うだるような暑さの中、紀貫之は焦っていた。
原因はわかっている。前年醍醐帝より勅命が下っていたのだ。
「万葉集より優る歌集を編纂せよ」
一年前、失脚の上、太宰府にて横死した従二位菅原道真。
その怨霊が都に祟りを及ぼそうとしている。
そんな噂がまことしやかに流れ、醍醐帝は管公の編纂した新撰万葉集以上の歌集を創ろうと躍起になっていた。
その筆頭編纂者に当時まだ無冠だった貫之が選ばれたのだ。
大仕事だった。
だが、それにも関わらず貫之は気もそぞろで何も手につかなかった。
夏の暑さだけではない。
実はちょうど勅命が下った頃、貫之は実の娘を亡くしていた。
公にする子供ではない。だが、若干35歳の貫之にとっては目に入れても痛くない子供だった。
(てて殿、てて殿)
何かにつけて娘の声が浮かんでくる。
(てて殿、また歌を教えてたもれ。
てて殿の文字は難しい。いつものように詠んでたもれ。ほれ、はよう)
歌と手鞠が好きな童女であった。
(てて殿、てて殿・・・)
(てて殿、体が熱い、水をたもれ。てて殿、水を・・・)
娘の声を思い浮かべてははっと気がつく。
文献を読んでいるときも、歌集の候補を選んでいるときも、そんな事が続いた。
目の前の書物は一語とも頭に入ってはいないのだ。
(気鬱の病などで勅命をおろそかになどできぬ)
そう思ってはいるのだが、如何せん気持が言うことを聞かない。
もちろん陰陽師の助言も取り入れ、出来ることは行ってきた。
祈祷師に占わせ、護摩壇も炊いたし、人型も水に流した。
気を晴らそうと、歌会も催したし、今日も今日とて、気の置かない友人貴族と蹴鞠の会を行ったのだった。
だが一向に気の乗る気配はない。友人達も事情を察し、今日の会は早めに切り上げることにした。
「のう、貫之殿」
友人達の間でももっとも気が通じる、壬生 忠岑(みぶのただみね)が話しかけてきた。
「御身を見ていると、こちらまで気が滅入ってくる。ご息女の事がまだ気にかかっておじやるのだろう、のう?」
ずけずけと言いたいことを言う。
「恥ずかしながら」貫之は遠慮がちに答えた。
「御身さえ良ければ摂津に会って欲しい者がおじやる。
十にも満たぬ童女でおじやるがな、阿倍野の片田舎にあって、陰陽道を極め、世辞にも明るい。
教養も高く、民衆の悩みを消し、あやかしを懲服するともっぱらの評判じゃ。
まもなく噂は都にも聞こえよう。御身さえよければ一度世話しよう。いかがでおじやる?」
十にも満たぬ。娘と同じぐらいか・・・。
とにかくなんでもいい。この状況から抜け出したい。
「お願いしてもよろしいか?」貫之にしてははっきりと答えたのだった。
「お初におめもじいたしまする」
目の前に両手をつく童女は、確かに見た目は十にも見たぬ。
だが顔の作りは目は細く、黒目は大きく、色は白く、どことなく百済の高族を彷彿とさせる。
いや、もっとはっきり言えば、狐か川獺が貴族に化けて、人をだましに来ているような、そんな様子であった。
今にも稚児装束の尻の所から、白い尻尾でもぴよこんと出て来そうな気がした。
「いや、遠いところをよう来てくれた。これ、たれぞ瓶子なぞもって参れ」
「あなや。妾は童ゆえ、酒は飲めませぬ」
くつくつと笑う仕草はまるで三十路の熟女のようだ。
「あ、ちごう。醍醐などもって参れ」
「醍醐など、この世の中でもったいなくて妾など食べる事は出来ませぬ」
と思えばまさに童女そのものの様子でころころと笑い転げる。
恐らく料理の醍醐と醍醐帝に引っかけ、食べる事は恐れ多いとふざけているのであろう。
この短時間に、紀貫之はこの年端もいかぬ幼女に急速に惹かれている自分を感じた。
通り一遍の挨拶を済まし、童女の方から用件を切り出す。
「忠岑殿より聞きました。ご息女の事が気にかかり、勅命も手につかぬとか・・・」
「恥ずかしながら」
忠岑のときと全く同じ答を返す。とても言葉の使い手として歌集の編者に指名されたとは思えない。
貫之の内心を見透かすかのように、また童女はころころと笑った。
「のう、貫之殿、現世は陰陽、五行の理(ことわり)で動いておじやる」
「は、それはそう・・・」
急にまた大人びた口調に戻り、貫之はまた虚を突かれた。
「原因があり、結果がある。
結びつけるのは縁じゃ。
御身はご息女の事を忘れぬ限り、また気持に整理がつかぬ限り、勅命はなせぬ。
そう思っておろう。のう?」
「まさに。それは当然のこと」
「そこに御身の縛られている原因がおじやる。帝より勅命が下ったことが縁じゃ。
縁によって御身にも気持の整理が出来る。そう思し召したもれ」
「は?そは如何に?」
「御身がご息女の事に思いを寄せること。
古今の名歌を研究し、編纂し、帝に奏上することは同時にやるべき事でおじやる。
今日はそれを伝えに参上した次第」
まだ何を言いたいのか分からない。
「あの、童女殿」
「白狐とお呼び召せ」
「は?」
「阿倍野では陰陽の白狐で通っておりまする。
気に入っておりまする故、貫之殿も白狐と呼んでたも」
くつくつと笑う。
「では白狐殿。娘のことは気にせず、勅命に従えと、そういうことで・・・」
「否!!」
急に童女が大声を上げた。
「は?で、ではなんと?」
貫之は完全に雰囲気に飲まれている。
「同時にやるべきと申しておじやる。
帝に奏上すべき歌集が出来たとき、ご息女への気持に区切りがつくのでおじやる。
古今の歌はおぼえておじやろ?
娘に語る様に妾に詠ってたもれ。妾はご息女に口を寄せ、歌を返しはべまする」
「は・・・あ」
貫之はしどろもどろになった。
歌を詠え?この子供に?
「突然言われても虚を突かれますかな。なれば妾が先に詠いまする」
白狐が居住まいを正した。
あたりの空気がぴんと張り詰めていくのが分かる。蝉の声が遠くなった気がした。
「白雲に はねうちかはし飛ぶ雁(かり)の
かずさへ見ゆる秋の夜の月」
(白雲に羽を連らねるようにして飛んでいる雁の数までかぞえられるほどに、すばらしく明るい秋の夜の月であるよ)
鈴の音のように澄んだ声が貫之の耳に染み渡った。
ああ、この歌はもちろん知っている。娘が一番好きだった歌だ。
手鞠の拍子をとるのに口ずさんでいるのをきいて、咎めたことがある。
この童女は何故この歌が娘の好きな歌と知っているのか。
次は自分の番か。娘に教えたときのように詠えばいいのか。
馬鹿馬鹿しい事だ。
馬鹿馬鹿しい事だが、娘のことを思い出しながら童女と一夜戯れるのも手慰みにはなるやもしれぬ。
「わが君は 千代に八千代にさざれ石の
巌(いわお)となりて 苔のむすまで」
(あなた様は千代も八千代も長生きしてください。小さな砂利が悠久の年月を経て巌となり、さらにそれに苔が生える程までも)
帝に詠む歌だが、戯れがすぎたであろうか?
こうして、奇妙な歌会が始まった。
怖い話投稿:ホラーテラー 悪のり倶楽部さん
作者怖話