くもりの日は哲学に耽っているから、声をかけても返事がない
――へえ。
「どんな人なんだ」という俺の質問に対する親友のその返答を聞いても、まったく人物像は浮いてこなかった。
いま思えば、その一言が『彼』という人間を端的に表していた。飄々としていて、笑顔を絶やさない。ともすれば何も考えていないように見えるし、つねに何かを模索しているようにも見える。
ふとした瞬間、恐怖すら覚えるほどの冷たい眼光を放っているときもある。その瞳の奥でなにを捉えているのかはわからない。少なくともそれを知りたいとは思わなかった。
心底を覗かせないその奥深さが、彼の大きな魅力となっているのだろう。
才度絶倫。冴えわたる夜気に似た鋭い感性は、対する者に覚えのない焦りを生じさせる。
俺の師、九間さんだ。
単純に興味本位で、『くもりの日説』に関して九間さんに問うてみると、また別の扉が開いた。
「晴れている日は、無性に走りたくなる」
どこをですか、という俺の質問を聞いて、九間さんはふふ、と笑った。
「面白い質問をするな、君は」
ひとつ息をつき、かすかに遠い目をして一言、
「べつにどこでも」
誰もいない空間にほうった。あのときの九間さんの瞳には、底なしに深い憂いが秘められていたような気がする。
もう三年以上前のことだ。
九間さんは、色覚と記憶が結びついている。ある特定の色をみると、それに呼応するようにある特定の記憶が甦る。
特定の色といっても実際には複雑で、対象の材質や陰影の濃淡、時間帯にも影響されるため、記憶を呼ぶ色と出会うのは極めて稀らしい。
色と記憶は完全に一対一で、呼び起こされた記憶は鮮明に脳裡を駆け巡る。
その間、すべての感覚が記憶のなかの自身に投影され、現実における行動の余地を奪われる。時間にして十秒ほど。
その特殊な状態を九間さんは『とぶ』と表現する。つまり別世界にとばされる、という意味だ。
とんでいる最中の九間さんは、まるでなにかに取り憑かれたように意味不明の言葉をつぶやく。白目を剥いて、顎をがくつかせながらのたうちまわる。
――今回も無事とびおえたようだ。
肩を上下させているのは九間さんだけではなく、必死に抑えこんでいた俺も、九間さん以上に息を切らせていた。
「……すまん」
白い顔をして俯きながらいう。草庵のまわりはさらさらと柔らかい雨音に包まれている。
「那波、おまえに話しておきたいことがある」
「なんですか」
「いいから、……坐れ」
九間さんが、完全に息が整っていない状態で、それでもなお気迫のこもった声でいう。
「俺の過去だ」
「過去……ですか」
鍛練の日々も積もりに積もって、気付けば四度目の春を迎えていた。
師の、秘められた過去の告白だった。
明日が祝日で休みということもあり、夜晩くまで粘ってレポートを片づけていた。
実験物理に興味はないが、だからこそいま経験してしまうことに意義がある。最終的には理論物理への道を進みたいと考えているものの、完全にそう定まったわけではない。
実験テーマは使い古された陳腐なものばかりだが、これが最前線の研究ともなれば違うのだろう。
抽出された厖大なデータを比較検討し、理論の精密さを裏付ける。そもそも理論の正しさを証明するための実験なのだから、データを正確に採ることは最低限必要なことと同時に奥義で、それに関して教授が口をすっぱくするのも頷ける。いまだって骨の折れる誤差算出のために、馬鹿みたいにひたすらキーボードを叩いている。しかし、だ。
――ほんとうにこれが今やるべきことなのか。
そういった感は拭えない。
自分は自分のことをよく知らない。まだ隠された道があるのではないだろうか。進むべきほんとうの道が。
太い息をつく。それはテレビの放つ雑音に混じって不快な余韻をのこした。
時刻はすでに午前三時をまわっており、眠気のせいでうまく頭が働かない。こんなレポートに頭を使う必要などないか、と自嘲気味に笑った。
ブラックコーヒーを一口啜りテレビ画面に目を移すと、なにやら盛り上がりに欠ける地方番組。
深夜の重苦しい空気のなか、さらにこのような陰気な番組をみていたら鬱になりそうだ、そう思ってリモコンを手に取りチャンネルを換える。
(お笑いでもやっていないかな)
淡い期待を抱くも、ほかは通販などのつまらない番組ばかり。賑やかなのはそうだが、こちらが求めている賑やかさではない。ただ喧しいだけだ。
音楽でもかけることにした。
歌詞のあるものだとどうしても集中が散漫になるから、FF XIIIのサウンドトラックを耳に障らない程度の音量で流す。 当然テレビを点けておく必要もないので、電源ボタンをおして喧騒をたち切った。
テレビ画面はたしかに黒塗られ、赤色のランプが点灯し待機状態に入ったはずだったのだが。
間を置かずに再びテレビが点いた。
すでにレポートに向かいあっていた俺は、異変を察知し俯いたまま固まる。
小さいころから、電化製品の放つ奇音には敏感だった。とくにその音が顕著なのが、テレビだ。
実家でテレビの点いている部屋の前を通り過ぎると、聴力検査のときに聞こえてくるような音がする。家族にそのことを訴えても、そんな音は聞こえないと相手にされなかった。モスキート音のようなものなのだろうか。
――ピイィィィィ
久しぶりに耳にした気がした。ブラウン管から液晶に替わって以来、とんと聞いていなかったのだ。
ゆっくりと顔をあげテレビ画面を見ると、さきほどの地方番組が無音で流れていた。
悪寒。
ひとりでにテレビが点いたこと。チャンネルが切り換わっていること。そして、音がなくなっていること。
只事ではない、それはこれからの俺の人生を大きく左右するほどの運命的な予感を孕んでいた。
テレビ画面を凝視する。知っている土地だ。赴いたことはないが、ここから電車に乗って二時間もかからないだろう。 釘を打たれたように画面から目を逸らすことができない。むしろ、逸らしてはいけない気がした。
手前にいるリポーターのむこうには小さな灰色の鳥居。
その鳥居をくぐってこちらに向かってくる女。徐々に接近してくる女は、その状況から考えて明らかにこの世のものではなかった。
なにかに深く腰かけているような格好。背筋をぴんと伸ばし、顔はまっすぐ前方を見据え、画面に対して横向きに漸近してくる。
視線を合わせたままではわからない。一瞬ピントをずらし、再び合わせると、そこで初めて女がこちらに近付いているのがわかる。
もちろん椅子などがあるわけではない。空気椅子をしているように宙に腰を浮かせながら。
着物の裾から力なく垂れ下がった白い足がみえる。両手は膝の上におかれ、肘の部分をゆるやかに折り曲げている。
うなじから腰にかけての曲線は、はっとするほどうつくしい。艶かしくひるがえる黒髪は、色白の肌との対比でひときわ濃い闇に染まっている。
どんどん女の姿が大きくなる一方、リポーターはまぬけな顔で、おそらくはあの鳥居の解説を続ける。
画面の左半分をリポーターが、そしていまや右半分のほとんどを女が占めていて、鳥居は拡大する女に侵食され、覆われた。
取材陣にはあの女が一切みえないのだ。
俺以外の視聴者にはみえるのだろうか。それ以前に、これは現実なのか。現実ではないとしたら、どこまでがまやかしなのだろう。あの女か。この番組自体か。いや、ひょっとしたらこれは夢なのかもしれない。
いよいよ首から下は画面の下端に切り取られ、リポーターの文字通り目と鼻の先に、女の横顔が陣取る。その時点で漸近は止まった。
画面半分を覆う女の横顔は、想像を絶するほど妖艶だった。息をするのも忘れて食い入るように画面を見つめる。
髪のかかった左耳が、消え入るように白く、儚げに咲いた花のよう。
小指のさきにつけた青を、大量の白に加えたような色の頬。弱々しいあご。
ふっくらとした唇は鮮烈に赤く、低くも高くもない鼻筋が全体の印象を端正なものに仕立てあげている。
長めの睫毛はわずかに反りかえり、細い眉の描く曲線が、さきほどの首筋から腰にかけてのものと完璧に重なりため息がこぼれる。
女は空を見上げていた。はっきりと確認できたわけではないが、瞼の際がかすかに持ち上がっているのをみても間違いないだろう。
――まばたき一つしない女の左目はなにを捉えているのだろう。
雪原を彷彿とさせるその青白い横顔は、いたずらにうるさいものではない、もっと静謐としたなにかを。
いつのまにか、女が真正面を向く瞬間を恐れている自分がいた。左半面はそれこそ絶世の美女だ。その事実が、女と正対することによって崩れてしまうのがとてつもなく恐ろしい。
どうして横向きのまま。
右半面がどうなっているのかは考えたくなかった。
すると、リポーターがさりげない仕草で自分の左頬に手のひらをあてがい、顔をしかめて左方を見つめる。さぐるような目線をテレビクルーに投げかける。
鼻息でもかかったのだろうか。
そこで映像は途切れ、何事もなかったかのように画面は再び黒塗られた。
もう一度テレビを点けることはしなかった。このときすでに、俺のなかで確信めいたものが芽生えていた。
――あの地に向かわねばならない。
コーヒーカップを手に取る。黒々と湛えられた液面に、あの女の横顔が映った気がした。
恐怖はそれほど感じなかった。人生の岐路に立たされているような緊迫感が、澱のように重々しく胎の底に沈殿している。
結局深い眠りにつくこともできず、簡単な朝食を済まし早々に家を出る。
外はまだうす暗く、むこうの空の藍色が白み始めている。
あの窈窕たる女を拝んだあとでは、行き交う人々におし並べて差異がないように思える。老若男女の別なく、とるに足らない凡庸な輩に見えてくる。
霧を払うように頭を振る。今日は長い一日になりそうな予感がした。
重い足取りで駅へ向かう道を歩いていると、前方に人だかりができている。
遠巻きから覗いてみると、密林のように視界を遮る群衆のはざまから、撃力によって崩壊した人体が転がっているのが見えた。
飛び降り自殺だった。
目をかっと見開いたまま事切れていた。
彼は死に際に一体なにを目撃したというのか。あるいは、その瞳になにを刻んだのだろう。
地面にうずまったかのような躰からは信じられない量の血液が溢れだし、それとアスファルトの境目ににじり寄ってとりかこむ観衆が、ただ目を丸くして死体を眺めている。
少なくとも、ふさわしいとは思わない。無残な死体を前にして、それがふさわしい行動だとは思わない。
――ふさわしいって、なんだ。
ほんとうは、他人の死などどうでもよいのだ。 興味があるのは、他人の死を目撃した自分であり、それをいかにも悲痛めいた表情で友人に語る自分。
ふさわしい行動などというものは、世間体に執着した結果の産物に過ぎない。それはそうだろう。世間体こそ自らの社会的地位を確立しているのだから。
正直、どうでもよいのだ。興味がない、関心がない。赤の他人に同情する余地などないのだ。
――そうじゃないだろ。
人はもっと尊くて、ぬくもりがあるはずだ。
どれだけ他者の痛みを推し測ろうとし、その呻きに耳を傾けるか。それこそ、人として許された尊いおこないであり、それゆえ人は尊いのだ。きっと。
結局、あとは自分自身の価値観に委ねるしかないのか。
自分の信じた道を選択し、突き進む。
人生を歩むうえで、最良の選択などというものはない。いつだって、選んだ道を全力で進むことしかできない。
でも俺は。俺は心のどこかで、きっと自分にとって最適の道があると信じ、踏み出せないでいる。
――ああ、畜生。
たちこめる死の匂いで、胃に治まる朝食が悲鳴をあげる。いつまでも死体のそばで悶々としているわけにもいかず、なにか変に後ろ髪を引かれるような気分でその場を立ち去る。
立ち去ろうとした。
「九間さん」
背中に声をかけられる。自分の名が呼ばれたことにやや遅れて気付く。一瞬気のせいかとも思ったが、鼓膜を震わす余韻はたしかに自分の名が呼ばれたことを告げている。
おもむろに振り返ると、そこには見知らぬ青年が立っていた。蛙みたいに口をへの字に曲げ、腰をくねくねさせている。
「九間さん」
返事をする気にはなれなかった。人を小馬鹿にするような表情をしていたからではない。この青年の発する気配が、なにか獣染みた、人とは別次元を生きているような、得体の知れない違和感を抱かせたからだ。
その青年の周囲だけ、空間が奥まっているというか、陰が濃い。
「おまえも――を眺めて死ぬのだろう」
へっへっへ、と不気味に笑う青年は、一呼吸おくと死体のほうを指差した。つられて視線をむけると、ぶつぶつと全身が粟立ち、みぞおちの辺りに穿たれたような衝撃が走った。
死体がこちらを睨んでいた。
顔面の大半が潰れ毛の生えた肉塊と化しているなか、かろうじて原型を保っている左目がじっと俺を見つめていた。どぶ川のように濁った瞳。
途端に強烈な吐き気を催し、たまらず視線を逸らす。
「彼もまた、くらげの餌食になったのだね」
青年を見ると、翳りがよりいっそう濃くなり、目の周りにどす黒い隈が浮いている。
両の瞳が口元とは対照的に笑っておらず、夜陰に紛れて狩りをする梟のようにぎらぎらと光っている。決して形容ではない。実際に、両目から白光が漏れだしているのだ。
まるで獲物でもみるような目つきで俺を睨む。
ほとんど逃げるようにその場を立ち去った。人でもなく、その成れの果てでもなく。なにか人智を超えた邪悪なものと対峙しているようだった。それだけではない。
あの青年はたしかに敵意を剥き出しにしていた。しかし彼の邪念を上回る絶大な力が、ぎりぎりのところでその敵意が行動に変わるのを抑えつけている。その抑止力を仮に檻とするならば、青年はその檻に囚われた猛獣とでもいうべきか。
青年の言葉が鼓膜にやきついて離れない。
『くらげの餌食』。
自殺した男性は、その『くらげ』とやらによって死に追い込まれたのだろうか。ならばその『くらげ』はあの青年か。いや、そうではないはずだ。
『彼もまた、くらげの餌食になったのだね』。
青年もあの自殺者と同じように、『くらげ』によって殺された?
――まて。青年は死んでいるのか。
その確たる証拠はないが、十中八九生きてはいないだろう。これは直感によるものと言わざるを得ない。
『彼もまた』。
ほかにも犠牲者がいる? その犠牲者のなかに青年は含まれるのか、含まれないのか。
あまりにも謎めき過ぎている。
赤く点灯する歩行者用信号機を眺めながら眉をひそめた。
自分でも情けなくなるが、さきほどの青年が跡をつけていやしないかとちらちら背後を確認する。幸い不審な影は見当たらず、信号が青になるのを待つ人間ばかりだ。
日常に潜む影が、音もなく這い出てくる。そんな不穏な気配が漂っている。
世界の違う側面が姿を現し始めている。それは俺の心境の変化による錯覚か、それとも。
とんとん、と肩を叩かれた。
右隣をみると、そこにはスーツを着た中年の男性。禿げが目立つ頭頂部に思わず目がいってしまいすぐに視線を逸らす。
「長いですね。信号」
「そうですね。……はい?」
「いやだから。信号がなかなか変わらないな、と」
そういえば。もう五分以上経っているはずだ。
「ところで、あなたはどの色が好きですか」
「……色?」
「そうです。信号機の三色のなかで」
変な人に絡まれたな。
困惑しているのを悟られないように、はたまた周囲の人間に助けを求めるように、背後をみて。
顔をしかめる。
――替わっている。
明らかにさきほど背後をみたときと、人が入れ替わっている。
一度も信号は変わっていないはずだ。青から赤に。そのまま変わっていない。背後に群がっていた人々もここから動かないはず。
「何色が好きですか」
微笑みながら問いかけてくる禿げ頭。まるで七福神の恵比寿天みたいだ。
幸せなときにみればさぞ気持ちの良い笑顔なのだろうが、今は不気味にしかみえない。
「うーん……よく分からないです」
適当にあしらうことにした。
信号は変わる気配をまったくみせない。
いい加減いらいらしていると、今度は服にシワが寄るほど強く、右肩を掴まれた。思わず「ひッ」と悲鳴をあげる。
「答えるまで、青にはなりませんよ」
さきほどと一切変わらない笑顔だが、気配に殺気が混じっている。しかも、肩を掴んだまま離さない。
「離してください!」
振り払おうと肩を揺らすも、微動だにしない。尋常ではない力に恐怖を覚える。恵比寿天の瞳が、白い光で一瞬ぎらつく。
「わかった! ちゃんと考えるから手を離せ!」
吠えるようにいうと、そこでようやく手を離した。それでもまだ、掴まれた感触はありありと残っていた。
獣のように荒い呼吸をなんとか鎮め禿げ頭を睨むが、感情のみえない瞳で見つめ返され逆にひるんだ。
信号機の三色。赤、黄、青。俺はどの色が好きなのだろう。
赤。
否定的なイメージしか湧かない。没。
青。
かなり好感をもてる。『進め』という指標であることからも、前向きな印象を受ける。
しかし、自分には合っていないなと思う。より正確には、今の自分に合っていないというべきか。
そこまで俺の人生は視界が開けていない。ゴーサインを躊躇いなく受け入れられるほどの勇気は持てない。保留。
黄。
なぜ歩行者用の信号には黄色がないのだろう。
なにか自動車に向けられた特別なメッセージでもあるのだろうか。
そうでないのなら、自動車用の信号も同じように二色にすればよいのに。赤に変わる直前は青を点滅させればよいではないか。
黄色のほうが目立つからか。そうかもしれない。
しっくりくるものがあった。
黄色は、今の自分にぴったり合っている。
この世界に自分の立場を、存在意義を見出すことが出来ずにいる。浮浪者のように、あてもなくさまようばかり。
ちょうど、赤と青を行ったり来たりしている黄色のように。いや、行ったり来たりというのは間違いか。青から黄、そして赤となり、次は黄を挟まずいきなり青。
中途半端だ。二色でも事足りるのに。
なぜ自分は存在しているのだろう、このカオスな世界に。
「黄色……ですかね」
「ほうほう。……そうですか、黄色ですか」
「あなたは、どうですか」
「断然、青です。気持ちがいいでしょう。みていると落ち着くしね。……ほら、青になった」
みると、信号機は青く点灯していた。
――急いで渡らなければ。また世界が転がる前に。
すでに恵比寿天の姿はなかった。
電車に揺られながら、立て続けに起こる怪奇にあらためて寒気を覚える。
青年と恵比寿天。なんの意図があって俺に話しかけたのか。なぜ俺の名を知っているのか。
あれは確実に生きている人間ではない。少なくとも生と死にとらわれてはいない。しかし、『そういうモノ』とは生来無縁だった俺には困惑しかなかった。
――やはり、あの女か。
あの女が俺になにかしらの影響を及ぼした。それが引き金となって、見えなくていいものまで見えてしまっている。
では、なぜ。
なぜ俺が選ばれ、なぜこの特異な能力を授かったのか。
真実は、あの地に眠っているのかもしれない。そしてその真実を知ることが、俺に課せられた使命のように思えた。
久しぶりに感情が昂ぶっている自分に気付く。
知りたい。
その純粋な欲求は意外にも得難く、それゆえの昂揚だろう。もはや失われつつあった衝動だった。
車内には陽の光が射しこみ、暖かな空気に充たされている。うつらうつらする童子、目を細めて過ぎ去る景色を眺める婦人。
吊り革に体重をあずけていると、不意に強烈な眠気に襲われた。そういえば、昨日からほとんど寝ていない。
睡魔との一騎討ちにあえなく敗れ、まどろみから深い闇へと落ちていった。
暗い淵の底から陽の射す水面へと浮上してくるその過程で、ふと、ぬらぬらした粘膜のようなものに顔半分を覆われているような感覚に見舞われる。
その粘膜は、いくら掻いても指の間をすり抜けるだけでとり除くことができない。
次第に息苦しくなり、口から気泡が漏れる。
――はやく空気を……
めちゃくちゃに手足を動かすものの、浮かぶのではなく逆に沈んでいく。
苦しい。酸素が足りない。全身の細胞が一斉に苦悶の声をあげる。
『このままでは死ぬ、はやく酸素を』
とうとう限界を超え鼻から空気をとりこもうとするが、代わりに入ってきたのは水だった。海水が肺へ送りこまれようとするも、体が拒否反応を起こしすぐに吐き出す。
その反動で思わず呼吸してしまい、また水をとりこんでしまう。
苦しい、壮絶な苦痛。体内が水浸しになってゆく。
――あなたは、すべての命の母ではないのか。
薄れゆく意識のなかで暗い海の底を見下ろすと、そこに幻想的な光景をみる。
俺は、みたことがある。太古から、人はこの景色に胸打たれ、その感動を後世に投げかけてきた。
海底を漂う一匹の巨大なくらげ。それは上からみると、まるで――
「……ごっひゅッ――オエェ!」
目を覚ますと、足元に水たまりができていた。汗か、涙か。まさか、失禁したのか。なんだこれ。
突如現れたその水たまりを踏みつけている二対の骨張った素足。
わずかに目線をあげると、老人が至近距離で覗きこんでいた。背丈は俺と同じくらいか。
「悪い夢を、みられたようだ」
視界が涙か何かで霞んでいて、意識が朦朧とし、混濁している。老人の言葉も遮音されたように籠っている。
いやにリアルな夢をみた。まさに溺死した気分だ。手足も痺れていて、衣服も豪雨にうたれたようにびしょ濡れだった。
ひとつひとつ確かめるように呼吸する。ときおり咳き込みながら、自分が空気に充たされた地上に足をつけていることを再確認する。
「俺は……寝ていた」
自分でも意味不明なことを呟いているのがわかった。だいぶ意識は回復しているようだ。
「そう、寝ていた。しかしあまりにうるさく喚くもんだから、肩を揺すってみたのだけど、これが起きない」
「なんで、……こんなびしょびしょなのか……なにが起きたのかさっぱり」
「目覚めることができたのなら、それは不幸中の幸いでしょう」
吊り革から手を離そうとすると、なにかが俺の手を覆っている。重い頭を持ち上げて見ると、老人が、吊り革を握る俺の手に自分の両手を重ねていた。俺がそのことに気付くと、老人はすっと両手を離した。
微笑みながら俺を見つめる。なんだか無性に腹が立つ。
「それは息苦しかったでしょう。ささ、こちらへ」
促されるまま近くの座席に腰を下ろす。となりに老人が坐った。
「夢など気になさるな。所詮はまやかし」
辺りを見渡すと、人子ひとりいない。祝日だというのに、このがらんどうぶりは異様な光景としかいいようがない。また異世界に迷い込んだか。今日三度目だ。
「夢から覚めないまま死ぬ人間もいるのですよ。この世界に住む大半の人間がそうでしょう」
無言で睨みつけた。すると老人はこれもまた癪に障る笑い方をすると、ふっと息を吐き俺に向きなおった。
「冗談ですよ。……なにかいいたそうな顔をしていますね」
「あなたはすでに死んでいる」
「……どうしてそう思われるのかな」
「理由なんかどうでもいい。俺がそう感じたのだから」
「いやいや、それは立派な理由ですよ。はて、どうでしょう。あなたは生きていますか」
「当り前でしょ」
間髪入れずにそう答えたが、よく考えてみると、ほんとうにそうなのか怪しくなってくる。
さきほどの夢のなかでも、俺は一度死んだような心地がした。そしていまこの空間も、夢のなかのように不可解で溢れ、混沌としている。
俺はほんとうに生きているのか。
「私は私の世界で生きている。あなたの世界とは越えられない境で仕切られているけれど」
「……『くらげ』ってなんのことですか」
老人の目が丸くなった。その微妙な変化は見逃さなかった。
「その答えを知るには、私の質問に答えていただかなければなりません」
きた。またこれだ。一体なんのたくらみだ。
しかし反抗したところで結果はみえている。ここは考え方を換え、『彼ら』のいうことを素直に聞きいれてみよう。抗おうとするからそこにストレスが生じるのだ。
あきらめ混じりの視線を向けると、老人は満足げに頷いた。
「人間には『四苦』と呼ばれるものがあります。すなわち、『生苦』、『老苦』、『病苦』、『死苦』の四つです。このなかで、あなたがもっとも恐ろしいと思うものはなんですか」
おや、と思った。これは一度考えたことがある。もちろん、自分なりの答えも出ている。
「『生苦』だと思います」
「ほほ、これほど返答が早いとは。……なぜそれを選んだのだろう」
「生きていなければ、ほかの三苦を味わうこともないでしょう」
老人は難しい顔をすると、こっくりと頷き、再び俺を見た。
「素晴らしい解答だと、私は思います。……しかし、あなたには見落としていることがある」
「……なんですか」
「人は、死んでそれで畢わりでしょうか」
質問の意味がわからない。死んだら終わり、これに間違いはないはず。
――では、目の前のこいつは何だ。
「死の苦しみは計り知れない。しかしそれも、いうなれば『生苦』の一部でしかない。『死苦』のほんとうに意味することとは、自らの人生が畢わったあとに待っている世界を指すのではないでしょうか」
「その世界で受ける罰を恐れると」
「そうかもしれない。しかしほんとうの苦しみは、べつのところにあるような気がします」
「べつのところ」
「畢わりのない、世界です」
それは、生まれ変われない、ということだろうか。
「その苦しみは、ごく一部の魂が味わうことになる。永遠に続く苦痛です」
「ごく一部。それはどのような」
「……人間を見ていて思う。ほんとうに恐ろしい生き物だと」
星の数ほどの人間が、それぞれ心中に別個の思想を抱き、生きている。恐ろしいと思いませんか。
誰しも心の奥底で、ほかの誰かを憎み、蔑み、嘲笑っている。それを何食わぬ顔でひた隠しにして生きている。恐ろしいとは思いませんか。
ときには殺意さえ沸くこともある。あいつを殺してしまえばどんなに清々するだろう。あいつを貶めることができたら、なんて思いながら。仲間と昼飯を食っている最中にそんなことを考えているかもしれない。
その執着が、いつか行動となって現れるかもしれない。決壊寸前のダムを抱えながら、今日も綱を渡るように限界を生きる人々を思うと身震いする。
私にとって人間は、仮面を被った化物にしか見えない。
何十億という怪物候補が、世界中に蔓延っている。恐怖以外のなにものでもない。
「霊のほうが、よほど正直ですよ」
「霊。……あなたは霊なのですか」
「正確には、違います。私は人間のままこの世界に踏み込んだ」
「終わりのない世界に」
「そうです。ごく一部の魂しか味わうことのない苦痛を、これからも永遠に」
もの悲しげな表情をする老人越し、異物が風景にとけ込んでいることに気付き目を見開く。
二本の白い脚。
――老人のとなりに、誰かいる。
「どうかしましたか」
老人は口を真一文字に結び、目を爛々と輝かせ邪悪な眼差しを向ける。濃い隈が浮きでて、こめかみに青い筋が走っていた。
老人の背後でざわざわとなにかが蠢いている気配。直後、側頭部に痺れが走ると同時に戦慄する。
肩のむこうから、なにかが覗いている。こちらを覗いている。必死に老人の瞳をみつめ、その視線を受け流す。
泣きたくなるくらい救いのない状況だった。老人の形相は鬼ですら尻尾を巻いて逃げ出すかと思うほど凶悪だが、その背後に居るものに比べると可愛くすらある。
その視線を浴びるだけで、暗い淵を覗いたような気分になる。
「『彼女』は我々が調子に乗ると、それを諌めにやってくる。ああ、心臓が張り裂けそうに苦しい。この苦痛を少しでも紛らわすことができるのなら、あなたを食ってしまってもいい」
真顔でそういうと、老人はものすごい唸り声をあげた。歯を喰いしばり躰を引きつらせる。
その瞳は、老人の魂を糧にするように輝きを増していった。
みるに堪えないほど激しく苦悶したあと、ようやく落ち着いたのか目を閉じて喘ぐ。
「……ここで降りろ。私の気が変わらぬうちに」
すると、車内全体が大きく横に揺れた。電車が止まったようだ。
身体が軽くなったような気がして服に触れてみると、なんと湿り気すらなくなっている。
電光掲示板を見ると、目的の駅名が表示されていた。乗り込んだ駅から五つ目の駅。途中挟んだ四つの駅には、一体いつ停車したのだ。
そんな疑問をかき消すようにアナウンスが入り、エアー音を響かせて扉が開く。
車内は人で溢れかえっていた。
思ったよりもこじんまりしている。
目の前の鳥居は、聳えるというよりも佇んでいるといった方がしっくりくる。くすんだ灰色をしていて、昨夜テレビで見たときには分からなかった材木表面に刻まれた傷みが、この鳥居が経てきた年月を如実に物語っている。
典型的な神明鳥居で、至ってシンプルな造りだ。平行に立てられた二本の柱の上に笠木を渡し、その下に笠木と平行になるように貫を入れてある。
この門をくぐれば、そこは神域。
向こうにある石段と、それを挟む森。さらに見上げると、空。奥に向かって石段は続くようだ。
ケータイを開くと、午前九時を少し回ったところだった。
鳥居という額縁に切り取られた景色をしばし眺め、意を決し踏み出す。
すると前方から、参拝客だろうか、両親に手を引かれ男の子が降りてくる。
ちょうど鳥居の真下で、すれ違いざまに軽く会釈すると、男の子が高揚した顔で問いかけてきた。
「あんなにおっきなお月さま、はじめてみた! ねえお兄ちゃん、どうしてお月さまは、ちっちゃくなったり、でっかくなったりするの?」
一瞬頭のなかが真っ白になった。質問の回答を探す以前に、答えた方がよいのかという疑問で思考が揺らいだせいだろう。
両親が小声でそれを諌める。「すみません」と頭を下げられたので、「いえ」とぎこちない笑顔で応じた。
月の大きさが変わるのはなぜ?
たしかに、言われてみれば。
人生を通して脳内に備蓄されてきた、月に関する無数の映像を呼び起こす。
――うん、たしかに。
遠ざかる三人の背中を見送る俺の足は止まっていた。
背後から吹き抜ける生ぬるい風に、森がざわめく。ふと、潮の香りがした。
「結論から言って地平線にある月の方が大きく見える。これは主にふたつの因子が影響している」
唐突に湧いた声。反射的に振り返ると、その瞬間驚くべきことが起こった。
昼が夜に様変わりしたのだ。
空を見上げても、そこに太陽はなかった。太陽だけではなく、なにもない。斜め上方に、おそらくはさきほどの声の主が、亡霊のように白く浮かび上がっていた。
黒縁の眼鏡をかけた、俺と同い年くらいの男が石段に腰かけている。ワイシャツに黒ネクタイとズボン。靴は履いておらず裸足だ。
「ひとつめ。比較対象の有無」
月が中天にあるときと比べ、地平線にあるときは木々や民家など、大きさを比較できるものがある場合が多い。
例えば、『背が高いか低いか』なんて、二人以上の人間がいないとまあ意味を成さない。
複数いて初めて、「ああ、君はあちらの禿げ頭より背が高くて、こちらの蛙男よりも背が低いですね」って具合に評価することができる。
もうひとつ例をあげる。こっちのほうがより適当かな。
紙のうえに円をひとつ描く。この円をCと名付けよう。さて、問題だ。
①黒く塗りつぶした半径R1の円四つを、円Cの四方に接するように配置する場合
②黒く塗りつぶした半径R2の円四つを、円Cの四方に接するように配置する場合
とでは、より円Cが小さく見えるのはどちらか。
ただし、円Cの半径rはR1より大きく、R2より小さい。
しかも、R2は実現可能なものとして、もっとも大きな半径を有しているものとする。つまりこのとき、五つの円がぎっちぎちのすし詰め状態になっているわけだ。
「……②」
「正解。要するに、巨人に囲まれた小人は小人同士で群がってるときより小さく見えるわけだ。その逆も然り」
「それと同じ原理が、月の大きさにも言える」
「うん。空にあるときは大きさを比較するものがないが、地平線にはある。常識の範囲で、俺たちは民家なんかより月のほうがよっぽどでかいって知ってる」
「つまり、民家と月を無意識に比較していて、月の大きさが際立っている」
そこでメガネはてのひらを前に出して、「だが」と続ける。
異世界の住人と、どちらかといえば有意義な会話を交わしている自分に驚く。不可解な現象に対する反応にもすでに慣れが生じ、あらためて人間というものは恐いなと感じた。
「まだそれだけじゃ充分な説明になってない。ふたつめ。潜在意識による錯覚」
地球上のある一点に立っている自分を真横から眺めてみる。円の一番上にちょこんと立つ自分がいる。一番上、これ大事ね。ちょうどサーカスで玉乗りするピエロみたいにな。玉が多少でかいが。
そこからクローズアップして、自分の足元、地に着いている部分を見てみる。簡単のために、足の先は針のように細く尖っているとしよう。
「玉に穴があく」
「おまえ、意外とつまらないこと言うんだな」
そうして、地面と接している針の先端から水平に、無限に長い『接線』を引く。もちろん、接点は針の先端と地面の接するところだな。
そこまできたらもう一度地球から遠のいてみよう。ここでもうひとつ作業をしてもらう。地球の二倍ほどの半径をもつ円を、中心が地球のそれと重なるように描いてみる。
すると、左右に無限に伸びた接線と、二点で交わっているはずだ。扇状の領域が二つできている。そのふたつのうち、狭い方の扇が、俺たちの頭のなかで描かれている『そら』だ。
「前置きがすさまじく長くなったな。要するに、円を真二つに割った形じゃなくて、弓を張ったような形をしているわけだ」
「……そうか」
「そう。真上よりも、地平線のほうが遠いだろ? 人間が造り出すこの仮想世界が、錯覚の起きる原因となる」
「立体的には、球の半分より上をスライスしたような感じか」
「ここまできたら分かるかな。どうだ」
「つまり、月が中天にあるときは通常よりも近くにあるように錯覚する。そのずれをなくすために、脳が月の大きさを小さく見えるよう補正をかける」
「逆に地平線にあるときは、より大きく見えるような補正をかける」
脳内の偽装工作によって、あそこまで月の大きさが変わるというのか。
俺に見えているこの世界は、脳が創ったものに等しいと、そう言われているような気がした。
ならば、真実と幻の区別をどうつけるというのだ。あの青年も、恵比寿天も、老人も、そしてメガネも、脳が創った幻だというのか。
めまいがした。
これを悟らせるためだけに、あのメガネは『月の見え方の違いとその原因』について長々と講釈を垂れたのか。
そもそもあの男の子が事の発端ではないか。彼すらまやかしのひとつに思えてくる。
「そろそろ主人が我慢し切れなくなる。恐ろしく気まぐれなお方なんでね。今日の講義はここまで」
メガネはそう言って腰をあげると、はっと思い出したような顔をした。
「ああそうだ、このまま先に進んだ方がいい。今さら引き返そうとすると、怒り狂って追いかけてくるぞ」
「……なにが」
「ええと……右、真ん中、左端の順で進んでいけ。これ破ると洒落にならんから気をつけろ。覚えた?」
「右、真ん中、左端」
「上出来だ。じゃあ、頂上で待ってるよ」
言い終わるか終わらないかのうちにメガネの姿は掻き消え、あとに余韻すら残さなかった。
そういうことか、と思った。
石段を進んでいくと平坦で開けた場所に出て、その先に二つの鳥居が並んで立っている。
入口で見たものとまったく同じ、灰色の神明鳥居だ。
「――右、ね」
空を眺めながら鳥居をくぐる。星も月もなにもない夜空が、これほど味気ないものだとは思いもよらなかった。
またしばらく石段を上がると、そのさきには横に並んだ三つの鳥居。メガネに言われたとおり、真ん中のひとつをくぐる。そこでふと、ひとつの疑問を抱く。
――ほかの鳥居をくぐったらどうなるのだろう。
しかし、実行する勇気はなかった。異世界に迷い込むくらいでは済まないだろう。
次いで現れる四つの鳥居。おとなしく左端のひとつをくぐる。潮の香りが心なしか強くなっている気がする。
辺りは水を打ったように静まり返っているが、この先で自分を待ち受けているものを想像すると、到底心中穏やかではいられなかった。
――それにしても明るい。
満月でも出ているのだろうか、と何度空を見上げたことか。この明るさは一体どこからくるものなのだろう。
苔むした石段を踏みしめるように上がっていく。その足取りが思いがけず確固としているのは、やはり運命と向き合う覚悟が定まったからだろうか。
そうだ。いつのまにか、俺は前を向いて歩いている。この先どのように生きていくべきか、それを見定めるために。
なんらかの答えがこの先にあるという、期待と確信が入り混じった思いを抱いて。
長かった石段もついに果てが見えようとしていた。全身が恐怖と興奮で小刻みに震える。この先に。
――あの女が。
潮の香りが漂う円形の広大な空間に、神社はなかった。その光景に、とめどない畏怖を覚えた。
中心には青々と光輝く、山と盛られた海の幸。その周りを囲むように、十数の巨大な漆塗りの盃。
円形の外縁に沿うように黒柱が等間隔に配され、上部に綱が渡されている。そこからちょうど地面に着くくらいの細長い垂れ幕がわずかな隙間をあけながら並んでいて、その向こうには黒い影となった森が続いているのが見えた。
垂れ幕の内側には、これもまた外縁に沿うように、『磔台』が並んでいる。その処刑台に、頭部が燃えている人間が十人ほど、磔にされて整然と並んでいる。
――人間蝋燭。
力なく垂れるこうべが、中心は黒く、外側が青紫の燃え盛る炎に包まれていた。両腕、両足と腹には太い釘を打たれ、身体が不自然に曲がっている。青白く照らしだされた磔台には、どす黒い液体が細い筋を何本もつくってぬらぬらと流動していた。
呻きすら漏らさない。ぴくりとも動かない。
この場全体が青に染まっていて、海の底にいるような錯覚を覚える。
さあ宴を始めようというときに、参加者全員が前触れもなく消滅してまったかのような状態だった。
これだけ大きな炎に囲まれているというのに、木の爆ぜる音もしなければ、風にあおられ唸ることもない。
あくまで静かに燃え続け、磔にされた人間もそれに準じ黙殺している。
――無音饗宴。
頂上で待つといったメガネも見当たらない。……まさか。
前方で人の動く気配。
石段とは真反対に位置する垂れ幕が、かすかに波打っている。
目を細めてよくみると、垂れ幕と垂れ幕の隙間から女が覗いていた。身体は翳ってみえない。半面だけが、ぼうっと白く浮かんでいる。
――間違いない、あの女だ。
右半面が垂れ幕に覆い隠されて見えない。そこに触れてはならない禁忌でもあるというのか。
「近うよれ」
耳元で囁かれた。細い息が耳を撫で、気を失いそうになる。
中心を避けるように、円を描きながら女の元へ歩み寄る。一方女は、まったく顔を動かさず目だけでこちらを追う。
「やはり、わしを選んだか」
画面越しにみたときより、遥かにうつくしい。あのときは横顔しかみられなかったが、彼女の潤んだ瞳を拝み、あらためてそう思った。
そして同時に、凄まじい威圧感を放っている。水圧を受けているように身体が重く沈んだ。
「俺は、選ばれたのですか」
「山海の神々はおまえを選び、おまえはわしを選んだ」
俺が選んだ? てっきり俺は、この女に呼ばれる形でここを訪れたのだと思っていた。
「気に入った。おまえをわしのものにするために、逃れがたい呪いをかけてやる」
「……呪い」
「ここに磔にされている者たちは、すでにわしのもの。わしの呪いを受け、堪らず命を差し出したのだ」
本能が警鐘を鳴らしている。事態が想像とはまったく違う方向に傾き始めている。
「もはや呪いを避けることはかなわぬ。ここに招かれるとは、そういうことだ」
「どのような呪いなのですか」
震える声で訊ねる。せめて、少しでも希望を見出せる結末であってくれと、そう願うしかなかった。
「成長し続けなければならぬ。肉体も魂も、ひとしく、絶え間なく練磨せねばならぬ」
その成長が止まったとき、おまえの命はわしのもの。
「それは、人生を歩むうえで、ということですか」
俺のその言葉をきいて、女はけたたましい笑い声をあげた。思わず身体が引きつった。
「つまるところ、おまえが死ねば魂はわしのものになる、ということだ」
全身から力が抜けた。そんなもの、逃れようがないではないか。俺は、人は、いつか死ぬのだ。
――俺もあの磔台に。
「しかし、それでは面白くない。逃れる余地を与えてやるのが一興。そこで」
おまえが生きている間に。もし、わしの秘め事を明かすことが出来たのなら。
「そのときは、見逃してやろう。詛ひの言葉これにて成りたり。あれを見ろ。あれが、まやかしに見えるか」
絶望の淵に沈んでいた俺は、女の視線の先を追って空を見上げ、瞬間なにもかもを忘れ息を呑む。
中天に、空を覆うほど巨大な月が浮いていた。今まで見たどの月より雄大なものだった。
さきほどのメガネが力説した錯覚理論が、その光景ひとつでことごとく破綻したかのように思えた。
「大切なのは、真実でも、幻でもない。事実をどう受け入れるか、これこそ才あるものと無きものを分かつ壁」
真実だけにこだわってはならぬ。それは迷いを生じさせ、出足を鈍らせる。
そうではなく、今ある事実を、冷徹に見定めてみよ。穴だらけの自分に辟易するだろう、しかしそれなくして、眠れる才能を呼び覚ますことなどできぬ。
わしを楽しませてみよ。おまえのなかで息を潜めているものを呼び覚まし、なおかつその才を、人としてもっとも崇高なる目的に使い果たすことで、見事この呪いをうち砕いて見せよ。
女はそう言うと、ぬうっと影から這い出てきた。
思いがけない行動にぎょっとするも、半分欠けた仮面を被っていて、右半面は隠されたままだった。禁忌に触れてしまうことに恐怖を抱いていた俺は、ほっと胸を撫で下ろす。
女が擦り足で前に進み出ると、青紫色の炎が一斉にたち消える。心持ち暗くなるもすぐに目が慣れ、より一層輝きを増した月明かりに広場全体が照らされる。
「この月は、わしの集めた魂を映じて光り輝く」
女は風を切る音とともに扇子を開くと、月に乗じて舞い始めた。
俺は片腕を天にむかって伸ばし、感涙にむせぶ。
しかし空に月はなく、目に入ったのは気味悪く渦巻く木目だけだった。
はっとして起き上がると、目の前に一人の男が胡坐をかいてこちらを見ている。
「私はここの神主です。鳥居の下で倒れているのを見つけた門弟が、あなたをここまで運びました」
状況を把握するのにしばし時間がかかった。そしてやっと悟った。あれは夢だったのだ。
しかしその直後、俺の考えを察したかのような神主の一言に絶句した。
「夢ではありません。まさかこの神社で催される日が来るとは、思いもよらなかったのですが」
催される? あの無音饗宴のことか。
「あなたは、非常に、非常に稀な経験をされた。神々の宴に招かれたのです。本音を申しますと、あなたが何を見たのか、ゆっくりでもいい、ぜひ聴かせていただきたい」
神々の宴。俺は、神と会話したというのか。
携帯電話を開いて驚愕した。日が替わっていない。それどころか、俺があの鳥居の前に立ってから30分も経っていない。
その短すぎる時間のなかで、俺はあの異世界を旅していたというのか。
乾き始めている涙を拭い、今日という一日を思い返す。
自殺体の傍らで青年に声をかけられ、そのあとには恵比寿天や謎の老人との奇怪な問答。
鳥居のもとでメガネの講義を拝聴し、示された道順に従って鳥居をくぐったのち、あの女と出会い、呪いをかけられた。月下の舞を眺め感動にむせび、気付いたらここにいた。
呪い。
二度と思い起こしたくなかった記憶が甦り、握りしめた拳が震える。あれが夢ではないとしたら、呪いも。
助けを乞うような気持ちで、そのすべてを神主にうちあけた。
「もう一度確認したい。その女と、たしかに言葉を交わしたのですね」
「間違いないです」
すると神主は額に手を当てて、しぼり出すように言った。
「信じがたい……これは現実か」
訳がわからなかった。仕舞いにはぼろぼろと涙を流し始めた。
しかし正直、俺には迫りくる死への恐怖しかなかった。
「呪いから逃れるには、どうしたら」
「私にもわかりません。しかし……あなたは信じられない才能を秘めている」
才能。たしか、あの女もそのようなことを言っていた気がする。しかしそんなもの、死んでしまってはなんの意味も成さない。
そこではっとした。女は舞う直前、呪いを解くための手がかりとなるような言葉を発していた。
「『おまえのなかで息を潜めているものを呼び覚まし、なおかつその才を、人としてもっとも崇高なる目的に使い果たすこと』」
自然と言葉が口をついて出てきた。
「それは、呪いを解くための」
「あの女の言葉です。意味はよくわかりませんが」
「……その答えはおそらく、今のあなたでは理解し得ない領域にあるのではないでしょうか」
「ではどうすれば」
「私には到底扱いきれぬ問題。そこで、私からあなたへひとつ提案があります」
「提案」
「知人に、室という男がいます。最近は孫ができたと喜んでいるが、そのせいで少々丸くなったようだ。彼にとってもいい刺激になるだろうし、その男のもとで修行を積んだらどうでしょう」
「修行、ですか」
「彼も、実はあなたと似通った経験をしている。それを知ったら弟子にせずには居られないでしょう」
「つまり同じ呪いを?」
「いや、そうではありません。しかし、彼ならばなんらかの対策を立てることも可能です。なにより、このまま何もせず放っておくのが一番危ない」
「……大学生活は続けられるのでしょうか」
「まず無理です。しかし、あなたのお命のほうが遥かに大事」
「……」
「あなたはこの神社で神の宴に招かれ、そして私に出会い、室という男を知った。これは、運命だ」
実は神主のその言葉こそ、俺にとっての運命だった。
すべてを話し終え、師は号泣していた。そんな姿をみるのは初めてだった。
「その後俺は室さんを師として仰ぎ、彼の元で修行を積んだ。その過酷さに何度後悔したか知れない。でも今にして思う」
巡り巡っておまえに会うことができた。それだけで、すべてが報われた。すべてに感謝することができた。
信じられない言葉だった。一度だって、そのような言葉をかけてもらったことは無い。
「フランスから帰国した直後俺の元を訪ねてきたのは、師の息子だった」
『九間さんによく似た男がいる』。そう言われたとき、決心はついた。師から常々言われてきたことを実行に移す日が来た、そう思った。
かくしておまえは俺の弟子になり、そして四年後の今日、ついに俺は師への恩義に報いることが出来た。そして同時に、俺は人が人としてあることとは、どういうことかを悟った。
「いったい、なにをみたのですか」
「おまえの瞳を覗いた途端、あの女との出会いが、過去を旅するかのように鮮やかに甦った」
「では、さきほどの『発作』は」
「そうだ。その記憶を呼んだのは、他でもない、おまえの瞳が持つ色だった」
全身に鳥肌が立った。
「しかし、そのようなことは過去一度も」
「変わったのだ。長い修行を経て、おまえの瞳の色は、今このとき、変わった。それは単に色が変わるということではない。おまえの魂の色が、変わったのだ」
「どのように」
もうすでに涙声だった。
「いうまでもない。過去の自分を乗り越え、一段上の存在に生まれ変わった、ということだ」
言葉はでなかった。でるはずもなかった。そのことは、自分自身が一番よく解っていた。
「息を吹き返したその記憶のなかで、舞を踊る女の仮面は消えていた。そうだ、女の右半面を、俺はみた」
「……まさか」
「右目だけ、瞳の色がおまえとまったく同じだった」
俺は今、とんでもない場面に遭遇しているのではないか。
「そこで俺はすべてを悟った。呪いを解く方法のすべてを」
『その才を、人としてもっとも崇高なる目的に使い果たすこと』。
「それはすなわち、俺の歩んできた人生のすべてを、後世に受け継ぐことだった」
その後世というのが、那波、おまえのことだ。
かくしておまえは見事俺のすべてを受け継ぎ、その瞳でもって応えた。
女の『秘め事』というのは、隠された半面のこと。長い時を経て、ついにあらわになった女の右おもてが示していたのは、とりもなおさずこの呪いを解く方法だった。
舞い終わった女は静々と俺に歩み寄り、「見事」そう一言いって海に還っていった。
『くらげ』は漢字に直せば『水母』または『海月』。彼女は海の神だった。そして、こよなく月を愛でていた。
思うに、女の言う『呪い』などというものは初めからなかったのではないか。
成長し続けることなど不可能だから、呪いの通りならば、俺はとっくに魂をとられているはずだ。
自分で自分を呪っていたのだ。
あの青年や、恵比寿天、老人、そしてメガネは、いつ命を奪われるかもしれないその重圧に堪え切れず、自ら命を絶ったのではないか。飛び降り自殺した男も、彼らと同じ運命を辿った。
瞼を閉じるそのたびに、あの女の姿が浮かぶ。決して呪いを忘れるな、と囁くのだ。師の導きなくして、ここまで命をつなぐことなどできなかった。
女の真の目的は魂ではなかった。彼女は俺を呪うことで、むしろ大切なことを諭してくれた。
先ゆく人々に課された使命は、人生で学んだことを後世に投げかけること。それは今も変わらない、人としてもっとも尊く、また同時に然るべき生き方なのだと。
「雨の日は、どうも感傷的になってしまう」
涙を流しながらそう言う師の笑顔は、一点の曇りもない、晴れ晴れとしたものだった。彼は気の遠くなるほど長い、呪縛との闘いから解放されたのだ。
そして俺も、むせび泣いて床に突っ伏す。感無量とはこのことを言うのだろう。
「修行は今日をもって終いとする。おまえも、そして俺も、過去の自分と訣別し、生まれ変わるときがきた」
ただひとつ浮かんだ言葉。あまりにもありふれていて、しかしそれ以外など考えられない言葉。
「……ありがとうございました」
師への想い、すべてを込めてそう言った。
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作者怖話