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菅原道真、崇徳上皇、平将門の3名は、その死後に都に祟りや災厄をもたらしたとされ、「日本三大怨霊」と呼ばれていた。
幼少の頃から聡明、学問、漢詩、政治などの才能にたけていた菅原道真は、886年に讃岐守に命じられ朝廷に重用されたという。道真は、宇多天皇の信任を受け、昇進を続けた。しかし、その働きは有力貴族や公家には疎ましく思われていた。そののち、従二位の位を授かった時に、藤原時平により「醍醐天皇を退け、娘を嫁がせた斉世親王を皇位に就けようとした」との嫌疑をかけられ、太宰府へ左遷される。この際に、菅原道真の子四人も流刑に処されたという。
菅原道真が京の都を去る時には「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌を詠んだといわれる。この梅が主を求めて、京の都から一晩にして太宰府の屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」もよく知られている。
大宰府に流された菅原道真は無念のうちに太宰府で死去した。
菅原道真が死んだ直後、比叡山延暦寺の第13代座主である法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)」のもとに菅原道真の霊が現れ、「今から私を左遷に追いやった者たちのもとへ復讐のために祟りに行きますが、もしそれらの者たちが、あなたに助けを求めてきたとしても応じないでください」と告げる。
それからというもの、都には祟りと考えられる異変が相次いだ。まず、道真の政治上のライバルであった藤原時平が、909年に39歳の若さで病死した。時平の息子たちものちに相次いで亡くなっているという。続いて醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)、さらにその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が次々と病死したという。さらには930年に、朝議中の清涼殿が落雷を受け焼失した。この落雷で、菅原道真の太宰府左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷の要人には多くの死傷者が出たという。やがて醍醐天皇も体調を崩し、この清涼殿落雷事件の3ヶ月後に崩御した。醍醐天皇は、朱雀天皇に皇位を譲り、その1週間後に46歳で亡くなったという。またこの頃に、洪水や日照り、大火、台風なども起こり、多くの死者が出たと伝わる。
朝廷は菅原道真の祟りを恐れ、菅原道真の罪状を解き、贈位をし、子どもたちの流罪を解いて京に呼び戻した。
藤原時平の弟である藤原忠平は、大宰府にいた菅原道真に手紙を出し励ましていたことから、祟りを逃れたという。そしてそののち、摂政関白の位を得ることができた。
この祟りから十数年後のあるとき、平安京の西に棲む貧しい家の娘「多治比文子」のもとに菅原道真の霊が現れ「右近の馬場付近に祠を建てて私を祀ってほしい」と告げる。そののち近江国の「太郎丸」のもとにも同様のお告げがあり、太郎丸の父親が右近の馬場付近に祠を建て、菅原道真を祀ったという。この祠が現在の北野天満宮の由来となった建物といわれる。
現在は学問の神様として信仰されている北野天満宮だが、当時は清涼殿に落雷の事件があったことに由来し、雷神を祀った神社として建てられた。雷神信仰から、北野天満宮は天を司る神を祀るという意味合いで「天神さん」と呼ばれるようになった。菅原道真が死去した日が2月25日であったことから、北野天満宮では毎月25日の命日に「天神さん」と呼ばれる縁日が行なわれる。特に祥月命日の2月の25日には「梅花祭」と呼ばれる祭事が行われる。梅花祭は、この頃満開になる北野天満宮の梅の花とともに菅原道真を偲ぶ例祭である。