長編13
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三鑑 (4)

目覚めたとき最初に脳裏に浮かんだのは沙知の安否だった。

跳ねるように起き上がり辺りを見回すと、障子に向かい合い、沙知が背を見せ正座している。

指で髪を梳かしている。

嫌な予感というものは例外なく的中する。それを踏まえても、沙知に声をかけるのは恐ろしかった。

 室父「…沙知。…おい、沙知」

一瞬指の動きが止まった。しかし間をおいて再び髪を梳かし始める。

腰を上げ、障子を開けて正面に回り込んだ。沙知の顔面を見て、絶句した。

右斜め上を虚ろに眺めていた。目の周りには、赤い隈取りがうっすらと浮き出ている。

口はだらしなく開いており、唾液が滴っている。

膝から床に崩れ落ちた。沙知の精神が崩壊していることが即座に判った。

昨晩のことを思い返してみても、あの女が死霊ではなく生霊だということは間違いない。沙知にも視認できたのはそのせいだろう。

しかし生霊だとすれば、沙知を救う手立てが極端に限られてくる。

生霊を形作る思念の持ち主を訪ね、憎しみの螺旋から解放しなければならない。それには当人の心からの理解が不可欠だ。

憎しみに限らず、人の強い思念は別の形を成し現実に顕現する。

この広過ぎる世界で、特定の人間を探し当てるのは神業に近い。そういう意味で、絶望に近いものがあった。

しかし早く手を打たねば、沙知は二度と元に戻らないかもしれない。

結局自分自身の益を得るために人は動くのだと思うと、淋しく、また惨めな感にとらわれた。

妻がこのような事態に巻き込まれたことが、最も自身に衝撃を与えた。

こんなとき、諦めの感情より先に自分の無力を呪って逆に奮いたつ性は大きな助けとなった。父に似たのだろうか。

門下の者に寺を任せ、沙知を背負って父の住む家に向けて出立する。

父の住まいは山を二つ越えたところにあるが、妻を背中に乗せてとなると壮絶なものになった。沙知は自分の力でしがみつくことができないため、腰を折って歩かなければならない。

車で行くのは危険過ぎると判断したため、脚を遣って父の家を目指すことにした。

情けない自分に鞭を打つつもりで必死に足を動かす。

重い。異常に重い。二人分はあろうかという重さだ。

ひとつめの山を下り始めたところで、ようやく違和感に気付く。ときおり奇声が聞こえてくるが、明らかに沙知のものではなかった。

相変わらず沙知は無心で髪を梳かしているが、声を発したことは一度もなかったし、奇声はもっと下方から聞こえてくる。

ふたつめの山を下り始める。疲労は頂点に達し、膝が震えている。力を抜くと倒れて動けなくなってしまう。

もう既に日は傾き、極端に縦に伸びた自身の影が前方を這う。

その影を見て、はたと足を止める。

背負っていたのは、沙知と、日輪だけではなかった。

太股の辺りから、球状の物体が見え隠れしている。左側から顔を出したかと思えば、次は右側から顔を出す、黒い影。

おそるおそる左側の足元を覗くと。

背負っているため沙知の脚を両手で抱えているのだが、その向こうに、ひるがえる黒髪と白い額がみえた。

それはすぐに引っ込み、しばらくするとまた顔を出す。髪が地面について不気味な音を立てていた。

 「ごめんくださいぃ…はああ…ひゅっ誰か…いませ…んかはッ、…」

やつだ。あの女が逆さで沙知の背に憑いている。振り子のように頭を振りながら。

直後、沙知の躰が小刻みに揺れ始める。危うく膝の力が抜けるところだったが必死に堪えた。

今転倒したら、…先がみえなくなる。

女の奇声は無視して歩き続けた。日はもう地平に達しようとしている。夜が訪れたら野宿しなければならない。しかしそのつもりは毛頭なかった。ひたすら前を見据え歩き続ける。

張りつめた緊迫感と未曾有の恐怖に、心身は今にも果てようとしていた。

体中の筋肉が悲鳴をあげていた。とうの昔に限界は突破している。ここからは意志の強さの問題だ。心の中で念仏を唱えながら朦朧とする意識に喝を入れる。

門下の者を同行させればよかった、と今更思った。なぜ二人だけで山を越える気になったのか自分でも理解できない。妻に降りかかった突然の災厄に、自分が思っているより遥かに取り乱していたのかもしれない。

前方に灯りが見える。父の家だ。

安堵と共に背中に感じていた異常な重さが和らいだ。

 室祖父「生臭い。何を連れ込んだ、小僧」

父は座敷に坐り目を瞑っていた。

 室祖父「…生霊か。人に恨まれることでもしたのか」

 室父「いいえ、滅相もありません。ただ、心当たりがないので乱心しております」

ゆっくりと瞼を持ち上げ露わになった瞳には依然と変わらぬ眼光が鋭い。

この世のあらゆる非現実を垣間見てきた老練の眼差し。おもわず全身に震えが走った。

…まだ届かない。遥か高いところに。

父と会うたびに、その姿に自身を重ね合わせることで目標が定まり胸が高鳴る。

しかしこのときばかりは重く沈んだ心から解放されることはなかった。

 室祖父「…で、手がかりとなるものはあるのか。ん…言うてみ」

昨晩の出来事を仔細に報告した。すると、微妙に父の眉が持ち上がったような気がした。

 室祖父「その女…の動きと化粧には、覚えがある」

 室父「ほんとうですか」

 室祖父「北の地の孤村で催される奇祭に、似たようなものがある。おそらくその村の者だろうな」

 室父「…ありがとうございます」

 室祖父「…おまえ、何をそんなに喜んでいる。妻が助かるからか。甘い、甘過ぎる。恨みに呑まれた人間を説得することは至難だ。

おい、こっちを見ろ莫迦者。そもそも妻を助けるために説得をしに来た者に、女が心を許すと思うか。憎しみに拍車をかけるだけだ」

 室父「しかし他に方法が」

 室祖父「おまえは自分の都合だけを考えている。それでは沙知を救うことはできない。いいか、相手は憎しみに支配されている。一度染まった心は簡単には塗り替えられない」

父の言葉が鋭い刃となり容赦なく突き刺さる。

 室祖父「確かに、憎しみを抱いてろくな死に方をする者はいない。そういう意味では、女を憎悪への執着から解き放つことは女自身のためになるだろう。しかし、だ」

父の発する雰囲気が一変した。

そこに凄まじい怒気を感じたのと、座敷の空気が鉛のように冷たく重厚に沈殿したのはほぼ同時だった。

 室祖父「おまえの場合それを名目のみとし、真願とはしていない。女の憎しみを逆撫でしないよう、あくまで建前として大義名分を掲げながら、心の底では沙知を助けたくてたまらない。女のことなど正直どうでもよい、憎しみすらある、というのが容易に見て取れる」

そこで父はふっと肩の力を抜くと、一旦畳を見下ろし、すぐに俺の両眼を見つめ返した。

 室祖父「それが、人間なのだ。…我々神職に務める者も、人間には変わりない。おまえは、どうしても払いきれない欲望と、衆生救済の大義との間で葛藤し、苦しんでいる。

人間臭い、結構ではないか。一体我々は衆生を救うために、血反吐の出る苦行を繰り返しているのだ。

昔のおまえだったら、ここでうしろめたさもなく綺麗事を並べ立てただろうな。もしそのような愚昧であったら、深く自分の人生を後悔しているところだった」

感無量だった。父の口からそのような言葉が聴ける日がくるとは、思いもしなかった。

自分は神職に就くものだから、心まで仏のように公明正大でなければならないと、勝手に思い込んできた。父からの数多の教えのなかにも、そのような態度を諌めるものはなかった。

自ら到達するしか、なかったのだ。

仏に仕えるものは、仏ではない。人間なのだ。我々はどこまでいっても人間であって、その枠からはみでることはない。

一個の人間として物事を考えている自分を観て、父はあのような言葉を下さった。

俺は一体なにを思いあがっていたのだ。

一人の妻を想う夫として、女に訴えかければよいのだ。

仏にすがるものの目指すべきところが。まだ霞んでいる、霞んではいるものの、垣間見えた気がした。それと同時に、全身に鳥肌がたち、居ても立ってもいられない、背中を力強く押すような、得も言えぬ不思議な力を感じた。

 室祖父「判りやすい息子だ。なにか思うところがあったようだな」

 室父「…私はひとりの人間なのだと、……ありがとうございます」

 室祖父「当り前だろう、おまえは阿呆だな」

そう言って声をあげて笑う父。

畳につけた額を伝うもの。曇っていた胸中に降り注ぐ慈雨。そのあとに待っているのは、完璧ではなくとも、久々に晴れ亘る空だろう。

 室祖父「さて、例の孤村の詳しい位置を教えよう。沙知は私が預かる」

 室父「…しかし」

 室祖父「心配するな。まずは3人でおまえの寺に赴く。必ず2、3人の従者を引き連れて現地に向かうこと。…かなり強い思念だ。沙知を観てみろ」

振り向いてみると、黒い髪が沙知の背後から畳の上を這っている。

 室祖父「おそらく、我々のように神職に就くものを呪っているのだろう。事情はわからないが、とにかく恐ろしく濃い邪念だ。女も正気ではないだろう。警戒を怠るな。

それから、村というものは往々にして閉鎖的だ。村人間の結束力も固い場合が多い。その地特有の慣わしや価値観、掟などを、実際に村に入る前に出来る限り知っておくことがなにより優先すべきこと。異境に踏み込む覚悟でいけ」

それから朝がくるまで少々の睡眠をとり、再び山を越えて寺に戻った。今回は父が連れ添ってくれたためか、女は姿を現さなかった。

沙知の様子が目に見えて変化していた。瞳が落ち窪んで顔もやつれ、唇には生気がない。ひたすら爪を噛み始めたのは、髪を梳かす仕草が止んですぐのことだった。

直ちに従者を3名選び抜き、現地へと向かった。道中特に変わったことも無く、目的地に着くころには陽が天頂に達していた。

直接村へは行かず、周囲に訊きこみをして情報を収集する。どうやら目的の村は、山を下った川が麓に生成した扇状地の、扇頂に位置するらしい。水利には事欠かないだろう。

扇央や扇端には他の集落が点在していて、目的の村とは異なるようだ。そこを利用し、周囲の村々に様子を探るような質問をぶつけていった。

わかったことは、その村は非常に閉鎖的で、外部との接触を極端に嫌うということ。それから、父の言った通り、独特の化粧と舞踊が特徴の奇祭が毎年催されること。

 「あの村はおそろしいところだ。祭りで神の贄として選ばれた女性は、下唇を切り取られるんだ。なんでも、その状態があの村で祀っている神によく似ているらしいよ。顔に塗りたくる真赤な化粧は、ほんとうは贄の女の生血なんじゃないかって云われてる。ほんとうに不気味だ。誰も好きこのんであの村に近寄ろうって馬鹿はいないさ」

そう語ったのは痩せ細った老婆だった。

我々に語っている間は終始、小刻みに震えていたのが印象的だった。

 「最近は大きな揉め事があったらしくてね。その年の贄に選ばれた一人の女には娘がいて、ある日その娘が山から帰ってきたら、様子がおかしい。魂が抜けたように呆けているんだ。母親の問いかけにも反応しないし、食事も喉を通らない。村では山の神に祟られたんじゃないかって話になって、その道の者に助けを求めた。

しかし事態は良くなるどころかさらに悪くなった。山の神だけでなく、村で祀っている神まで怒らせてしまったんだ。

今思えば、やつはどうも胡散臭かった。

…娘は狂喜して韋駄天のように山に駆けて行く。仏の使いは発狂して自ら下唇を抉りとり、奇妙な歩き方で女の家の傍の大樹の周りを回ると、例の娘と同じように歓喜しながら山へ走り去ったそうだ。

娘を追った母は数日後村に姿を見せたものの、別人のように変わり果てていた。その凄まじい様相に、村人もただ口を開けて眺めるしかなかったそうだ。

その日を境に、女は家に籠って外に出なくなった。中でなにをしているのかは、村人でさえ知らない。掟で他の村人の家に無断で立ち入ってはいけないからね。しかし、このような奇怪な事件はあの村では跡を絶たない。その年の贄に選ばれた者は、必ず正気を失う。そして、贄と血の繋がった者が必ず一人神隠しに遭うのだよ」

山の神と村で祀る神は、おそらく同一のものだろう。

しかしこの老婆が、あの村に居ながらここまで逃げてきたのはどうしてだろう。その事実が既に、村の異常性を明示していた。

訊きこみも済んで、一行は目的の村の入口付近までやって来た。

従者の顔にも緊張が走る。ものものしい雰囲気のなか、歩を進める。

居並ぶ家々がみえてくる。今のところ村人の姿はない。

家の軒先に、得体の知れぬ真黒の襞がついた細長いものが吊るされている。この異臭はあれが原因だろうか。

驚くほど閑散としていて、人子一人いない。物音すらしない。

もう村の中心部分まで来ただろうか、後をつけてくる従者が肩を叩いた。振り返って訝しげな視線を送ると、右方を指差す。

指示された方向をみると、家の戸が僅かに開いていて、そこから童子が顔を覗かせているではないか。

あまりに細い隙間だから性別は判らないが、間違いなく童だ。探るような瞳を向けてくる。

すると突如、童の両眼を白い手が覆い、奥のほうにすっと音も無く連れ去った。すぐに戸が音を立てて閉まる。

従者と顔を見合わせた。

どうやら村人は全員家に籠っているようだ。おそらくは我々を警戒しているのだろう。

そうと判れば村を練り歩く必要はない。さきほどの童が居た家の戸を軽く叩いて呼びかける。

 室父「すみません。お訊きしたいことがあるのですが」

反応は無かった。当然か。

家に隠れるほどの警戒のしようだ。突然の呼びかけに「はい、なんでしょう」と応じる筈がない。

 従者「弱りましたね…。これでは探し出せません」

 室父「村の掟は絶対に破るな。この村から出られなくなる」

従者の顔から血の気が失せた。

 従者「…長を訪ねたらどうでしょう。話が通じるかもしれません」

 室父「それしかないかな。外見は他の家々と異なるはずだからすぐ判るだろう」

それはすぐに見つかった。柵に囲まれた敷地は遥かに広く、また立派な日本家屋だ。背後には山の麓が拡がっている。

祭りに使うとされる御神体は村の中心部の広場には無かったから、村長の屋敷に保管されている可能性が高い。

早速玄関の戸を叩いて呼びかける。

しばらく待ったが反応がない。まさか村ぐるみで我々を無視する腹だろうか。

 室父「…困ったな。…」

 従者「もう一度訊きこみをしましょうか」

 室父「…待てよ。女の家の傍には大樹が…老婆がそう言ってなかったか」

 従者「そんな気もします。いや、確かに言っていました。ではその大樹が目印ですね」

 室父「感謝しなくては。同じような家が他に無いことを祈ろう」

村を隈なく渡り歩き、条件に合致する家はひとつしかないことが判明した。最も奥の、山の麓のすぐ近くに、その家はあった。

近寄った途端死臭が漂ってくる。呻きを漏らしながら従者が鼻を覆った。

この家に、あの女が。

亡者ではなく、生きているのだ。しかしこの死臭は。

不吉な兆候ではないことを願い、意を決して戸を叩く。すると、こちらから呼びかけるよりも早く中から返事が返ってきた。

 「ごめんくださいぃ…誰かいませんか…」

ぞっとした。狂っている。

声も、台詞も、あの夜の訪問者とまったく同じだ。

 室父「…おまえたちは外で待っていろ。いいから言う通りにしろ」

ゆっくりと戸を開いてゆく。すると、吐き気を催す凄まじい腐臭が溢れだしてきた。

顔をしかめながら屋内を覗くと、妙に薄暗くて判然としないが、奥の方に白いものがみえた。

細く開けた空間に躰を捻じ込み室内に踏み込む。

白いものは、女だった。

正座して、天井を仰ぎながら爪を噛んでいる。その足元には、額を畳につけて突っ伏す男。遠目からでも腐敗が進んでいるのが判る。蛆も涌いているのだろう、首筋あたりに蠢くものがみえる。

しばらくその光景を眺めたまま固まった。

室内に響くのは、女が爪をしゃぶる音と、自分の心臓が高鳴る音だけだ。

行動の選択肢を失った。

ここまで来たのは、女と言葉を交わすためだ。しかしあの状態で、まともな会話などできるだろうか。

一体何日、いや何週間、食を絶っているのだろう。骨と皮だけになった女の顔面は、白いというより黄ばんでいた。

髪がかかっているものの、喉仏のあたりが細かく動いているのが判る。鼻の穴からはどす黒いものが流れ出ていた。

下唇が極端に薄い。しかし今ならわかる。あれは削ぎ取られているのだ。

胸のあたりは着物が黒く変色していた。

女の背後にある鏡台に、頭頂部と鼻筋が映り込んでいる。両眼は睫毛が覆っていてみえない。

あの鏡の前で、髪を梳かしていたのか。指で。沙知と同じように。

部屋のあちこちに引っ掻いた痕がある。おぞましいほどの数だ。畳にも、まるで憎しみをぶつけるように爪痕がのこっている。

振り返ると、従者の躰が半分だけみえた。戸を完全には開いていないため外の様子はよく判らない。すると、

―違和感

音が止んだ。爪をしゃぶる音が止んだ。

向きなおるのが途轍もなく恐かった。しかし、そうせざるを得ないほどの強烈な視線を敏感に感じ取っている。慎重に、ゆっくりと、今自分がみているもの、捉えているものを確かめながら。

鏡越しに、女がこちらを睨んでいた。

天を仰いでいた躰をさらに反らせ、逆さに顔を覗かせて。

渦巻く憎悪が凝り固まったかのような、どこまでも冷たく、どこまでも暗い瞳が、間違いなく俺を、捉えていた。

一体いつ以来だろう。

絶叫している自分がいた。

怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん  

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