長編10
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三鑑 (5)

 従者「どうかしましたか!!…ウッ!!」

叫び声を聞いた従者が血相を変えて家に傾れ込んできたが、たちこめる異臭に即座に反応し顔を袖で覆う。

女は逆さに俺を睨みつけながら一心不乱に爪をしゃぶる。

物心もつかぬ幼子に値打ちのある絵画を見せても、それは友達と描いた落書き以上の価値をもたない。

そこには、知ろうという気もなければ、推し測ろうという気もない。

ただ目の前のものに多少の興味があって、眺めている。ただ観察している。

そんな得体の知れぬ、しかし一切の抜け目がない瞳で以って俺を見つめる。

足の爪先から頭頂まで、視えないなにかに撫でられているような感覚。金縛りにあったように身動きがとれない。背後の気配からして従者も同じ状況のようだ。

 「ウイィィマ゛アアァ…ぷッ ハァァァ―」

胎のなかまで憎悪に充たされているのだろうか、苦しそうな呻きを漏らす。

言葉など通じるはずもなかった。話しかけようという気さえおきない。想像以上に憎しみに蝕まれている。

心の底ではもう人を憎むことに疲れているのかもしれない。しかし、もう後戻りはできない、というところまで来ていた。憎しみに歯止めをかけることに、一種の罪悪感すら抱くようになっているのだ。娘を思えば母はどこまでも走り続ける。

胸が痛むばかりだった。

娘を愛する気持ちの強さが、そのまま憎悪に替わって女を支配している。今の変わり果てた自分をみて娘が喜ぶはずがない、などということは百も承知だろう。それすら上回る憤怒と憎悪の螺旋に身を投じている。

そこでふと、娘はほんとうに死んでいるのだろうか、という疑念がよぎった。

老婆の話では、女は娘を追って山へ入り、変わり果てた姿で村へ還って来た。では、山の中で何をみたのだろう。何が彼女をそこまで変えてしまったのだろう。

女は逆さの面をゆっくりと元に戻し、爪をしゃぶるのは止め、細かく口を動かし始める。

下唇が切り取られているため、歯茎が剥き出しになっている。口元には涎の垂れた痕があるが、それすら枯れ果てたようだ。

息の漏れる音がする。何事かを喋っている。その声ならぬ声に耳を澄ます。

瞬間、金槌で殴られたような衝撃が脳天を貫いた。

―羯諦(gate) 羯諦(gate) 波羅羯諦(pa/ra-gate) 波羅僧羯諦(pa/ra-samgate) 菩提薩婆訶(bodhi sva/ha/)

彼女は、生に向かい必死にもがいていた。

般若心経の一節を、途絶えた意識のなか、嗄(カ)れた喉で。

両脚を闇に浸しながら、それでも光をみようと仏にすがりつき必死で堪えている。

父と対面し、自らの目指す先を悟った瞬間に感じた、あの力強く背中を推すなにかが、再び全身を揺さぶった。億兆の細胞ひとつひとつが前へ向かって進み出そうとする力を発揮し、抑えきれない情動が脳髄を駆け巡る。

気付かぬうちに、女の元へ歩み寄り、両肩を掴んで激しく揺すっていた。

 室父「おまえのなかにも御仏が居られる…信じれば報われると、そう信じている」

女の左目から、涙が零れる。

渇いた大地に沁み渡るように、一滴の雫は頬の上を優しくすべり落ちる。

それが彼女の、充分過ぎる返答だった。

俺は気が狂れたように、口を堅く結びながら何度も頷いた。背後では従者の咽び泣く声がする。

御仏は、衆生のなかに確かに息づいていた。息づいているではないか。

その実際に直に触れ、生命の萌芽に似た感動があとからあとから溢れ出てくる。

 室父「この女は、呪っているのではない。呪われているのだ」

外が妙に騒がしい。従者と目配せして様子を窺うと、村人がぞろぞろと家から繰り出している。何事かが始まるようだ。従者を2人残し、村の中央部ではなく山の方角に向かう村人の群れを追う。

大の大人数人が、高さ3mほどの御神体を担いでいる。巨大な赤木に羽根やら珠やらで装飾を施していて、人の姿を模(カタド)っているようだ。顔と思しき部分には赤い隈取り、下唇はなく、瞳にあたる箇所には円形の鏡が嵌め込まれている。

オウ、オウ、と獣の雄叫びのような声をあげながら一群が行進する。

山が見えてきた。すると既に大半の村人が集結しており、恭しく地べたに額をつけて何かを崇めている。後から加わった一団も、御神体を安置すると同じように額で大地を迎え深く礼拝する。その先。

樹木の暗がりに、女が立っている。

山の入口付近に、その女は木陰に溶け込むようにしてこちらの様子を窺っている。

 室父「紫乃。…憑き神の気は」

 紫乃「ありません。名残はありますから、おそらくこの山を去ったのでしょう」

 室父「あの女は、呪禁(ジュゴン)か」

 紫乃「さきほどの女に呪いをかけたのは、あいつでしょう」

 室父「…ああ、許すまじ。神職に就くものが、このような大罪を犯すとは。…捕らえるぞ」

 紫乃「はい。迂回して村人に悟られぬよう近付きましょう」

すると呪禁と思われる女は身を翻し山の奥に消えた。村人が天を両手で抱え奇声を発する。御神体の周りを囲み、あの奇妙な動きをし始める。異常に深いお辞儀をした状態で、両手を地につけそのまま四足歩行をする。

その異様な光景を横目で眺めながら、音を立てないよう慎重に女を追う。

鬱蒼とした木々を掻き分け、女の背中を見失わないよう距離を縮めていく。山道に慣れているのか、女も凄まじい速さで駆け上がる。

散らばった落ち葉や枝を踏みしめる音と、衣の擦れる鋭い音、紫乃と俺の息遣い。女の背丈とさほど変わらない長い髪の毛一本一本が、邪な生き物のように舞う。

流れるように通り過ぎてゆく風色のなか、俺と紫乃、そして女だけが、それとは全く次元を異にしていた。

女が次第に歩を緩め、ついに止まった。肩で息をしている。対照的に俺や紫乃は息ひとつ切らしていなかった。

 室父「放っておいても神の裁きが下る。しかしその前に、我らがおまえを裁断する」

 呪禁「…裁断だと、この畜生が。おまえたちは悪鬼だ。…この恨みの深さ、衆生に思い知らせる」

 紫乃「道を誤ったか…大義とは真逆の悪業を犯すとは。衆生を呪い、憎しみの代償から逃れようとしたのだな」

 呪禁「…おまえたちと語るための言葉など持ち合わせていない。偽善者には何を言っても無駄だ。まるで自分を神とでも思っているようだ。貴様らのその傲慢な態度には反吐が出るわ」

女の馬鹿嗤いが山に木霊する。

 室父「一体何人の村人を呪ったのだ」

 呪禁「…十指では足らんな。しかし人間とは脆いものよ。すぐに壊れて遣いものにならなくなる。その度面倒な儀式をやり直さなければならないのだから、まこと不便よ」

 室父「…」

 紫乃「…室さん、抑えて下さい。私も同じ気持ちです。しかし今あの女を殺めたら、罪を償わせることができません」

 室父「解っている。……地獄に堕ちるまでは、この世で償わせる。女を連れていくぞ。村の長と直接話す」

*****

 室父「最初は怒り狂っていた村人も、俺たちの真剣さが伝わったのか、村長が話を聞いてくれた。そこで全てを明らかにした。あなた方が崇拝していたのはこの女であり、神でもなければ聖者でもない、ただの悪人だと」

 那波「その呪禁は、なぜそこまで恨みを募らせていたのですか」

 室父「女は何も語らなかった。相当な憎しみを秘めているようだったが、結局胸の内にしまいこんでしまった。しかし許されぬ罪を犯したのは事実。女の処遇をその後どうするかに議論の的は移った」

*****

 長「我々の村で預かりましょう。交代で村の男衆に見張らせます」

 室父「それでは、この辺りで縁のある寺社にも手を貸すようお願いしてみます。不測の事態にも対処できるようにするためです。また私も、月に一度はこの村を訪れましょう」

 長「かたじけない。あなた方には村の醜態を晒してしまいました。これからも誇りを持って、御仏の御膝元で衆生のために尽くして下され」

 室父「しかと承りました。この村で私は、民のなかで息づく仏の姿を拝むことができました。それは得難い感動と光明をもたらしてくれた。歩むべき道が垣間見えたような気がします」

 長「それはよかった。さらに精進してください」

 室父「女を置いておく場所はありますか」

 長「御神体を保管しておいた穴蔵があるのです。そこで女を匿おうかと」

 室父「女の犯した罪は重い。しかし、彼女のなかにも許すことのできない過去があるのだと思います。その過去を顧みて、自己を鏡とし見つめ直すには長い年月がかかるでしょう。その時間を与えられるのが、人である者としての権利だと、私は考えます」

 長「うむ、…貴方は女を完全な悪として見定めてはおらぬようだ」

 室父「正直、できないのです。私に彼女を悪と断じるほどの正義があるとは思えない。確かに震えるほどの怒りを感じるのは事実です。遺族の方々にはそれ以上のものがあるでしょう。でも、それに捉われて憎しみに支配されてはならない。自らを滅ぼすだけだからです。

そのような人生を歩んで欲しくはない。それに正義とは、その意味するところを刻々と変化させます。また各々の捉え方にも差異があるでしょう。そこが最も難しい、そう思い知らされます。同時に、人の最も美しい部分だとも思えるのです」

 長「ひとりひとりの価値観が異なるところが、だね」

 室父「そうです。…自己を見つめ直すのは、想像を絶する苦難を伴います。それが彼女に対する罰となるのではないでしょうか」

 長「相分かった。責任を持って女を預かりましょう。感謝の言葉も思い浮かばぬ」

 室父「犠牲となった村人に祈祷した後この村を去ります」

 長「彼らの無念を少しでも掬ってくだされば…村の者は衝撃を受けていると思います。なにしろ信仰の対象であった神が罪人だったのだから。私も相当取り乱しましたが。お供の者をつけましょう。まだあなた方に恨みを抱いている者がおるやもしれません」

村中に、泣き崩れている者、うつろな目をして佇んでいる者が溢れていた。絶叫して襲いかかって来る者もいた。それほど信仰は深かったのだ。かける言葉が見つからなかった。

呪禁に呪われていた女はその後意識を取り戻した。どうやら傍らで突っ伏していた男は旦那だったようだ。

しかし愛する家族を亡くした彼女が、憎しみに支配されることはない。それほどに強く逞しい心を、彼女は持っているから。

家族の分まで、懸命に生きるだろう。そして、その努力が報われる日が必ずやって来る。

*****

 室父「今でも呪禁は生きている。その村で」

 那波「沙知さんは助かったのですね」

 室父「では、さきほど我々に茶を出したのは誰だ」

 那波「そうでした。…よかった」

 室父「寺に戻ったとき、父は私と沙知に、ある言葉を授けられた」

人の命とは、他の誰かの命を、背負うためにあるのではない。

今このときを生きている、その命を燃やしている誰かのために。そのためだけにあるということを忘れるな。

多くの失われた命の上に私たちは立っている。そのことに感謝するのは善であっても、そのことに負うのは誤りであるということ。

その心が、鼓動し躍動しているまさにこの瞬間、この時間は、命ある者にしか味わえぬということ。

命と命がぶつかり火花を散らしたとき、初めて人が人として輝くのだということ。

 那波「それは…あのときの」

 室父「ああ、そうだ。君らが邪兒(ジャコ)との死闘をくぐり抜けたあとに、私から授けた言葉だ」

前触れもなく涙が溢れてきた。

受け継がれてゆく人の意志。その尊さに思わず堰をきったもの。

 那波「…一生忘れません」

 室父「俺がその言葉を聞いたとき、突然般若心経のなかのある一節が、くっきりと浮かんだ。目はあけているのに、その四文字はまるで眼球に貼りついているかのようにはっきり見えた」

bodhisattva/na/m―

修験の果てに、磨かれた新たな自己を求め続け、人のために命を燃やす者。

 室父「うち震えるほどの尋常ではない感動が俺を包んだ。生命が歓喜の声をあげているかのように、全身が小刻みに震えたのだよ。…あの日から俺は新たに生まれ変わった。見るもの全てが違っていた」

そこで少し沈黙すると、室の父は声色を変えて言う。

 室父「ありがとう。私の話に真剣に耳を傾けてくれて。…さあ、蝋燭に火を移すんだ。私は行燈の火を吹き消して来なければ」

 那波「ちょっと待って下さい!…心の準備がまだ」

 室父「大丈夫だ。大丈夫。…いいね、言われた通りにするんだ。では」

あっという間に室の父の背中は闇に溶けた。

何を話せばいいのだろう。最も肝心な部分を尋ね忘れていた。しかし問うたところで明快な答えが返ってくるとは思えない。

実は室の父の話を聴いていて、ふと思い出したことがあった。

話のなかで、村の人々が御神体を保管するのに使用していた穴蔵。

穴蔵という言葉に、敏感に反応する自分がいた。その理由を突きとめてみると、幼少の頃のある記憶に辿り着いた。

心許ない小さな蝋燭は驚くほど時間をかけず燃え尽き、とうとう室の父も戻っては来なかった。

自分一人だけには広すぎる社殿。弱すぎる灯り。

茶を一口呑み、唇を舐める。

怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん  

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