完全な黒沢清ワールド

完全な黒沢清ワールドになっている。
冒頭、精神科医に診察を受けている女性(主人公の高部刑事の妻)が、精神科医の前で本を読んでいる。読み終わりしばらくすると、組んだ足が自然と震えて、その震えがテーブルに伝わり、ガタガタ揺れる。
彼女が読んでいるのは『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』というもので、
映画の中でも、テーブルに置かれた表紙が映る。つまり監督は、ここでもう、種明かしをしている。
愛する人、刑事高部が自分の妻を殺す物語であり、それはなぜなのか、どのようになのかを、私は見せていきますと、監督は、冒頭で、観客たちに、丁寧に明かしている。
さらにいうなら、妻の震えとは何だったのか。それは妻は、彼女の身に、これから起こることを、感じているのです。怖くてたまらないのです。だから震えている。しかしそれは意識されていないから、彼女の表情はあくまで平静です。
前半部は、やや複雑な構成ながらも、現実世界のことが語られていることはわかる。しかし後半になると、物語は、激しく展開していくのだが、画面もまた、説明的なものから、象徴的なものに変化する。
うっかりしていると、シーンの流れで見落としてしまうが、じっくり見てみると、そこに明らかな「転回点」が刻み込まれている。
最初に、象徴的な場面が登場するのは、妻を療養所(精神病院?)へ入院させる時に、ふたりが乗るバスのシーン。このバスの窓から見えるのは、普通の日常的な町の光景ではない。動く雲であり、その後ろの太陽の光だ。それしか見えない。さらに、彼らの他に誰もいないし、広告物その他、日頃目にするような、バスの日常的な細部がまったくない。
つまりこのバスは空を飛んでいるのではなく、これは天上、非現実、もしくは死後の(死出の旅のような)世界。だから妻は、目的地である「沖縄」のことを話すのに、夫である高部は妻に「沖縄に行くんじゃない」という。
では、どこへいくのか? 行こうとしているのか。物語的には、精神病院へ入院だが、じつはそうではない。なぜこんなシーンになったのか。ふつうの街中を走るバスでは、なぜいけなかったのか。それはもう映画が、「主人公高部の現実の視点で描かれてはいない」から。ここから映画は、日常の世界には、ない。
なぜか。それはこのバスのシーンの直前のカットを見ればわかる。猟奇的事件の連発。精神を病んだ妻。催眠術師・間宮との接触で精神的に追い詰められていた高部は、妻と旅行に出ようとする。しかし、帰宅して、テーブルの上に、焼かれていない肉が置かれていて、切れてしまう。それを手でつかみ、台所に投げつける。寝室に行くと安らかに眠る妻。ベッドの脇には旅行パンフレットと、ふたり分の旅行鞄がきちんと用意されている。しかし次のカットで映るのは、台所の包丁であり、それをつかむ高部の手。ここで場面が唐突に切り替わり、先の「天上のバス」となる。
つまり、包丁をつかんだ高部は何をしたのか。それが描かれていない。描かれないまま、ナイフで切ったように映画は終わり、まったく違うフェーズに行ってしまう。

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