臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前

中編4
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臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前

 彼女が初めて店にやって来たのは、八月の終わり近い雨の降る夜だった。

彼女はしたたかに酔っていて、連れの女が一緒だったけど、入ってきたその瞬間から仲は険悪だった。

「もう帰ったら?」と、何度も繰り返しているように言っているのを耳にした。

「誰があんなところ」と彼女が言っているのも耳にした。

「じっと見てるだけなのよ、なにも言わないで、じっと見ているだけなのよ」と。

同棲相手と喧嘩でもしたのだろう、とそのときは思ったものだった。

結婚しているようには見えなかった。

それから、連れの女が一人で帰っていった。

彼女はぼんやりと出口のあたりを見つめていた。

他に客のない夜だった。

灰皿を替えると、彼女は閉店時間を訊ねた。

三時だと応えると、小さく微笑んだ。

「それまでにはもう帰ってるわね」と女は言った。

「喧嘩ですか?」と僕は訊ねた。

「ううん。

そうじゃないの」彼女は言って、顔をそむけた。

酔いはかなり醒めていたようだった。

考えてみれば、うちの店に来てからはさほど飲んでいなかった。

「幽霊が出るの」と彼女はぽつりと言った。

「窓の外にね……いつもこの時間」二時をわずかに過ぎたところだった。

「子供の幽霊なの。

女の子。

じっと窓の外から見つめているの」

「怖いですね」

「ええ。

だから、二時から三時まではアパートにいないの」

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」

「なにそれ?」

「九字」と僕は答えた。

「物の怪はこの升目を数えてしまうらしいから、その間に逃げればいい」

 そういうと彼女はくすりと笑った。

それから、もう一度やってみせて、と言った。

 彼女は毎晩やって来た。

彼女は……たぶん寂しかったのだろうと思う。

郷里の高校を卒業して、東京の大学に入り、一人暮らしをはじめたばかりだった。

 高校の三年間ずっと好きだった、片想いだった男の子がいるの、と、ある夜、彼女は言った。

親友の彼氏で……。

結局言えなくて……友達で片想いのままでいいからそばにいたかった、寂しくて……それから、それから、……そんなこと考える自分が友達に悪くて。

 彼女はそう言って、顔を伏せた。

夏休み、帰れなかった。

友達にあわす顔がないような気がして、それで、アパートに一人で、何処へ行くあてもなくて……。

 たぶん、彼女は寂しかっただけなのだと思う。

彼女は相変わらず、午前零時を過ぎたあたりにやって来て、三時の閉店に帰っていった。

何度か彼女をアパートの前まで送ってゆくことがあった。

僕が非番の日は、二人で映画を観に行ったりした。

彼女はいつの頃からか、快活に笑うようになっていたし、部屋の窓の外に現れる幽霊のことも口にすることはなくなっていった。

 十月に入って、僕は言ってみた。

アパート移ればいいんじゃないの?

 え……でも、お金ないし。

 俺んとこにきなよ。

 彼女は驚いたように顔を上げた。

 次の日、僕は初めて彼女のアパートを訪れた。

時刻は朝の十時をいくらか過ぎた頃だった。

彼女は荷作りをほとんど終えて僕を待っていた。

といっても、彼女はおそろしくなにも持っていなかったが。

 彼女はおそろいのコーヒーカップにコーヒーを入れ、床に置いた。

僕たちは床に座ってコーヒーを飲んだ。

それから、僕たちはどちらからということなく指を絡ませた。

そして……。

「りんぴょうとうしゃ……」彼女は突然、震える指で九字を切りだした。

 僕はふりかえった。

なんの変哲のない、カーテンの取り外された窓だった。

ベランダの柵の向こうに新宿の高層ビルが見えた。

「かいちんれつざいぜん……」彼女は九字を切り続けた。

「やめなよ」と僕は言った。

「なにもないよ」

「ううん、ううん」彼女が首を横に振った。

「あ、あそこにいる」

「ねえ、それはきみが心の中で生み出しているもんなんだよ」

「違う、いるの!」

 僕は立ち上がって、窓の前まで、歩いた。

「なにもいないんだよ。

いつまでそんな罪の意識を」

「やめて、開けないで!」

 僕は窓を開けた。

冷たい秋の風だった。

「ほら!」と僕は言った。

「ほら」と彼女が言った。

「入ってきたじゃない……」

「…………」

 彼女は僕から顔をぷいっとそらした。

部屋の角の一点を彼女は見つめ続けた。

まるで、そこになにかがいるかのように。

ごめん、行けないの、と彼女は言った。

ごめんなさい、あなたとは一緒には行けないの。

 それは僕に言っているようでもあったし、その部屋の片隅のなにかに向かって言っているようでもあった。

 なんだかまるで冗談のようななりゆきだった。

結局、彼女は引っ越しをとりやめ、僕はバイトに出た。

彼女はその日、店にはやって来なかった。

 二時過ぎに電話がかかってきた。

「ごめんなさい」と彼女は言った。

「わたしね、やっぱり行かなくっちゃ」

「行かなくっちゃって何処へ?」

「わかんない。

でも、行かなくっちゃ……さようなら」そうして電話が切れた。

 僕は店を飛び出して、彼女の部屋に向かった。

 そこで僕が見たものは天井から首を吊ってぶら下がっている彼女の姿だった。

 荷作りは解かれてなくて、それから、窓が半分だけ開いたままで、夜の湿った冷たい風が吹き込んでいて、……そして、彼女の体を揺らし続けた。

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名( ー_ーメ)さん  

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