中編3
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記憶喪失

真っ白な部屋の純白のベッドの上、一人の男が横たわっていた。

眠っている訳ではなく、仰向けで、ただじっと天井を見つめていた。

そこへ白衣姿の白髪の医者が近づいてきた。

医者は男に声を掛けた。

「具合はどうですか? だいぶ良くなりましたかな?」

男は半身を起こそうとし、医者はそれを制止した。

「そのままで結構ですよ。安静になさっててください。調子はいかがですか?」

男は再び横になり、寝たまま医者の顔を見て、ゆっくりと口を開いた。

「お陰様で、体はだいぶ良くなりました。ただ、事故のときに頭を少し打ったようで、記憶がハッキリしないんです」

男は悪いところを示すかのように、軽く頭に手を当てた。

医者は淡々とした口調で答えた。

「ええ。先ほど看護師から聞きましたよ。しかし、あなた、お名前は覚えていらっしゃるんでしょう?」

「……はい。田中と言います」

「それでは何が思い出せないのです? 事故の時の記憶ですかな?」

「……いえ。事故の状況は覚えています。私は恥ずかしながら会社でリストラに遭いまして、現在は求職中の身です。それで職業安定所へ向かう途中だったのですが、突然右折してきた乗用車に撥ねられました。その車はシルバーのセダンでした。すぐに運転手が降りてきて、その後は……」

男は段々と早口になった。

医者は頷きながら話を聞いていたが、途中で男の話を遮った。

「はい。事故の詳しい状況は警察から伺っておりますので結構ですよ。でも覚えておられるんですね。しかし他に思い出せないことがある。それは何ですかな?」

医者の問いかけにも、男は医者と目を合わせたまま、しばらく黙り込んで答えなかった。

そして医者の方に向けていた顔を再び天井に向け、無言で天井を見つめだした。

医者は再度の問いかけを試みた。

「何が思い出せないのか言っていただけないと、解決のしようがありませんよ」

しばらくの沈黙の後、男はまた医者の方に振り向き、こう話した。

「……私がなぜ生きているのか、それが分からないんです」

「なぜ? それはあなたの運が良かったか、お体が丈夫だったからでしょう。車に撥ねられても、現にこうして無事でいらっしゃる訳ですから」

「……いえ、そういう意味ではありません。私が何のために生まれて来たのか、それが分からないんです」

男のその発言で、その場に再び沈黙が訪れた。

しかし、すぐにそれは医者の笑い声で打ち消された。

「ははは。哲学的ですね。それは私にも分かりません。まぁ、体も元気になられたわけですから、明日、また検査しましょう。近いうちに退院できると思いますよ」

立ち去ろうとする医者に、男はさらに言葉をかけた。

「……先ほどから先生とお話している間も、何か少し、思い出せそうな気がしてるんです。頭に何か、モヤモヤと浮かんでくるものがあるんです」

「それはきっと気のせいでしょう。退院してからでも遅くない。じっくりと考えるんですな」

「……何かが、思い出せそうなんです」

笑顔の医者とは対照的に、男は真剣な表情を崩さなかった。

考え続ける患者を置いて、医者は診察室へと戻っていった。

それから数時間の後、医者は病院2階の休憩室で椅子に座り、男の担当の看護師と談笑していた。

「402号室の田中さん、あれちょっと来ちゃってるね」

「あっ、先生もお聞きになりましたか。私、その後も見回りに行ったんですけど、ずっと呟いてるんですよ。 “何かが思い出せそうなんだ” って」

「全く馬鹿げてるよなぁ。それが分かりゃ苦労しないって。きっと頭の打ち所が悪かったんだ。こりゃ、もう一度脳検査しないと駄目だな」

「ふふふ。その方が良さそうですね」

その時、彼らのすぐ近くの窓に、一瞬、黒い影が映った。

彼らがそれに気づいて振り向いた瞬間、今度は大きな物音がした。

「きゃ!」

看護師は小さく声を上げた。

医者はすぐに椅子から立ち上がり、窓に近づいた。

そして窓を開け、身を乗り出し、下を覗いてみた。

「た、田中さん……」

医者は小さく、そう声を出すと、ゆっくりと上体を起こした。

そして無言のまま、看護師の方に振り返った。

看護師は不安そうな表情で、医者の顔を覗き込んだ。

医者はゆっくりと首を振り、苦々しい顔をした。

怖い話投稿:ホラーテラー オオカミ少年さん  

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