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鳥山石燕(せきえん)は、江戸時代の画家。妖怪画集を4冊刊行し、日本の妖怪の視覚イメージを確立した功績がある。
江戸中期、安永年間「画図百鬼夜行」「今昔画図続百鬼」「今昔百鬼拾遺」を、天明年間に「百器徒然袋」と次々に世に問い、人気を博した。
鬼や土蜘蛛、酒顛童子といった、それまでに先例があった妖怪を描くのみならず、幾多の新機軸を打ち出している。頼豪に関するの伝説を鉄鼠(てっそ)と名づけて描いたほか、妖怪一般を指す普通名詞だった火車、元興寺(がごぜ)や、濡女や青坊主などの地方の伝承にも、恐らく初めてフォルムを与えて、イラストに組んだ。
室町期の「百鬼夜行絵巻」などに描かれた、器物の怪である付喪神(つくもがみ)の系統を充実させたことも大きい。
これ以降、時代・絵本、歌舞伎、玩具と幅広く、妖怪のモティーフが用いられることになる。それまでにも、絵巻や錦絵に妖怪が描かれることはありはしたが、崇りや怨念、因果応報といったテーマが背景にあり、石燕が作品に込めたコミック、パロディの要素は少なかった。滑稽や軽妙を愛する石燕の姿勢は、同時代からの洒落本、狂歌などの新しい文化が強く影響している。
石燕の妖怪画集の志を受け、天保年間に出たのが、「絵本百物語」だ。「絵本怪談揃」として先行するとも言われる本書は、「桃山人夜話」の題名でも知られ、やはり各地の伝承に卓抜なイラストを添えた妖怪図鑑だった。絵師は、竹原春泉斎である。
当時の画家は俳諧、博物学など、広範な関心を示して、学者や文人たちとの交流も盛んだった。こうした多彩な文化が織り成して、妖怪画が隆盛した点にも注意しておきたい。石燕らも、先に出版されていた各地の怪談集に目を通し、イラストという形でその研究成果を発表したのだから、妖怪研究の先鞭を付けたとも評価できよう。
妖怪画の流行は地方にも波及し、各地で絵巻や掛軸に組まれている。地方の好事家が、地元の絵師に依頼して、これらを描かせたのだ。今でも伝わる絵巻などには、石燕や春泉斎からの引用と思われる絵も見られる。
地方で活躍した画家の一人に、高井鴻山がいる。葛飾北斎の門人として知られた高井鴻山は、晩年に数多くの妖怪画を描いている。その画風は独特で、さながらシュルレアリスムを思わす、意表を突くフォルムによる傑作が少なくない。
美術史にも登場する浮世絵師たちも、妖怪画の発展を語る上で欠かせない。「笑ひはんにや」など、葛飾北斎「百物語」の連作は特に有名だ。
鵺退治や、頼光の土蜘蛛館を迫力ある錦絵に組んだ歌川国芳は、得意とした武者絵の中に、妖怪のモティーフを多用した。
無惨絵という殘酷趣味のジャンルで知られる月岡芳年も、「新撰三十六怪撰」の題で妖怪画を発表している。
江戸期の妖怪を語る上で無視できないのは、芝居絵の流行だ。絶頂期を迎えた歌舞伎が、芝居小屋のなかった地方でも知られていたのは、版画が広く流布していたからだ。この芝居絵には、有名な「四谷怪談」から豆腐小僧まで、幅広いモティーフが描かれていた。
明治に入っても、妖怪画は盛んに描かれた。この時期に活躍したのが、河鍋暁斎(きょうさい)だ。
軽妙な筆致で知られた暁斎は、「暁斎百鬼画談」で、妖怪画のみならず、怪談会の様子も描いている。当時の妖怪がいかに大衆に好まれていたかが判る、貴重な史料と言えよう。
昭和40年代に、これら、過去の業績を集大成したのが、水木しげるだ。妖怪画の分野では、古今東西最大の存在だろう。