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仁王(におう)さんは、秋田独自の土着信仰で、「お仁王さん」「オニョさん」などとも呼ばれる。人形道祖神とも言われていることから、地域の厄除けを担う、境界の神と解釈される。
仁王さんの人形は等身大で、主に身体はワラで作られ、顔の部分のみ木製の面となっているのが多い。人形道祖神は、明治維新の直後には、禁止令まで出され、多くの仁王さんが焼かれたという。また、道路の拡幅で居場所を失い、製作に時間と手間がかかるため、徐々に姿を消してた。現在では仁王さんとして、面だけを祠ることが多い。
この仁王面にも、幾つかのバリエーションがあり、仁王面だけで祠る場合もあったが、仁王面を塞三柱の石碑とともに祠ることが多かった。また、「鍾馗面」とも呼ばれ、男神と女神を一緒に祠る場合もあり、鍾馗が女神の位置に置かれていた。
ナマハゲとは、身体の形態の相似もあり、関連があるとの指摘もある。しかし一般に、ナマハゲは山の神の使いとされる。
仁王は、正しくは金剛力王といい、魔を退散させる金剛杵(しょ)という武器を持つ守護神だ。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺門の両側に設けることが多い。1体のみの場合もあり、これを執(しゅ)金剛神と呼ぶ。東大寺の三月堂の金剛神立像その例で、形勢や表情は仁王像と似ているが、甲冑を着けている点が異なる。
そもそも道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために、村落の守り神として、主に道の辻、境界に祀られている。主に石仏、または自然石などの石碑、五輪塔、石像などの形状を取る。道祖神信仰は全国に広く分布するが、出雲神話の故郷である島根には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い。
初期は、百(もも)太夫信仰とも習合した。百太夫は、諸国を旅した人形遣い師である傀儡(くぐつ)師や、遊女が信仰する神とされる。一般に男神とされ、多数の木像を刻んで祀る。秋田の鍾馗様が、男女二神だったことも、この百太夫信仰に関係するのだろう。「傀儡子記」に人形遣いが百神を祀るとあり、「梁塵秘抄」などに遊女が祀る神として百太夫の名が見える。
道祖神は、疱瘡除けの神としても信仰され、男女二神から陰陽石信仰が生まれた。
岐(ふなど)の神、または塞(さえ)の神として、猿田彦神と、その妻といわれるアメノウズメノミコト2柱と、男女一対の形で習合した。更には神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりもしている。
火の神を産み、黄泉の国に隠れたイザナミノミコトに会いたくて、イザナギノミコトが黄泉に行くが、その遺体に驚いてき逃げ帰る。追いかけてきたイザナミを防ぐため、黄泉比良坂(よもつひらさか)に大きな石を置いて道を塞いだ。大石をサヤリマスヨミドノオオカミと呼び、この塞の神から道祖神信仰が始まる。
このように、多様な信仰が流れ込んだのが、道祖神なのだ。道陸神、障の神、幸の神、タムケノカミなど、異称も多い。
秋田の鍾馗面も、鍾馗が道祖神に習合された結果だった。道教の神だった鍾馗は、日本では疱瘡除けの神として知られている。ここから、江戸末期の関東では五月人形として飾る習慣も生まれたという。また、京都などで、現在でも屋根の軒先に、瓦製の鍾馗像を置いている。昔、京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ、向かいの家で病人が出た。鬼瓦に跳ね返った病魔が、向かいの家に入ったからと考え、鬼より強い鍾馗を作らせて、魔除けに置いたところ、病が完治したという。これが、屋根に鍾馗を置く起源なのだ。