中編5
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何も出来ない

鏡を覗くと老婆の顔がそこにあった。

私はあまりの驚きに声も出ず、じっと鏡の中の老婆と見つめ合っていた。

「どうしたの、ユウコ?鏡なんか見つめちゃって。」

そう後ろから声をかけられ、振り向くと母がいた。

「お母さん、今ね…」

再び鏡を見直すと、そこにはいつもの私の顔しか映っていないない。

あれ、今確かに…。

「思い出に浸るのもいいけれど、早く支度しちゃいなさい。卒業式に遅れるわよ。」

そうだ、今日は彼に会える最後の日。今日こそ思いを伝える最後のチャンスなんだ。

私は鏡に映った顔の事なんてすぐに忘れて、学校へ向かった。

式が終わると、急いで体育館の裏へ。

親友のカナに、彼を呼び出してくれるようにお願いしたの。カナは彼と仲が良いから。

だけどそこにいたのはカナだけだった。

どうして?問い詰めるとカナは、

「ごめんねユウコ…ずっと言い出せなかったけど、実は私、彼と付き合っているの。本当にごめんなさい…」

頭が真っ白になって、何も言えなかった。

二人が付き合っているのも知らないで、私は何を一人で盛り上がっていたのだろう。

カナの事をあの人の彼女なのだと思うと、恨むよりも気後れしてしまって、謝られる程に恥ずかしくなり、何も言えないままそこから立ち去った。

それにしても、私はなんて不幸なのだろう。好きな人に思いも告げられないなんて。

私はそれからも彼の事が忘れられず、ぼんやりした気持ちのまま、一人で過ごした。

気付くと、もうあの日から六十年も経っていた。

ある日、一通の手紙が届いた。それはカナからだった。

カナとは、六十年前のあの日から連絡を取っていない。

手紙には、

「お久しぶりです。話したい事があるので、お会い出来れば幸いです」

とだけ書かれていた。それと場所が、隣町の病院の一室。

もう六十年だ。積もる話もあるだろうと、出向く事にした。

その病室のベッドには、老い、痩せこけたカナが、一人で横たわっていた。

「あの人なら、もう死んでしまったわ」

皺だらけのカナは、先ずそう言った。

「早くに認知症にかかってしまってね。長い事看病して、逝ったのは二年程前。最後には、私の名前なんかすっかり忘れちゃっててね。こんな風に言うのよ。ユウコさん、こっちへ来て。ユウコさん、済まないねえ。」

私は息を飲んだ。カナは一人で語る。

「私はねえ、そもそもあなたに良くは思われてはいないでしょうけど、それでもね、あなたが思うよりも、もっともっと嫌な女なのよ。知ってる?彼はあなたの事ずっと好きだったの。実はあの日ね、彼、あなたを呼び出す様に、私に頼んできたのよ?どうして私なんかに頼んだんでしょうね。私はあなたの事が、憎くて憎くてたまらなかったのに」

カナは咳をしながら、顔を窓の方に向ける。

私は目のやり場を失い、ベッド脇の台に、果物と、それを切るナイフが置いてあるのを見る。

「私は彼に、あなたがもう他の男と付き合っている、と嘘を言ったわ。そしたら彼、それでもいい、思いだけでも伝える、なんて言い出すの。だから私、もう必死でね、『ユウコは優しいから、あなたの思いを断る事にきっと心を痛めるわ。それは親友として見過ごせない』なんて、でまかせ言ってやったの。もうやぶれかぶれで、ついでに場違いな告白までしちゃった。そしたら、彼、何を考えたのか、『分かった』って言ったの。それから付き合い始めたのだけど、そういえば私、あの人から一度も好きだって言われた事ないわね。今気付いた」

カナは顔を窓に向けたまま、そこにナイフがあるから好きな時に使ってね、とサラリと言った。

私は何も出来ない。

「そしてあの体育館の裏でも、私はもう一芝居打ったって訳ね。…でもね、信じてもらえないでしょうけど、私、その後これっぽっちも幸せになれなかったわ。ずっと、あなたに彼を奪われやしないかと、気ばかり揉んでいてね。あなたの事、見当違いにストーキング紛いの事までして。まあそのお陰で、こうやって死ぬ間際に、あなたに傍迷惑な懺悔をする事が出来た訳だけど。ごめんね。子供も出来かったから、話相手なんて一人もいないの」

カナが顔を向ける。まるで血の色が感じられなかった。

「ねえ、一つ勝手な事を思うのだけど、どうしてあなた、あの人を奪っていかなかったの?どうして一言、好きだと言ってあげなかったの?そうすれば、あなたと彼は幸せになって、私はあなたを憎み続ける事が出来たのに。三人が三人、不幸せだなんて、馬鹿げ過ぎてて、我ながら呆れるわ。ねえ、ユウコ、もし次があるなら、あの人に必ず好きって言うのよ。お願いよ」

そう言い終えるとカナは、長い咳の後、息を引き取った。

私は何も言えないまま、家に帰った。

鏡を見つめたまま、何も出来ずにいた。

声を掛けてくれる母は、とっくに他界している。

そう言えばあの、今となってみれば運命の日の朝、鏡に老婆の幻を見たような記憶がある。

あれはもしかして、こんな顔ではなかったかしら。

そう考えると、「ああ、戻りたい、あの日からもう一度人生をやり直せたら!」そんな熱烈な程の後悔が、際限なく溢れてくる。

そう言えば昔、『ファウスト』という古い物語を読んだのを思い出す。老いた学者が、悪魔に魂を引き渡す代わりに若返り、恋を知り、それがどんな知識よりも尊いという事に気付く。そんな話だったか。

ああ、私もあの日に戻りたい。それが叶うのならば、魂でも何でも差し出すのに!

そう考えると、ふと、鏡の中の老婆が、一層醜く、笑った様に見えた。

「何でも差し出すと言うのは本当だな?」

鏡の中の自分が、確かにそう口を動かしている。

私は頷く。

「分かった、お前の願いを叶えてやろう。だがその代償に、お前の記憶を貰うぞ」

「どうしたの、ユウコ?鏡なんか見つめちゃって。」

そう後ろから声をかけられ、振り向くと母がいた。

「お母さん、今ね…」

再び鏡を見直すと、そこにはいつもの私の顔しか映っていないない。

あれ、今確かに…。

「思い出に浸るのもいいけれど、早く支度しちゃいなさい。卒業式に遅れるわよ。」

そうだ、今日は彼に会える最後の日。今日こそ思いを伝える最後のチャンスなんだ。

私は鏡に映った顔の事なんてすぐに忘れて、学校へ向かった。

怖い話投稿:ホラーテラー みさぐちさん  

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