文政十年、1829年、
とある大名の奥方が三年もの間、病に伏していました。
季節は春、お庭には桜の花が咲いていました。
奥方は寝床の中から、庭の桜のことや、春の楽しさのことを考えました。
子供達のことも考えました。
それから、夫の側室、
19歳になる雪子のことを考えました。
「ねえ奥や」
大名は言いました。
「3年もの長い間、私はお前によくなってもらおうと、
出来るだけのことはしてきた、
けれども今、お前の臨終も遠くないように思われる、
なにかこの世に心残りはないかい?」
奥方は虫の音のような、か細い声で答えました、
「おやさしいお言葉、ありがとうぞんじます。
仰せのとおり、3年わたる長わずらいに、
あらん限りの心づくしとお情けをちょうだいいたしました。
今となってはこの世のことなど思い出すのはよろしくないのでございましょうが、
ただ一つだけおねがいがございます‥‥。
雪子をここへお呼びください。
ご承知の通り、わたくしは、あれを実の妹のようにかわいがっております。
今後のことなど、申しておきたいとぞんじます。」
ほどなくして殿の手招きに応じ雪子が現れました。
奥方は目を開き、雪子をみて言いました。
「ああ、雪。私はもうじき死にます。
これからは、私が亡くなった後は、私の代わりに、
そなたが殿の奥方となって、
私の百倍もかわいがってもらうんです、
そして、どうか、いつまでも殿様を大切におくれ。
それがそなたに言っておきたかったことです、
わかってくれたね?」
「ああ、奥様。」
雪子はきっぱり言いました。
「お願いでございますからそのようなことは仰らないでください。
よくご存知のように、私は賤しい身分の者でございます。」
「いや、いや」
奥方は雪子を遮りました、
「もう一度はっきり言っておきます、
私は、おまえに殿様の奥方になってもらいたいのです。
それが私から殿様への最後のお願いになりましょう‥‥。
そして、
そなたにも、ひとつだけ、お願いがあります。
私はもうじき死んでしまうのだが、
死ぬ前にお庭の桜が見たいのです。
さあ、
お前の背中におぶってお庭に連れて行っておくれ」
雪子はどうしてよいのかわからず見上げると、
大名はうなずいて言いました。
「あれは、かねがね桜の花が好きだった、
さあ、雪子、望みを叶えてやっておくれ。」
雪子は、母親が子供をにおぶるように、
奥方に向けて肩をさし出しながら言いました。
「奥方さま、さあ、どうぞ。」
奥方は、雪子の肩にすがりました。
すると次の瞬間、
一体どうしたことでしょう、奥方の痩せた両手が、
雪子の肩越しに着物の中へスルっと入り込んで、
雪子の両乳房をつかんできたのです。
そして、いやな声をたてて笑い出しました。
「とうとう願いがかなった」
奥方は叫びました。
「花なんて、どうでもいい!
ただこの願いがかなわぬうちは、
とても死にきれなかった、
いま、その願いがかなった。
ああ、本当にうれしい。」
こう言うと、
奥方は雪子の上に、どっと倒れかかってきて、
そのまま死んでしまったのです。
従者たちは、
急いで雪子の肩から死体を持ち上げようとしました、
ところが、不思議なことに、
死体の冷たい両手は、なんともわけがわからぬふうに、雪子の乳房にくいこんでしまって、
そのまま生きた肉となってしまったかのようでした、
むりに引き離そうとすると、血が出ます。
雪子はこわいのと、あまりの痛みのために気を失ってしまいました。
ほどなくして、
当時、江戸で一番腕のあるオランダの外科医が呼ばれ、
念入りに雪子の体を見た後、
こんな病は自分には検討がつかないが、
乳房と手のひらの肉が、なんとも訳の分からない工合にくっついているため
雪子を救うには、死体から両手を切断するより術はない、
と断言しました。
医師の忠告により、両手は手首のところから切断されました。
が、手は乳房にくっついたままで、
しばらくすると、黒ずんで乾涸びてしまいました。
見かけたところ、この両手は、しなびて血の気の無いようでありましたが、
ときどき、そっと、おおきな蜘蛛のように動くのだそうです。
そして毎晩、丑の刻になると必ず、
両手は乳房をひっつかみ、捻り上げ、雪子を責めさいなんだそうです。
その後、
雪子は髪を切って、托鉢の尼僧となって巡礼の旅に出たと言いますが、
苦しみの種である、乳房に下がった両手が、
一体どうなったのかを知る者は、誰もいません。
怖い話投稿:ホラーテラー ハーンさん
作者怖話