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生団子(なまだんご)は、長野の埴科や更級で信仰されていた異仏。生団子仏(ぼとけ)という仏像を本尊としているといわれる。
信州には善光寺という、伝統ある名刹があり、その本尊も阿弥陀仏だったように、阿弥陀信仰が盛んだった。
例えば、川中島の戦いは、この阿弥陀像をめぐる争奪戦だったという説がある。戦国時代、武田信玄と上杉謙信による12年、5回に及ぶ戦闘は、なかなか勝負が付かなかった。謙信は、その本尊を持ちかえったという見方がある。しかし、これは前立像、言わば分身のレプリカであったともいう。実際には、信玄が善光寺如来を、手中にした可能性も高い。更にこの後、織田信長が手にするという推測もある。と言うのも、この阿弥陀像は、大陸から始めてもたらされた、最古の仏像とも考えられたからだ。
善光寺では実際、ほぼ600年ほどは秘仏として公開されていないから、数百年は誰も目にしていないと言える。7年ごとに公開されるのは、レプリカの前立像に過ぎないのだ。ただし、善光寺の本尊を写したとするレプリカは、全国に多く存在するので、それぞれが本物と主張した結果の混乱かもしれない。
阿弥陀信仰が盛んだったことを裏付ける証左としては、無名の仏像も多く存在することだ。
「みたらしの石仏」と呼ばれる石仏が、下諏訪にある。近隣の人々は「あみだ様」と敬愛の念を込めて、信仰して来たという。
鳥居建立のための石材にしようとして、石工がノミの刃を打ち入れたところ、血が流れ出たので、祟りを恐れて中止。その夜、石工の夢枕に、上原山に良い石材があるというお告げがあった。無事に鳥居は完成したので、石工は阿弥陀に感謝して、この仏像を彫ったという。その胸部に、太陽・雷・雲・月などが彫り込んであり、これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅(まんだら)と解釈。阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させた、同体異仏だともいう。
このような背景から、生団子のような民間の阿弥陀信仰が生まれたのだろう。
名称の由来は、生団子仏に供えるために団子を茹でると、その名の通り、一つだけ生のままの物が必ずあるという伝承からとされる。このバリエーションでは、彼岸や月見に団子を作っても、3つは必ず生になるともいう。
「生団子」と呼ばれる、掛け物も伝わっている。頭に笠を被り、片足が素足、もう片方には破れた草履を履き、身につけた衣も破れており、手には半分折れた杖を持っている仏の姿を描いた軸だったという。この掛け軸を飾る家は、裕福になる幸運にめぐまれるとも、伝えられる。
平安時代中期から、末法思想を背景に、仏道を庶民に普及するため、諸国を行脚する僧たちが現れた。これを、聖(ひじり)と呼ぶ。寺院に定住せず、深山の草庵に住んだり遍歴しながら修行する、半僧半俗の存在だった。この掛け軸に描かれたイメージも、この聖の姿をとらえたものだったのかもしれない。
埼玉の秩父にも、生団子(なまたこ)の信仰が秘かに続いたらしい。キツネ信仰ののオサキ、ネブッチョウとともに「秩父の三害」と呼ばれたという。
ネブッチョウは、埼玉県秩父市に伝わる憑き物。オサキや生団子と共に、秩父の三害と言われ関東地方の憑き物として恐れられる。
古くから家に付きまとっている、小さなヘビの憑き物がネブッチョウだという。主人が誰かに怨みを抱くと、ネブッチョウは、その意を体して、怨みの相手を苦しめるた。怨みが強ければ、相手を取り殺してしまった。