鼻をくすぐる芳香で、わたしは目覚めた。
シャララ…
耳に優しい鈴の音が響く。
彼だ。
目覚めた私を驚かせないよう、ここに居るよ の合図。
わたしは彼の声を聞いた事がない。
これは彼の事情によるものらしい。
そして、わたしはわたしの事情で彼の姿を見た事がない。
そう、わたしは視力を失ったらしい。
らしいというのは、その原因を覚えていないからだ。
もしかしたら、戻るかもしれない という僅かな希望のもと、この療養生活を続けている。
彼はわたしの世話人だ。
それにしても、いい香。
シャラン、シャラン。
彼が歩くたびになると思われる、鈴の音が心地好い。
わたしは再びまどろみの中へ落ちていった。
*
*
*
わたしは玄関を開けた。
両親は仕事で、まだ帰っていない。
2階の自分の部屋へむかう。
何だろう……人の気配?
違和感を感じて、奥の両親の寝室へ歩みを進めた………
*
*
*
目覚めたわたしは、胸の辺りの服をギュウッと握りしめた。
怖い…
言いようのない不安が広がる。
なんて事のない夢なのに。
シャンシャン……
彼が駆けてきたようだ。
鈴の音に不安がとけていく。
甘い香がわたしを包んだ。
パンケーキだ。わたしの大好物。
クスッ。
パンケーキを運びながら慌てて駆けてくる姿を思い浮かべたら何だか可笑しくなった。
*
*
*
わたしは、両親の寝室のドアノブに手をかけた。
カチャ…
小さな音を立ててドアが開いた。
そっと中を覗くと、薄暗い部屋の隅に人影がある。
誰?
タンスを物色していたらしい手が止まる。
その手には大ぶりのサバイバルナイフが光っている。
わたしは振り返って走りだした。
ダダダッ!
後ろから足音が追いかけてくる。
ガッ!
左肩をつかまれ、バランスを崩して仰向けに倒れ込んだ
*
*
*
ガバッ!
ベッドの上?
何?なんなのこの夢。
今、走ったばかりのように、胸が苦しい。
左肩には生々しい手の感触が残る。
これは……失った記憶なの……?
!
不意に左肩に手が置かれ、わたしは硬直した。
シャラ…
微かな鈴の音。
気が付かなかった。いつもの合図に。
怖い…
怖い!
この手は、夢の中の手?
そう、彼はわたしに触れた事はなかった。
余計な刺激を与えないように?
記憶が戻る事を恐れて?
「いや!」
弾かれたように、手が離れた。
バサバサッと何かの落ちる音。
むせ返るような芳香に、我にかえる。
マドンナリリー。
百合の花。大好きな花。
わからない。あの夢は真実なの……?
*
*
*
転んだわたしの頭上に、ひるがえるバタフライナイフ。
まるでスローモーション。
ゆっくりと振り下ろされる。
暗転。
そうだ。こうしてわたしは、光を失ったんだ……
*
*
*
不思議な感覚だった。
思い出した訳ではない。
理由を映像で見せられたような…そんな感じ。
記憶が戻りかけているのだろうか?
目の前の闇より暗い不安が広がる。
わたしは、身を縮めるように自分を抱きしめた。
シャラ…
鈴の音。
左肩に手が置かれた。
自分でも、ビクッと体が反応したのが、わかった。
『……思い出したのですか?』
不意に響く声。
!!!
「声が…!しゃ、喋れるの?!」
「!?」
息をのんだのが、わかった。
いや。
怖い!
彼は、あいつなの?
わたしは、ずっと見張られていた?
いや!助けて!
「いや!いや!いやぁ!」
もう、何が何だかわからない。
逃げたくても、どこへ行ったらいいのかすら、わからない。
わたしは、パニックを起こして叫んでいた。
「助けて!」
「助けて!!おかぁさぁぁん!」
『〇〇…』
「!」
お母さんの声だ!
シャンシャンシャンシャン……
気が付くと、優しく鈴が鳴っている。
わたしを取り囲んでいたのは、懐かしい匂いだった。
風の音が怖くて、母の布団へ潜り込んだ子供の時。
布団に染み付いた母の匂い
母の温もりと頭をなぜてくれた優しい手。
『大丈夫。大丈夫。もう怖くないよ。怖いのは終ったの…』
これは、記憶の中の声?それとも……
*
*
*
近づく、バタフライナイフ。
それは、わたしの顔を、目を、傷つけたのではなかった…
首を掻き切ったんだ……
思い出した。
わたしは、死んだんだ。
『思い出したのですか』
彼の声に、わたしは頷いた。
『目を開けてご覧なさい。』
そう、自分で閉ざしていた目。
自分で閉ざしていた記憶。
自分で閉ざしていた道。
わたしはゆっくり目を開けた。
まぶしい…そこは光の花畑だった。
あぁ、気持ちがいい。
先に行ってるね…
今度は目を閉じても光が見える。
わたしは、光を吸い込むように、両手を広げて深呼吸をした。
*
*
*
彼女は眠りに落ちるような顔で、光の中に消えていった。
俺は緊張の意図が切れて、床に崩れた。
「先生?」
あぁ、ご両親、その呼び方はやめてくれ。
俺には、無理だったんだ。
殺された娘が、ずっとたたずんでいる。
親御さんの涙にほだされて、うけた依頼だった。
俺は疲労困憊の体を無理矢理起こした。
祭壇に供えられた、百合の花。パンケーキ。お香。全て彼女の好きだったもの。
そして、彼女を想う、親御さんの気持ちが、彼女を救ったんだ。
あの時、急に彼女に届くようになった俺の声。
中途半端に触れた霊体。
混乱した彼女。
あのままだったら、彼女は荒御魂になってしまい、成仏させる事は不可能だった。
お母さんの声がとどかなかったら………
「ここに留まっていた彼女はもう、大丈夫。あるべき所へいきました。
お母さんのおかげですよ」
お母さんの目から涙が溢れた。
「〇〇…」
俺はそっとその場を離れた。
俺、もうちっと、修業するかな………
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話