長編14
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三鑑 (3)

魂が地獄に堕ちるとき、肉体からの解放を許されません。

生まれ変わることを前提にしないからです。

穢れた魂のなかでも特にその程度が酷いものを八禁と呼び、無間地獄を流れる大河で罰を受け続けます。

この大河は、下層に獄囚の血が、上層に劫火が流れ、吹き荒れる劫風で焔の高さは二里(約800m)にものぼると云われていて、八禁はそこに点在している杭を、額を遣って打ち込んでいかなければなりません。

しかし、八禁は肉体の八カ所に枷を負っています。

すなわち、両眼、両耳、口、頸、腹、腕、脚、股の八カ所です。

耳は削がれ、眼、口は縫われ、頸、腹、股には杭が突き刺さり、腕、脚は後ろに重ねられて杭で打たれます。

そのような状態で、血と焔の大河をのたうち、杭を打つのです。

まさに地獄の苦しみです。それを未来永劫続けることになるのです。

黒貂の足元に現れたのが、その八禁であろうことは明らかでした。杭だけしかみえませんでしたが、殺伐とした気配に充ち充ちていて、血と人体の焼かれる匂いが鼻腔を突きました。

目的は唯一つ。ここの村人全員を地獄に曳きずり込むこと。

おそらく黒貂の命でしょう。我々も標的に含まれているかもしれません。

すると突然眼前の巌が細かく振動し、直後この山紫水明の地に住まう神でさえ震えあがるような咆哮が轟いたのです。

それは人とも似つかぬ人の声でした。

縫われた口を強引に開けて叫んでいるのでしょう、雄牛のような叫び声をあげているのです。

杭が激しく揺れ始めました。同時に村人たちが地獄の入口と化した岩壁に向かって吼えながら狂走してゆきます。巌の天辺をみるとそこに黒貂の姿はありませんでした。

狂った村人は一目散に地獄の入口に突っ込んで、さきほどまで岩壁のあったところまで行き着くと、激しく叩きつけられたかのように四肢をあらぬ方向に折り曲げ静止します。

皮膚は一瞬で爛れ、なんとその躰からもうひとつ別の躰が這い出て、地獄に吸い込まれてゆくのです。苦しみを与えるため、肉体ごと堕ちたのです。

八禁の咆哮はなりやまず、このままでは従者どころか私や三橋さんまで正気を失います。既に村人のほとんどが地獄に呑まれていました。

凄まじい熱が汗をも蒸発させ、億千の獄囚の呻き、嘆き、叫びがまるで念仏のように辺りを包みます。

私は三橋さんと一瞬目を合わせると従者に喝を入れ、その場を急いで離れました。走りながら指示を与えると、皆頷いて散り散りになります。

もしかしたら、罪のない子供や母親は助かるかもしれない、そう思ったのです。

案の定、子供たちや女性は正気を失っていませんでした。地べたに坐りながら呆然と狂う仲間を眺めています。

手をとり連れ出そうとしますが、言葉が通じないため抵抗します。必死に身振り手振りで表現するも、口を開けてみているだけで行動に移ろうとしません。

するとものすごい轟音が鳴り響き、大きな杭に突き刺さっていた二本の杭が抜け落ちるのがみえました。

三橋さんがものすごい剣幕で飛び込んできます。幾人かの童を引き連れていました。

 

 三橋「解き放たれた。…八禁が解き放たれた…急がなければ全員助からない!!」

八禁の咆哮がこもったものではなく、耳を劈(ツンザ)く獄囚の叫びに変わりました。縫われた口も解かれたのでしょうか。

私は村人に瞳で訴えかけ、思いの丈を言葉ではなく気迫で伝えました。

すると状況を察したのか、三橋さんが連れていた村の子供が仲間の手をとり引きこみます。それをきっかけに女性たちの警戒も緩んだようで、手招きすると腰を浮かせついてきました。

途中、死んだ村の男から刀を借用しておきました。最大の難関、関所があるからです。いざとなったら闘うことになるかもしれません。

続々と従者も集まり、村人も含めると総勢30人ほどになりました。

八禁の咆哮がどんどん近付いてきます。きっと生き残りを探して直接地獄に連れこもうとしているのでしょう。枷を外され、ここぞとばかりに鬱憤を晴らすため一心不乱に暴れまわる八禁を想像して身震いせずにはいられませんでした。

三橋さんに目配せすると、微かに頷き。

合図で二列になり桟道を渡っていきます。足を踏み外さぬよう隣の者同士で互いに手をとり、それでも出来る限り静かに、速く。

途中にある関所に、人はいませんでした。

どっと息を吐き出します。しかし安心も束の間、関所の部分だけ道がないのです。先頭を歩く私は息を呑みました。すぐに止まるよう従者に叫びます。

抜けた床を覗くとそこに渓谷はなく、火の海でした。関所の番人はこの海に堕ちたのだろうか。

しかし他に逃げる道も無く、跳び越えるしかなさそうです。下では獄囚が苦悶し呻いていました。

我々はともかく、女性や子供にとっては相当な修羅場でした。桟道に八禁の気配はありませんが、追いつかれたら逃げられません。とにかく早急に渡り切る必要があったのです。

抜けた床の幅は六尺(約180cm)ほどで、しかも屋根が低い。思う存分跳べるとは思えませんでした。

そこで、桟道を支える杭の上を渡っていくのが安全だろうということになりました。関所の部分は床こそ抜けていますが、杭だけは残っていたのです。しかも間隔が狭く、子供や女性でも十分に渡りきれそうです。

まず三橋さんが試しに渡ってみました。

杭に足を乗せ、掌は巌につきながら。慎重に一歩一歩、杭の上を蟹のように歩いていきます。少し軋んだ音がしましたが、大の大人の体重にも耐えられるようで安心しました。

それよりも問題なのは、雨に曝され、風に舐められ表面が滑らかになった巌でした。もし手を滑らせたら、取り返しのつかないことになりかねません。

三橋さんは難なく渡り、私も後に続きました。躰を少し前のめりにして渡ると安定するようです。続々と村人たちも渡りきり、あと5人というところまで来ました。

そこでふと暗霊とした気配を察し、頭上を見上げて戦慄しました。

黒貂が岩壁を四つん這いで向かってくるのです。

歯齦(シギン)を剥いて歯を喰いしばっています。両の瞳には紅蓮の焔が宿っていて、それによって顔面だけが闇夜に浮かんで煌煌としていました。

鼻筋は細く、鼻孔も極端に小さい。肩にかけた毛皮は、かけているのではなく、生えていました。鎖骨に沿って、そこから肩甲骨のあたりまで、漆黒の毛並みに覆われています。

その激しい所作とは裏腹に、余りにも静かに、滑るように岩壁を伝ってくるのです。まるで実感が湧かず、夢境のようにただ眺めて畏怖するだけでした。

もっと、轟音を響かせ襲ってくれたら皆で慌てふためくこともできたでしょうが、それすらさせてくれません。夢か現かの判断をしている合間にどんどん顔面は大きくなっていき、息もつかせず5人の内3人を喰らうと、仁王立ちしてこちらを睨みました。

その後ろでは列の最後尾を守っていた従者が目の前で倒れていく村人を前にし腰を抜かしています。

 三橋「どういうことだ松尾!!…まさか」

私は返事をせずただ首を横に振りました。

諦めてはいけない。その意志と黒貂のつきつける現実は余りに食い違っていました。その場から動くこともできずただ黒貂と向き合います。

もしかしたら、八禁を解き放ったのは黒貂の意志表示だったのかもしれない。もう慈悲を乞うても甲斐なし。村人は喰らうと決めた、という黒貂の。

まるでそこに桟道があるかのように黒貂が歩み寄ってきます。逃げることはできませんでした。私の真横を通り過ぎ、背後に控える村人を、子供を除いて全員喰い殺しました。ばたばたと人の倒れる音が、峻烈に胸に突き刺さります。

背中に気配を感じました。黒貂の気配です。

そこで初めて、黒貂の奔流する精神に触れることができました。そこには、燻ぶった憤怒の残り香と、我々に対する憐憫の情がありました。そのふたつを汲み取るにつけ、自分の無力をただただ痛感するしかありませんでした。

熱した鉄を水に浸けたような音がしたかと思うと。

あっという間にそこかしこから地獄の気配が消え去り、再び静かな夜気が舞い戻ってきました。

ふと手元が明るいと感じ、目を落としてみると。

握った青龍刀の刃が、黒貂の瞳のように赤く煮え、原型を失い泡を吹いて崩れていました。

 松尾「その刀は今でも大切に保管している。折れた自身の心を象徴するものとしてね」

 那波「…その後どうなったのですか」

 松尾「村の子供は十数人助かった。日本に連れ帰り各地の寺社で匿うと共に修行をさせている。まだ幼かったから、言葉を覚えるのは早かったよ。…他の村人は助からなかっただろう。当然、臓器売買に関わった連中も同じ末路を辿ることになる」

 那波「…」

地獄に堕ちると、生まれ変わることもできない。そのことは根源的な恐怖を煽った。

 室父「松尾、おまえはその一件からなにを学んだ」

一瞬松尾さんの表情が固くなった気がした。

 松尾「…あの後日本に帰り、御仏の前で一月、好相行をし、懺悔しました」

好相行とは、額、両肘、両膝を畳につき、掌をかえして御仏に礼拝する五体投地を一日三千回行う苦行である。

 松尾「そのなかで、必死に考え抜きました。仏とはなんなのか。神とはなんなのか。誰に対しても平等なのが仏で、そうではないのが神なのか。

衆生救済とは名ばかりで、実際にはそんなこと不可能なのではないか。自分は、人の命を前にして、一体どのような信念に基づいて事を成せばよいのか。

…考えれば考えるほど、先はみえなくなり光を失いました。とめどない自責の念と、この先どのような心持ちで修行に励めばよいのか、という不安で自己を見失いそうになりました。あのとき黒貂に喰われ自分も地獄に堕ちていればどんなに楽だったか。

しかしふと思ったのです。私のなかには仏がいて、その仏は私の信じる仏なのだと。誰の心のなかにも仏はいて、その仏を信じる心さえあれば、地獄に堕ちるような魂はなくなると思ったのです」

 室父「だが、憑き神に喰われる魂はあとをたたない」

 松尾「その通りです。しかし私は幸運にも、神と交わる力を御仏から授かりました。この能力を誰かの命のために遣おう、それが私の成すべきことで、それ以上は望まないと決めました。それ以上を望んでも、それは絵空事に終わるからです。

自分の描く理想に手が届かず苦心するよりも、その余力を自分が成すべきことに使い果たす。それが仏から課せられた使命だと、こう思ったのです」

 室父「人事を尽くす、ということだな」

 松尾「あとは、天命に従うしかありません。それが一個の人間の限界だと思います」

室の父は少し俯いて何事かを思案する素振りをみせると、再び顔を上げ一言。

 室父「火を吹き消してこい」

すっと松尾さんが立ち上がり、一言。

 松尾「…ありがとうございました」

すぐに松尾さんの背中は闇に消え、室の父は遠くを眺めるような目をして黙っていた。

湯呑に注がれた茶に蝋燭の炎が映り、なんとも奇妙な雰囲気を醸し出している。いろいろ考えることはあっただろうが、相当心労が積もっていたのだろうか、無心で湯呑を覗きこむ。

無心というのは正確ではないのかもしれない。往々にして人は、無心でいるときも何事かを思案している。そういうときに名案が芽吹くことも珍しくないのだ。

このとき俺は何を考えていたのだろう。自分でもわからない。

松尾さんと室の父の会話を聴き、すごい人たちだ、と思っていたのかもしれないし、地獄の覇者、黒貂への恐怖を秘かに募らせていたのかもしれない。

一刻はあっという間に過ぎ去った。

いよいよ疑念も恐怖に乗っ取られる。意味がわからない。室や松尾さんはどこでなにをしているのか。

 室父「…一刻。次は俺の番だな」

もう限界だった。

 那波「どうして室や松尾さんは戻ってこないのですか。教えて下さい」

 室父「それはできない。なぜできないのかも言えない。…いいか那波君、これからの俺の話をよく聴くんだ」

 那波「納得できません。どうして顔色ひとつ変えないんですか」

 室父「…ここに一本の蝋燭を置いておく。俺が廊下に出たら大きい方の蝋燭を遣って火を燈せ。この蝋燭は、ちょうど一刻で燃え尽きるよう長さと太さを調整してある。俺が一刻経っても戻ってこなかったら、いいかい。一人で怪談を披露するんだ」

 那波「いやです。そんな意味不明なことできません」

 室父「どんな怪談でもいい。自分の心にひっかかっている胸の内を明かしてもいい。とにかく、話して言葉にすること。話し終わったら例の通り、廊下を伝って行燈の部屋へ行き、火を吹き消して、鏡で自分の顔を確認し、戻ってくるんだ。いいな」

何を言っても無駄だと思った。

 室父「…返事をするんだ」

 那波「…はい…わかりました」

 室父「では…怪談をひとつ」

*****

火鉢のなかの赤い炭火が真冬の寒さを和らげる。しかしそれでもなお、外気は鋭く肌を突いた。

夜中、目が覚めた。

まるで、まばたきをするように自然に目が覚めた。

独特の湿り気を帯びた静寂が、現在丑三つを向かえていることを告げていた。

草木も眠る丑三つ刻

黒い淵の底のごとき異様な静寂は、ときに夢をみる者をも現実に連れ戻す。

この静けさによって目が覚めたのか。そういう気もする。

しかしこのとき、まったく別の感情が心中を支配していた。

これは嵐の前の静けさだと、そう思ったのは。

横を見遣って、目を見開いて天井を凝視する沙知を見たからだった。

ゆっくりと沙知の目線を辿ると、幸い天井があるだけだった。

―幸い。

掌が微かに湿っている。いい知れぬ不吉な予感が脳裏に渦巻いていた。

神経が異常に昂ぶっていることに後れて気付く。

枕と髪が擦れあう音がして、再び沙知に目を戻すと、こちらを見ていた。

言葉を交わさなくとも、共通理解は容易だった。

…境内の方向から音がしている。

それは、積雪を踏みしめる音だった。

しかし雪沓によるものではなく、素足によるものだと直感する。

…さく…さく…さく、…

平らではなく凹凸のある足裏特有の軟質な音。

積もった雪の表面が一旦融け、その後夜になり再び固まったせいか、薄い氷の膜ができているようだ。

その膜が何者かによる局部的な重圧によって砕かれる音が最初に、その後は圧し固められる雪のひしめき合う音が聞こえてくる。

このような微かな音が、境内からここまで届くものだろうか。

神経が極限まで冴えわたっているためか。しかし何故そこまで冴えているのかと原因を探ると、先には好からぬ結論しか見えてこない。

音のする方向には間違いなく境内があって、もちろん門は錠をして閉めている。この音の主がもし人間だとするならば、正気ではない。少なくとも参詣に来た者ではない。

沙知も隣で息を殺して気配を察知しているのが判る。

さくさく、さく…さく、さ…

急に跫(アシオト)が不規則に速まる。状況がまったく掴めない。

小動物だろうか。可能性は十分ある。しかし動物は突然歩き方をこのように変えたりしない。

すると不意に跫がぴたりと止んだ。おそらく、境内と社殿を繋ぐ階(キザハシ)に到達したのだろう。その直後

 「ごめんくださ…いご…めんください」

呼びかけられる。

事態の急転に心臓が早鐘を打つ。思わず沙知を見るも、逆に見つめ返されただけだった。

低く太い声だが、女だということが判った。

 「誰かいませんか。……誰かい…ませんか」

嗤いを堪えるような調子で問いかける。一体どういうことだ。

ただ、返答してはいけない、ということだけは解った。沙知と目を合わせながら、静かに唇の前で人差し指を立てる。

沙知が暗闇のなかで幽かに頷いた。

すると、

とん…とん…とん

階段を上る音がし始める。無意識にその音を数えていた。

とん…とん、…ドン!!!!

まるで社殿に踏み出す最後の一歩だけ、渾身の力をこめたような轟音が響いた。布団のなかで強張っていた躰が、小さくびくついた。それとは比較にならないほど、心の臓は踊り狂っている。

 「…誰かいませんか…ごめんください」

この女は、まさか、いや確実に、俺たちがここで横たわり、息を殺していることを分かった上でそう問いかけているのだ。

近付けば近付くほど判る、その悪意の塊のような禍々しい存在感。

余りに唐突な来訪に、先を見越して適切な行動をとることができない。

と、と…トトトトッ…

社殿を小走りするような音をさせたかと思うと、そこではたと跫が消える。

間をおかず、寝室と回廊を区切る障子の端から、月華に照らされ人影がぬっと顔を出す。

はじめ、障子の向こう側にいるものだと思った。

しかしそれは誤りだったなぜなら。

影の根元を辿ると、それは自身の躰の上を這い、寝ている俺の頭の先にある火鉢の方向に続いていたからだ。

火鉢の仄暗い灯りによって影ができていた。

女が室内にいることに気付き戦慄する。

天井に顔を向けたまま静かに目線をあげていくと、そこには異常に深いお辞儀をした状態で固まったかのような姿勢の女が、火鉢の手前で頭部を沙知の方に向けて佇んでいた。

両腕はぴっちりと体側に張り付いていて、髪の毛がまるで帳のように顔面を覆い垂れ下がっていた。

見上げるような角度からでは、髪に覆われた顔面もその姿を露わにする。

両眼の周りは真赤に隈取りされており、下唇が極度に薄く、口を力なく半開きにしている。まるで刃物で口元に切れ込みを入れそこに歯を並べたようだ。

見た瞬間は白目を剥いているのかと思ったがそうではなく、瞳が尋常ではない速さで眼球上を右往左往しているためだった。

躰全体も細かく振動している。

 「…誰か…いませんか…は…ごめんくださいぃ」

嗤っているのではなかった。振動する躰によって発する声まで震えていたのだ。

女の姿が目に入ってしまったのか、沙知が小さく悲鳴をあげた。

すると女の躰の震えが止まり、同時に瞳も沙知の方を見据えた状態で静止した。

沙知は神霊をみることができないはずだった。しかし明らかにこの女のおぞましい姿に恐怖している。

女は躰を折り曲げた姿勢のまま沙知の枕元に平行移動すると、両手を体側から離し畳につけ、細かく手足を動かしながら四足歩行を始める。沙知の布団の周りをゆっくりと周る仕草を見せる。

俺はこのとき既に布団から飛び出し、無我夢中で念仏を唱えていた。

しかし女はまったく反応する素振りを見せない。無反応のまま淡々と周り続ける。

沙知が突如絶叫したとき、俺もこの窮地に吼え猛っていた。

次第に沙知の両の瞳が細かく揺れ始める。

咄嗟に沙知の上に覆いかぶさり我をも忘れ狂ったように念仏を唱える。しかし依然女は見向きもせず布団の周りを蠢いている。

理解不能の事態で完全に思考回路は閉ざされていた。

怒り狂う獣のように吼えまくり、考えなしにひたすら仏にすがる。

徐々に、女の髪と爪が畳に接して不快な音を立てるのが耳につくようになる。

仏の音吐は途絶えていた。それが何を意味するかは、悟りたくなかった。

成す術なく沙知を覆ったまま呆然と女を眺める。

すると女の動きが止まり、おもむろに顔をこちらに向けゆっくりと上半身を起こす。

 「仏などいない。貴様…らは偽善と傲慢に充ちた悪鬼だ」

口は動かずとも、確かに女はそう言った。

そして、憎しみに充ちたすさまじい形相で俺を睨みつけた。

糸が切れたように意識を失ったのは、その瞳に、死霊にはない生々しい生者の無念を感じ取ったときだった。

怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん  

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