中編3
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ははこぐさ

増田トヨは、山に囲まれた貧しい村に生まれ育った。

二十歳の時、村の男と結婚したが、子も成さぬまま夫は肺結核で死んだ。

トヨは、村にいる気がしなくなり、ある観光地に移り住んで、そこの大きな旅館に住み込みで入った。仕事は、そこの子どもの乳母だった。

トヨが世話をするのは、ひとり息子の正明(二歳)だった。

正明は色白で目の大きい、とてもかわいい男の子で、トヨにとてもなついていた。

母親であるこの家の女将は病弱で、遊んでもらえなくてさみしいのだろうと、トヨは正明を不憫に思い、我が子のようにかわいがった。

正明が三歳になってすぐの夏、女将は肺炎を悪化させて死んだ。

まだ三十一歳という若さだった。

通夜の夜、後片付けをしているトヨが、廊下の障子を見ると、髪の毛がボサボサで背中の曲がった、幽霊さながらの影が、音もなく通り過ぎた。

トヨは障子を開けたが、そこには誰もいなかった。

トヨは、それが誰か分かっていた。

女将の葬儀が終わって数日が経った頃、正明の様子がおかしくなった。

毎夜決まって午前二時頃になると、突然ガバッと起きるのだ。

そして足下の箪笥の方を指さして、

「お母ちゃんや!お母ちゃんが箪笥の前に座ってはる!」

と叫んだ。

隣に寝ているトヨが

「ぼん、お母はんはいてしまへんで。何か夢でも見やはってんやろ。」

と言った。

正明は、大きく首を振って言った。

「ちゃう!夢やあらへん!おトヨさんには見えへんのか?ほれ、そこにお母ちゃんが座ってはるやないか!」

トヨはさすがにゾッとして、正明をなだめて寝かしつけた。

そんなことが毎夜続いて、半月も経つ頃には、正明は衰弱してやつれて来た。

「お母ちゃん!」と伸ばす腕も、力が弱ってガクガク震えていた。

トヨはそんな正明があわれで、泣きながら抱きしめた。

そしてある夜、午前二時になる頃、正明は弾かれたように布団の上に起き上がった。

「お母ちゃん、お母ちゃんがこっちふおいでと言うてはる!」

頬が少しこけて顔色の悪い正明は、それでも声を振り絞って叫んだ。

「ぼん、あかん。寝やんとあかん。」

トヨは、正明の体をしっかり腕に抱きしめた。

「おトヨさん、そこにお母ちゃんがいてはるやないか!わてを呼んではる。手ぇ放して!」

正明は箪笥の前へ行こうと、トヨの腕の中で暴れた。

すると箪笥の前に、ボーッと女将の姿が現れた。

死んだ時の姿そのままに、乱れた髪、落ちくぼんだ眼窩、黄色く濁った目で、うらめしそうにトヨを、上目遣いに睨んだ。

正明を放さないトヨを、憎らしく思ったのだろう。「お母ちゃんとこへ行くねん!」

正明は更に暴れた。

その力は、とても三歳の子どものものとは、思えなかった。

ここで手を放したら、恐ろしいことが起こる!

「あかん!ぼん、あれはお母はんと違う!行ったらあかん!行ったら死んでしまうで!」

トヨは必死で、正明の体を掴んだ。

そんな正明に手を伸ばしていた女将は、ベソをかくような顔で、ハラハラと涙を流した。

「女将さん、ぼんを連れて行ったらあきまへん!ぼんはわてが立派に育てますさかいに、安心して成仏しとくなはれ!」

トヨは女将に言った。

すると女将は何か喋りながら、だんだんその姿は薄れていって、やがて箪笥に吸い込まれるように消えた。

正明はトヨの腕の中で、気を失っていた。

それ以来女将は現れなくなって、正明も元気になった。

トヨと正明の付き合いは、ずっと続いた。

正明は結婚して、長女にもめぐまれた。

ところが、正明は三十歳を過ぎた頃、何の前触れもなく、自らの命を絶った。

「女将さん、やっぱりぼんを連れて行かはったんやなあ。」

トヨはつぶやいた。

         終わり

この話は、私の祖母の体験談です。

  

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