長編15
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禍ツ猿

 息を潜めて茂みに身を伏せる。

 息を殺し、気配を殺し、物音一つ立てずに銃を構える。

 スコープの中を覗き込むと、十字の中に目標を捉えた。

 まだ冬毛になっていない茶色い野兎。

 人間のそれを遥かに上回る聴力で、辺りを警戒している。これ以上、近づけば間違いなく気づかれる。

 細く針のように息を吸い、止める。

 心臓の鼓動さえ邪魔に感じずにはいられない。

 呼吸をやめたことで僅かな振動が消える。

 引き金に指をかけ、霜が降りるように静かに、引き金を絞る。

 圧縮された空気が弾ける音と共に、スコープの中で野兎が跳ねるようにして倒れる。

 安全装置をかけ、ゆっくりと息を吸う。

 茂みから立ち上がり、凍り始めた地面を歩いた。

 およそ三十メートル。弾丸は野兎は耳の付け根に命中していた。腰のポーチから紐を出し、枝に逆さに吊るして首の血管を切る。鮮やかな血が地面の上に溢れて、斑模様を作った。

 完全に放血が終わったのを確認してから、その場で腹を裂いて内蔵を出してしまう。皮も剥ぎ、脚の先や頭も落として、地中に浅く埋める。家庭で棄ててしまえばゴミにしかならないが、山に還せば他の生き物の栄養になる。

 保冷剤入りの袋に捌いたウサギを入れて、山を降りる。

 今夜はウサギだ。

   ◯

 私は三十代半ばにして脱サラ、都会で働くのに飽きて、以前からいつかはやってみたいと思っていた田舎暮らしを始めた。

 田舎で暮らすことに憧れはあったものの、いざ田舎で一人で暮らしていくことを考えると様々な不安が出てきた。それでも会社を辞めたのは都会の無機質さに嫌気がさしたからだ。隣に住んでいる人間の顔もわからず、ただ自宅と会社を往復する毎日に私は憔悴していた。

 移住の際、もっとも力になってくれたのは役場の市民課に勤める大越さんだ。彼は私の父よりも三つ年下の大きな体をした人で、村でも評判の腕の良い猟師だった。

 大越さんは住む家、仕事、家財道具などを工面してくれ、私は大越さんに力添えをしてもらえなければ生活していくことさえ出来なかっただろう。

 過疎の進んだ椚村でも役場から車でそれなりにかかる辺鄙な場所。そこで朽ちかけていた古い日本家屋を大勢の人の手を借りながらリフォームし、ようやく人が住めるようになった。一人で住むには充分すぎるほどの広さだが、夜になると誰ともなく村人がやってくるので寂しさは感じなかった。

 一番出入りしているのは大越さんで、彼の猟師仲間が山で獲ってきた獲物を持って来てくれる。皆で酒を飲みながら囲む野生動物の鍋の美味さに、私はすっかり打ちのめされた。

 私が猟師を志すのに、そう時間はかからなかった。

 猟師仲間の中でも最年長の林さんは、私に火薬を扱う銃を薦めず、空気銃からやってみなさい、と言った。

 狩猟に使われる銃には二種類あり、火薬を用いるものと、空気を用いるものがある。空気とはいっても狩猟に使われるものなので威力は凄まじく、指くらいなら簡単に吹っ飛んでしまう。もちろん頭部に当たれば死ぬ。

 しかし、猪や鹿等の大型の獲物を空気銃で獲ることは出来ず、空気銃で狩猟できるのは鳥類や小型の哺乳類くらいのもので、猪を獲って皆で食べたいと思っていた私は拍子抜けした。

「野生の動物を甘く見たらいかんよ」

 林さんの仰るとおり、野生動物を獲るというのは簡単なことではなかった。

 まず第一に近づく事もできない。警戒心の強い野生動物は人間の気配を感じるとすぐに逃げてしまう。銃を構えるどころではなかった。

 色んな工夫をして、ようやく初めての獲物を獲った時には思わず体が震えた。最初の獲物はそれほど大きくもないキジバトだったが、大越さんに教わりながら自分の手で解体し、すき焼きにした時の味はこれまで食べて来たどんな高価な肉よりも美味しかった。

 私はすっかり狩猟にハマり、野生の動物を獲っ食べることが生き甲斐になっていた。

 猟師仲間で鍋を囲んでいると、必ず林さんは山の恐ろしさについて語った。

「山は恐ろしい。なんがおるかわからん。帰ってこられんような所には足を踏み入れたらいかんよ」

 そうだそうだ、と酒で顔を真っ赤にした大越さんが相づちを打つ。

「山の中で方向感覚が狂うと命取りになるからなあ。一度迷い込むと洒落にならんことになる」

「大丈夫ですよ。最近の携帯は衛星で自分の居場所も分かるんですから。迷ったりしませんよ」

 大越さんは油断はせんことです、と付け加えた。

 林さんは厳しい顔つきで酒を舐めて、私に忠告した。

「あとな、なんがあっても猿だけは撃ったらいかん」

「猿がいるんですか」

「おるとも。人前には滅多に出てこんがね。猿だけは撃ったらいかん。絶対に手を出したらいかん」

 他の猟師たちも頷き、猿はおぜぇ、と呟いた。

「わかりました。気をつけます」

 林さんは厳しい顔つきのまま続ける。

「ええかい。生き物は喰うたり、喰われたり。それを忘れたらいかん。猟師はそういう摂理のある山で生きとるんだ」

 林さんの言葉に、誰もが頷いていた。

  ◯

 その日、私は雪が散らつく中、マガモを獲りに山奥の池を目指した。登れる所まで車であがり、それから車を降りて獣道を黙々と歩いた。

 山道を歩いていると体が暖まって来て、私はジャケットを脱いで肩に担ぎ、池のある場所を目指した。

 しかし、一向に池が見えてこない。もう随分と歩いている。さすがにこれはおかしいと気がついた。

 時計をみると、どういうわけか時計の針が止まっている。まだ買って二年と経っていないというのに。

 携帯で大越さんに電話をかけてみることにした。万が一にも、山の中で迷ったと感じた時には猟師仲間に連絡を取ることになっていた。

『はい。大越ですが』

 相変わらず分厚く野太い声だ。

「もしもし。高梨です」

『おお。高梨さん。どうしました』

「実は、朝からちょうど出猟してまして」

『こんな寒い日に物好きですなあ。風邪ひいても知らんですよ』

「いやあ、耳が痛い。ほら、マガモがよく降りる池があると集会の時に話が出てたじゃあないですか」

 一瞬の沈黙。電波が途切れたのかと思った。

『高梨さん。今、どこです?』

「それが実は少し迷ってしまったようで。池が見つからんのですよ」

『何処の山に入りました?』

 私が山のことを放すと、大越さんの声色が変わった。

『高梨さん。その山はいけない。早く引き返すんだ』

「すいません。もしかして禁猟区でしたか?」

『そういう問題じゃあない。早く引き返さないと』

 ぶつっ、と断ち切られるように通話が途切れた。

「もしもし? 大越さん?」

 しかし、何度かけなおそうとしても電話が通じることはなかった。

「クソ。引き返すか」

 踵を返し、やってきた道を辿って戻ることにした。ここまで一本道だ。迷うことはありえない。

 しかし、どういうわけか獣道は小さな滝の前へと出た。おかしい。分岐する道などひとつもなかった筈だ。

 咽喉が乾いて仕方のなかった私は、ここで小休止をとることにした。滝の水で咽喉を潤し、タオルで汗を拭う。ついでに水筒へ水を汲んでおいた。冷静にならなければいけない。正確な時間はわからないが、既に夕刻に迫っているだろう。装備もないのに冬の山で一夜を過ごすのは危険だ。幸いなのは、九州には熊がいないことだった。

 出発した私は川に沿って歩いていくことにした。川は必ず海に繋がっている。いずれどこかの道に出るだろう。

 しかし、私の思惑は外れた。

 川は次第に小さくなり、やがて消えた。土の中は水が通ってどこかへ繋がっているのだろうが、私にはそれを追うことはできない。

 おまけに雨が降り始め、私は途方にくれた。

 狩猟免許を取得し、こうして山に出入りしているが、私は山で過ごして来た経験が圧倒的に少ない。こういう場合、なにが正解なのか判断がつかない。

「どうしたらいい」

 呆然と呟いた私の背後で、なにかの気配を感じた。驚いて振り返ると、枝木を揺らして何か大きなものが樹上を逃げていった。

 ぞわり、と背筋が冷たくなった。

 私は背を向け、足早にその場を去った。

 ともかく移動をし続けなければいけない。

 私はまだ、自分が遭難したという事実に気づけないでいた。

   ◯

 山の天気は変わりやすく、またすぐに夜が訪れる。

 暗くなった山の中を小さなライト一つで歩き回るのは危険だ。

 幸い、雨が止んでいる。私はなるべく乾いている枝を拾い集め、ポーチに入れておいたメタルマッチを使って火を起こした。暗闇に火が灯ると、不安が雪のように溶けていった。

 銃を抱いて木に背中を預ける。全身が泥のように重く、足首が痛んだ。体力を使いすぎたのだと気づいて、自分の間抜け加減に呆れた。

 冷静に現状を把握しようとすればするほど、自分は遭難したのだという事実が明らかになった。そんなことにも気づけない程、私は冷静さを失っていた。

 遭難した場合には、その場を動かずに救助を待つのが鉄則だ。無駄に体力を失えば命取りになる。それなのに私は闇雲に山の中を歩き回り、体力を殆ど使い果たしてしまった。

 腹が減った。体力を取り戻さないといけない。

 私はポーチの中身を確認したが、食べられるようなものはなにもなかった。狩猟で山に入って遭難するなど微塵も考えていなかった。

 ともかく火を絶やさず、朝まで起きておかないとならない。夜は冷える。

眠るのは気温が上がるまで待たなければいけない。

 その時、不意になにかの音が木々の間から聞こえた。甲高い音だ。

 銃を持って立ち上がり、耳を澄ませる。

 確かに聞こえる。

 私は枝を火にくべ、音のする方向へ向かった。

 茂みを掻き分け、獣道を進んでいくと、音の正体がいた。

 ほんの少し開けた場所があり、そこに一匹の鹿がいた。その足にはワイヤーが巻き付いていて、逃げ出すことができないらしい。猟師の括り罠にかかったのだ。

 鹿は私に気づくと、暴れ出して角をこちらへ向けてくる。だが、動けば動く程ワイヤーは鹿の足に食い込んでいく。調べてみると、罠の所有者の名前が書かれており、仕掛けられた年代は随分と昔のものだった。

 私は少し考え、銃を下ろし、近くに落ちていた大きめの枝を担いだ。

 鹿の角が胴体などに刺されば私はきっと死ぬだろう。だが、ここで食料を調達できなけてば死活問題になる。明日、私が救助されればよいが、すぐに助かるという保証はないのだ。

 私は鹿の角の届かないぎりぎりに近づき、渾身の力を込めて頭を殴りつけた。

 鹿は一撃で気を失った。

 失神した鹿にまたがり、角を押さえ、ナイフで首の頸動脈を切ると、鹿は断末魔もあげることなく、静かに息絶えた。大きな獲物を仕留めたなんていう高揚は皆無で、ただただこれで肉が食べられると思った。

 それから私は苦労して鹿を先輩猟師たちのしていた解体を思い出しながら行い、なんとか右後ろ足を一本だけ切り離し、肉を切り出すことができた。鹿の肉は赤く、馬のような霜は全然入っていない。だが、焼いた鹿の肉は涙がでてくるほど美味しかった。

 他の野生動物に盗られたりしないよう、鹿を自分のすぐそばに置いて、火に枝をくべながら朝を待つ事にした。とりあえず水と肉はある。すぐに飢えて死ぬということはない。

 あとは朝まで火を絶やさないようにしておけばいい。

 私は木に背中を預け、火を眺めているうちに、うつらうつらと眠くなり、とうとう目を閉じてしまった。

 ブチッブチッと何かを引きちぎるような音で目が覚めた。

 火が消えている。

 慌てて体を起こそうとした私は、さっきの奇妙な音が頭の上から聞こえてくることに気がついて動きを止めた。

 樹の上だ。

 樹の上に何かがいる。

 しかし、恐ろしくて顔をあげることが出来ない。

 その間にも頭上では何かがブチブチと千切れ、顔や手などに何かが降り掛かってくる。ゆっくりと鼻で匂いを嗅ぐと、咽せそうなほど濃い血の匂いがした。

 よくみれば、近くに置いておいた鹿がいなくなっている。

 樹の上にいる何かが鹿を喰っているのだと気がついた。

 しかし、なにが?

 ボキッ、と骨を砕く音が聞こえ、肉を噛み千切る音がする。

 銃を掴む手に力が入った瞬間、なにかが頭から降って来た。血生臭いそれは、鹿の内蔵だった。そして、目の前に残骸が音を立てて落下する。

 思わず声をあげそうになった私の眼前に、それは音もなく樹の上から降りてきた。

 それは長い髪をした巨大な猿だった。

 熊のような巨躯に、地面につくほど長く大きな二本の手を地面につけている。暗闇に光る二つの目が私を捉え、私は息をするのも忘れた。

 巨大な顔が近づき、私の近くを嗅いだ。鉄臭い血の臭いと、鼻が曲がるような獣臭さに息が詰まる。

 見つかる、そう思った。

 しかし、猿は背中を向け、鹿の残骸を無造作に肩に担ぐと、地面を蹴って樹上へと姿を消した。

 枝木の折れる音が遠ざかっていき、私は安堵と共に意識を失った。

   ◯

 目が覚めると、辺りはすっかり明るくなっていたが、体は全身が痛いほど冷たくなっていた。雪こそ降ってはいないが、体温が下がりすぎている。指先の感覚はなく、歯の根が合わない。

 震える手で火を起こし、しばらく火に当たってようやく指先に感覚が戻って来た。凍えた体が熱を受けて静かに溶けていくのを感じながら、私は硬直していた頭の中が少しずつ動き始めたのを自覚していた。

 自分の格好を顧みた私はタオルを水で湿らせ、全身の血を拭い取った。獣臭と血の臭いに顔が歪む。しかし、我慢するしかない。

 昨夜のうちに焼いていた鹿の肉が余っていたが、とても口にする気にはなれなかった。それでも食料であることに変わりはないので、鞄に詰めて焚き火の火を消し、私はすぐに歩き始めた。

 あの化け物から逃げなければ。

 昨夜の鹿は、今夜の私の末路かもしれない。

 私は命綱に縋りつくように、空気銃の銃身を握りしめた。

   ◯

 いくら歩いても活路が見えない。

 泥のように重たい体を引きずり、雪の降る険しい山道を歩き回る。

 大越さんは私が遭難したことに気づいてくれたろうか。

 猟友会の面々は捜索をしてくれているだろうか。

 警察は捜索のヘリを飛ばしてくれないだろうか。

 誰でもいい。

 私を救ってくれるのなら、相手は誰でもいい。

 快活さとは無縁の私の足取りを、追って来ているものがいる。

 それは樹上から、あるいは木立の影から、じぃと私の動向を伺っているのだ。

 視線を感じ、何度振り向いても、それは姿を現さない。ただ私の後を追い、私のことをつぶさに視ている。

 何が私を視ているのか。私は想像したくもなかった。

 時折、それの息遣いが頭上で聞こえ、私は堪らず早足で山道を歩いた。鼻を突く濃い血の臭いと獣臭。それらから逃れるため、私は知らず知らず駆け足になり、ペースを乱した。

 無理にペースを歩いてはいけない。そう頭では分かっていても心はそうはいかない。昨夜の化け物がひたひたと追いかけて来ているという事実に、私は今にも叫び出してしまいそうになった。

 やがて、私は一歩も歩けなくなってしまった。

 獣道の途中で大岩に背中を預け、倒れ込んだ。動悸が激しく、目眩まで感じる。真冬だというのに全身が燃えるように暑い。咽喉が乾いて仕方がなかった。

 あの化け物は私の逃げ惑う様を見て愉しんでいる。捕食者が獲物をわざと逃がして追いかけて嬲り殺すように、私の後を追いかけているのだ。あれが本気で私を喰おうとすれば、私はとうの昔に化け物に食い殺されているだろう。

 息を整えながら、私は以前テレビ番組で見た内容を思い出した。

 それは動物のドキュメントか何かの番組で、チンパンジーが他種の小型の猿を補食するというものだった。チンパンジーはまだ息のある小型の猿の手足をもぎ取り、興奮した様子で肉を噛んでいた。その時、私は野生動物の本能に生理的嫌悪感を覚えたのだ。

 あの化け物にとって、私は補食対象なのだ。

「喰われて、たまるか」

 私は無力な猿ではない。人間だ。知恵もあるし、道具だって持っている。怯えて逃げ惑い、ただ喰われるのを待つことはできないのだ。

 私は覚悟を決めた。

 腕の中の空気銃を見つめる。

 私は、この瞬間ほど炸薬銃を所持しておくべきだったと思ったことはない。

 空気銃の威力では大型の獣を仕留めることはできない。それもあんな巨大な化け物を殺すのだ。致命傷を負わすのは不可能だろう。

 それでも殺さなければならない。

 そうでなくては、殺されるのは私だ。

 今こうしている間も、あの化け物は私のことを視ているのだろう。

 どうやって喰おうか。涎を垂らして想像しているに違いない。

 喰われてたまるか。

 私は銃のカバーを外し、立ち上がった。そして再び歩き始めた。

 夕暮れが近い。

 夜になるまでに決着をつけなければ夜になる。そうなれば私には万が一にも勝ち目がなくなってしまうだろう。

 私は猟師だ。

 獲物ではない。

   ◯

 夕暮れに染まる山の中、私は周囲に木々のない少し開けた場所にいた。

 木々のある場所では戦えない。樹上からさらわれたら打つ手がないからだ。

 降りしきる雪片が夕陽を受けて目に痛いほど輝く。

 私は銃を中腰で構えたまま、深く息を吸う。

「出てこい! 化け物!」

 言葉を解する筈はない。だが、あの化け物は私を喰いに現れる。そういう確信があった。

「出てこい! 聞こえないのか、この化け物が!」

 静まり返った冬の山を、私の怒号が谺してゆく。

 背後で物音。

 振り返ると、木々の合間に巨大な灰色の猿が立っていた。地面に触れるほど巨大で長い腕、鬼灯のように丸く赤い瞳。そして、この猿には二つの乳房があり、ぼさぼさに伸びた長い髪がまるで人間の女のようで気味が悪かった。

 猿というより、これは猩猩というべきだろう。

 うー、あー、と低いうなり声をあげながら、化け物がこちらへとやってくる。

 私は迫り来る巨体に怯え、恐怖で思わず引き金を絞りそうになったが、懸命に堪えた。ここで撃っても意味がない。

 四つん這いで近寄ってくる獣が、跳ねるようにして跳んだ。

 胸に衝撃を覚え、私は地面を転がった。胸を鈍い痛みが走り、口の中に血の味が広がる。思わず吐き出すと、雪の上に赤い斑模様が広がった。

 痛みを堪えて起き上がり、銃を構えるのと、化け物が突っ込んでくるのは同時だった。狙いを定めて引き金を絞る、その動作よりも早く、化け物の巨大な腕が私を地面に叩き付けた。

 背中と胸に痛みが走り、体の上に覆い被さるようにして、化け物が私の顔を覗き込んだ。そして楽しげに手を叩く。

 ううー、ああー、うあああー、と罅割れた声で笑う。

「やめろ、やめてくれ」

 化け物は私の怯えた表情を見るや、目を細め、歯茎を剥いて笑った。

 その一瞬を、私は見逃さなかった。

 空気銃の銃口を、化け物の口の中へ突っ込んだ。

 ぐ、とくぐもった声が漏れ、私は引き金を引いた。

 引き金を引く度、化け物の顔が痙攣した。どろり、とした赤黒い血が両方の眼から涙のように溢れた。

 化け物はふらふらと立ち上がって咽喉を押さえ、それから姿勢を崩し、私の傍らにうつ伏せに倒れ伏した。

 分厚い皮下脂肪や筋肉のない、口腔内から脳髄を狙う。

 私は震える手で銃を杖代わりに立ち上がり、化け物が死んでいるのを確かめてから、足早にその場を後にした。

 

   ◯

 それから間もなく、私は自分の名を呼ぶ声を聞いた。

 猟犬の吠える声が聞こえる。猟友会の皆だろう。大越さんは私を捜索していてくれていたのだ。

 ああ、助かった。

 私は痛む胸を押さえながら、斜面に立って懸命に助けを呼んだ。

 すぐに一人が気づき、周囲もすぐに私の姿に気がついてくれた。

 一番最初に私のもとへやってきてくれたのは、大越さんと林さんだった。

「ああ、大越さん。助かりました」

 手を振った私に対して、林さんの猟犬タローが火のついたように吠え立てた。タローはよく私に懐いてくれていた筈なのだが、これだけ血の臭いがしていては無理もないかもしれない。

「どうか」

 したのですか、そう尋ねようとした私は、腹部を強く叩き飛ばされて後ろへ転がった。遅れて、銃声が耳に届いた。

 困惑した頭で大越さんを見ると、大越さんの構えている銃口から白煙が昇っていた。私を撃った大越さんは気の毒そうな、悲しそうな表情を浮かべていた。

 私は声を出そうとしたが、まったく体に力が入らず、言葉にはできなかった。私の腹部は散弾銃で撃たれ、もうなんの痛みも感じなかった。

 どうして。

 手を伸ばした私に、大越さんは銃口を向け、目の前で光が弾けた。

   ◯

 顔と腹部を破壊された男が、二人の猟師の前で倒れ伏していた。雪の上には夥しい量の血が広がり、朦々と白い湯気をあげている。

 大柄な男は帽子を深くかぶり直し、深くため息を吐いた。

「禍ツ猿。また今年も犠牲者が出てしまいましたなあ」

「仕方あるまいて。あれは自分を殺した生き物に憑きよる。そうして心も体も化け物にしてしまう。退治するには、こうして猿に変じる前に殺さねばならんのだ」

「林さん。私は大丈夫なんでしょうな」

「化け物になる前なら、殺しても憑かれやせん」

 そう言って、小柄な老人は倒れている男に手を合わせた。

 隣に立つ大柄な男は無線機を使い、仲間に連絡を入れた。

「警察に山狩りは終わったと伝えてくれ。ああ、ご苦労さん」

 二人の猟師は倒れている男に背を向け、やがて山を下りた。

 巨大な猿に変じた男の死骸を、降りしきる雪片が覆い隠していった。

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これは北海道
地元民なら知っている話ですね
ホントにあるってのを田舎の人に聞いたことあります

最後がすごくおもしろかったです。
別の話でも似てる部分ありましたが、小野不由美さんのファンなのでしょうか・・・このお話は【図南の翼】という本と似てる部分ありますねぇ

たくさんのコメントありがとうございます。
私事が忙しく、なかなか投稿できずにいますが、皆さんのコメントを拝見する度に意欲が湧いてきます。
4月に入りましたら新作を投稿できるかと思いますので、何卒宜しくお願い致します。

雰囲気の良いホラーで大好きでした。
結局よそ者は仲間に入れてあげなかったという、猟師の嫌な部分が書かれていて後味の悪いホラーに仕上がっているのも良いと思いました。
また、読みやすさに関しては群を抜いていると思います。
次回作、楽しみに待ってます。

何も知らない主人公が少し可哀想かな。大越さん早くに教えるべき…なんて思いました。面白かった。

退屈することなく読めました。
読みやすいだけじゃなく、構成も良かったです^^

死んさん。
次回作も楽しみにして頂けますと、光栄です。

バケモノガタリさん。
そう言って頂けますと嬉しいですね。
次回作もご期待ください。

大越さんも面倒見がいい人なのに
肝心なことは言ってくれなかったんだな

オチが予想外の展開で面白かったです。
最後が後味の悪い終わり方でありながら、解りやすい締め方なので読み終わった後もスッキリ出来て良かった。
次回作も期待しております。