良源

良源(りょうげん)は、平安時代の天台宗の僧である。
諡号は慈恵大師(じえだいし)であるが、一般的には、通称、元三大師(がんざんだいし)の名で知られている。
第18代天台座主(天台宗の最高の位)で、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。
また、「厄除け大師」などと呼ばれ、独特の信仰を得ている。
『良源の歴史』
延喜12年(912年)、近江国浅井郡虎姫(現・滋賀県長浜市)に、良源は、豪族の木津(こづ)氏の子として生まれた。
幼児期は、観音丸や日吉丸とも呼ばれていた。
12歳(15歳とも言われる)で比叡山に上り、仏門に入ったという。
良源は、最澄(伝教大師)の直系の弟子でもなく、身分はあまり高くはなかったのだが、高僧と法論を行って論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなどし、徐々に片鱗を見せ始めた。
そして、康保3年(966年)になると、天台宗最高の地位とされる天台座主に上り詰めたのだった。
承平5年(935年)、大規模火災な火災により、根本中堂をはじめ、多くの堂塔を失い、荒廃してしまう。
康保3年(966年)、良源が、天台座主に就任した頃にも火災が発生。
しかし、村上天皇の外戚(皇后の実父)である、藤原師輔の後援を得ることで、良源は、焼失した堂塔を再建することができた。
また、根本中堂は、小規模な堂だったが、壮大な堂へと再建をし、比叡山の伽藍の基礎を造ったのだ。
そして、天禄元年(970年)には、規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の暴挙を抑える事にも力を注いだ。
そんな良源だったが、(1409年)年の『山家要記浅略』では、逆に僧兵の創始者とされている。
良源は、さまざまな功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。
弟子も多く、その中でも、『往生要集』の著者でもある源信(恵心僧都)は著名人である。
朝廷からは、「慈恵大師」が正式の諡号(おくりな)だったが、命日が正月の3日だったこともあり、「元三大師」の通称で親しまれたのだった。
良源の住房・定心房の跡地には、四季講堂が建ち、良源の像を祀ったところから「元三大師堂」と呼ばれているようだ。
そして、全国の神社などに良く見られる、「おみくじ」は、良源が創始者だと言われている。
『良源の別名角大師・豆大師』
慈恵大師である良源は、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」と、さまざまな呼ばれ方があり、広く信仰されている。
角大師=2本の角を持った、骨と皮の痩せ細った鬼の像を表現した絵だという。伝説によれば、良源が、鬼の姿へと変化し、疫病神を追い払った時を表現した像であるそうだ。
角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られたのだそうだ。
豆大師=33体の豆粒のような小さい大師増を表した絵なのだそうだ。
慈恵大師(良源)は、観音様の化身などとも言われており、観音様は、あらゆる衆生を救うため、33の姿に化身するという。『法華経」の説に基づき、33体の大師像を表したものだという。
『慈恵大師像』
「慈恵大師像」と呼ばれるその像や画像は、多くの堂や、寺院にあり、特に、天台系の寺院には、多く伝えられていると言う。
その中で、35体中、11体も重要文化財に指定されているのだそうだ。
これは、僧彫刻の中ではもっとも多いとされている。
これらの像は、どれも礼拝像として、定型化された表現をされており、やや吊り目なやや厳しい表情をしており、手には数珠と独鈷杵(とっこしょ、仏具の一種)をもつのが特徴で、不動明王のイメージを重ねて作られたものだからだと考えられる。

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