中編5
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優しい大家さん

関口君は学生時代、下町の古いアパートで四年間を過ごした

「レポートと研究に明け暮れて気づけば卒業。だから、さして話せることもないんだけど…」

ひとつだけ、忘れられない思い出があるそうだ

深夜遅くに帰ると、部屋の前で大家さんが待っているという

年齢は七十過ぎといったところだろうか

腰の曲がった優しそうなおばあさんだった

「最初に会ったときは幽霊かと思って大声をあげたよ。深夜に遭遇する老婆って怖いぞ…」

大家は驚かせた旨を詫びると、自分はこのアパートの大家である事、以前学生に貸していたところボヤを出されて大変だった事、今回も火の気を警戒して様子を見にきたが、関口君の身なりを見て安心したことを告げると、小さな風呂敷包を差し出した

「若い子にはいつも渡すのよ。どうせカップ麺ばかり食べているんでしょう」

包みを解くと中には小ぶりのお重が入っていた

焼いたニシン、キクラゲの和え物、肉じゃがなどの惣菜が仕切り板で小分けにされ、真ん中には栗おこわが詰められている

慌てて遠慮すると少し怒ったような表情を浮かべ、大家はお重を押し付けてきた

「私の息子は海外にいるのよ。何遍聞いても覚えられない、変な名前の国でね」

あなたくらいの年齢の子を見ていると息子を思い出すの。だからきちんと食べて欲しいの。

懇願する老婆に負けて関口君はお重を受け取ると、礼を述べて部屋に戻った

「どれも優しい味で美味かった。それからかな、大家さんと話をするようになったのは」

大家は二〜三ヶ月に一度の割合で、決まって夜遅くにやって来た

彼が不在の場合には、ドアの前にラップを張った丼や、ハンカチに包まれたタッパーが置かれていることもあった

どれも一人暮らしの老人が作るものにしては手が込んでいた

食材を奮発し、調理に骨を折ったのではないかと思って申し訳なく、加えて二階にある彼の部屋を目指して階段を上り下りするのは、老人にとってひどく骨が折れるように思えた

何よりも、起きているには辛い時間のような気がして、恐縮したという

しかし、無理をしないでほしいと何度伝えても大家は笑うばかりで、一向に聞き入れようとはしなかった

「若い子と話せるなら、少しお寝坊さんしても良いじゃない。連れ合いもいないんだから誰に叱られるわけじゃないし」

口癖のようにそう言って必ず笑った

話すのは決まって彼女自身の息子の話

「向こうは日本食が高いんですって。だからお味噌とか送るの。最初は勝手が分からなくてね」

「忙しくて帰国がままならない代わりに、年末になると現地の工芸品を送ってくれるの」

「電話の度、遊びにおいでよと誘われて…でもこの年になると旅行なんて億劫なのよ」

こちらの相槌に構わず、大家は勝手気ままにしゃべり倒した

国も地名も大家自身が把握していないため、話の意味がわからず、返答に窮することもしばしばあったそうだ

それでも関口君は、彼女と会話する時間が嫌いではなかった

「そんなに人と話す機会が普段はありませんから。茶飲み話って感じで楽しかったです」

だが、冬を目前にして大家はぷっつりと来なくなった

ちょうど関口君自身も研究が大詰めとなり、思い出す余裕さえなかったという

「年末年始の帰省を終えて、アパートに帰った日のことでした」

キャリーを引きずりながら階段を上っていると、ドアの前で立ち尽くす中年男性に気が付いた

男性は彼の姿を認めると

「不動産屋ですけど」

と頭を下げ、一階の住人が水道管を凍らせた旨を伝え、今日は水が使えないと申し訳なさそうに告げた

説明を聞きながら、ふと関口君は大家のことを思い出したのだという

「あの、大家さんお元気ですか?」

彼の言葉に、首を傾げながら不動産屋が答える

「ええ、十年前から東京で娘さん夫婦と一緒に、元気で暮らしていると聞いていますが…」

驚いた関口君から事情を聞くと、不動産屋はしばらく腕組みをして何やら考え込んでいたが、不意に

「ああ、あの人かな」

と声をあげて、納得したように何度も頷いた

「この町内に、痴呆のおばあちゃんが住んでいたんです。息子さんを過労死で亡くされてね。それからちょっと、ボケが進んじゃったみたいで。近所の人にも死んだはずの息子の話を延々としていたって言うから、きっとその方だと思いますよ」

ただ、先月亡くなりましたけど。

不動産屋の言葉を聞いて、手にしていたお土産の袋が床に落ちる

ー大家に逢ったら渡そうと、いつもより一個余分に買ってきた地元の銘菓だった

「お便所で力んだ拍子に血管切れたみたいでね。福祉課の人が便座に抱きつくようにして死んでいるの発見したと言っていました。冬なんで臭いはなかったらしいですけれど…」

不動産屋の言葉も上の空で、亡くなったという単語だけが頭の中でぐるぐる回っていた

「自分に何かできたとは思いませんけど、それでも申し訳なくて…」

嗚咽を漏らしながら、関口君は不動産屋に事のあらましを話し、亡くなった老婆の家を訪ねた

「引き払う準備のために、親戚の方が来ている筈だよ」

事情を知った不動産屋がハンカチで涙をぬぐいながら場所を教えてくれた

礼を述べると、預かりっぱなしだったお重やタッパーを丁寧に洗って、彼は老婆の家を訪問した

突然の来客に親戚の女性はひどく驚いていたが、関口君の話を聞くやいなや目頭を潤ませて

「ならばお焼香だけでも上げていってください」

と彼を仏間へ通してくれた

深々と一礼をして仏前に座り、手を合わせる

心の中で冥福を祈りながら顔をあげた

知らない老婆の遺影が飾られていた

アルバムも見せてもらったが、どの写真にも遺影と同じ顔の、見たことも無い老いた女性が写っていた

「まさか今更人違いとも言えませんからね。お茶を濁して退散しました」

以来今日に至るまで大家を名乗っていた女性の正体は分からないままだという

…誰なんでしょうかね

話を聞き終えて、私は改めて彼に尋ねた

関口君も首をすくめるばかりで、答えるべき言葉など持ち合わせていなかった

「その後も一度も顔を合わせませんでしたからね。あ、ただ…」

就職が決まりアパートを引き払う数日前

ポストに小さく畳まれた裸の手紙が入っていた

中を開くと、単語になっていないアルファベットがびっしりと書き連ねてあったという

「その一時きり。それも彼女かどうかはわかりませんがね。それきりです」

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怖いというか、不思議な話ですね。
こういう話、結構好きかも。