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鳥山石燕「今昔画図続百鬼」に載る、顔が髑髏の妖怪。ただし、燈籠を持つ手は骸骨ではない。
その付記にあるように、「剪灯新話」を原作にした「伽婢子(おとぎぼうこ)」の挿話を絵に組んだ。
「剪灯新話」の中の「牡丹燈記」から、明治時代に、三遊亭圓朝が語りの芸である人情噺として有名な「怪異談 牡丹燈籠」が生まれている。
つまり、骨女は、主人公に憑いて殺す、お露の亡霊だったのだ。
水木しげるの妖怪画の、最初の単行本と言える「日本妖怪大全」には、石燕の原画に従って、骨女も収録されている。
しかし、解説文には「牡丹燈籠」に関する記述はなく、淋しい夜道で出会った女が骨女という内容に過ぎなかった。
同じく骸骨の怪異、がしゃどくろは、幕末期の歌川国芳による「相馬の古内裏」を下敷にしている。
これも本来は、平将門とその娘・滝夜叉姫が妖術を駆使する、山東京伝の読本の一場面なのだ。
このように、昭和後半に出た妖怪図鑑の類は、過去の名画を取り上げながら、そこから離れた妖怪名と解説を付した場合が少なくない。
なお、他書のがしゃどくろは、腹部に複数の頭蓋骨が集まった特異なフォルムである。
鳥山石燕は他にも、狂骨という妖怪を描いているが、江戸の随筆にも、この妖怪名は見えず、オリジナルの可能性もある。
調べてみると、骸骨の形態を取る日本の妖怪は、意外に少ないのだ。ただし、骸骨のフォルムそのものは、日本の絵画にも数多い。
最も有名な作品は、葛飾北斎の錦絵「こばた小平次」ではないだろうか。
蚊帳の外から覗く、殺された男の亡霊の顔を、ほとんど骸骨に描出した傑作。うつむいた顔に描き込まれた、上目づかいの、うらめしそうな視線が、何とも哀れだ。
佐藤有文「日本妖怪図鑑」では、「大どくろ」として紹介されている。
先の「相馬の古内裏」のディティールからも、当時すでに、正確な骨格図が知られていたことも窺える。「解体新書」も開板を見ていて、刑死者などの解剖も試みられたとは言うものの、最先端の情報だったと推測できる。
「相馬の古内裏」の場面は、京伝の原作では、多数の骸骨が群を成して攻め寄せる場面で、例えば、月岡芳年「大宅太郎光圀」の方が、イメージとしては近い。
当時までに、滝夜叉姫は歌舞伎の題材になっていて、国芳も知っていた可能性が高い。ただし、歌舞伎の現行演出では、骸骨は登場しない。
存命だった清盛が、庭に骸骨の大軍を幻視する、葛飾北為「福原殿舎怪異」も同種のモティーフである。
これは「平家物語」が、元になっている。おびただしい髑髏が現われて、一つの巨大な髑髏に変幻。更に、生きた人の眼のように、大きな目が幾万と、清盛をにらみつけるという、恐ろしいまぼろしであった。
明治時代の河鍋暁斎や小林清親のカリカチュアや、狐が人間に化ける際に、頭骨を頭に載せる絵など、骸骨の視覚イメージもコミカルな印象を与える場合が多い。
「牡丹燈籠」のクライマックスでは、主人公を取り殺した娘の亡霊が、骸骨に変化し、主人公と同衾している場面が語られる。
骸骨に変わるのも、まず、文明開化の時代に作られたから、一種の合理的な解釈が求められた可能性を見落としてはならない。
また、海外からアイディアを得たため、大陸風のスタイルが残った点も強調しておく。
歌舞伎には「骨(こつ)寄の岩藤」という演目があり、現行演出では、散らばった骨が集積し、人の形に戻るのを仕掛けで観せる場面はあるが、安政期の初演時から大正までに、この仕掛けがあったかは不明。
ヨーロッパ中世の建築装飾や美術品でも、骸骨のモティーフは多用されている。これは、現世のはかなさを示すシンボルだった意味が濃い。
例えば、「死の舞踏」のモティーフや、ヴァニタスと呼ばれる静物画だ。
これに似た日本の仏教絵画に、九相図と呼ばれる絵巻がある。主に絶世の美女が、死んでから朽ちていくまでを、九段階に分けて描き、やはり現世の虚しさを訴えた作品である。
ひょっとすると石燕は、骨女を描くのに、九相図のイメージを参考にしたのかもしれない。