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猫又は、人の家で長く飼われていた猫が、年老いて妖怪に化けたものである。猫に近い外見であるが、しっぽが二股に分かれており、これが猫又の名の由来ともなっている。
中国では1500年ほど昔から「猫鬼(びょうき)」や「金花猫」、「仙狸(せんり)」などの猫の妖怪の伝承がある。仙狸の「狸」とは中国では山猫を意味し、年老いた山猫が神通力を得て、美しい人間に化けて人の精気を吸うと伝わる。
日本においては鎌倉時代前期、藤原定家による『明月記』に「天福元年(1233年)の8月2日、南都(現在の奈良県)で猫胯が一晩で何人もの人間を食い殺した」との記述があり、その怪物の容姿については「目は猫のごとく、体は大きい犬のようだった」と書かれている。この『明月記』の一文が、日本で猫又が文献上に登場した初見と考えられている。ただし「このころ人が猫跨病と呼ばれる病気に苦しんだ」という記述があることから、狂犬病にかかった獣が猫又の正体だったのではとの解釈もある。
鎌倉時代の『古今著聞集』にある観教法印の話では「嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀を咥えて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿を晦ました」と記述がある。この作品からは、飼い猫がたびたび魔物に化けると考えられていたことがうかがえる。
また鎌倉時代後期に兼好法師によって書かれた『徒然草』には「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに」と記されれるなど、鎌倉時代から猫又が存在するという考え方が一般的であったということがうかがえる。
江戸時代の怪談集『宿直草』、『曽呂利物語』にも猫又に関する記述がある。猫又は山奥に棲んでいるものと考えられていた。深山で人間に化けて現れた猫又の話など、山奥に猫又がそっと潜んでいたという考え方は多く残る。
1685年(貞享2年)の『新著聞集』では「紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさであった」と書かれている。
1775年(安永4年)の『倭訓栞』では「猫又の鳴き声が山中に響き渡った」と記述され、この頃にはライオンやヒョウほどの大きさだったと考えられていた。
1809年(文化6年)の『寓意草』では、猫又は犬を咥えていたと書かれ、全長9尺5寸(約2.8メートル)の大きさであったという。
山奥に棲んだという猫又は、後世になるほど大きな獣として考えられ、描かれる傾向にあったことがうかがえる。
江戸時代に伊勢貞丈によって書かれた『安斎随筆』には「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。
また、学者、儒学者として知られる新井白石も「老いた猫は猫股となって人を惑わす」などと述べている。
江戸当時の瓦版などでもこうしたネコの怪異が報じられていた。江戸時代には、老いたネコが猫又となるという考え方は一般的なものであった。
猫又は、猫が人間の性質に近づくものであるので、凶暴で人や家畜に害をなす猫又もいれば、元の飼い主に恩義を感じて善行をするような穏やかな性質の猫又もいるという。ただし、食い殺した人間に化けて、その人に取って代わることができる妖怪である、という考え方もあった。猫又は火車と呼ばれる妖怪に変身することができ、人の死体を盗んでいくともいわれた。
民間伝承によると12年生きた猫、または別の説として20年生きた猫が猫又になるという。長期間人に飼われた猫は猫又に变化し飼い主を殺すと伝わる地域もあり、広島県などでは古くは猫を飼う年数をあらかじめ定めていたという。
香川県では、かつて飼い猫が猫又になった時には魚を添えた小豆飯を食べさせて、赤い手ぬぐいを頭にまいてやると家に外を及ぼさずに出て行くと伝わる。