それは新月の夜。
大きなマスクで顔の下半分を隠した女が、人気の無い夜道を歩いていた。
ふと前方に、先を行く人影を見つける。
後姿だが、女性。おそらく若い。
女はマスクの下で、耳の辺りまで裂けた口を開いてニッタリと笑った。
異様なスピードで、しかし音も無く背後に忍び寄る。
「ねえ」
息がかかるほどの至近距離から声をかけると、ビクッと肩が揺れて振り返る。
思ったとおりの若い女。大学生くらいか。
予想外だったのは彼女もマスクを着けていたことだ。
しかし、それは気にするようなことではない。
女はいつものように続けた。
「私、キレイ?」
「―――ッ」
若い女はヒュッと息を呑み、叫んだ。
「あのっ! そのマスク、どこで売ってるんですか!?」
「―――え」
「あたしも花粉症でっ、そういう大きなマスクが欲しいんです! もう花粉症どころか慢性鼻炎で砂にも埃にも反応しちゃって大変で! そのくらい大きい方が効果ある気がするし、こんなマスクじゃ鼻に詰めたティッシュがうっかり見えちゃうんじゃないかって心配だし! お願い、どこで売ってるんですか!?」
「い、いや、あの…」
肩を掴んで揺さぶらんばかりの若い女の勢いに、女は思わず圧倒される。
「こ、これ、売ってないのよ。悪いけど。私は花粉症じゃないし、それに、あなたみたいな若い女の子が鼻にティッシュ詰めて外出するなんてあんまり…」
良くないわよ、と続ける暇も無かった。
「放っといてよ。あなたなんかに分からないわ。花粉症じゃないあなたなんかに! 顎まで鼻水垂らしながら歩くよりマシでしょ! 所詮、花粉症の苦労は花粉症の人にしか分からないのよ。分からないならマスクなんかして歩かないで。紛らわしい!」
マスクの下で詰めているティッシュが抜けたのではないかと思うような勢いで、ふん! と鼻を鳴らして鼻炎女は去っていってしまった。
「何で私が怒られなくちゃいけないのよ…」
理不尽この上ない言われようにに思わず呆然と呟く。
立ち直れなくて、しばらく鼻炎女の去っていった方角を眺めていたが、やがて女は気を取り直して歩き出した。
伊達に長年近代妖怪をやっているわけではない。少々の失敗にめげてなるものか。
歩いているうちに、また人影を見つけた。
(―――よし)
道を逸れ、見つからないように暗がりから様子を窺う。
今度も女。しかし年齢は五十歳ほどだ。
これくらいなら逆ギレなどしないだろう。勿論マスクもしてない。
今度はいけるはず。派手に悲鳴をあげてもらおう。
暗がりから抜け出し、中年女の背後に忍び寄って声をかけた。
「ねえ」
振り返った顔は間近で見ても温厚でお人よしそうだ。
女は安心して続けた。
「私、キレイ?」
初対面の人間にアンタは綺麗じゃないなどと言える人間はなかなかいない。
はい、と言うだろう。
そうすれば、自分はおもむろにこのマスクを取り―――。
先を想像して、笑いそうになる表情を引き締める。
笑うのはまだ少し後だと、無言でマジマジと見つめてくる中年女に、もう一度繰り返す。
「ワタシ、キレイ?」
その途端。
「いけませんよっ!」
「―――っ!」
いきなり手を掴まれて叫ばれて、思わず声を上げるところだった。
「いけません、いけませんよ。そんな風に自分の外見にこだわるなんて。人間はね、顔じゃないんです。心ですよ。どんなに美しい人でも心が満たされなければ幸せなんて訪れないんです。どんな外見でもね、神様があなたに与えたものなんですよ。それを品定めするなんていけませんいけません。いいですか、どんなに辛くても、神様から与えられた試練だと思って胸を張って生きていきなさい。それこそが幸せへの道なんですよ」
「え、あの…」
「ですが、一人ではそんな試練に立ち向かうなんて難しいでしょう。良かったら私達が力になります。ちょうど、これから集会があるんです。皆で力を合わせて、支え合って、幸せになりましょう! 大丈夫ですよ。私達と一緒に神様に祈って、心を清く保てば、あなたにだって幸せは訪れます! さ、一緒に…」
「いいいいえっ! 残念ですが今日はこれから急用がありますのでっ!! 失礼します!!」
掴まれていた手を振り解き、適当に頭を下げて女は逃げ出した。
「いつでもいらっしゃい、待ってるわよ~!」
近所迷惑に後ろから追いかけて来る声が聞こえなくなる場所まで来て、女はホッと息をついた。
今日は厄日なのだろうか。連続で妙な人間に声をかけてしまった。
しかも、二人目には改めて考えるとかなり失礼なことを言われた気がする。
この顔で生きていくのは試練。
口はともかく目元には自信があったので、これはなかなかショックだった。
「―――頑張ろう」
口に出して呟く。
次に見つけたのは男だった。
(―――男)
そうだ、最初から男をターゲットにすべきだった。
土壇場では男より女の方が肝が据わっていると相場は決まっている。
怖がらせたいなら女よりも男だ。
見つけた男は銀縁メガネのエリートサラリーマン風で、なかなか整った知的な風貌だった。
こういう男がみっともなく怖がるところがイイのである。
花粉症でもなさそうだし、神の僕でもなさそうだった。
(一気に行こう)
手順を踏んでいるとどんな結果になるか分かったものではない。
とにかくこの口を見せて驚かせてしまおう。悲鳴を上げて腰を抜かしたら―――いや、それよりも一目散に逃げて欲しい。
そうすれば、この百メートル六秒を切る足で散々追いまわしてやろう。
それこそが、口裂け女たる自分の喜び。
ニンマリと笑うと、女は三度背後に忍び寄った。
「ねえ」
男が振り返ると同時に、マスクを取る。
「私、キレイ?」
三度目にしてようやく人前に晒された裂けた口。異様に赤い口腔に尖った歯がずらりと並ぶ。
「―――ヒ…ッ」
男の目が恐怖に見開かれる。喉から引きつった声が漏れた。
ニイィと裂けた口を更に開いて女が笑う。
(さあ―――逃げなさい)
震えながら男が呟いた。
「ユ、ユートピア…」
「え?」
思わず聞き返した―――次の瞬間。
バッ、と男が服を脱ぎ捨てた。
YシャツをTシャツのように上半身からスッポ抜き、ベルトを緩め、スラックスと下着、靴下と靴までを一息に下半身から引き下ろす。
どこかで練習していたとしか思えない一瞬の早業で全裸になった男は、メガネをも投げ捨て、目を見開いて自分の尻をバンバン叩きながら喉も枯れよと絶叫した。
「ビックリするほどユートピア! ビックリするほどユートピア! ビックリするほどユートピアアアアア―――ッ!!!!」
「イヤアアア! 変態―――ッ!!!!」
想像を絶する目の前の存在に、女は一目散に逃げ出した。
百メートル六秒を切る足の能力を限界まで使って走りに走り、街灯の壊れた真っ暗闇の公園に飛び込んで、ようやく立ち止まった。
いくら変態でも人間だ。まさかこの暗闇の中にまで追ってはこないだろう。
ハアハアと裂けた口から荒い息を繰り返しているうちに、ふと思い出した。
妹分であるさっちゃんこと、さちこから聞いたことがある。アレは、幽霊の撃退方法ではなかったか。
「私、幽霊じゃないもん…」
長年妖怪をやっているつもりだったが、もしかして自分は未熟な若造に過ぎないのだろうか。確かにまだ存在してから三十年ほどしか経っていないのだが。
見上げると満天の星が輝いていた。
手に握り締めていたマスクを着け直す。
「―――帰ろう」
何だか、心が折れてしまった。
怖い話投稿:ホラーテラー 無責任船長さん
作者怖話