめてくる」と、手にした豆腐の由来が書かれた点だ。
すり潰した大豆を原料とする豆腐は、鎌倉期には一般化して食品で、江戸期には大衆にも広く好まれた。当時は「豆腐百珍」などの料理書も刊行、專門店も評判を呼び、行商も町中では珍しくなかった。豆腐小僧の絵を見ると、上面に紅葉の型を押した紅葉豆腐か、豆腐に紅葉の葉を添えたものと見える。
豆腐小僧を、一つ目小僧の伝承と関連させた仮説がある。一つ目小僧は、もともと旧暦2月8日と12月8日に村里を訪れ、病をもたらす疫鬼だった。村では、家の前に目のあらい籠を掲げて魔よけとしていた。また、鰯や豆も一つ目小僧が嫌ったので、豆腐も魔よけになり得たという。この信仰がすり替わり、豆腐小僧が誕生したのではないかというのだ。