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日本で全国的に知られている犬の妖怪「送り犬」は、主に山の中で遭遇するものである。
夜更けに山道を歩いていると、後ろをぴったり着いてくるのは送り犬であるとされる。
なにかの拍子に転んでしまうと食い殺されると言われ、山を通る者から恐れられていた。
しかし、転んでも一休みしているように見せれば喰われることはない。
落ち着いたそぶりでたばこをふかしたりすると、送り犬は襲ってこないとされる。
ただ後ろを着いてくるだけの送り犬もいれば、わざと突き飛ばして転ばせ、そのまま食ってしまうものもいた。
無事に山を下りられたら、贈り犬に向かって「ありがとう」と礼を言うと、贈り犬は帰っていくという。
無事だったことに感謝して何か食べ物などを送り犬にやると、それからは着いてこなかったという話もある。

昭和の初めの頃に発刊された文献によると、送り犬が人を救ったこともあるという。
ある日、妊婦が山道を歩いていると後ろから送り犬が着いてきていた。
妊婦は怖くなって先を急いだが、運悪く産気づいてしまった。
なんとか無事に赤ん坊を生んだのだが、気が付くと周りには送り犬が集まっており、女は「食うなら食え」と言った。
しかし送り犬たちは決して食うことはせず、女と赤ん坊を守るようにして山を通らせたという。
そのうちに送り犬の1匹が女の夫を連れてきた。
このことに感謝した夫婦は、送り犬たちに赤飯をふるまって礼を述べたという。

山に居る送り犬は、人を助けるものと食い殺すものに分けられる。
送り犬は無事に下山できるようにしてくれるありがたいものであり、一種の守り神的な存在として扱われてきた。
一方で人を食うものは迎え犬と呼ばれ、山道を通る者は心底恐れた。

関東では送り犬ではなく「送り狼」と呼ばれるものがおり、山道を歩く者の背後を着いてくるとされる。
追い払ったり歯向かったりしなければ、山の猛獣たちから守ってくれる守り神のような存在である。
しかし、追い払ったり迷惑がったりすると、たちまち食い殺される妖怪として知られていた。
人の頭上を何度も飛び越えるそぶりを見せるが、これを恐れて反撃したり転んではいけない。
命乞いをして恐れずに接するときちんと山を下りるまで守ってくれるのである。
また、履いていた草履を与えると喜んで帰って行くとされ、送り狼もまた送り犬と同じものであるのがわかる。
また、伊豆の付近では送り犬でも狼でもなく「送りイタチ」という説が存在する。
伝わっている生き物は違えど、話の本質は変わらないので同じものとされている。

昔は日本中の山にニホンオオカミが住んでおり、このオオカミは人間の行動を監視する習性があったという。
オオカミは群れの仲間を大切にする生き物として有名であり、非常に頭の良い動物である。
人が自分たちに危害を加えると感じた場合には襲い掛かることも珍しくない。
山道で転ぶと食われるというのは、空腹に耐えられなかった1部のオオカミの仕業ではないかとの話もあるのだ。
また、人を観察するため心情を読むこともできたと言われる。
山の中で産気づいた女と赤ん坊を守ったというのは、こうしたオオカミの頭の良さが起こしたのではないだろうか。
女の夫を探してくるという行動も、仲間意識の高いオオカミなら十分考えられる。
山の妖怪として伝わる送り犬だが、人並みに頭の良いオオカミを妖怪と感じるのも仕方ないだろう。
人以外に人の気持ちがわかる生き物はいないとされていたため、妖怪として扱われても当然なのである。