中編5
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『喫茶K』にて

街の喧騒は僕を十分イラつかせた、しかし最も耐えかねるのは真夏の酷暑と激しい喉の渇きだった。

そうして逃れた一軒の喫茶店で、僕は奇妙な体験をすることになるのだった。

『喫茶K』はジャズの流れる落ちついた雰囲気の喫茶店で、照明を絞った薄ぐらい店内はどこか懐かしい香りがした。

クーラーは心地よく、アイスコーヒーは喉を潤した。リズミカルなスウィング。僕は上機嫌で読みかけの本を開く。やがて照明も音楽も消え、僕は本の世界へ――

「お久しぶりです」

突然の呼びかけに僕は現実へ引き戻される。顔を上げると、目の前には若い男が立っていた。

男は満面の笑みを浮かべて、しかし急に困惑したような目つきになった。人違いか? 僕もこんな男は、いや――

「……高田? おまえ、高田?」

思い出した。大学時代の後輩、高田。卒業以来四年ぶりの再会になるか。

どことなく雰囲気が違っていたから、すぐには思い出せなかった。そう、外見はさほど変わっていないのに、どこかチグハグな、しっくりこないような。

「席、良いですか?」

言うなり高田は返事も聞かず真向かいの椅子に腰を降ろし、煙草を吸い始めた。

やはり妙だ。

以前の高田は遠慮がちな男だった、少なくとも俺が煙草を吸わないことは知っていたはずだ。

高田は、目だけすまなそうにしていた。煎れたてらしいコーヒーから湯気が立ちのぼる。

BGMが切り替わる。トランペットからピアノ主体の曲へ。高田は、熱いはずのコーヒーを一口にぐいと飲み干す。

それから僕と高田は当たり障りない近況報告を済ませ、思い出話へと話題は移っていった。

その間高田はコーヒーを何度も注文し、その度に熱湯を一口に飲み干す。唇が赤くただれていた。

しばらくして、話に詰まり始めた頃、高田は奇妙な話をし始めた。

話の間、その口調は淡々としてなんでもない様だったが、しかし目だけは終始怯えていた。

「……反射ってあるじゃないですか。あれって否応ない、体の正しい反応なんですよね。

だって痛かったら、痛いと思う前に反応しないと大変なことになりますから。

体が正しいんです。理解はそのあと。

俺……もう二、三年前からかな、そんな感じなんですよ。

実は、心の反応が遅れてるんです。わかりますか? 俺も最初は、気のせいだと思ってたんですがね……

例えば、飲み物を俺は飲んでるんです。

でもなんで飲み物を飲んでいるのか分からない。一瞬考えるんですよ。で、『あっ俺、喉が渇いてたんだな』って、思うわけです。わかりますか?

喉が渇いたな、何か飲みたいなって思う前に、もう飲み物を手にとって飲んでいるんです。わからないですよね。

こんなこともありました。俺は道を歩いてるんです。で、なんで歩いているのかわからない。

でもとりあえず足の向くまま歩くんです。そのうちスーパーなんかに入って、やっと気づく。あ、食料切れてたなって、買わなきゃって。

そう思った時にはもう買い物は終わってたりね。

夢遊病? さぁ、病院には行ってませんから……きっとまともに扱われませんよ。

とにかくそんな感じで、勝手に体が動いて、俺は何をしたかったのか、心はあとから考える、って順番になったんです。

思って動くんじゃない。動いてから思う、ですか。

症状が出てから一年ほど経った頃には、俺は自分の気持ちを考えるってことはほとんどやめていて、体にまかせるままにしていたんですね。

一応、体は自分でもこうするだろうなって動きをしますから。楽っちゃ楽ですからね。心はなく、半ば反射反応だけで暮らしてたんです。バカですよね……

やばいと思ったのは、付き合ってた彼女を抱きしめてて、なんで抱きしめたのか、しばらくの間わからなかった時です。

それは彼女が俺の誕生日にサプライズパーティーを開いてくれて、それでとても彼女を愛しくなったからだと思うんですが、気持ちが全然追い付かなくなってたんですね。

心の反応がとても遅くなっていた……

その誕生日の話の、少し前になりますか、ある日、映画を観ていたんです。

その映画はC級もC級、全然感動も笑いもないしょうもない映画なんですがね、俺笑って泣いてるんですよ。

自分の心にそんな感情、まったく沸いてないのに。

それで、なんとなく癖で『ああ、今俺は面白いと思ってんだな、感動してんだな』って自分の気持ちを解釈したんですよ。

その時に俺、自分の体の反射反応と、解釈した……いや、遅いだけなはずの自分の気持ちと、どちらが正しいのか分からなくなったんですよ。

もしかしたら感動も笑いもなかった自分の感情は間違っていて、泣いて笑ってる体の反応、この場合は表情ですか、そっちの方が正しいのかもしれないって思っちゃったんです。

それで俺、二週間前に、彼女にフラれちゃいましてね。そん時俺、すげぇ悲しかったんですよ。泣きたかった。これは泣く。これこそきっと本当の気持ちだって。

でも俺、どうしたと思います? 笑ったんですよ。ゲラゲラって。ずっとゲラゲラ笑ってたんです。

俺は、泣きたかった。でも、それまでのこともあって、笑っちゃう俺が正しいのかなって。泣きたい俺は嘘なのかなって。

でも、しょうがないからそんな自分を受け入れようって、思ったんです。

……それからですよ、俺の体、おかしくなったんです。理に合わないっていうか。例えば自分で自分を殴ってたり、水風呂にずっと浸かってたり。何がしたいのかわからない。

悪意っていうか、体が体を傷つけようとしてくる。

……ホラ、ここ、手首、傷があるでしょう。最近、気づいたらカッターで手首切ってるんですよ。昨日、体は勝手にロープを買いに出かけました……

俺、死にたいのかな……死にたくないのに……死にたくない……体の反射は速くて正しい……心は嘘……いや……

先輩……例えば……俺の体が正しいとして……体が勝手に死んだら……俺の心は……それを受け入れないと……いけないんでしょうか……?……受け入れなければいけないんでしょうか……?」

いつのまにか、店内のBGMはピアノからまたトランペット主体の曲に変わっていた。ジャズも照明を絞った薄ぐらい店内も、氷の溶けたアイスコーヒーも、僕には全て雰囲気が違って思えた。

高田はすでに僕を見ていず、独り言のようにまだ何言か呟いていた。僕は何か訳のわからない慰めごとを言って、高田を残し、一人『喫茶K』を後にした。

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん  

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