真っ白な部屋の純白のベッドの上、一人の男が横たわっていた。
眠っている訳ではなく、仰向けで、ただじっと天井を見つめていた。
そこへ白衣姿の白髪の医者が近づいてきた。
医者は男に声を掛けた。
「具合はどうですか? だいぶ良くなりましたかな?」
男は半身を起こそうとし、医者はそれを制止した。
「そのままで結構ですよ。安静になさっててください。調子はいかがですか?」
男は再び横になり、寝たまま医者の顔を見て、ゆっくりと口を開いた。
「お陰様で、体はだいぶ良くなりました。ただ、事故のときに頭を少し打ったようで、記憶がハッキリしないんです」
男は悪いところを示すかのように、軽く頭に手を当てた。
医者は淡々とした口調で答えた。
「ええ。先ほど看護師から聞きましたよ。しかし、あなた、お名前は覚えていらっしゃるんでしょう?」
「……はい。田中と言います」
「それでは何が思い出せないのです? 事故の時の記憶ですかな?」
「……いえ。事故の状況は覚えています。私は恥ずかしながら会社でリストラに遭いまして、現在は求職中の身です。それで職業安定所へ向かう途中だったのですが、突然右折してきた乗用車に撥ねられました。その車はシルバーのセダンでした。すぐに運転手が降りてきて、その後は……」
男は段々と早口になった。
医者は頷きながら話を聞いていたが、途中で男の話を遮った。
「はい。事故の詳しい状況は警察から伺っておりますので結構ですよ。でも覚えておられるんですね。しかし他に思い出せないことがある。それは何ですかな?」
医者の問いかけにも、男は医者と目を合わせたまま、しばらく黙り込んで答えなかった。
そして医者の方に向けていた顔を再び天井に向け、無言で天井を見つめだした。
医者は再度の問いかけを試みた。
「何が思い出せないのか言っていただけないと、解決のしようがありませんよ」
しばらくの沈黙の後、男はまた医者の方に振り向き、こう話した。
「……私がなぜ生きているのか、それが分からないんです」
「なぜ? それはあなたの運が良かったか、お体が丈夫だったからでしょう。車に撥ねられても、現にこうして無事でいらっしゃる訳ですから」
「……いえ、そういう意味ではありません。私が何のために生まれて来たのか、それが分からないんです」
男のその発言で、その場に再び沈黙が訪れた。
しかし、すぐにそれは医者の笑い声で打ち消された。
「ははは。哲学的ですね。それは私にも分かりません。まぁ、体も元気になられたわけですから、明日、また検査しましょう。近いうちに退院できると思いますよ」
立ち去ろうとする医者に、男はさらに言葉をかけた。
「……先ほどから先生とお話している間も、何か少し、思い出せそうな気がしてるんです。頭に何か、モヤモヤと浮かんでくるものがあるんです」
「それはきっと気のせいでしょう。退院してからでも遅くない。じっくりと考えるんですな」
「……何かが、思い出せそうなんです」
笑顔の医者とは対照的に、男は真剣な表情を崩さなかった。
考え続ける患者を置いて、医者は診察室へと戻っていった。
それから数時間の後、医者は病院2階の休憩室で椅子に座り、男の担当の看護師と談笑していた。
「402号室の田中さん、あれちょっと来ちゃってるね」
「あっ、先生もお聞きになりましたか。私、その後も見回りに行ったんですけど、ずっと呟いてるんですよ。 “何かが思い出せそうなんだ” って」
「全く馬鹿げてるよなぁ。それが分かりゃ苦労しないって。きっと頭の打ち所が悪かったんだ。こりゃ、もう一度脳検査しないと駄目だな」
「ふふふ。その方が良さそうですね」
その時、彼らのすぐ近くの窓に、一瞬、黒い影が映った。
彼らがそれに気づいて振り向いた瞬間、今度は大きな物音がした。
「きゃ!」
看護師は小さく声を上げた。
医者はすぐに椅子から立ち上がり、窓に近づいた。
そして窓を開け、身を乗り出し、下を覗いてみた。
「た、田中さん……」
医者は小さく、そう声を出すと、ゆっくりと上体を起こした。
そして無言のまま、看護師の方に振り返った。
看護師は不安そうな表情で、医者の顔を覗き込んだ。
医者はゆっくりと首を振り、苦々しい顔をした。
怖い話投稿:ホラーテラー オオカミ少年さん
作者怖話