中編6
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邪兒 #天秤

 室父「いいか那波君。これから除霊をすることになるが、覚えておいて欲しい大切なことが一つだけある。それは、自分の名前を忘れないことだ」

 

 那波「名前…ですか」

 

 室父「そうだ。名前だ。外側から圧力をかけると、霊が本性を顕し始めるだろう。そのとき完璧に支配されないためには、己をしっかり保つことが絶対的に必要となる。自分自身を最も端的に表すものが、名前なんだ」

 

 那波「忘れないようにするためには、なにをすればよいのですか」

 

 室父「いい質問だ。…しかし、その方法は人によって異なる。除霊が始まって四刻、つまり二時間ほど経つと、次第に夢幻の世界へと交わり始めるだろう。

その世界は君自身が、自分の名を忘れないために構築したものだ。

肝要なのは、懼れないこと。その世界でなすべきことはなにかを、焦らず探し求めることだ」

 

 那波「……すみません、よくわかりません」

 

 室父「百聞は一見に如かず。飯を食って精をつけたらすぐに除霊を始めよう。君の仲間には既に説明はしてある。特に、石川君には時間がない」

 

 紫乃「三日間、君たちは夢幻の世界をさまようことになる。もちろん食事もないし、風呂にも入れない。

だが、そのようなことを意識する暇さえないと思う。恐がらせるようだが、これは試練だ。甘い考え方をしていたら、本当に取り返しのつかないことになる」

 

 室父「俺たちは君らを困らせている悪氣の禍根を絶つ。しかし、今君に取り憑いている悪霊は通常では考えられないほどの強い力を有している。もし自分を見失ったら、躰を乗っ取られ、好き勝手に操られることも十分あり得るだろう。それを防ぐことは、残念だが、こちらからはできない。あくまで、最後は君たちの胆力、精神力に任せることになる」

 

吹抜けの多い日本家屋特有の構造のためか、心地良い涼風が絶えず流れこむ。

借景をとりいれた立派な日本庭園には、大小様々の岩が、ある節理に従って配置されている。多分、特定の視点から観ると大きくその様相を変えるのだろう。

室は、この庭を観て心を鎮めているのだろうか。

案内された部屋には、既に学科仲間が勢揃いしていた。

実に12人もの僧侶が鎮座している。

部屋の四隅にひとりずつ。

四壁の中央に、ひとりずつ。

壁に寄り添うその8人のさらに内側、東西南北四方位に、部屋より一回り小さい正方形の頂点を司る4人。

4人によって象られた正方形の内側には、二重に円を描く柵が立てられている。

小さい円と、大きい円。その間に、学科生が一定の間隔で小円の柵に背をもたれさせている。

 室「槐(エンジュ)の木で拵えた柵が、大円のほう。小円は紅松。魔を小円の中央に追い込む、古来存在する方法のひとつだ。部屋の中心に盥があるだろ。あそこに張られた水は触媒として働いて、悪霊を強制的に顕現させる。おまえも早くみんなと同じように座るんだ」

柵を跨いで、一か所だけ間隔が二倍広いところに腰を下ろす。隣には常田と丹羽が座っていた。

心底不安そうだったが、言葉は交わさなかった。

 室父「もう一度だけ言う。絶対に自分を見失うな。

自分を、見失うな。

…共に頑張ろう」

直後、空気の震えと共に、仏の大合唱が始まる。

声と声が幾重にも重なりあい、人の出せる声色を超越する。

先日の室の咆哮が可愛く思えるほどの、尋常を超えた声量が、うねり、唸り、逆巻き、奔流する。

大山鳴動。

床が震え、軋む。

鼓膜が震え、視界が揺れる。

蝉時雨のように容赦なく全方位から降り注ぐその旋律。

気付けば、音の海に溺れていた。

どれくらいの時間が。

瞼が鉛のように重い。眼を閉じる。

すると、盥に湛えられた水の表面が、音波によって同心円状の漣を立てている、映像が。

背中が後ろ側に引っ張られている。それは指で抓む、といった局所的なものではなく、まるで自身が磁気を帯び、磁力の影響を受けているかのようだ。

刹那、ふわっと躰が宙に浮く感じがした。

そこには、草原があった。

見渡す限りの、緑。

見上げると、そこには、太陽も、月も、星も、雲も、蒼穹も、なかった。かわりに。

水が、あった。

それは致死的な圧迫感を湛えていて、まるで天地がひっくり返ったようだった。

見下ろすと、そこには積み重なった半紙と、硯と、筆と、文鎮と、小さな闇がある。

―自分を、見失うな―

名前。

はっとなりすぐに筆を執る。

半紙を一枚とり、闇に筆を浸け、書こうとした。

だが、思い出せない。自分の名前が思い出せない。

さっきまでそこにあったものに、手が届かなくなっていた。

こみあげてくる恐怖。

靄がかかったように、記憶が曖昧になっている。ぽとり、と筆先から闇が滴り落ちて。

思い出そうとすると、靄が覆いかぶさってきて思考を阻害する。

白い霧の中で、落し物を探すように。

手探りで。

名前。俺の名前。ナマエ。なまえ。な、まえ。

那波

那波 玲。

安堵感と共に、泪が零れ落ちた。

夢中で半紙に書きつける。

しかし安心も束の間、掬った水が零れ落ちてゆくように、記憶の砦が崩れてゆく。

自分の名前が書かれていたはずの半紙も、闇が染みて真黒になっていた。

何枚も、何枚も。自分の名前を無心で書き殴った。

書いては思い出し、忘れそうになり、また書く。

穹に吼えながら、狂ったように筆を走らせる。

不思議と、半紙の山は減らなかった。

しかし、黒く堕ちた半紙は積み重なり、山のようになっていた。

時間感覚は既に麻痺していた。

景色が、動かない。世界で俺一人だけが生きているようで。

次の半紙を手に取り仰天する。

白紙のはずが、そうではなかった。

出題された。ついに、自分に。

問題:

ゲームをしましょう。

あなたの目の前に三つの扉があります。

その内ふたつは『あなたの知らない世界』へ、ひとつは『あなたの元居た世界』へ通じています。

あなたは左の扉を選びました。

するとゲームの司会者は言うのです。

「右の扉は『あなたの知らない世界』に通じていますよ」

ここで、問題に二つの前提を課す。

1.あなたは『あなたの元居た世界』に通じる扉を選びたい

2.司会者は嘘を云わない

以上を踏まえて、問いに答えよ。

司会者の言葉を考慮して、選択を一度だけ変更する権利を与えましょう。

このとき、選択を変えずに左の扉を選ぶのと、選択を変え中央の扉を選ぶのとでは、どちらが『あなたの元居た世界』に通じる扉を選べる確率が高いか。

前者の行動で目的の扉を選べる確率をP、後者のそれをQとしてそれぞれ求め、問いに答えよ。

但し、どちらの確率も同じ、という解答は許さない。

はっとした方々も多いのではないだろうか。

そう、これは有名問題である。

モンティ・ホール問題。

高校三年の頃、先生に教わった。答えも、何故その答えになるのかも、知っていた。

僥倖としか、言いようがなかった。

多少なりとも確率論に興味を持っていた自分を褒めてあげたかったぐらいだ。

震える指先で、半紙に解答を書きこんでゆく。

ふと横を見遣ると、黒半紙が、燃えている。他の半紙に燃え移ることはなく、一枚ずつ、燃えてゆく。

一枚が燃えるのにかかる時間は、およそ20秒。

変な焦燥感に駆られ、急いで解答を書き下ろす。

解答と言っても、この手の問題は答えが全てだからすぐに終わった。

解答は、

P=1/3 Q=2/3

よって、選択を変更すべき

半紙から筆を離すと、書きつけた文字が今度は滲まず、反対に吸い込まれて消えた。

同時に、傍らで黒半紙を蝕む青磁色の炎が消えた。

天が降ってくる。

押し潰されそうな圧力の中、叫ぶ間もなく、呑み込まれた。

壺天(コテン)から解き放たれ、悪夢を見たときのように、驚懼し覚醒する。

両肩を掴まれて揺り起こされていた。

目の前にヒトの顔がある。

室の叫び声が、やや遅れて鼓膜を劈いた。

怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん  

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