中編3
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飛蚊症

「ひぶんしょう」と読むのだそうだ。

それを知ったのは、沙織からの電話でだった。

医学関係書などで、症状と「飛蚊症」という病名は知っていた。

ただ、その読み方を知らないでいたのだった。

沙織は学生時代からの友人だ。

季節の便りのやりとりの他、ごくたまに電話で世間話をしたりする。

その沙織が、最近、飛蚊症に悩まされているという。

「読み方を知らなかった私がわかったようなことは言えないけど、飛蚊症ってわりとよくある症状で、さして気にすることはないと聞いたような・・・」

電話口で、私は言った。

その程度の知識はあった。

飛蚊症。

明るいところや白い壁を見たとき、目の前に糸くず状の浮遊物が飛んでいるように見えることがある。

視線を動かしても一緒に移動するように感じられ、まばたきをしても眼をこすっても消えない。

原因は眼球内の「濁り」で、老化による物が多いという。

「それはわかってる。私だって、その程度は調べたよ。」

沙織は言った。

「これは普通の飛蚊症じゃないの」

「どう普通じゃないんの?」

「それはつまり、その……」

沙織は言いよどんだ。

「ねえ……私の言うこと、信じてくれる?」

「内容にもよるけどねぇ」

「その……飛んでいるように見えるのが、糸くずとか虫とか、そういうんじゃなくて……」

そこで、またも言いよどむ。

私は何も言わず、そのまま次の言葉を待った。

面と向かって話していたら、「フンフン?」というところだ。

「首なの」

「え?」

意外な単語が出てきたので、耳を疑った。

「くび……?」

「うん。人の首。……人の頭が飛んでいるように見えるの、それも無数の……」

「えっと、その……どんな顔してるのかな。知った顔?」

「いや……知らない顔ばかり。男性、女性、大人、子供……いろいろいる。それが、眼の前を飛び回るの。別に、血まみれってわけでもない。普通に街中を歩いているような顔で、ただ、首だけ……」

「…………」

私は、何も言えなかった。

何かの悩み相談室とか、インターネットの質問サイトに載っていたのなら、「頭がおかしいんじゃないの」と思うところだ。

「何かに祟られるような覚えもないし……言っとくけど、頭はまともなつもりよ」

読まれてる。図星であった。

「眼医者さんにも行ったけど、普通の飛蚊症の説明しかしなくて、らちがあかないの。……とにかくもう、正直うんざりしてる……」

それから少しのやりとりの後、電話を終えた。

電話での会話で解決できる問題ではなかった。

実際に顔を見て話していれば、眼の動きとか身体の動作とかで、本当に沙織が精神的に不安定な状態かどうか、判断できたかも知れない。

だが、私は精神科の医者でもなんでもないのだ。

それっきり、沙織から電話はなかった。

1ヶ月ほど過ぎた頃、沙織の母親から電話があった。

沙織が死んだという知らせであった。

私にはあれから電話はかからなかったが、例の「飛蚊症」の症状は続いていたらしい。

かなりひどいノイローゼ状態だったという。

それが高じて、ついに首をつって自殺したのだそうだ。

……だが、実を言えば、沙織の母親からの知らせを聞くまでもなかった。

私はすでに、沙織が死んだであろうことを確信していたのだ。

実は数日前から、私も飛蚊症に悩まされていた。

おそらく、その頃に沙織は死んだのだと思う。

今ならわかる。

沙織は本当のことを言っていた。

おそらく、本当に沙織は自分の周囲を飛び回る首を見ていたのだ。

今の私なら、沙織の言葉を信じられる。

現に今、私の周囲にも首が飛び回っているのだ。

ただ、沙織の話と私の場合が違うことが一つ。

私の周囲を飛び回っているのは、沙織だった。

沙織の首だった。

無数の沙織の首は、とろ~んとした目をして何か言いたげに口をぱくぱくしながら、私の回りを漂っている。自慢の黒髪を振り乱しながら……

さて、どうしたものか……

無数の沙織の首が……

とろ~んとした目をして……

自慢の黒髪を振り乱しながら……

沙織の首が……

無数の首が……

キャハハハハハハ……

怖い話投稿:ホラーテラー 彩子さん  

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