秦の始皇帝の兵馬俑坑出土のクロムメッキの剣

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紀元前221年の秦の始皇帝の墓として有名な兵馬俑であるが、その中から奇妙なものが発掘された。兵馬俑とは、死者と共に埋葬される
人間や馬をかたどった人形のことで、秦の始皇帝のそれは8000体以上にものぼる。そして驚くことに一つ一つ違う姿かたちをしており、
当時の権力の強さを窺い知ることができる。そして問題のオーパーツとされているのは、そんな兵馬俑の兵士が持つ剣である。通常、
遺跡から発掘される剣というのは、もはや剣とは呼べない代物であり、すっかり錆び付いていて切れ味は言うに及ばない。しかし、兵馬俑の
兵士が持つ剣は、2200年の時を経てもなお光沢があり新聞紙程度の紙を切ることすら可能(ある程度の切れ味を保持している)である。
これは一体どうしたことか、詳しく調べてみるとその剣にはクロムメッキという加工がされていたことが判明した。クロムメッキとは
元素のひとつであるクロムを当時金属として主流であった青銅をコーティングすることで熱に強く錆びにくい、おまけに硬度も上がり
光沢も増すというのである。このお陰で、この剣は2000年以上たった今でもその形を留め、美しい光沢を保っているというのであるが、
そもそもこれがオーパーツ扱いされるのはなぜか。それは、このクロムメッキの技術が発見されたのは1800年代に入ってからだということ、
しかも技術的に実用化できたのも20世紀に入ってからなのだ。つまり、当時では到底成し得ない技術が施されているということであるが、
その詳細についての記録は一切残されておらず、また後世にも伝わっていない。事実、秦の次の王朝である前漢時代の青銅器は完全に腐食
してしまっていて、原型を僅かにとどめているのみである。なお、クロムを加工するには2000度近い高温を扱う技術が必要であるが、
この点については昔の金属加工技術でも可能なのかと思える。秦がなぜ中国統一をなし得たのか、それはこういったメッキ技術によって
他国との武器における確固たる優位性を保ち続けていたからではないだろうかと推測できる。製造技術も極秘事項とされ、秦の滅亡と
共にその技術も失われてしまったものと思われる。クロムメッキの技術は比較的最近のものであると前述したが、その前提となる金属
メッキの技術については、紀元前1500年頃のアッシリアにおいてなされていたという記録に遡ることができ、その技術が密かに伝わって
いたとするならば、こうした技術が使われていたとしても何ら不思議ではない。同様の技術を使い、様々な金属でのメッキを試行錯誤した
結果、クロムメッキという結論に達したのならば、当時の人々の研究熱・探究心に拍手喝采を送りたいところだ。いずれにせよ、全ては
推測の域を出ず、どのようにしてこの技術を確立するに至ったかの明確な証拠や資料が残されていない以上、この剣のメッキ技術は現代
におけるオーパーツのひとつとして認めざるを得ない。剣の他にも矛や戟、弩や矢尻など、秦が使っていた主要武器にも同様にメッキ技術が
施されていたこともわかっており、歴史を探求する上でこのように場違いな工芸品に出会うことは、研究家の探究心をくすぐる格好の
材料なのだと思います。