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東京都台東区花川戸に伝わる「浅茅ヶ原の鬼婆」という話がある。
飛鳥時代の残虐な大量殺人事件のことだ。

昔の飛鳥時代のこと。
現在の東京・浅草に【浅茅ヶ原】という場所があった。
広大な土地であったが民家は1軒しかなく、ボロボロのあばら家がぽつんとあるのみ。
この家には美しい娘と老婆が2人で住んでいた。
旅の者はこの場所に差し掛かると、辺りに宿もないことからこの家を訪ねることが多かった。
ある日の夕刻のこと。
1人の若い旅人がこの家の付近に差し掛かったとき、美しい娘が声をかけてきた。
「よかったら今夜、家へ泊ってください」と、親切に招いてくれたのだがどうも様子がおかしい。
なぜだかひどく悲しそうな顔をしているのだ。
若者は不思議に思いながらも、親切な申し出をありがたく受け、今夜は泊めてもらうことにした。
家に着くと優しそうな老婆が住んでおり、気前よくもてなしてくれたので若者は安心して床に就いた。
しかし、優しそうな老婆の正体は鬼婆なのである。
娘を使って旅人を家に招き入れ、眠っている旅人の頭に大きな石を落として殺害するのであった。
死体は家の裏手にある池に投げ捨て、旅人の荷物を奪って生計をたてるという生活をしていたのである。

娘は日ごろから老婆に対して、このようなことはやめるようにと懇願していたが、老婆は聞く耳を持たなかった。
老婆が手に掛けた旅人は、今夜の若者でちょうど1000人目であった。
悩んだ末に娘は、老婆が部屋を離れたすきに若者を起こして事情を告げた。
驚いた若者であったが、娘の指示で家をこっそり抜け出したので命拾いする。
若者を逃がした娘は若者のふりをして寝床に入ると、老婆が来るのを待った。
やがて老婆が部屋に戻り、いつものように頭の上に仕掛けた石を寝床に落としたため、娘は死んでしまった。
荷物を奪おうと死体を見た老婆は、自分の娘が身代わりになって自分の行いを改めさせようとしたのを知り、ひどく嘆き悲しんだ。
これまでに自分のしてきた行いを悔いたあげく、死体を捨てていた池に身投げして命を落とした。
このことから、池は【姥ヶ池】という名前で呼ばれるようになったのである。

かつては隅田川に通じるほどの大きな池だったのだが、明治時代に埋め立てられてしまったため今は残っていない。
小さな人口の池があるだけである。
台東区の浅草にある花川戸公園には姥ヶ池跡地と石碑が残っている。
浅草寺の子院・妙音院には、老婆が旅人の殺害に使った石と天井絵馬がある。

「一つ家の鬼婆」とも言われる浅茅ヶ原の鬼婆伝説には、娘を殺してしまった後の話が諸説ある。
1つは、実は娘は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人の道を正しく教えるために表れたとされるものである。
娘の姿になって老婆に悔い改めさせたという話だ。
2つめは、観音菩薩の力で竜と化した老婆が、娘の死体とともに池へ消えたというものだ。
3つめは観音菩薩が娘の死体を抱いて消えた後に、老婆が池に身を投げたというものである。
いずれにせよ、老婆が自分のしてきたことを悔いて自害したということになる。
1000人目の被害者が愛娘とは、さすがの鬼婆も嘆いたに違いない。

鬼婆と呼ばれるだけあり、非常に残忍で恐ろしい大量殺人を起こした老婆。
実の娘が命をなげうってまで訴えたというのに、自ら殺害してしまうとは皮肉な話である。
1000人もの人を生活のために殺害してきたこの老婆は、妖怪以上に恐ろしい、まぎれもない鬼婆なのかもしれない。