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磯撫で(いそなで)は、天保年間に竹原春泉斎が「桃山人夜話」(絵本百物語)に描き、昭和以降の妖怪図鑑にも載るようになった、海の妖怪。背びれを具えた魚のようなフォルムで描かれ、自然界のサメ(鮫)を妖怪に見立てたのだと思われる。
海上で舟を持ち上げたり、時には船底に穴をあけたりするサメを、高知のある地方では妖怪と信じていた。サメ除けとして、食べにくいように竹簀(す)で巻いた魚をおとりとして与えて、その隙に逃げるという方法も取った。網にサメがかかった時は、酒と米を振り掛けて、清めないといけなかった。
新潟の佐渡では、サメがよく悪戯をしたという。イカ釣りをしていると、海の底に二つの大きな光が見えた。次第に光が水面まで上がって来て、驚いた船乗りが、灯りに使っていた舷燈を落してしまうことがあった。これは、サメの仕業だという。
福島のサメは、善行をなした。淵にオノを落としてしまい、困っていると、水面からサメが現れて一緒に探してくれると言う。サメに誘われて水中に潜ると御殿があり、饗応を受けた。サメは金製、銀製、汚れた斧を順に出し、男が正直に自分の斧を選んだ。サメは正直なのを喜んで、3本とも男に贈った。ただし、このことは決して口外するなと釘を刺された。男が帰宅すると、すでに3年の月日が経っている。サメとの約束を破り、家族に話してしまった男は、淵の底に引きずり込まれてしまう。
宮崎では、霊験譚にサメが登場する。海上でサメに追いかけられた時、鵜戸神宮の木札を縄に結び、祈りながら海に投げた。不思議にも、鮫の姿は見えなくなった。
サメに関するタブーも多い。三重の熊野では、6月の特定の日にはサメが来るといい、海女は仕事を休み、子供も海に入らない。当日は「オオジロ様」というサメの神か、磯辺神という海神を祠り、神の使いのサメが来るとも言われている。一説に、7匹のサメとも言われ、これを七本サメと称する。鳥羽にも、8月初めには「ゴサイ」と呼ばれる、海に入ってはいけない日が3日ほどあった。その日は、サメが伊勢神宮を参拝に向かうからという。福島では、元日や五節句に生まれた子は、サメに狙われるので、船乗りにはなれないという迷信があった。石川では、サメが大きな口を開けているのを見ると、必ず大荒れになると言い伝えがある。
サメは古来、鰐(わに)とも呼ばれ、江戸の随筆などでは、サメの意味で鰐という表記が用いられた。淡水性の大魚も、ワニと呼称する場合があった。
神話に残る、因幡の白ウサギの物語にも鰐が登場する。これを踏襲したのが、青森の鰐口神社の由来だ。父を尋ねた2人の姉妹が沼を渡りあぐねていると、1匹の鰐が背を横たえて、助けてくれた。姉妹はこれを父親と思い、向こう岸に渡ったという。
「伊豆園茶話」によると、秋田のある川にワニが潜んでいた。近くの城館を攻めた武将が、退治に乗り出す。ワニが鉄粉を嫌うので、これを撒いて、ワニを撃退した。鹿児島の沖永良部島にも、唯一の泉には大ワニがいると信じられていた。ワニを獲ろうとしただけで、祟りがあったという。
福島の、ある寺の娘を目当に、一人の若者が秘かに通うようになっていた。怪しんだ僧が、薬師の宝刀を投げ付けたると、男はワニに変じて海へと逃げた。娘はすで死んでいた。しばらく後、宝刀を呑んだ大ワニが海から上がった。
子供がワニにさらわれた男が、偶然に見付けた大ワニを、子供の仇とばかりに弓矢で射た。子供の追福を祈るため、巡礼に出た男は、旅先でワニの骨を見付ける。怒りを忘れられない男が、その骨を足蹴にした途端、卒倒して絶命してしまう。一説に、ワニの毒牙が刺さったと推測された。