長編22
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ひな菊

実話をもとに書きましたが、小説みたいになってしまいました。

一度だけ経験した不思議な話なので、

思い切って投稿しました。

暗い話で、しかも長くなりますので、

お暇な時間によかったらどうぞ。

“彼”と再会して以来、なぜか私は変わった…

まずタバコをやめた。

朝5時に起きて海岸線をジョギングする。

一人でご飯を炊き、ゆっくり食べる。

朝のニュースを見て、世の中の動きを知る。

ネットで検索し、夕食の献立を決める。

そして、昼食用に自家製の弁当を作って、

パリッとしたワイシャツに袖を通し、スーツを着て出勤する。

会社は9時始まりだが、出社はいつも7時台で一番乗りだ。

朝誰もいない職場は落ち着き、仕事の準備がはかどる。

残業はしばしばあるが、苦にならない。

夜はスーパーで夕食の材料を最低限だけ買って帰る。

家に帰り、さっそく調理する。

着替えて、5分程度だが夜のジョギングに向かう。

シャワーを浴びて、パジャマに着替える。

テレビを見ながら、自前の夕食をゆっくり食べる。

お酒は一切飲まない。

歯を磨いて、さっさと寝る…

「あんた、このままじゃ死ぬよ。」

私は口の悪い開業医の先生からそう言われていた。

そう言われてあわてたときには手遅れだっただろう。

案の定、狭心症で倒れ緊急手術を受けた。

幸運にして、術後経過は順調だった。

入院中、会社が気になって仕方なかったが、長期休暇を余儀なくされた。

すべて私に非があったことは認めるが、

原因の根本はストレスだ。

私は下手に出世ラインに乗っていたから必死だった。

上への忠誠、下からの突き上げ、部下からの陰口、派閥間の確執、そして内部告発…

うさん臭い世界にさらされていた。

会社に復帰したときには、ラインから外されていた。

「もう卒業していいよ。ご苦労様。自分の健康はちゃんと自己管理してくれよ。単身赴任も卒業できるように上には掛け合っておくから…」

上からそう言われた。

悔しくてどうしょうもなかった…

やる気がうせて、口数が減っていったが、

先生から止められていたタバコの本数は徐々に増えていった。

仲のいい同僚達は飲み会に誘ってくれたり、

話しかけてくれたりして、何かと気をつかってくれた。

『出世なんてできなくても、

自分に課せられたことにただひたすら打ち込めば、それでいい…』

自分で割り切ろうと考えれば考えるほど、

私の心身は逆方向に傾いていた。

夜眠れなくなった…

こっそりと、メンタルクリニックに通うようになった。

睡眠薬や精神安定剤が出された。

「うつ病とかそういう病気ではありません。今ならあなたの考え方一つで人生いくらでも変えられますよ。」

メンタルの先生はそう言って私を慰めた。

さすがに少しよくなって、

朝目覚めたら、眠ったことに気づくようになった。

でもやっぱり眠った気がしないのだ…

夜眠るのが恐くなり、寂しくなった。

家内に電話したら、下の娘の大学受験で今は心の余裕がないらしい。

「受験がかたづいたら、考えてあげるわ。」

ますますへこんだ。

そんなある日のことだ。

一日中ぼんやりテレビをみて過ごす日が多かったためか、

気がつけば部屋が異臭に包まれていた。

ストレスがたまって、

家事なんてやる気も起こらなかったので、

自然に洗濯物や洗い物、床には白いほこりもたまっていた。

さすがに、『このままじゃだめだ…』と思い、

明日こそは早く帰って部屋を片付けようと、

次の日、定刻に退社し大急ぎで自宅マンションに向かった。

ハアハアと乱れた息づかいで、部屋のドアを開けた瞬間だった。

突然誰かが横切ったのだ。

そいつは壁を素通りした…

さすがに背筋が凍った。

私は即座に、

『ばかばかしい…』

病み上がりの幻覚だろうと思った。

しばらく考えてあることを思い立ち、すぐ実行に移した。

飲んでいる薬を全部インターネットで調べてみた。

全部で5種類飲んでいたが、『幻覚』の副作用はなかった。

また、狭心症という病気自体についても同様に調べてみたが、

そのような記述はどうしても見つからなかった。

『はて…?』

『子供だ。たしか男の子だった…』

『いや、幻覚だよ…』

『アホか。俺はやっぱりおかしい…』

『テレビの心霊特番じゃあるまいし…』

私は独り言を言いながら、自分を取り戻そうとしていたが、

のどがカラカラに渇き、明らかに動揺していた。

帰宅してから、ずいぶん時間が経ってしまっていた。

また、心細くなったので家族に電話をかけた。

下の娘が出てきて、模擬試験の点数がよかったと、はしゃいでいた。

私もうれしくなり、さっきの異変を忘れかけていた。

そんな矢先だった。

ジュルッ、ジュルッと鼻をすする音、

そして、

ジュー…・ジュー…

と鼻水の混じった息づかいが聞こえてきた…

私は、娘の話に適当に相槌を打ちながら、音の方向に耳を澄ましていた。

『やっぱり子供がいる!』

『子供が風邪をひいたときのような息づかいだ』

『だれだ?』

東側のお隣さんには両親と高校生の娘しかいない…

ここは角部屋だから西隣には何もない…

そんなこと考える意味などなかった。

明らかに、その音はここ505号室のこの部屋の中から聞こえていた。

私は次女に、

「あ、キャッチが入ったから、またな」

とうそをつくと、強引に電話を切ってあたりを見渡した。

誰もいるはずなかった。

この部屋にいる生身の人間は私一人だ。

さっきから恐怖で震えが止まらない。

体は自由を失い、目だけが動いていた。

もう確信するしかなかった。

この部屋の中に私の知らない誰かがいる…

たしかに体も心も疲れてはいる。

しかし、私は幻覚など見ていない。

頭の中は常に正常だ。判断力も鈍っていないつもりだ。

さっき娘と普通に話したではないか…

しばらく経つと、鼻水の音は聞こえなくなった。

私はいくぶん恐怖が和らいだが、

気を紛らわせようと、いまだに震える指でテレビのスイッチを入れた。

夜のニュースをうわの空で見ながら、

いったい何だったのか、何でここに“出る”のか?

たしかに子供だった…

たぶん男の子だ…誰だ…?

不動産屋はいわく付きの部屋だとは言ってなかった…

いわく付きなら借主に事前の説明責任があるはずだ…

念のために今から不動産屋に連絡入れてみるか…

ソファに腰掛け、

おもむろに携帯電話を手に取ろうとした時だった…

テレビのチャンネルが突然変わった。

「はあっ!?」

思わず叫んだ。チャンネルはテーブルの上だ。

私は触れてない…

故障か???

気がつけばチャンネルがクルクルと変わりだした。

そして、またあの鼻水の混じった息づかいが始まり、

照明がチカチカした。

『これ、心霊現象ってやつだな…テレビの特番と同じだ…』

私はブルブル震えながらそう思ったが、

再び体はいうことをきかなくなった。

一瞬、お香の匂いが漂ったかと思いきや、

なぜだか頭の中で音楽が鳴りだした。

とてもなつかしい…

神秘的なメロディー…

たしか、幼少期にはやった歌だ…

『花咲く○○○たちは… 花咲く○○で…』

『……………………』

『太郎が好きだった…太郎、太郎…』

とたんに、記憶が沸き起こってきた。

そして、

わかった…

「た、たろうちゃんやろ!?」

「ぼっ、ぼくや…たっちゃんや!」

私は思わず心で叫んだ。

太郎は洗面所の扉に身を半分隠し、私をじっと見つめていた。

はにかみながらも、私に何か言いたいのか…………?

彼はエンジのベレー帽をかぶり、

灰色のえり付きのシャツに紺色の半ズボンをはいていた。

半ズボンから、白い下着のシャツがはみ出していた。

約四十数年前の姿そのままだった。

太郎を見た瞬間、私の体は軽くなった。

そして、なつかしさと愛しさのあまり太郎にかけよったが、

太郎はいなくなった。消えた。

「たろうちゃん!おまえ死んだんやで!もう何十年も昔に…」

「来てくれたんか!ぼくうれしいわ!」

「ぼく、こんなおとなになったんやぞ!」

今度は声を出して叫んだが、太郎は現れなかった。何の反応もなかった。

大粒の涙がこみ上げてきて、

私は年甲斐もなく、大声をあげて泣いた。

太郎は幼なじみで同級生だった。

私には二つ違いの妹がいるが、

私と太郎の仲はそれ以上だった。

太郎がひとりっ子だったこともあるが、

私と太郎はいつも一緒だった。

私の父と太郎のおかあさんも幼なじみで、

お互いを『けいちゃん』、『ひでおちゃん』と

名前で呼び合っていた。

しかし、今から思い起こせば、

私の母と太郎のおかあさんは少し仲が悪かったのかもしれない。

私と太郎が幼少期住んでいた町は、

当時の高度経済成長期に乗っかったためか、近所に町工場がたくさんあった。

そのためか空気が汚れていて、

私と妹は喘息を患ってしまい、母に連れられて通院していた。

国鉄の駅も歩いてすぐの場所にあった。

近くにレンガ造りの高架があって、

急な階段を上ると、簡単に線路に出ることができた。

母と一緒に通院するとき、いつもその前を通った。

階段の上り口には、花束やジュース、おかし、人形などの

お供え物が常に置いてあった。

「あの階段は『死の階段』いうてな、上ったら死ぬんやで。絶対に上ったらあかんで。」

と、そこを通るたびに母は必ずそう言っていた。

数年に一度、階段を上ってしまった子供たちが犠牲になっていたようだ。

太郎は私以上にあの階段を恐がっていたのに、

後に犠牲者の一人となってしまった。

駅前にはホルモン焼きやお好み焼きのちょうちんが並んで、

仕事帰りの男達がそこで一杯やっていたのだろう、

酔っぱらって、けんかしているところをよくみかけた。

そんな町で私や太郎は育ったのだ。

太郎の家は、うちと同じ並びの二軒先にあった。

家の前の路地は狭く、車は進入できなかったと思う。

そんな狭い場所に小さな家々が密集していた。

近所の人たちはお互いをよく知り、

皆が家族のように暮らしていたように思う。

私も近所のおじさんやおばさん達から、

自分の子供同様にかわいがられたし、叱られもした。

我が家同然に出入りしていた家もあった。

夏場には、三軒先のおじいさんがステテコ一丁で路地に出ては、

七輪で魚をよく焼いていた。

私や太郎はいつもやかましかったせいか、

そのおじいさんからしょっちゅう叱られていたので、

おじいさんが軒先に出てきたら、先を競って逃げていたものだ。

その当時の子供らの遊びといったら、

ご他聞にもれず、メンコ、ビー玉、コマ回し、剣玉等だった。

私はどの遊びもうまくできなかったが、

太郎は何をやってもじょうずで、

いつも太郎は私の中の“兄貴”だった。

他にも子供たちはいたのだが、みな少し年長だった。

その子供たちは私らとはまた違うグループを作っていたので、

私や太郎をあまり相手にしなかった。

それでも太郎は年長さんの遊び方をよくみて、

すぐにマスターして私に教えた。

今から思えば、私と太郎には同級生といえども

かなり知能の発達に差があったのだろう。

私は太郎を頼りきっていたが、

太郎はそんな私を一度も見捨てたりしなかった。

そして、太郎は早熟だった。

当時のグループサウンズをよく知っていたし、大好きだった。

「たっちゃん!ぼくはなぁ、おとなになったら歌手になるで!」

「ぼくはなぁ、タ○ガースやったら、ジュ○―よりト○ポの方が好きや。」

太郎は青洟をシャツの袖で拭きながら、本気でそう言っていた。

太郎は年がら年中鼻声で、鼻息はいつもジュルジュルと音を立てていた。

そして、太郎に近づくといつもお香のにおいがしていた。

私の本名は『だいすけ』なのに、

なぜだが、太郎は私を『たっちゃん』と呼んだ。

「たろうちゃんは何でぼくを『たっちゃん』ってよぶんや?」

と聞くと、太郎は

「ないしょ!」と言って、ヘヘヘッと笑った。

太郎は、

「たっちゃんにええもんみせたろか?」

と言うと、ギターの形をしたブリキのおもちゃを家から出してきた。

それは、ギターの形をしているだけで、

弦は黒い線が描かれてあるだけのものだった。

かなり錆びついていたので、たぶんどこかで拾ったものだったろう。

太郎はそのギターのおもちゃをかかげ、

「タ○ガースの新曲や。たっちゃんしらんやろ?」

と自慢すると、

「花咲く○○○たちは…花咲く○○で…」

「Oh愛のしるし…花の○かざり…」

いつの間にか太郎は歌詞を全部覚えていて、私の前でカッコつけて歌った。

子供のくせに大人びていて、ト○ポの表情をうまくつかんでいた。

私は太郎の才能に子供ながら驚いていた。

私にはそんな覚える力などなく、

ブルーシャ○ウの替え歌しか歌えなかった。

「もりとんかつ、いずみにんにく、かーこんにゃく…」

太郎と二人で歌うと楽しさと心地よさが倍増して、二人でケラケラ笑った。

私と太郎はそんな仲だったが、不思議なことが二つあった。

一つ目は、

太郎は私の家によく入り浸っていたが、

私は太郎の家にほとんど入ったことがなかった。

一度だけこんなことがあった。

太郎っちの軒先で、二人でコマまわしをして遊んでいた。

私はコマが苦手で、太郎のようにうまくできなかったのだ。

太郎は業を煮やし、

「チェ!ちょっとかしてみ、こうするんや!」

といらつき、コマをひょいと回す。

「たろうちゃんもうやめよ…おもろないわ!」

私が投げ出そうとした瞬間だった。

太郎が私の頭を平手打ちした。

そして、ボケッ!と叫んで、私の尻に二発、三発とケリを入れた。

さらに、パンチがこめかみの当たりに飛んできた。

私は驚愕して、べそをかいた。

「たろう!!ちょっときいや!」

太郎のおばあちゃんがそれを見ていたらしい。

窓ごしから太郎を大声で呼んだ。

「ちょっと、おしっこいってくる」

と、太郎は玄関の扉を開けっ放して、あわてて家に入った。

私は痛みと涙をこらえながら、恐る恐る家の中の様子をのぞき見た。

玄関を入ると、すぐ右手に和室があった。

中はひっそりとしていて、柱時計のコツコツという音だけが聞こえた。

居間には布団が敷かれてあって、何と太郎のおとうさんが寝ていたのだ。

おとうさんの顔色は悪く、苦しそうに顔を歪めていた。

おとうさんの横には黒い仏壇があって、

誰かの遺影がいくつか壁の上の方に掛けられていた。

そして、お香が焚かれていた。

太郎のおばあちゃんが家にいて、おとうさんの面倒を見ていたようだ。

奥のほうから、おばあちゃんの太郎を叱る声が聞こえた。

私は恐くなって思わず外へ逃げた。

しばらくすると太郎は出てきたが、

何を言われたのか、少ししょんぼりしていた。

私も太郎から怒られたから、しょんぼりしていた。

そのことがあって以来、太郎が私に怒ることはなくなった。

私は太郎のおかあさんが、朝早くから出かけるところを何度も見た。

おかあさんは美人で、いつもきれいな洋服を着ていた。

私は子供心に、太郎がうらやましかったが、

一方では、太郎と不つりあいだと感じていた。

「ぼくのお母ちゃんは銀行、お父ちゃんは国鉄につとめてる」

と、太郎は一度だけ私に話した。

太郎のおとうさんは何か重い病気で、国鉄を長期間休んでいたのかも知れない。

そんな自分の家族のことを、太郎はあまり話したがらなかった。

わたしも子供心に気が引けて、ほとんど聞くことはなかった。

私の家には、太郎のおかあさんが銀行から持ち帰った、

キャラクターの貯金箱がたくさんあった。

太郎がおかあさんからことづかって、うちによく持ってきた。

母はお返しにと、太郎に雑誌から切り抜いたタ○ガースの写真を差し出した。

「あかん!あばあちゃんから怒られる。」

太郎は言って、両手のひらを前に出して首を横に振った。

「じゃあ、こっそりポケットにしまっとき!」

と、私は写真を無理やり太郎の半ズボンのポケットに入れた。

「ほな、ちょっと借りるだけにしとくわ。ありがとう。」

太郎は目を輝かせて、はにかみながらにっこり笑った。

太郎はその日うちで寝そべって、鼻歌を歌いながらずっとその切り抜きを見ていた。

母はそんな太郎がよっぽど可愛かったのか、一日中機嫌がよかった。

妹も太郎になついていた。

太郎は妹にも何かと世話を焼き、

折り紙やぬり絵などを教えていたからだ。

いつも太郎がうちに来たときは、真っ先にテレビのスイッチを勝手に入れ、

ガチャガチャとチャンネルを回した。

ふだんは気の短い母が、

「太郎ちゃんおなかすいてない?」

「太郎ちゃんおやつ食べる?」

と、太郎には私に接する時とまるで違っていた。

私は太郎がいれば、母が優しくなることを知っていたので、

しょっちゅう太郎をうちに入れた。

太郎はたまに夕食もうちで食べていたし、

一泊することさえ少なくなかった。

私にはいまだにわからないが、

両親はきっと太郎の家庭事情をよく知っていたのだと思う。

二つ目は…

夜更けに私の父と太郎のおかあさんが、

腕を組んで帰ってくるところを見てしまったことだ。

二人は私に目撃されたなど、つゆほども感じていなかったろう。

しかし、二人はお互い神妙な顔しながら、何か話していた。

何がきっかけでそんな場面を見てしまったのか、今となっては思い出せない。

このことはもちろん誰にも言ってないが、その夜私はショックで眠れなかった。

そういえば、私は物心ついたときから、

母と太郎のおかあさんが会話しているところをほとんど見たことがなかった。

母は何か用事があると、太郎のおかあさんがいないことを見計らって、

太郎のおばあさんに掛け合っていたような気がする。

今となっては何もわからない。

それにしても、太郎の家庭とうちの関係は謎が多かった。

そして…

家にちっちゃなクリスマスツリーが飾られていた頃だ。

その日私は朝早くから目が覚めた。

父がゴソゴソ何かをやっていたからだ。

「お父ちゃん何やっとん?」

私が聞くと、父は、

「引っ越すんや」と、こともなげに言った。

「何で?」と、私がもう一度聞くと、

「何でもや」と父はそっけなく、

何だか知らないが箱の中身をガチャガチャと触っていた。

私は「いやや!いやや!」とじだんだ踏んで、大声で泣いたが、

台所から飛んできた母から、

「うるさい!泣きなさんな!」と怒鳴られ、強い平手打ちを喰らった。

私は恐怖で顔がゆがんだ。

母は手を腰に当てて仁王立ちしていた。

私の頬には、わずかに水滴がついていた。

私は太郎に、

「うちら引っ越すんやて…」と、

うつむいてつぶやくように言った。

「うん。おかあちゃんからきいたよ。」

太郎は気を紛らわせるかのように、小石を投げながらそう返した。

太郎の目に涙が浮かんで、青洟が口までたれた。

太郎はシャツの袖で顔をぬぐうと、青洟が顔中に広がったが、

「でも、ぜったい泊まりにいくで!」と、強い口調で言った。

「うん!ぜったいやで!」

私と太郎は固く約束した。

引越しの日、

父は荷台を積んだトラックに乗り込み、先に新居に向かっていた。

残った母と私ら兄妹は、親戚のおじさんの車に乗り込んだ。

太郎は、

「たっちゃん、おばちゃん、ぼくぜったい泊まりにいくから!」

「忘れんとってや!」

と、車の窓越しに大きな声で言った。

私は涙が止まらず、ブルブル震えるだけで何も返せなかった。

母も両手で太郎の手を包み、シクシク泣いていた。

結局はこれが太郎の最後の言葉になった。

後を振り返ると、太郎は手を振るおばあちゃんの背中に身を半分隠し、

私をじっと見つめていた。

太郎が泣きもせず神妙な顔つきで、小さく手を振っている姿が涙でにじんで見えた。

引越しして間もない頃だったと思う。

太郎の訃報を母から知らされた。

母は、ワーッ!とものすごく大きな声で泣いていて、

わけのわからない幼い妹もそれにつられていた。

私は、泣き叫ぶ母と妹を呆然と見つめていた。

たぶん、『死』というものにまだピンときていなかったかも知れない。

私らは一家で太郎のお葬式に参列した。

近所の人たちや幼稚園の先生など、大勢の人たちが参列していて、

シクシク泣く声と、読経の声が入り混じっていた。

まだ昼にもなっていないのに夕方のように暗く、

パラパラと雨が降り出した。

太郎の小さな棺が家から出てきた。

私は思わず母の手を振りほどこうとしたが、

母から、「アカン!行ったらダメ!」と耳元できつく止められた。

出棺の時は雨が本降りになって、黒い傘がいっぱい開いていた。

夜になって、私は寝間で母にたずねた。

「たろうちゃん、あれからどうなったん?」

「天国にいったんやで」

「箱に入れられて?」

「ちがう。あのまま焼かれたの。」

「えっ!?あついやん!」

「人は死んだら、あつくないねん。焼かれて骨だけになって、

お墓の中に入れられるんやで。」

「お墓の中、暗いやん。」

「………そうやなぁ」

「じゃあ、天国って?」

「お骨はお墓にあっても、たろうちゃんは天国に行けるんよ…」

「いい子やったから」

「悪い子は天国にいかれへんの?」

「そうや」

「じゃあ、どこへいくん?」

「悪いことしたら、地獄へ落とされて、ずっと苦しむねん」

「ずっと、ずっと…」

母の声は涙で震えていたが、

死んだらどうなるか、私にわかるように説明しようとしていた。

私は布団の中にもぐると、太郎の顔が暗闇の中に浮かんだ。

『死んだら骨だけになる…』

私の頭の中は恐怖と太郎への哀れみが入り混じり、

大粒の涙が出てきて、大きな声をあげて泣いた。

泣きつかれていつの間にか眠っていた。

私が会社から帰ると、

太郎は私の部屋にしばしば現れた。

現れたかと思えば、すぐいなくなる。

話もしてくれないどころか、声も発しない。

私はお香を焚いたり、タ○ガースのCDを鳴らしたり

いろいろ試したが、変化はなかった。

太郎は寂しそうに何か言いたそう…

太郎がなぜ今になって現れるようになったのか…

私は意を決した。

私は生まれ育った故郷に向かって走る電車の中にいた。

穏やかな春の日差しが町全体を包んでいた。

駅の改札を出て、外に出たらあまりの変貌に驚いた。

私はぼうっとたたずんでいた。

前から自転車に乗った坊主あたまのおじさんとぶつかりそうになった。

「きぃつけんかい!アホンダラッ!」と怒鳴られ、

「スンマセン!」と言って謝った。

駅前のコンビニでは、上下のジャージを着たヤンキー達が

店前でラーメン食ったり、コーラ飲んだり、タバコ吸ったりしていた。

あれだけ沢山あったホルモン焼屋とかお好み焼きの赤提灯が見事になくなっていたが、

何となく人々の気質は変わらないなと思った。

駅から高架に沿って歩くと、左手に床屋があった。

昔からあったわけではないだろう。

床屋は『死の階段』の真ん前にあった。

さすがに、『死の階段』は取っ払われて、

レンガ塀の上にさらに高い塀が築かれていた。

私は何となくホッとした。

お供え物は何もなかった。

そして、太郎の実家があるかどうかの情報もないまま、

いよいよ細い路地に入っていった。

路地に人の姿はなくひっそりとしていて、

自分の靴音がよく聞こえた。

キョロキョロ見回すと、昔からの表札も数軒あった。

私の生家は両隣とともに壊され、

こじんまりしたマンションになっていた。

太郎の実家は昔とまったく同じ位置にあった。

表札があったので、間違いないと思った。

もう昔の面影はなく、小さいが二階建ての

洋風モダンな作りの家になっていた。

私はもう意を決していたのでわだかまりはなく、

心を落ち着かせてインターホンを押した。

ドキドキして唾液がかれていくのを感じた。

家の中からかすかに人の動く気配がして、ドアが開いた。

そこには、白髪をきれいに整えた老婦人が怪訝な表情を浮かべて、

「はい。どちら様」と聞いた。

私は迷わず、

「こんにちは。ご無沙汰しています。あの…だいすけです。○○だいすけです。」

老婦人はまだ表情を変えなかったため、

「僕、たろうちゃんから、たっちゃんって呼ばれていました。」

と、私は照れながらもはっきりと言った。

老婦人の表情が一気に緩み、両手を顔に押し当てて泣き出した。

太郎は二階の仏間に祭られていた。

清楚で上品な黒檀の中央に太郎の遺影があった。

おかあさんは、私がお香を焚いて拝んでいる間、斜め後で正座していた。

振り返ると、おかあさんの横には、古びたアルバムが置かれていた。

「あんまり、びっくりさせんといて…たっちゃん…すっかり立派になって…」

おばさんは言葉にならない様子だった。

「おばさん、今までごめんなさい。僕、たろうちゃんが気になって…」

「何言うてるの…太郎きっと、飛び跳ねて喜んでるわ…」

「太郎にはたっちゃんしかおらんかったんよ!」

「他には誰とも遊んでなかったんやから…」

おばさんは涙が止まらない。

私にも大粒の涙があふれ、おばさんと抱き合って二人で嗚咽した。

私とおばさんは、

古いアルバムを見ながら、太郎の思い出話に時間を忘れた。

驚いたのは、アルバムは一冊にまとまっていたのだが、

1ページ目は生まれた頃の太郎、最後のページは死に顔の太郎だったことだ。

おばさんは、太郎がああなったのは自分のせいだと言っていた。

だからそれを忘れないように太郎の死に顔を写真に撮り、

いつでも見れるようにアルバムをそばに置いているらしい。

おじさんは病弱だったし、姑にはいつもいやみを言われ、嫌がらせを受けていたという。

だから家の中はいつも暗く、自分も太郎も家にいるのがいやだったと、

その当時の心境を語った。

そしておばさんは、

「私ってね、自慢やないけど、若い頃は色んな人から声がかかったの。」

いや、自慢ではない。れっきとした事実だ。

当時のおばさんは近所の人や母などとはまったく違っていた。

本当に美人だった。生活感がなかった。きっと、当時の繁華街が似合っていたのだと思う。

「あの当時はね、景気がよくて会社が終わってから、色んな人と遊びに行ってたんよ。

だっていつも家におばあちゃんはいるし、太郎はたっちゃんちに入り浸りやったでしょ。

声がかかると、ハイハイってしっぽ振って、飲み屋さんとか、ダンスに付き合ってたんよ。

いつも酔っ払って家に帰ってたわ…

だからね、ばちが当たったの。お父さんも太郎もほったらかして…最低最悪よ。

太郎にはね、何にも買ってあげなかった。自分の洋服や化粧品ばっかりに目が向いてしもてね…

いっつもあの子、洟たれて汚いかっこしてたでしょ…

たっちゃんちにもほんまにお世話になったのに、おばちゃん何にもできなかった…

ひでおちゃん(父)やあんたのお母さんにも合わせる顔がないわ…

太郎がああなって、その後お父さんがすぐ逝って、最後はおばあちゃん…

うちってね…若い順から逝ってしまうんよ…私が一番悪人やのに、今も生きてんのよぅ…」

と、おばさんはがっくりうなだれて、また嗚咽しだした。

私はおばさんにかける言葉がなかなか出てこなかったが、

「それはそうかも知れませんが…おばさんがいたから、おばあちゃんはおじさんの面倒もみれたんやないですか?

たろうちゃんだって、お母さんのこと大好きでしたよ…」

おばさんは涙をふきながら、

「もう今となっては後の祭りよね…

太郎はね…

たっちゃん何て聞いてるか知らないけど、あの階段上りきった時に運悪く特急が飛んできたの。

風圧で飛ばされたんよ、高架の下に頭から落ちたんよ…

しばらくの間は意識があったんやけど、頭を強く打ってたから…夜中に急変してね…」

私は太郎の死因をくわしく聞いてなかった。

両親も話そうとはしなかったのだ。

『そうだったのか…』

おばさんは続けた。

「たっちゃん…」

「は、はい…」

「太郎が意識はっきりしてるときにね…たっちゃんにこれ返してほしいって…」

おばさんは小さなポートレートを私に差し出した。

それは、5人のタ○ガースが写った雑誌の切抜きだった。

その白黒写真は黄ばんで、折り目が白くなっていて、

四つ折にしていたことがすぐわかった。

太郎はずっと半ズボンの後ポケットに忍ばせていたのだろう。

ジュ○ー、ト○ポ、サ○ーらが、ニッコリ笑って写っていた。

私はもう涙が涸れていると思っていたが、またまた大粒の涙にハンカチを濡らした。

「最期はね…おかあちゃんごめんな…たっちゃんごめんな…って、うわごと言いながら、眠るように亡くなったんよ。」

おばさんは、葬儀が終わると、先祖代々が眠る墓地に太郎を埋葬したこと、

会社帰りの遊びを一切やめ、真っ先に帰宅し、まじめに家事もして、おじさんとおばあちゃんを見送ったこと、

仕事をほとんど休まず、女性でありながら銀行の管理職にまで登りつめたことなど話していた。

そして、自分が負けそうになった時は、必ずあのアルバムを見ていたそうだ。

おばさんは、

「楽しいことや嬉しいことばっかりあったら、必ずその裏で誰かが苦しんでて、最後には自分に帰ってくるんやわ。それが私の人生よ。」

と、自分に言い聞かせるように言っていた。

おばさんは、私が来たことで少し救われた、本当に会えて良かったと、言ってくれた。

私は『死の階段』があった場所をもう一度横目に見ながら、駅への道を高架沿いにゆっくり歩いていた。

今日一日、私の心は洗われた。もう迷いはなくなった。太郎のおかげだ。

これからもおばさんとは電話で話したり、時間が合ったら会おうと約束してお暇した。

私はこれから変わる…自分が正しいと思った道を歩くことにする。

もう夕方が近かったが、暖かい春風がフワッと吹いて柳が揺れた。

心身ともに心地よかった。

帰りの電車に乗り込むと、窓から故郷の風景が見渡せた。

電車のドアが閉って、電車が動き出す…電車がスピードをあげる…

『死の階段』付近を通り過ぎた。

太郎を突き落とした風が吹いた。

線路際に群れて咲く青い花がサッと揺れた…

あの花、たしか太郎といたときによく目にした。

太郎が教えてくれた…

忘れた…

何だったか…?

そういえば、おばさんは最後に気になることを私に言った。

「私ね…太郎が亡くなった日は日曜日でね。ずっと家にいたの。それで、今日こそ太郎とどっかに出かけようと思って、太郎を誘ったんよ。

そしたら太郎が今日はダメって私に断ってきたんよ。何で?ってきいたら、今日は友達と約束してるっていうじゃない!

おばちゃん思わず、友達ってだれ!?ってきいたのよ。そしたら、たっちゃん!って言ったと思ったら、ウソって言ったのね。

太郎が靴はいて出かけようとしてたから、正直に言いなさい!って叱ったら、ナイショ!ヘヘヘッって笑いながら外へ飛び出していったんよ。それがあの子と最後の会話やったわ。

おばちゃんね、警察から事情聴取されたときに、そのこと言ったらね…

太郎君は一人で遊んでて、一人で階段を上って行ったって、近所の人の証言がありますよっていわれたの。私おかしいと思ったから、近所の人らに聞き込みしたんよ…

そしたら驚いたの。太郎あの子、ずっと一人で遊んでたって年長の子供らが証言したんよ。

たっちゃんどう思う?私この40数年間そればっかり考えてた…」

私は明らかに違和感を覚えた。

「たろうちゃんは普段から、たまにはおかあちゃんとデパート行って、お子様ランチが食べたいって、

よう言うてましたよ。たぶん、お母ちゃんの誘いを断る理由なんてなかったと思いますよ。もし、友達のドタキャンがあったんやったら、絶対おかあちゃんと出かけてたと思いますよ。」

私はそう証言したが、謎は深まるばかりだ…

おばさんは

「友達って誰のことやったんやろ…?」

「…………………………………………」

町の風景が変わっていく…

ジュー、ジュー、ジューと鼻息が聞こえる…

風景を見つめる私の横に…

いつの間にか太郎がいた…

「あの花はな…ひな菊や…たっちゃん…」

電車がスピードを緩め、次の駅のホームにすべりこんだ。

(終)

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん  

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