長編15
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邪兒 #巨蟹

 寺島「三木はそのまま二条の咽笛を潰し、ワケのわからないことを叫びながら走り去ったらしい。

数日後、*山の頂上で首を括って自殺してるのを発見された。

なんでも最寄りの交番に、『*山の山頂に死体がある』って通報があったそうだ」

 

 笠井「誰から」

 

 寺島「それが身元を明かさなかったようだ。俺が思うに―」

 

 笠井「三木が死後自分で通報したってか。オカルトマニアらしいな」

 

 那波「二条は死んだのか」

 

 寺島「…いや、そのときは一命をとりとめた。だが、しばらくすると入院先で意味不明なコトを独り言のように呟き始めたらしい。

で、結局原因不明のまま発狂して死んだ」

 

 篠崎「…なんでおまえがそんなこと知ってるんだ」

 

 寺島「いろいろと調べたのさ。この学科の先輩とかは、みんなこの話を知ってた。なんでも、三木は教授の教え子だったらしい」

 

 笠井「…ひとつ気になることがある。*山の祠と三木の一件はなにか関係があるのか。寺島の話だと、ハナからこの異常事態の原因が三木だと決めてかかってる風に聞こえる。

だが今のところ繋がりは『三木が*山の山頂で自殺しました』ってことだけだろ。何か根拠があるのか」

 

 寺島「そこだ。調べれば調べるほど奇妙なことがわかってきたんだ。三木の自殺後―」

 

 望月「おいみんな!こんなところで議論してる場合じゃないだろ!!まず二人を救護室に連れて行かなきゃ」

自分の身に危険が迫ると他人のことに目がいかなくなるのは、人間の醜い性だ。

石川の身体に特に異常は診られなかったが、教授の頭蓋はいびつに変形していた。脳にまで損傷が及んでいたら事態は深刻だ。

 

 笠井「待て!!教授はあまり動かさないほうがいい。救急車呼ぶぞ」

そう言ってケータイを取り出す笠井。それを見てはっとする。

まだ室に例のメールを送っていない。

 

 

 那波「寺島。おまえに送られてきた差出人不明のメール、あるだろ。あれ俺に送ってくれないか」

 

 寺島「どうして」

 

 那波「…何か手がかりがあるかもしれないだろ」

周囲を見渡すと、関係のない他学部の生徒まで俺たちに注目している。

学科生30人が一同に会し、内一人と、あろうことか教授までも床に突っ伏したまま動かないのだ。事件沙汰だと思われて当然といえば当然だった。

寺島がケータイをかざして俺に目配せする。握りしめていたケータイを開くと、すぐに着信画面に切り換わった。

それと同時に、バイヴレーションと思しき音がそこら中から一斉に鳴りだす。

目を上げると、学科仲間がそろって自分の携帯電話を取り出す光景がとび込んできた。全員異変に気付き、お互いに顔を見合わせている。

 

 笠井「さっきのメールじゃねぇか!!こんなもん誰も欲しくねぇっつぅんだよ!おまえふざけんのも大概にしろよ寺島!!」

 

 寺島「………え」

 

 篠崎「調子乗んなよてめぇ。そんなに俺らからかって楽しいのか」

 

 寺島「は!?…おめぇらには送ってねぇよ那波だけだ!!そんなことして楽しいワケねぇだろが!」

 

 常田「…俺、寺島にアド教えてないよな。なんで…」

 

 丹羽「俺もだ。…寺島…どういうことだ」

 

 寺島「…知らねぇよ!!……頼むから俺を疑うのはやめてくれ…ホントに何もしてないんだ…」

 

 篠崎「おい笠井。救急車は呼んだのか」

 

 笠井「ああ。すぐに到着すると思う」

 

 那波「……これは寺島の悪戯なんかじゃない」

 

 笠井「…じゃあなんだってんだ。さっきから、…常軌を逸してる。説明できないことが多過ぎる」

口に出してしまえば、起こったことの全てが、現実の鎚となって俺たちに容赦なく振り下ろされることになる。

果たしてそれが俺たちに良い結果をもたらすのか。ただ皆を混乱に陥れるだけではないのか。

しかし、このままでは全員の怒りの矛先が寺島に集中してしまうだろう。そして最悪、仲間を信頼できなくなるかもしれない。

 

 那波「…少なくとも、俺たちの相手は」

人間じゃない

信じられない

信じたくない

目の前の現実は、俺たちが甘い考えにすがることを許さない。

あらゆる負の兆しを内包した、黯い跫が。

クロイアシオトガ

ゆっくりと、しかし確実に。

音は聞こえるし、影も這ってくるのに、そのヌシは霧がかったように判然としない。

そんな形を成さない不安感が、今や全員に纏わりついていた。

 

 笠井「…人間じゃない…」

 

 篠崎「那波、おまえまでそんなこと言い出すとはな。言っとくが、俺はそういうモノは信じない。だが、なにかが狂ってるそれは分かる。それも俺たちじゃどうしようもないモノが。…なにか打開策があってそれを口にしたのか」

 

 那波「具体的な対策はまだわからない。…大事なことは、ここにいる全員がお互いを信頼できるってことだろ。まずそこからだ」

 

 望月「その通りだ。さっきからみんな寺島を攻めてばかりいるが、それは見当違いだろ。一連の出来事の元凶は寺島じゃない。人間じゃこんなことできない。

…ひとまず、落ち着こう。頭を冷やさなきゃいい案なんて出るはずがない」

 

 笠井「……そういえば寺島。さっき話の途中だったな」

 

 寺島「ああ。そのことなんだが、奇妙なことがわかったんだ。三木が姿を消した後、同じ学科生全員に不審なメールが一斉送信されたんだ。10年前、当時この学科に所属していた者全員にだ」

 

 篠崎「そのメールが…これってか」

 

 常田「そのとき三木はまだ生きていたのか」

 

 笠井「俺もそこが気になった」

 

 寺島「生きていた筈だ。それはメールの文脈から推測できる。みんなもう一度メールを見てみてくれ」

 

 笠井「確かに。てことはあれか。一斉送信用のアドレスを使ったってことか」

 

 那波「そうか。笠井も持ってるよな。確か…」

 

 篠崎「成績優秀者だからだろ。そうすると辻褄が合う。寺島によれば三木も秀才だった」

 

 寺島「そのメールが送られた後、俺たちとまったく同じような現象が起こり始めた」

 

 篠崎「どうなったんだ」

 

 寺島「そこだ。その部分だけ事実として不透明になってる」

 

 笠井「死人が出たとしたら、…例えばの話だよ真に受けるな。…もしそうだとしたら、大学側が揉み消したのかもしれないな」

 

 常田「それ、大分でかい事件になるよな」

 

 笠井「どうだか。大学側で通報しなけりゃ誰も警察にちくったりしないだろ。学内で事が起こったとしたら、正式な情報として外部に漏れることはまずないよ。噂がたつことは十分有り得るけどな。

現に寺島はその事件を知ってる。真偽は置いといて」

 

 篠崎「死体はどうやって処理したんだろう」

 

 笠井「…その事件が曰くつきのものなら、死体は専門の人の手で葬られる」

 

 篠崎「なるほどな。大学側が、一連の不可解な現象の解決をそういうモノ専門の人に一任したとしたら、死人が出ても責任もって処理せざるを得ない」

 

 常田「それが秘密裏に交わされたとしても不思議じゃないな。そもそも警察が介入したってその手の事件じゃなんの役にも立たない。かえって話をこじらせるだけだ。家族からの承諾も得ているのが普通だし」

 

 寺島「しかも、いつのまにかその事件は収束してる。実際俺らの前はなにも不審な事件は起きてない」

 

 那波「10年前と同じことが、今繰り返されてるってことか…」

 

 丹羽「ここで*山の祠の話が出てくるわけだ。…それがこの異常事態の引き鉄になってる可能性は高い」

 

 寺島「封が燃えたのは事実だ。だけど三木とその件の繋がりが見当たらない」

 

 笠井「…でも結局すべて憶測に過ぎないからなあ…」

笠井のその言葉を最後に、みんなそれぞれ深く考え込んで黙ってしまった。

ふと耳を澄ますと、遠くにサイレンの音が聞こえる。

突然、手中のケータイが震えだした。電話だ。

嫌な予感がする。

おそるおそる画面を見てみると、そこに表示されていたのは、室の名前だった。

どっと息を吐き出す。

 那波「もしもし室か」

 

 室「…例のメールはどうした」

 

 那波「さっき寺島から受けとった。一旦切って送るよ」

 

 室「…いや、メールはもういい。どうせ送れない。

それより、親父と、もう一人紫乃って人と三人でそっちに向かうことになった。どうやら相当ヤバそうだ」

 

 那波「…今すぐか」

 

 室「俺だけで今からそっちへ向かう。親父と紫乃さんはこっちでいろいろ準備があるから、2、3日後だと思う。…親父にこのこと報告したんだが、どうもおかしいらしい」

 

 那波「…おかしいって、なにが」

 

 室「おまえたちが今厄介になってるのがもし悪霊の類だとするなら、あり得ないんだ。

…まず、電話を妨害したり、メールを送信したりってことは、普通の霊じゃ不可能だ。これはさっきも言った。

…訊きたいことがあるんだが、おまえが教授に気付いたとき、そのとき俺の声はどうなってた」

 

 那波「変わらない。ずっと女っぽい甲高い声だった」

 

 室「……二つ目はそこなんだ。おまえの話が本当なら、そのとき、教授とおまえの二人が、同時に憑かれてたことになる。

変なことを訊くようだが、そのとき教授は教授じゃなかったんだよな。これはおまえの様子から想像したことだが」

 

 那波「ああ…あれは絶対に取り憑かれてた。口の動きと言葉がてんでばらばらだった。…」

 

 室「憑き神でも悪霊でも、同時に多数の人間に憑くことはできないんだ。

…そうすると、おまえの周りには少なくとも二体以上、いることになる」

 

 那波「……マジか」

 

 室「あくまで仮定だ。複数の神霊が集まることは決して珍しいことじゃない。

…でもそこは大学だ。霊を集めるような要素はない。

…とにかくわからないことが多いんだ。詳しい話はそっちでするが…親父も紫乃さんも、得体が知れないって、そればっかなんだ。ぶっちゃけ俺も不安になってきた」

 

 那波「…寝泊りはどうするんだ。俺のマンションに来るか」

 

 室「そうさせてくれるとありがたいな。申し訳ない」

 

 那波「何言ってんだ。感謝したいのはこっちのほうだ。おまえほど心強い味方はいないからな」

 

 室「昼過ぎにはそっちに着くと思う。直前に連絡を入れる。西側の正門で待ち合わせでいいか」

 

 那波「…了解」

笠井と望月が食堂の入り口付近で大きく手招きしているのが目に入った。

直後、救急隊員が食堂に駆け込んでくる。

この大学の腕章をつけた事務職員も何人か付き添っていた。

二人が担ぎ出された後、俺たちは厳しく尋問されたが、当然職員が期待するような回答はなにひとつ持ち合わせていなかった。

なにもわからない

それがすべてであり、それ以上の説明はできるはずもなかった。

職員も意外と深くは追及してこなかった。10年前の事件の真相を知っているのかとも思ったが、やはりごく一部の人間しか情報を握っていないと考えるのが妥当だろう。

笠井の考えでは、教授こそ最も重要な情報源らしい。

確かにかの三木 修平の師でもあるし、この大学では看板とも言っていいほど生徒の支持が厚く有能な方だ。著書も多数ある。

一般人が知りえない情報を握っていたとしてもなんら不思議ではない。

午後の講義も詰まっていたが、今日はそれどころではなかった。

まずは室と合流し、今後の方針を立てなければならないだろう。

しかし、彼が直接現場を目の当たりにすることで、なにか恐ろしい真実が露見してしまうのでは、と思うと怖い気もした。

実に一年半ぶりに会った室は、当初の俺の予想を遥かに超えていた。

双肩が山の如く大きくせりあがり、首も年輪を刻んだように一回り太くなっている。

遠目からでも古木さながらの腕の異様なふくらみが目を引く。

手の甲は、まるで激速の奔流に千年もまれ続けた巌のようだ。

隆々とした筋肉の張りが、服の上からでもよくわかる。しかし無駄は一切なく、御山での修行で極限まで鍛えられているのが一目瞭然だ。

なにより驚いたのは、その清流を映したような瞳の輝きである。精神まで磨き上げられている証拠だった。

室 寛二という一個の人間が湛えるその力強い竜騰の如き生命力は、尋常ではない迫力で漲っていた。

自分はなんて醜く、矮小な人間なんだと思い知らされるほどだった。

 那波「…驚いた…。一瞬後光が見えたぞ」

 

 室「久しぶりだなあ那波!…いやあ、この一年ちょい、あらゆる苦行を嘗めさせられたよ」

 

 那波「オーラっていうのか…とにかく凄い」

 

 室「こっちも驚いたぞ。…相当悪いもんに憑かれたな」

 

 那波「…どういうこと」

 

 室「おまえの身体を褐色のモヤみたいのが包み込んでる」

 

 那波「……ちょっと待て。冗談だろ!」

 

 室「俺も内心かなり焦ってる。こんなの初めてだ」

 

 那波「…俺はなんともないんだが…」

 

 室「…だったら気にしてもはじまらないな。他の仲間はどうした」

 

 那波「解散したよ。石川ってやつと教授がさっき病院に運ばれたんだ」

 

 室「…なにが起きた」

俺たちはマンションに向かう道中、今回起こったことの詳細を話し合った。

やはり室も、教授がなにかを知っているのではないか、という見解だった。

 室「…いいマンションだな。広い」

 

 那波「家賃はそれ相応だけどな。親には迷惑かけてる。ところで例のメール、見るか」

 

 室「ああそうだったな。…早速みせてくれ」

俺はケータイを渡すとベッドに寝転び、室は傍にあるソファに腰掛けた。

カチカチッカチ…

ケータイを操作する音がやけに耳についた。

クーラーの、冷気を吐き出す

室外機の廻る

時計の秒針がときを刻む

蝉が、ひと夏を懸命に生きている

室が居る

俺が居る

音。

匂い。

感触。

姿。

気配。

室と一緒にいると、なぜか五感が研ぎ澄まされていくような奇妙な感覚に見舞われる。

だから室が声を発したとき、まるで鋭利な刃に鞘をかぶせられたみたいに集中は途切れ、俺は異世界から引き戻された。

 

 

 室「…おかしい」

 那波「……おかしいって、なにが」

 

 室「やり方がまわりくどい。…その石川ってやつには、このメールの通りのことが起こったんだよな」

 那波「…おそらくな。問題自体は俺には見えなかったが、石川には見えてるようだったし」

 室「…憑き神じゃない…。こんな周到なやり方…だが力は憑き神に匹敵してる。…わからん」

 那波「…そのどちらでもないってことか。ていうか、憑き神っていうのがよく解らない」

ここで俺は憑き神についての知識を室から教わった。前述した憑き神云々はこのとき聴いた内容を一部含む。

 

 室「憑き神の中にも序列があって、高級な神は自由に移動でき、下級の憑き神を喰うなんてやつもいるそうだ。まあ、俺だって見えるわけじゃないから全然理解できないけどな。

紫乃さんは、実は『神兌(カダ)』の一人なんだ。彼に会えばもっと詳しく話を聴けると思う」

 

 那波「…じゃあ俺たちは一体なにに憑かれてるんだ」

 

 室「…悪霊でもないし、憑き神でもないとしたら、…わからない。とりあえ―」

室の言葉を掻き消し、部屋のインターホンが鳴る。

一体誰だ。宅配便か。

俺の住むマンションには、テレビモニター付きインターホンが備わっている。

マンションの入り口で、外部の人間が用のある人の住む部屋番号を入力すると、その部屋のインターホンが鳴る仕組みだ(このとき付属の電話を取れば、言葉を交わすことができる)。

一方住人は、部屋からマンションの入り口の様子をテレビモニターを通して確認することができる。不審者ではないことを確認できたら、マンションの入り口の鍵を遠隔操作で開けることができ、外部の人間を招き入れることができる。

恐る恐るモニターを覗き込むと、そこに映っていたのは知らない女だった。明らかに宅配便ではなかった。

カメラが高い位置にあるのと、首を曲げて俯いているせいか、白い頬の一部しか確認できない。

髪が異常に長く、玄関の床にまで到達し、さらに地べたを這っていた。

着ているものは、おそらく山吹色の半襦袢のようなものだ。

女の背後に映る路面の逆光のせいで、いまいち画像が鮮明でないが、白い腕と脚が見えた。

女がゆっくりと横に揺すれているのがわかる。

依然インターホンは鳴り続いているが、電話に出る気がしないのはお分かりいただけると思う。

女が揺れることで逆光の加減が変わり、画面が暗くなったり明るくなったりする。

 

 室「…電話に出るなよ。声も出すな」

モニターの前に二人で並んで、息を殺して女を見つめる。

どんどん揺れが激しくなってゆく。

それに呼応するように画面の明暗の切り換わりがはやくなる。

暗くなり

明るくなる

暗くなり

明るく

暗くなり

……女の姿が消えていた。

直後、部屋の扉の前のインターホンの音が鳴り響く。

びくっと身体を引きつらせる俺と、横で冷静に佇む室。

唇の前で人差し指を立てている。室の両目は、言葉よりもはっきりと俺に命令していた。

絶対に声を出すな

すると扉の向こうから不気味な声が聞こえだす。

ゆぅぃぃぃぃゆぅぃぃぃぃゆぅぃぃぃぃ……

あえて擬音にすればそんな感じの声だ。

念仏調子の、咽を震わせているような気配。そしてその声を聞き、はっとする。

あのときの声だ。電話の向こうの、女みたいな室の声。

その事実に気付き、戦慄する。あのときも居たのか。俺の傍にいたのか。

そしてその不気味な声が聞こえてくる方向が、扉の前からゆっくりと左に移動してゆく。

直後、キッチンについている窓の擦り硝子の向こうに、黒い影が映る。ここは三階で、もちろん窓の向こうに足場は何もない。

ゆっくりと通り過ぎる。

それと同時に室が突然、玄関と向かい合う位置にあるベランダの大窓に駆け寄り、掌を当て、念仏を唱え始める。

室の額に汗が滲んでいた。

辺りに充ちる仏の旋律。

黒い影が、俺たちの居るリビングにある小窓の向こうを横切るのが、横目で確認できた。

顎から汗が滴り落ちる。

女が姿を現した。

室はそいつから顔を背けるようにして一心に念仏を唱え続ける。

俺は窓越しに真正面で女と向き合ってしまった。

斜めに傾き俯いている女の顔は、髪がかかっていてよく見えない。

白い鼻と

頬と

真黒な唇と。

それだけが、垂れる黒髪のはざまから見え隠れしていた。

俺は目をそらすことができなかった。

俯いた女がおもむろに、顔を首に対し直角に傾けてその口を大きく開く。

黒い歯と舌が現れたかと思うと、部屋全体が細かく振動し始める。

ただしそれは家具の輪郭が何重にもなり、ぼやけていることから判断しただけで、揺れそのものはなにも感じなかった。まるで巨大な地震に見舞われた家を映像で観ている感覚だった。

同時に室の念仏が聞こえなくなり、入れ替わるようにして今度は低い男の声が聞こえだす。

音源が鼓膜にはりついているみたいに、それは鮮明に聞こえた。

…マエは

才能が無くてもそれを努力で補おうとする者の足元にも及ばない

ヒトとして

動物として

生命として既にオマエは

タマシイが穢れている

阿鼻地獄で

未来永劫

汚らしい血涙で以って

タマシイを沐い続けろ

むこうでいつまでも待ってるから

オマエがくるまで

気付くと、ベッドの上に小さな子供が胡坐をかいて座っていた。

全身墨をかぶったように真黒だ。だが、腕や脚の細さとか、身体と頭部の比率などを観れば、それが子供らしい、ということは判った。

子供はすっと立ち上がると、ベランダの大窓に張り付いて念仏を唱え続ける室のところに駆け寄り、耳元に顔を寄せ、何事かを呟いた。

室がその場に崩れるようにして倒れる。

このときもう揺れは治まっていた。しかし音はなにも聞こえない。

夢の中にいるように、その世界はゆるくとろけていた。

子供は大窓をすり抜け女の前に立つ。

次の瞬間、その小さな体躯が弾けて褐色の塵になり、女の全身を余すところなく包み込んだ。

初め女の外形を成していた褐色のカタマリは、微妙にかたちを変えながら徐々に小さくなり、最後には目玉ほどの大きさに収縮してしまった。

ふと神経を研ぎ澄ますと、木々が凬にざわめく音が、小川のせせらぎと一緒に聞こえる。

その奥、視覚ではない、俺の精神のその奥。

森の中に恬然としてたたずむ祠が、みえたような気がした。

遠く、女のすさまじい叫び声が聞こえる。

しかしそれは、遮音されたようにおぼろげで儚いものだった。

いつの間にか目玉は褐色から漆黒に色を変え、砂鉄の細かい粒子のようになり、四方に霧散、蒸発していった。

夢が終わり

俺は膝から崩れ落ちた。

怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん  

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