奈良市 西紀寺町40

崇道天皇社

南から奈良市街へと向かう国道は、奈良のまちなかを避けて東へと迂回するように走っている。この国道から分かれて市街へとまっすぐに続く狭い抜け道の脇に、この崇道天皇社は存在する。このうっかりすれば見過ごしてしまうような小さな参道の奥には、奈良時代の早良親王を祀っている社がある。「崇道天皇社」という名称ではあるものの、早良親王自身は皇位を継承していない。崇道天皇というのは早良親王が亡くなった後の諡名(おくりな)であり、そう追称されるようになった経緯は崇道天皇社が心霊スポットとして知られるようになったことと深い関係がある。

早良親王

早良親王は奈良時代末期の皇太子のひとりで、非業の死を遂げた人物である。早良親王は当初、出家しており、東大寺などで修行を行っていたが、還俗して皇太子の地位に擁立された。当時朝廷では平城京から長岡京への遷都が進められており、藤原種継という人物が陣頭指揮を執っていた。ところが工事中、この藤原種継が弓矢で射殺されるという事件が起きる。多くの人物が捕らえられ処刑されたなか、早良親王も桓武天皇にこの事件に関わった疑いをかけられ、皇太子の地位を奪われて淡路島へと流された。早良親王は食事を絶ち、自らの潔白を訴えたが、配流される旅の途中で失意のなか病没したのである。

相次ぐ天災

実際に早良親王が藤原種継の暗殺に関わったかどうかを示す証拠は残っていない。桓武天皇との不仲が影響して廃嫡されたとか、早良親王が強い影響力を持っていた東大寺などの寺院勢力が、長岡京遷都を阻止しようとして暗殺を企て、疑いをかけられたという説も存在する。実際に東大寺に関係する役人が複数逮捕されており、この関係から早良親王に疑いの目が向けられたというのである。

どちらにせよ、早良親王が亡くなったあと、遷都先の長岡京では天災や疫病が相次いだ。桓武天皇の一族が相次いで病死。都の中でも疫病が流行し、多くの住民が亡くなった。桓武天皇が陰陽師に相談すると早良親王の怨念によるものだという占いの結果が出て、人々は早良親王の祟りに恐れおののいたのである。急遽、早良親王の霊を鎮める儀式を行ったものの、今度は都の中を流れる川が洪水を起こし、大きな被害をもたらした。ここに至って桓武天皇は長岡京を放棄、平安京への遷都が計画されるようになったのである。

崇道天皇社

平安京へと都が遷されたあと、早良親王は崇道天皇と追称され、奈良の地に埋葬しなおされた。そして平城京があった場所の東に現在の崇道天皇社が建てられたのである。早良親王を祀る社はここ以外にも各地に作られ、京都の鬼門を守る高野の地にも崇道神社が存在している。それだけ当時の人々は早良親王の怨念を恐れたのである。

このように、早良親王は日本のあり方や歴史に大きな影響を与えた人物である。平安京はその後、1000年の都として日本の中心であり続け、現在の日本の文化、政体の基礎を作った。もし早良親王がいなければ、都は別の場所にあり、その後の日本の歴史もまるで違ったものになったかもしれない。

現在

心霊スポットとはいうものの、崇道天皇社には幽霊が出る、なんらかの祟りがある、などの噂はない。市街地の喧騒から隔てられた厳かな雰囲気の漂う社である。平安京への遷都という、その後の日本の歴史を大きく動かす要因となった人物を祀る場所だけに、地元の住民から畏れ敬われているが、時代の流れとともに崇道天皇社が非業の死を遂げた貴人を祀る社であると知る人は少なくなりつつある。日本の歴史を変えるほどの祟りを恐れられた人物も、現在は奈良の町はずれで静かに眠るのみである。