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  山本五郎左衛門(または山ン本五郎左衛門、山本太郎左衛門とも)は肥後国(現在の広島県)に伝わる妖怪であり、種々の妖怪を眷属として従える魔王である。同じく魔王とされる神野悪五郎と勢力を二分するといわれている。山本五郎左衛門について描かれたもっとも有名な作品として江戸時代中期の日本の妖怪物語である『稲生物怪録』があり、そこには以下のような逸話が記載されている。
『稲生物怪録』
寛永二年(1625年)、肥後国三次(現在の広島県三次市)に住む稲生平太郎は知人である権八とともに百物語を行い、肝試しのために比熊山へと登った。この時は一つの怪異も起こらなかったが、その二月後、平太郎の家で次々と恐ろしいことが起こり始めた。
巨大な化け物に引っ張られたり、生首が落ちてきたり、老婆の大首が現れたりと、毎日異形の者が平太郎の屋敷を襲う。しかし平太郎は少しも動じることなく、時には妖怪共を無視し、時には撃退して、日々淡々と過ごしていた。
こうした怪異が30日も続いたある日、平太郎の屋敷に袴を着た40歳ほどの武士が、妖怪共と同じように突然現れた。武士は山本五郎左衛門と名乗った。
山本五郎左衛門は神野悪五郎という妖怪と魔王の頭の座を賭けて争っており、眷属の妖怪を使って勇気ある少年を100人驚かせるという勝負をしていたのだという。平太郎は、その86人目であった。
平太郎が数々の怪異に全く動じなかったことで、山本五郎左衛門はまた1人目から少年を驚かせていかねばならなくなった。しかしそれを怒ることもなく、彼は平太郎の気丈さを褒め称え、二度と平太郎の屋敷に怪異を起こさないと告げた。そして平太郎に木槌を渡し、自分と同じように悪五郎がやって来たときには助けることを約束して去っていったのだった。
  広島県にはこの類話がいくつか存在する。例として根岸鎮衛の随筆『耳嚢』には、「三本五郎左衛門」という妖怪の話が記載されている。稲生武太夫が引馬山で一晩を過ごして帰宅した後、家に様々な妖怪が現れるようになったが、武太夫は決して動じなかった。16日後、彼のもとに五郎左衛門が現れて彼の豪胆さを称え、その後は怪異もなくなったという。
  同じく『耳嚢』に、以下のような類話もある。文化5年、五太夫という者が石川悪四郎という妖怪を見物するために真定山へ登り、山中で夜を過ごした。山では何も起こらなかったが、それ以来、家に頻繁に妖怪が現れるようになった。やはり五太夫がこうした怪異に動じなかったために、数日後、悪四郎が僧侶の姿で五太夫のもとを訪れ、彼の勇敢さを称え、山から去ることを告げた。この時悪四郎は木槌ではなく、3尺(約90cm)ほどのねじ棒を残して姿を消したという。この話は五太夫が実際に体験したものとして記録されているが、五太夫が『稲生物怪録』を脚色した作り話を鎮衛に語ったか、もしくは筆者である鎮衛が山本五郎左衛門の話と混同してしまったと考えられている。
  山本五郎左衛門の真の姿については詳しく述べられておらず、『稲生物怪録絵巻』において山本五郎左衛門が平太郎の屋敷から去る際には、駕籠から覗く巨大な毛むくじゃらの脚が描かれている。一方で平田神社所蔵の妖怪画では、三つの目を持つ烏天狗の姿として描かれている。ただし『稲亭物怪録』においては、山本五郎左衛門自身が自分は天狗の類でも狐狸の類でもないと語っている。
  『稲生物怪録』に登場する、山本五郎左衛門が平太郎に渡した木槌は、現在広島市東区の国前寺に寺宝として伝えられている。