長編30
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空き家に放置された瓶

よく晴れた夏の土曜日。

昼食を食べた僕は、家を飛び出して、川沿いの細い道路を一人歩いた。

でも途中から走りだした。

待ちきれなかったんだ。

道路は住宅や工場の裏手にあるし、この先には林に囲まれた小さな神社ぐらいしかないから、すれちがう人なんかいなかった。

だけど、いたらきっと僕の顔を見て、何にがそんなに嬉しいんだろうと不思議に思っただろう。

僕は町からどんどん離れていく。

道路はすぐに、神社をつつむ青々とした林と、草の生えた河原とに挟まれる。

その内、河原の中にポツンと一軒の家が建っているのが見えてきた。

たいして大きくない、古ぼけた和風の二階建ての一軒家。

本当は河原の手前の土地にあるんだけど、そのあたりの境目のガードレールが夏草で埋もれていて、ほとんど川に建っているような感じだ。

これが僕の目的地だ。

僕は家の前にたどり着くと、足を止めた。

ここは空家だった。

どれだけ人が住んでないのか僕は知らないけど、きっと随分前からだろう。

窓ガラスは土ぼこりが張りついて薄茶色になってるし、クリーム色の外壁には灰色のシミが浮きでていて、まだら模様を描いていた。

低い垣根の内側は庭木が伸び放題で、家と敷地に濃い影を落としている。

人目がないのをいいことに、僕はこの空家に、今まで何度も入りこんでいた。

身近なおばけ屋敷を探検する気持ちで。

始めは友達も誘ったけど、みんな恐がって、空家の前に来ると逃げだしてしまうんだ。

小学五年にもなって、てんで意気地がないんだから。

そりゃあ窓から見える室内も荒れ果てた様子で、薄暗くてちょっとは不気味かもしれないけど、だから面白いんじゃないか、と僕は思う。

もっとも僕はよけいな好奇心が強すぎるらしい。

よくお母さんに怒られる。

『まったく、変なところだけお父さんに似てるんだから』

とにかくそんなわけで、僕は今日もひとりで、空家の敷地に踏み入った。

敷地の中にも夏草は密集して生えていて、僕の背丈ほどに伸びていた。

それをかき分けると蚊がいっぱい飛び上がる。

でもそれも平気だ。

半袖や半ズボンから出ている肌には、家を出る前にちゃんと防虫スプレーをかけてきて、ぬかりはない。

僕は家の裏側にまわって、いつものように縁側にのぼった。

そこの向こうの窓は割れているんだ。

下側が、子供が入れるぐらいの大きさに。

あ、僕が割ったわけじゃない。

多分誰かがいたずらで、石でも投げこんだんだと思う。

僕は靴を履いたまま、破れた窓を四つん這いで潜り抜けた。

外の暑さが嘘のように、室内はひんやりしている。

強い日差しが遮られて、一瞬目の前が真っ暗に見える。

その部屋は薄茶色の壁の日本間で、畳の上には箪笥や重そうな低い木の机が乗っている。

机の横には紺色の座布団が何枚かあって、部屋の隅には赤いランドセルが転がっていた。

僕はもう、この家の殆どの部屋を探検済みだ。

見てないのは二階だけ。

そして、一階の半分はこんな具合なんだ。

人が住んでいたままの家具や物が残っている。

但し、古びた形で。

どれにもどっさりホコリが積もっているし、日に焼けて色が薄くなって、蜘蛛の巣も張っている。

もう半分はというと、中途半端に片付いてるんだ。

家具はあるけどその中は空っぽだ。

例えば食器棚の中には何も入ってなくて、食器は同じ部屋にある段ボールに収まっていたりする。

まるで引越しの最中に特別なことがあって、人間だけここから消えてしまったようだ。

何があったんだろう……そう想像すると、僕はワクワクする。

ある日突然、宇宙人に連れ去られたんだろうか?

僕はテレビで見た、不鮮明な宇宙人の写真や、宇宙人の手術シーンの映像なんかを思い起こした。

僕はドキドキしながら廊下に出て、暗くて急な階段を見上げた。

さあ、今日はいよいよ二階を探検だ。

UFOは空からやってくるんだから、二階を出入り口にしてたかもしれないぞ。

僕は階段を上りはじめた。

一段上がることに、階段は軋んだ。

ギイ、ギイ、ギイ。

そんな音を13回鳴らして階段を上り切ると、正方形の廊下を挟んで2つの部屋があった。

階段の右と左だ。ドアはどちらも閉じている。正面は壁。

僕はまず、右側のドアを開けてみた。

……はずれ。

六畳ぐらいの板張りの床の上に、クローゼットが置いてあるだけだった。

クローゼットの扉はひらいていて、中に何もないのが一目瞭然だ。

僕はその部屋に入ることなくドアを閉め、今度は左側のドアのノブに手をかけた。

キイイ……と小さく悲鳴を上げて、ドアが開く。

一目見て、僕はまたがっかりした。

この部屋にも何もない。空っぽの洋間だった。

味気ない板張りの四角い床、四角い壁、四角い天井。

四角くないのはぶらさがった裸電球ぐらいだ。

それでも僕はあきらめきれず、部屋の中に足を進めた。

だって、これが探検していない最後の部屋なんだ。

でも、入るとますます期待はずれだった。二つの窓から明るい太陽の光がたっぷり入っていて、白い壁がまぶしかった。不気味とは程遠い。

僕はがっくりと肩を落とした。

本当は、僕だってわかっていたんだ。きっとこの家の住人は、夜逃げでもしたんだろう。がんばったけど家財道具を持ち出すのは失敗したんだ。五年生にもなれば、そういう想像が妥当だろうと理解はできる。けど、それじゃ雰囲気がぶち壊しだから、あえてその考えは頭から追い出していたんだ。

(戻ろう……)

僕は裏切られた気持ちでいっぱいになりながら、体の向きを変えた。

そこで、気づいた。

入り口のそばの床の上に乗っている、なんだか変わったガラスの壜に。

僕は途端に勢いよくしゃがんで、床に両手と両膝を付いた。

開けたドアの裏側にあって、今まで見えなかったらしい。

僕はしげしげとそれを覗き込んだ。

円柱形の、細長いガラス壜だった。

高さは20センチはないぐらいで、円の大きさは、野球のバットの太いほうぐらいだ。

ガラスの蓋が上に乗っていて、それにはつまみのような丸い取っ手がついている。

何となく、学校の理科室にあるホルマリン漬けの入れ物に似てるなと思う。

だけど、大きく違う点があった。この壜には細かいひびが入っていた。

透明なガラスの表面に、血管みたいな枝状の薄いひびが、びっしりと。

これは模様みたいなもので、割れているわけじゃないみたいだ。

中のものが漏れている様子がないから。

そう、これには中身が入っていた。

僕は、更に壜に顔を近づけた。

壜の中には、球形の黄色いものがひとつ、浮かんでいた。

ニワトリの卵の黄身みたいな感じで、それより少し大きいぐらい。

壜の底にあるんじゃなくて、ちょうど壜の中央のあたりに浮いている。

壜の内部が透明な水か何かで満たされているらしい。

そして、黄色いそいつは、光っていた。

太陽の明るさに負けそうになりながら、ぼんやり暗く、黄色い光を放っていた。

僕は壜に手を伸ばし、そおっと持ち上げてみた。

中の液体と一緒に、黄色いやつがゆらゆら揺れた。

体を起こして床に座り込み、僕は壜を反対側から、上から、下から、色んな角度で眺めてみた。

一体、これは何なんだろう。

こんなもの見たことがないぞ。

ちょっと変わった置物かな?それとも――

その時、壜の中の黄色いやつが、ぶるっと小さく震えた。

それとも、生き物?

僕は壜を動かすのをやめて、側面から中を見た。

黄色いやつの光が、すうっと弱くなった。

(あっ、消える!)

そう思ったとたん、また光が強くなった。

そしてまた、暗くなったり、明るくなったり。

それを繰り返しはじめた。

なんだか呼吸をしているみたいだ。

じゃなきゃ、心臓が鼓動を打って膨らんだり縮んだりしている感じだ。

(そうだ、こいつは生きてるんだ)

僕は確信した。

それから僕は、夢中でそいつを観察した。

飽きもせず、いつまでも、いつまでも……

ガタン!

空家の外で物音がした。

猫か何かだろうか、地面に近い場所で。

その音で僕は我に返った。

窓の外に目をやると、すっかり日が暮れていた。

もう帰らないとお母さんに叱られる。

僕はちょっと迷ってから、着ているTシャツの中に壜を入れた。

裾からもぐりこませて、服の上からしっかり掴む。

僕は階段をおりて、割れた窓から外に出た。

(家に帰ったら、こいつはどこかに隠さなきゃ。お父さんにもお母さんにも、それに楓にも見つからないように)

楓というのは、僕のひとつ下の妹だ。

楓は恐がりのくせに、こういうものが意外に好きなんだ。

僕がUFOやミイラの出てくるテレビ番組を見ていると、いつも横で大声で嬉しそうに嫌がって僕の鑑賞の邪魔をするんだ。

今回も楽しみを壊されてはたまらない。

(そうだ、スポーツバッグの中がいい。いつも僕が地区の少年野球の練習に持っていってる、あれに入れておこう。明日は練習がある日だから、そのまま壜を持って行けるぞ)

僕はにんまりと笑みを浮かべた。

きっと、みんなも面白がるぞ。

次の日の日曜日も晴れていた。

地区の少年野球の練習は、僕の通う小学校のグラウンドで行われる。

派手な紺色のスポーツバッグを肩にかけ、白地に黒でチーム名が入った半袖のユニフォーム姿で、僕は校門を潜った。

コーチの宮島先生がグラウンドで準備をしているのが遠くに見えた。

僕は玄関で靴を履き替えると、荷物を置いたり休憩したりするのに使っている、一階の一年一組の教室に向かった。

日曜の廊下には人影がなかったけど、教室から賑やかな話し声が聞こえていた。

僕は意気揚々と一年一組の教室のドア開けた。

教室にはメンバーの十四人全員が揃っていた。

それぞれが喋り合ったり、スポーツバッグからタオルを引っ張り出したり、家から持ってきた水筒に早々に口をつけたりしている。

年は小学四年生から六年生までだ。

宮島先生がこの場にいないのは、僕には好都合だった。

何となく、こういうものは大人に見せたらいけないように思うから。

「よう、悟士。遅かったな。なんだよニヤニヤして」

僕と同じ五年で同じクラスの、ファーストの賀川が声を掛けてきた。

ちなみに僕はサードだ。

「きのうさ、例の空家で、変わったものを見つけたんだ」

僕は肩にかけていたスポーツバッグを、一年生の低い机の上に乗せた。

ジッパーを開けると、タオルに繰るんだ透明の水筒が現れる。

あの壜はさらにその中に入れてある。

万一のことがあっても割れないように、僕なりに工夫した結果だ。

「なんだよ、お前まだあのおばけ屋敷に行ってるのか……うわーあ、なんだそりゃ」

賀川は後半、顎の外れたような間延びした声を出した。

プラスチックの水筒から、僕が壜を取り出したからだ。

僕は壜を、賀川の目の高さにかざした。

「すごいだろ」

言いながら、僕はちょっとホッとする。

壜の中の黄色いやつは、空家で見た時のように、明るくなったり暗くなったり……を元気よく繰り返していた。

家では楓がちょろちょろしていたから、ゆっくり様子を窺えなかったんだ。

「ああ、すっげえ、光ってるじゃん」

僕たちの会話に、周りのメンバーもすぐに寄ってきた。

「うええ、なんだこれ」

「なに、どこから持ってきたんだよ」

「生き物?」

「作り物じゃねーの?」

「作り物でも、ちょっと見たことないね」

「俺はなんだか気持ち悪いなあ……」

「すげ、テンション上がるー」

様々な意見を言いながら、みんな興味深々で壜を覗きこみ、奪い合うように手に取った。

僕は満足な気分でその様子を見ていた。

自分が見つけてきた『そいつ』がこん何も興味の対象になっていることが誇らしかった。

「あの空家に、あんなもんがあったのか……。それにしても、ホントお前、よくひとりであんな所に入るよな」

壜が六年生の手に移り、賀川が少し戦線離脱して、僕のほうを向いて言った。

「あんな、人が死んだって家にさ」

「え」

僕はギョッとした。

「変な冗談言うなよ」

「なんだ悟士、お前知らなかったのか?昔、あの家で人が何人も死んだんだぜ。まあ僕も詳しくは知らないけど。恐い家だから絶対に近寄るなって、小さい頃、親によく言われたよ」

そんな話は一切知らない。

それでみんな、あんなに空家を恐がっていたのか。

「おまけに、その時、変な声が聞こえたんだってさ。人が死ぬ時にさ。絶対に死んだ本人じゃない声が、聞こえたんだって」

何だ何だ、そんな尾ヒレまであるのか。

だったら先に言って欲しかった……と、僕は今さらながらちょっと恐くなった

。あの家に幽霊でもいるのか?

いや、でも、と、僕は気を取り直して、自分を励ました。

「そんなの、ただの作り話じゃないの?ほら、子供が入らないようにおどかしたんだ」

「そうかもな」

賀川が答えた。

そうに決まってるさ、と僕は思った。

だって僕は実際にあの家に入って、幽霊なんか見なかったんだから。

変なものなんていなかった。

いたのはせいぜい、あの黄色いやつくらいだ。

「これ、中はどうなってるのかな」

突然、僕の耳に、そんな言葉が飛び込んだ。

見ると、今や壜はピッチャーで六年生の板脇が持っていた

「開けてみようか」

「え、ちょ……」

やめろよ。と、僕は言いたかった。

壜は密閉されていて、水分や湿度を一定に保っているように、僕は無意識に感じていたから。

その閉ざされた空間でだけ、黄色いやつは元気に呼吸できている。

開けてしまえば水分が蒸発して、黄色いやつはカラカラに乾いてしぼんで死んでしまう。

そんな気がしていた。

でもそれは単なる想像だ。

ホルマリン漬けの印象から、そう感じるだけかもしれない。

それに何より、チームのエースで上級生の板脇には意見し辛かった。

そんな風に僕が戸惑っている間に、板脇はさっさと壜の蓋に手を伸ばした。

ぞんざいな手つきで、蓋の取っ手を摘む。

「あれ、開かないぞ」

板脇が眉を顰めた。

一旦、蓋から指を離し、取っ手を掴み直して、もう一度引き上げようとする。

「なんだぁ、固て~。びくともしないや」

僕は密かにホッとした。

けど、それもつかのま。

「貸せよ。俺がやってみる」

別の六年生の手が壜にのびる。

僕はハラハラしながら見守った。

今度も蓋は動かない。

するとまた別の手が伸びて、蓋をこじ開けようと試みる。

それでも駄目で、二人り掛かりで引っ張ったり、壜ごとひっくり返したり、と六年生たちは無茶をする。

蓋は奇跡的に耐えているけど……。

「もうやめてよ」

とうとう僕は言った。

でも、六年生たちは構わず、チームで一番体格のいいキャッチャーの大野辺に壜を渡した。

「お前やってみろよ」

大野辺は五年だけど、力の強さでは大人も負ける。さすがにこいつ相手では壜も限界だろう。

「やめろよ!」

僕は我慢しきれず、声を荒げた。

と同時に、教室のドアががらりと開いた。

「お前ら、何やってる!さっさとグラウンドに集まらんか!!」

コーチの宮島先生の怒号が響いた。

僕たちはびっくりして身を縮めた。

大野辺も、コーチの声に萎縮した。

そして大野辺は、うっかり手を滑らせた。

僕は、あっと思って、とっさに手をのばした。

壜が床に向かって落下していく。その様子が、まるでスローモーションのように僕の目に映った。

僕の指をわずかにかすめて、壜はゆっくりと下に落ちていく。

ガシャン!

壜は床に当たって、重い音をたてて割れた。

細かいひび入りのガラスが、粉々に弾けた。

中を満たしていた透明の液体が、波打ちながら床に飛び散った。

突然、怖い声が部屋中に響いた。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

低くてねっとりとした、地獄の底から湧いてきたような唸り声だった。

そして突風じみた大声だ。

その大きさで教室の窓が振動する。頭にもビリビリと響いてくる。

途端に、周りのみんながバタバタと倒れた。

賀川も板脇も大野辺も、宮島先生も、僕をのぞいた全員が気を失って床に倒れて転がった。

それを見ている僕の視界からは、なぜだか色がなくなっていく。

スポーツバッグの鮮やかな紺色も、教室の外の木の葉の緑も、すうっと色褪せてただのグレーの濃淡になっていく。

そんな中で、『あいつ』だけが色を残していた。黄色い色を。

ただしその発光は弱々しい。

床にぶちまけられた透明の液体の中央で、フライパンに落とした生卵みたいに、ぐんにゃりと半ば平らになって、黄色いやつは小刻みに震えていた。

僕は泣きそうになりながら周囲を見回し、持ってきた水筒をつかんで、黄色いやつの横に置いた。

両手で慎重に黄色いやつをすくいあげて、水筒に移しかえる。

壜の蓋も割れてしまっていたから、しかたなくタッパーみたいな水筒の蓋を閉めた。

不意に、地獄からの唸り声が消えた。

「うーん……」

僕の傍に倒れていた賀川が、呻きながら体を起こした。

それを皮切りに、みんなが意識を取り戻して、次々と立ち上がった。

でもみんな、頭や顔に手を当て、背中を曲げて、ずいぶん気分が悪そうだ。

それは宮島先生も同じだった。

「今日の練習は中止だ……全員家に帰りなさい」

それだけ言って、メンバーの容態を見るでもなく、宮島先生はふらふらと教室から出て行った。

それに続いて、ほとんど無言で、みんなもゾロゾロと外に出て行く。

体を引きずるような重い足取りで、まるでゾンビみたいに。

僕は床に座り込んだまま、黄色いやつと共に教室に取り残された。

みんなのように気分が悪くはなかったけど、ただ、僕の視界はまだ色褪せている……。

僕は手もとを覗きこみ、水筒の中の黄色いやつを見た。

プラスチックの底で、黄色いやつは少し丸みを取り戻していた。透明の液体が底から3センチぐらい上まで溜まっている。

でも……僕には、透明の液体までかき集めて、一緒に入れる余裕があったっけ?

僕はスポーツバッグを担ぎ、一人家に向かって歩き出した。

何故だか足もとがふわふわしている。

少しはマシになったけど、相変わらず景色は色褪せていた。

真っ青だった夏の空が、冬の空のような淡い水色をしていた。

(あの声はなんだったんだろう。みんなが倒れたのは……。黄色いやつのしわざなのか?)

考え込みながら、僕が例の空家の前を通った時だった。

「そこの、ユニフォームを着たキミ」

空家の脇から声が飛んできた。

見ると、垣根の外に、皺の寄ったシャツを着た、四十過ぎぐらいのひょろ長い体つきの男が立っていた。

このあたりに人がいるなんて珍しい。

「昨日キミ、この家に入らなかったかい?」

男はいかにも子供相手の柔らかい口調でそう言った。

でも口調とは裏腹に、眉間には皺が刻まれ、鬱々とした目で僕を睨んでいる。

男は頬が痩けていて、陰気な感じで、顔色が悪かった。

但し、顔色だけは他の景色と同じで、僕の目に色褪せて見えているだけかもしれない。

「入ってないよ」

僕は反射的に嘘を付いた。

「そうかい、おかしいなあ。おじさんは昨日の夕方に、この家に来たんだよ。その時、キミによく似た子が裏のほうから出てくるのを見たんだけどなあ」

男はわざとらしく不思議がってみせる。

そういえば、僕は昨日、物音に驚いて我に返ってこの家を出たんだった。

あの物音は、この男が空家の敷地で立てた音だったのかもしれない。

僕が黙っていると、男は続けた。

「ここにあるはずのものが、無くなっているんだけど、キミ知らないかな。これ位の大きさのガラス壜なんだ。中に卵の黄身みたいなものが入っている」

男が手振りで、まさにあの壜の大きさを示す。

僕は内心動揺して、肩にかけたスポーツバッグに意識を集中させた。

僕は黄色いやつを手放すことなく持ってきていた。

今はタオルでくるんだ水筒に収まっている。

「なんなのそれ、変わったものだね。おもちゃ?」

僕は知らないふりをして聞いてみた。

男はいったん視線を僕から外して上空を見上げ、また僕を見た。

「そう、おもちゃだ。死んだ娘の形見なんだ。娘はそれをとても大事にしていてね。だから手元に置いておきたいんだ」

僕は男を疑った。

あんなおもちゃがあるもんか。

「でも、ここって空家でしょ?」

「空家でも持ち主はいるさ」

そうか、と僕は思った。

てっきり誰のものでもないのかと。

「でも、この家こんなに荒れて、放ったらかしだよね。大事なものなのに、こんな所に置きっぱなしだったの?」

僕の質問に男が答える。今度はすぐに。

「……気味が悪かったんだ」

その一言だけは、本心から言っているように思えた。

「ふうん」

僕は心を決めた。

だったら、僕が代わりに大事にするよ。

「でも僕はそんなもの知らないよ」

男にそう言い捨て、僕は走り出した。

チームのみんなが倒れたのは、黄色いやつの仕業かもしれない。

だとしても、黄色いやつは悪くない。

入れ物が割れてしまったから、あんなことになったんだ。

だからちゃんと『管理』すれば、大丈夫なはず……。

僕は走り続けた。

そのまま川沿いの道を抜けて、自分の住む家のある住宅街に入った。

狭い区域にぎっしりと家が詰まっている。

隣の家との距離なんてないも同じだ。

それでもとにかく一戸建てだ、とお父さんはよく言っている。

家の近くまで来て、僕は走りながらチラっと後を振り返った。

男が追ってくる姿はなかった。

安心してスポーツバッグを肩に掛け直す。

その途端、僕は犬に吠えられた。

僕の家の斜め向かいの家で飼っている、カイザーという名の白い雑種の雄犬だ。

しまった、と僕は思った。

うっかり走ってしまった。

この犬は、道路を走る人間に必ず吠えるんだ。

しかも牙を剥いてすごく五月蠅く長く吠える。

僕は犬は好きだけど、この犬だけは苦手だ。

僕は走るのを止めて歩き出した。

やっぱりカイザーは吠え続けて、鳴きやむ様子はない。

僕が家に入ってからも30分は鳴き続けるはずだ。

僕はうんざりした。

そこで僕に、ちょっとした悪戯心が芽生えた。

辺りを見回して誰もいないのを確認すると、僕はスポーツバッグを開けて、タオルをかき分け、水筒の上の部分だけ覗かせた。

それからほんの少しだけ、水筒の蓋を捲ってみる。

おおおおおおおおおおおお

さっきよりはかなり小さい、でもおどろおどろしい声が響いた。

カイザーはぴたっと鳴くのをやめて、落ち着かないそぶりで頭を上下させ、さっと犬小屋に逃げ込んだ。

(へえ、やっぱり犬でもこの声が聞こえるんだな)

僕は実験結果に満足して、蓋を戻した。

家の玄関のドアを開けると、お母さんがいた。

「あら、あんた練習は?やけに早いじゃない」

そう尋ねるお母さんのスカートの薄紫の花柄も、水墨画みたいに見える。

くつを脱いで家に上がりながら、僕は答えた。

「中止になったんだ」

「お兄ちゃん、どいてどいて」

突然、家の奥から小学生の女の子が走り出る。

僕は警戒して、肩にかけたバッグを背中のほうに回した。妹の楓だ。

「約束の時間に遅れちゃうよ。行ってきます!」

楓は何も気づかず、くつを履いて家を出て行った。

「ああ、友達とプールか」

楓が持っていたビニールバッグを見て、僕はつぶやいた。

「そう。2時間くらいで帰ってくるでしょ。ちょうどよかったわ。お母さんもちょっと買い物に行ってくるから、あんた留守番しててよ」

そういえば、お父さんは朝からゴルフだって言ってたっけ。

僕は、玄関を出て行くお母さんを見送った。

何だ、誰もいないんだな。

僕はリビングに入ると、リラックスしてバッグを床に下ろした。

洗濯してた畳んであった、お気に入りのTシャツと半ズボンをソファの上に見つけて、その場で着替える。

着替え終わったところで、家の電話が鳴った。

僕は電話のある玄関に行って、受話器を取った。

「もしもし」

『おう、木下か。親御さんは?』

よく知った声だ。コーチの宮島先生だった。

「出かけてます。すぐ帰ってくると思うけど」

『そうか。ところで、お前は何ともないか?実はな、メンバーが全員病院に運ばれた。あのあと、それぞれ家に帰ったところで意識を失ってな。入院することになった』

「え……」

『感染症かもしれないと医者は言っている。お前も病院に来て検査したほうがいい。親御さんが帰ったら、すぐに一緒に救急市民病院に来なさい』

電話は慌ただしく切れた。

感染症……?

僕は衝撃を受けつつ受話器を置いた。

(もしかしたら、あいつは猛毒なのか?僕はとんでもないことをしたのか?)

僕はリビングに走って戻り、バッグのジッパーを開けた。

タオルの中から恐る恐る水筒を取り出して、リビングのテーブルに乗せる。

僕は目を見開いた。

透明な液体が、水筒の半分ぐらいの位置まで増えていた。

黄色いやつはそこに丸々と浮かんで、すっかり元気を取り戻して光っている。

僕は少し恐くなって、テーブルから一歩、あとずさりした。

「きゃああ!」

突然、外から悲鳴が聞こえた。僕はドキッとして、飛び上がりそうになった。

悲鳴が聞こえた方向の窓に駆け寄ると、斜め向かいの家のおばさんが、犬小屋の横で屈んでいるのが見えた。

おばさんは白いものを抱え起こして、叫んでいた。

「カイザーが……カイザーが死んでる!」

僕はゾオッとなって、あわててカーテンを閉めた。

夜に閉める、分厚いほうのカーテンを。

動揺しながら、部屋のほうに体を向ける。

テーブルの上の黄色いやつが目に入った。

「あっ!」

僕は驚いた。黄色いやつが、いつのまにか水筒から出ていた。『生身』で出ているんじゃない。

始めにあった壜に入っていたんだ。

蓋の付いた、ひび割れ模様の、円柱形の。

「どうして?割れたはずなのに……」

カーテンを閉めた薄暗い部屋で、壜に満ちた透明な液体に浮かび、黄色いやつは相変わらずぼんやりと、でもさっきより力強く光っていた。

(なんなんだ、こいつ……。普通じゃない。そりゃ、普通じゃないのはわかってたけど……得体が知れなすぎるよ)

恐怖に満ちた目で、僕は壜を見つめた。

(どうしよう……)

僕は震える足を動かして、テーブルに近づいた。

(……どこかに捨てようか……)

大事にするって言った癖に。

そう、誰かが言ったような気がした。

それは僕自身なのか、それとも『そいつ』だったのか……

次の瞬間、黄色いやつが突然パアッと閃光を放った。

それまでの、全体からぼんやり滲み出ているような黄色い光じゃなく、怒ったような赤い光だ。

その光は壜に入った枝状のひびを一瞬で駆け抜けた。

まるで血管へ血が通うみたいに僕には見えた。

壜がゴトゴトと揺れ始めた。

小刻みに激しく震えて、その振動で壜の蓋が徐々に浮き上がる。

あんなに固かった蓋が、今にも外れそうだ――

外れた!

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

噴き出すように、あの地獄からの唸りが響いた。

僕はガタガタ震えて、その場にすわりこんだ。

唸り声は、よく聞くとひとつじゃない。

大人の低い声が、何十人分も何百人分も合わさっている。

そこに小さな女の子の声と、犬の声も混じっていた。

犬の鳴き声は聞いたことがあった。――これはカイザーだ。

僕は思った。きっとこの黄色いやつは、生き物の魂を食べるんだ。

だからカイザーは死んだんだ。

この唸りは食べられたものの声。

そんな危険なやつだから、誰かが壜の中に閉じ込めたんだろうか?――

違う。きっと貝みたいに、壜もこいつの一部なんだ。

口の代わりの蓋を、お腹が空いた時だけ開けて、目の前にいる生き物の魂を取り込むんだ。

ひびは本当に血管で……ああ、そんなことより、どうしよう。

頭が割れそうに痛い。

僕まで気を失いそうだ。魂を食べられる――

ガチャン!と、窓のほうから音がした。

閉めていたカーテンが向こう側から開き、光が入る。

目を凝らすと、窓ガラスが割られているのが見えた。

そこから男が入ってきた。空家の前で僕に声をかけたあの男だ。

男は土足でリビングに駆け上がり、黄色いやつの入った壜の蓋を素早く閉じた。

ぷっつりと声が途絶えた。

知らない内に、僕は床に這いつくばっていた。

僕は何とか両手足に力を入れて、上体を起こした。

体が異常に重い。

床の上ですわるのが精一杯だ。

「やっぱりお前が持っていたのか」

言いながら、男が壜をテーブルから持ち上げる。

「ごめんなさい、でも……」

僕は軽く頭を振った。まだガンガンする……。

「でも、それは何?」

「こいつは卵さ。形を取る前のもの。形になって生まれるために、養分を取っているところなのさ」

男は、なんだか適当な様子で答えた。

僕は尚も尋ねた。

「生まれたら何になるの?」

「さてね」

僕はぼんやりと考えた。

きっとあいつは、悪魔の卵だ。

人間やほかの生き物の魂を食べて大きくなって、最後に悪魔が生まれるんだ。

「とにかくこいつは危険でね。坊主も殺されたくなかったら、こいつのことは忘れるんだな」

男は壜を持ったまま、割れた窓から出て行った。

とりあえず危機は去った……と、思っていいんだろうか。本当に?

僕は助かったのかもしれないけど……

いろいろ考えながらもまだぼうっとしているうちに、お母さんが帰ってきた。

「悟士!どうしたのよこの窓!」

割れた窓を見るなり、お母さんはすごく怒り出した。

うん、割っちゃったんだ、ごめん。僕は心ここにあらずで生返事をした。

それから急に思い出して、

「お母さん、あの空家で人が死んだって話、聞いたことある?あの、町外れの川のそばにある空家だよ」

立ち上がって尋ねた。

ガラスの破片をゴミ袋に入れていたお母さんは、面倒そうに顔を上げた。

「誰に聞いたのよ。わざと黙ってたのに」

「ええ?どうして?」

不本意だ。

「あんたは余計な好奇心が旺盛だから、話を聞いたら空家を調べに行くとか言い出しそうでさ。ちょっと、本当に行ったら駄目よ」

僕は曖昧に頷いた。

聞いても聞かなくても、僕は空家に入ったわけだ……

「あそこは、本当に危ないんだから」

「どうして?何があったの?」

「あんたが生まれる二年ぐらい前だったかな。その頃あそこの家には、若いご夫婦と小学生の女の子が住んでたんだけど……お父さんとお母さんが、次々に亡くなったの。」

「…」

「それが病気や事故じゃなくて、自然死だって話でね。おかしいでしょ、まだ若い人たちだったのに。」

「…」

「で、変だなって噂してるうちに、女の子まで家の中で倒れてて。こっちも、どこも悪いところはないのに、眠るように亡くなってたんだって」

「じゃ、みんな死んじゃったの?」

「そうよ。そのあとそこの親戚の人が何人か、あの家を片付けにきたんだけど……その親戚の人たちも次々と同じように亡くなってね」

僕は、荷物を半分だけ纏めたような、あの家の様子を思い出した。

「その上、人が亡くなる前には必ず、妙な声があの家から聞こえてきたんだって。亡くなる直前の断末魔だとしても、男の人はともかく、とても女の人や子供の声には聞こえなかったって話よ。私は聞いてないんだけどね」

声。

きっとあの唸り声だ。

あの家の人たちも、黄色いやつに魂を食べられたんだ。

「それで片付ける人もいなくなって、あの家は十年以上放置したままなの。原因がわかってないんだから、いつまた同じことがあるかわからないでしょ。だからあんたも、絶対にあそこに行ったら駄目よ」

僕は念を押され、力なく笑った……。

女の子は多分、黄色いやつを僕みたいにどこかから持ってきたんだろう。

まさか周りの人が死ぬなんて思わずに。

僕の心は暗くなった。

だったらチームのみんなはどうなるんだ?

死んじゃうんだろうか?

それに、女の子まで死んじゃったんなら、僕も死ぬってことだろうか?

ああ、僕があいつをあの家から持って来なきゃこんなことには……

僕はその後、二階に上がるふりをして、お母さんの目を盗んで玄関から外に出た。

僕は走った。

町じゅうを走った。

壜を持っていった、あの男を探すために。

(取り戻さなきゃ)

黄色いやつを取り戻すんだ。

そして黄色いやつを調べて、みんなが助かる方法を探すんだ。

それにあの男は、女の子の父親じゃなかった。

嘘を付いてたんだ。

どうして?

わからないけど……黄色いやつが欲しかったのかもしれない。

あの男はこう言った。

『坊主も殺されたくなかったら、こいつのことは忘れるんだな』

ということは、黄色いやつが人を殺すことを知ってたんだ。

それとも、『忘れなきゃ殺すぞ』って、僕を脅したつもりだったのか?

どっちにしてもあの男は信用できない。

あんなやつが黄色いやつを持っていて良いわけがないんだ。

やがて僕は町外れまで、あの空家の近くまで来た。

川べりには、やっぱりどこか色褪せた柳の葉が揺れていた。

この、『色褪せて見える』も、黄色いやつのせいなんだろうか?

僕の魂もいくらかあいつに吸われているんだろうか。

そんな、色彩のはっきりしない景色の中で、あの空家もいつにも増して古びて見えた。

あれ、だけど、いつもと違うのはそれだけじゃないみたいだ。

玄関のドアが――開いてる!

僕は予感のようなものを感じて、玄関に飛び込んだ。

家に上がっていくつかの部屋を見て回り、裏に面した畳の部屋、あの、窓が割れた部屋の中に、とうとう男の姿を見つけた。

僕が廊下から部屋を覗いた時、男は机の向こう側で、こっちに背を向けた形で立っていた。

「見つけたぞ!」

僕は大声を上げて部屋に飛び込んだ。

男は驚いたように振り返り、僕を見た。

「お前、何にしに来た!?どうしてここが……」

男は両手で黄色いやつの入った壜を持っていた。

「どうだっていいよ、そいつを返せ!」

僕は叫んだ。

「あんたは空家の持ち主なんかじゃない!僕は知ってるんだ、女の子のお父さんも死んでるんだ!」

言ってから、僕は息を飲んだ。

机の影で今まで気づかなかったけど、男の足もとに誰か倒れていた。

うつ伏せで顔は見えない。黒っぽいスーツを着ている。

「忘れろと言ったはずだがな」

男はにやりと笑い、畳に倒れたその人間に目をやった。

「こいつは、借金の取り立て屋だ」

男はあの壜を、少し上に持ち上げた。

「あんまりしつこいからなあ、これで……」

そんな、と僕は思った。

「あんた、黄色いやつに、邪魔な人を殺させるつもりだったんだな!?」

「そうさ。これは人の魂を吸う悪魔の卵。吸われた人間は自然に死んだようにしか見えないんだ。便利だろう」

男が僕に視線を戻した。

「俺は空家の持ち主の遠縁の親戚でな。家の片付けに駆り出された時に、この卵がほかのやつの魂を吸うのを目撃したのさ。」

「なに?」

「あの時はわけがわからず、ただ不気味で……俺はひとりで逃げ出した。あとになって、長いことかけて古い文献なんかをあさって調べて、やっと正体がわかったんだ。」

「?」

「気づいてみりゃ、あちこちで借金をして逃げ回ってる今の俺に、こんなに必要なものはなかった」

男は左手だけで壜を持ち、蓋の上に右手を乗せた。気のせいか、黄色いやつは大きくなっている。

「それで慌てて取りに行ったたら、寸でのところで坊主に持っていかれたってわけだ」

壜の蓋は、簡単には開かないはずだ。

開くとすれば――

黄色いやつはお腹を空かせてるんだ。

「子供を死なすのは気が引けるが、仕方ないなあ」

男が壜の取っ手に指をかける。

「坊主、お前もいよいよ邪魔になったよ」

男が壜の蓋を持ち上げた。

蓋は――

軽々と開いた。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

地獄からの唸り声が響いた。

その響きに合わせるように、黄色いやつは壜の中でぐるぐると回転し始めた。

強く光りだし、膨張して、大きくなった。

壜いっぱいに広がった。

「!?」

男がその異変に気づいた。

「しまった、魂を吸わせすぎたか!」

男は蓋を閉め直そうとする。

でも、それより速く、透明の液体が壜の中から勢いよく溢れ出して、蓋を押し返した。

液体は水柱になって蓋を弾き飛ばした。

黄色いやつが空中に舞った。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

黄色いやつはそのまま宙に浮き、どんどん大きくなっていく。

「くそ!」

男がパイプ椅子を持ち上げた。

あれ、どこにパイプ椅子なんかあったんだろう?

とにかく男は椅子を、あっというまに男の背丈以上に大きくなった黄色いやつに振り下ろした。

黄色いやつはぶよん、と二つに割れた。

といってもバラバラに分かれてはいない。

口を開けるような感じで、反対側はくっついている。

口みたいに開けた中身は、暗い黄色や淡い黄色が渦を巻いていた。

黄色いやつは開いた口のほうを男に向けて、そのままのしかかっていく。

「うわあああああ!!」

男が悲鳴を上げた。その声は、あの唸り声と重なり合い、混ざっていった。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

黄色いやつは男の体をすっかり飲み込み、口を閉じた。

僕は茫然と立ち尽くして、その光景を眺めていた。

黄色いやつは完全な丸い形に姿を戻し、もっともっと大きくなっていった。

部屋いっぱいにアドバルーンみたいに広がった。

白い壁に黄色い光が反射する。

白い壁?

いつのまにか、僕は知らないマンションの一室に立っていた。

男の住処だろうか。

ううん、よく見ろ、ここは僕の家の一階だ。

ほら、あの割れたガラス窓はリビングのものだ。

いやいや、やっぱり窓の割れた、あの空家の中だ――。

周りの景色が次々に変わっていく。

その中央で黄色いやつが大きくなっていく。

中身が渦を巻いているのが透けて見える。

その渦は、何かの形を取ろうとしていた。

生まれるんだ。

形を取って生まれるんだ!

渦はやがて、人の姿になった。

とても見覚えのある姿。

それはそっくりそのまま、僕だった。

目を覚ますと、白い天井が見えた。

僕は病院のベッドに横たわっていた。

その病室はベッドがいくつもある大部屋で、僕のほかにはチームのメンバー全員と、宮島先生が眠っていた。

僕は布団をめくって自分の服装を見た。

ユニフォームを着たままだ。

僕のいるベッドの脇の床の上には、誰かが持ってきてくれたんだろう、派手な紺色のスポーツバッグが置いてある。

色褪せていない、鮮やかな紺色のバッグが。

ベッドをおりて開けてみると、タオルと空の水筒が入っていた。

そうか、僕は多分、学校の教室で壜が割れた時に気絶したんだ。

メンバーみんながあそこで気を失って、そのまま病院に運ばれたんだ。

ああ、あれは夢だったんだ。

――とは思えなかった。

だって、僕の寝ていたベッドの枕もとに、黄色いやつの入ったガラス瓶が置いてあったから。

ただ、中身の黄色は小さくなっていた。さくらんぼほどの大きさもない。

僕が見ると、まるで『育てろ』と言いたそうに、ぼんやりと光った。笑っているようにも見えた。

なんだか僕は、すべてがわかった気がした。

あの声を聞いた者は、その時点で魂を食われ始めているんだ。

餌になった生き物は、死ぬか――育てる側に回るんだ。

こいつはひとりでは動けないから、自分を餌の前まで運んでくれる存在が必要なんだろう。

あの空家の女の子も、きっと育てる側にいたんだ、ある期間は。

でも両親が死んで、黄色いやつの本性がわかって、女の子は黄色いやつを殺そうとした。

それで黄色いやつが怒って、女の子の魂も食べつくしてしまったんだ。

僕がそんなことを思っていると、救急車の音が響いた。

2台分だ。

音からして、出動先から戻ってきたらしい。

僕は窓際に行って窓を開けた。

丁度、真下に2台の救急車が止まっていた。

そこから一人ずつ、あわせて二人、ストレッチャーに乗せられて人が搬送されていく。

血の気を失い、眠るように目を閉じて横たわっているのは、黒いスーツ姿の若い男と、それから――壜を探していたあの男だ。

「S町のマンションで倒れていました。外傷はなし、心肺停止――」

そんな会話が聞こえた。

僕は窓を閉めた。

あの時、僕は本当にあの男と会っていたんだと思う。

あの男の魂もとっくに――十年以上前、家を片付けに行った時に――取り込まれていて、僕たちは同じ場所にいたんだ。

黄色いやつの中に。

女の子と同じで、男は黄色いやつを殺そうとして、逆に殺された。

そして僕は、黄色いやつの飼育係として選ばれたんだ。

卵が育った先の姿は、『飼育者』なんだ。

それとも、僕はとっくに選ばれていたんだろうか。

黄色いやつをたくさんばらまいてしまったから。

壜が教室の床に落ちた時、黄色いやつは実は小さく分裂して、数を増やしたのかもしれない……。

そう思うのには理由があった。

僕はメンバーみんなのベッドに目をやった。

まだ誰もが眠ったままだけど、その枕もとにはひとつずつ、全員分の壜が置いてあった。

さくらんぼ大の黄色いやつが、その中で笑っていた。

ひよわな体で、でも活発に明滅する黄色いやつたちを、僕はただ眺めた。その数の意味も考えずに……

その時、メンバーのひとりが目を覚まし、上体を起こした。クラスメイトの賀川だ。

賀川は焦点の定まらない目をして、ベッドの上で小さくつぶやいた。

「僕だった……」

「え?」

僕は聞き返した。

「卵が育って、僕になってた」

賀川の答えに、僕はショックを受けた。

何てことだろう、あの場には賀川も、ううん、きっとメンバー全員がいたんだ。

僕を通して、僕の立場で。

枕もとの壜の、それぞれが飼育者になったんだ。

賀川はまだ夢うつつでボーッとしている。

今の内だ、と僕は決心し、メンバーとそして宮島先生のベッドを回って、壜をすべてつかみ上げた。

それを、自分のスポーツバッグに全部詰め込み、病院を飛び出した。

道すがら、さてどうしよう、と、僕は思った。

壜を壊すのは危険だ。

黄色いやつは僕を殺そうとするだろう。

それに、黄色いやつの中には僕の魂も、みんなの魂も、少しずつ入ってるんだ。

殺したら、中の魂にもダメージがあるかもしれない。

ああ、今ではあの唸り声に、僕たちの声も混ざっているんだろうか……。

考えた末、僕はコンビニに寄ってガムテープと厚手の紙袋を買った。

そして家に帰り、誰にも気付かれないように二階の自分の部屋に入った。

床に座ってスポーツバッグから壜を取り出すと、僕はガムテープで、壜と蓋をぐるぐる巻きにした。

一つ一つ丁寧に。

黄色いやつがお腹を空かせても、勝手に蓋が開かないように。

そう、蓋を開けさえしなければ誰も魂を取り込まれないし、僕たちだって安全だ。

餌をもらえなくて卵が餓死するってことはないと思う。

十年以上あの空家で放ったらかしでも、元気に生きていたんだから。

僕はその壜を紙袋に入れて、さらにその上からガムテープを何重にも巻きつけた。

それを押入れの奥の奥に隠した。

よし、これで大丈夫だ。

押入れの襖を閉めて、僕は安堵の笑みを浮かべた。

ただ、僕は知らなかったんだ。

妹の楓が、部屋の前までこっそり僕に付いてきていたことを。

ドアの隙間から、僕が初めて黄色いやつを見た時みたいに好奇心いっぱいの瞳で、壜を見つめていたことも。

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん  

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