秋田県湯沢市院内銀山町

院内銀山

坑道跡までの途中の墓地に亡くなった坑夫の墓がおびただしく存在し、不気味な印象を与えている。なお、坑道跡は一部が崩れ落ち、水没している為侵入は不可能。

院内銀山(いんないぎんざん)は、秋田県湯沢市内にある鉱山である。
この鉱山が開山したのは慶長11年のことであり、それから昭和29年の休山まで日本最大の銀山として栄えた。

しかし、やはりこの鉱山での事故死はかなりの数があったとされ、そうした霊はいまでもこの山に出没しており、今なお多くの噂が流布されている。

・院内銀山の中を一通り見て回っていると、顔がきつねのようになり、ヨダレを垂らしながら、まわりの人間を襲うようになる。

・院内銀山にある松ノ木峠で夜にパッシング(ハイライトじゃないときに)されたときは車の屋根の上に 人がしがみ付いている。

・院内銀山に行く途中にあるお墓には観音様がおり、この周辺では機械類が狂ってしまう。

・この山で車を止めて離れると、「ボコボコボコ」といった集団で車を叩く音が聞こえる。近づくと誰もおらず、翌日になると車に大量の赤黒い手形付いていた。

その他にも、「手形がついてた」「車のエンジンがかからなくなった」「後部座席に2人で座ると、真ん中に幽霊が現れる」「車が崖の方に引きづりこまれた」などといった噂がある。

こうした霊は、この鉱山で強制労働によって過酷な労働をさせられ命を落とした人々の霊だとも言われており、近くにはこの鉱山で死んだ3000柱もの墓石がある。

だが、例え鉱山といっても、過酷な強制労働ばかりではない。

実際に坑道に潜る人にも色々ある。実際に穿つ穿子,測量担当の振矩師、採掘担当の山師等は賃金も高く、生活水準も高かった。そうでなくとも一般の作業員ですら、賃金は平均以上であり、毎日酒と白米、黒砂糖のたっぷり入ったパンのようなものも食べられたのは,鉱夫ぐらいであったとされる。

しかし、やはり強制的につれてこられた囚人もいなかったわけではない。そういった人々は経験の要らない比較的簡単な仕事を任せており、釣瓶と手繰水替という鉱山内に湧き出す地下水の処理に携わった。

 
また、院内や山形県側の谷口銀山は農閑期(農業のできない季節)に出稼ぎがやってきていた。さらにこの地は治外法権でもあり、日本中から人夫や商人、さらには外国人やキリシタンまで集まり、かなり賑やかであったと伝えられる。

問題の3000柱の墓石にしても、その墓はそれぞれかなり立派な作りをしており、当時の一般的な墓よりも上等であることから、かなり手厚く葬られていることが伺える。

また、日本で最も銀を排出した鉱山ということで、日本経済の発展に多大な貢献をしたとして、明治14年9月21日には、なんと明治天皇がこの鉱山をおとずれている。その時入ったのが『五番坑ごばんこう』といわれる場所に入坑され。これを記念し、随行者によって『御幸坑』と改名され。この日を鉱山記念日と定めた。

こうして実際に稼働中の坑道の中に天皇が入坑したのは後にも先にもここだけだったと言われている。

しかし、ここは院内銀山で数ある坑道の中で、唯一の鉱夫の出入り口でもあり、明治39年(1906)の火災事故の際、ここから逃げ遅れた鉱夫102名は、封鎖された鉄扉の向こうで亡くなった。

その後、国際情勢の変化により銀が暴落。その後も細々と採掘を続けていたものの、昭和29年に閉山となった。

この鉱山に現れる霊は、ここで強制労働の死者ではなく、この鉱山に閉じ込められた死んだ鉱夫たちかもしれない。その事を考えると、むやみにこの鉱山に入り、かれらの霊を傷つけるようなまねはしてはならないだろう。