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安宅(あたけ)丸は、寛永年間、徳川家光が製造を命じた軍船形式の御座船。主に将軍の移動に用いられたが、巨艦だったために天和年間には、解体を余儀なくされた。この悲劇の御座船について、当時、幾つかの怪談が流布された。
いずれも、「嬉遊笑覧」に言及がある。廃船が決まった安宅丸を船蔵につないでおいたところ、しわがれ声をあげ、伊豆へ行くと何度も叫んだ。その後、数百人の大工や人足で30日かけて船を壊したが、その間も夜になる度に、安宅丸の叫び声が響いたという。
解体後にも、怪異が続いた。安宅丸の甲板などは一般に払い下げになったので、ある酒屋が板を買って、穴蔵のふたに作り替えた。それから、家を手伝う女の様子がおかしい。女は、自分を穴蔵のふたにするとは許せない。取り殺すと何度も叫んだ。どうも、女に安宅丸の魂が憑いたようなのだ。驚いた主人は、慌てて作り直したたという。この崇りについては、「新著聞集」にも記載がある。
今でも、船にも神棚が設けることが珍しくない。多くは、航行中の安全祈願のため、船霊(ふなだま)を祠っている。また、新しく船を製造した折には、船霊を迎えて、新造船に魂をこめる儀式を執り行うこともある。
「延喜式」によると、船霊とは船の霊であり、他の神ではないと規定している。
神棚のみならず、船霊の祠り方も様々だった。鹿児島では、船の本柱(ほんばしら)を立てる場所に、あらかじめ船大工が打ちつける。従って、本柱には「船霊様がおわす」から、その横木に腰をかけるなと注意した。本柱は船の構造で最も重要な部位だから、本柱そのものが船霊のように表現されることもあった。
本柱に打ちつけるのは、お宮の形をした箱に、男女2体の人形、五穀、サイコロ、銭などを並べた。サイコロは、船霊が船で遊ぶためだったという。
船霊の宮には、他のものも供える。江戸の例では、女の黒髪を船霊に供えた。
造船そのものにもタブーが存在した。志摩では、船を作るときに、頭のない五寸釘は絶対に用いてはならないという。
このタブーに関しては、次の崇りが伝わっている。船を作っていた時、注文主から船大工に対して、何のもてなしも無い。怒った船大工の一人が、頭のない五寸釘を船体に打ち込んだ。その後まもなく、船は座礁してしまったという。
「船霊が泣く」のは、全国に伝承があり、この「声」にもバリエーションが見られる。鈴虫の鳴き音や、雀が鳴くような音や、山で虫の鳴くような音であったりする。船によって聞こえる音が違うらしい。
宮崎では、船霊は沖に出ると「チッチッチッ」と声を出す。これを聞いた漁師は、「船霊様が勇みなさる」と喜んだ。漁師の家族も、この声を聞くことがあった。
伊予でも、船霊様の祠が連続して、小さな音を出すことがあり、これを「船霊様が勇む」と呼んだ。ただし、吉凶いずれかは判然としない。この音は、近くにいても、他の船には決して聞こえなかった。
また、船霊は船頭の袂に移ることがあり、そこで「勇む」ことがあるので、船頭は左の袂には物を入れなかった。
愛媛だと、船霊は「ジージーと勇む」と信じられていた。凶事に関しては、江戸で、大嵐で船がきしんだ音を立てると、必ず不吉なことが起きるとして、「船霊様が泣く」と言って忌み嫌った。
また、船霊が、船乗りに直に知らせるという場合も稀にはあったようだ。宮崎では、難破などの災難を悟った船霊は、船から離れて船主の家に行き、啼いたという。しかも、船主が陸上で遠出をする時にも、船霊は本人に付いて行き守護してくれると信じられた。