中編3
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壁と扉(一)

 その時、哲史は目の前にいる男を前にして困り果てていた。すがるように扉を打ち、すすり泣くその男は、ふと何を考え込むのか目を閉じる。そうしてしばらくすると、白髪頭を振るわせて、また扉にもたれかかって冷たい嗚咽を響かせる。そういうことを繰り返す彼を、哲史はかれこれ五時間は観察しているのだった。

 それだけの時間を費やして、何を期待していたのだろう? そのうち、彼が扉を蹴破るとでも思ったのだろうか。だが彼は飽きもせず、むしろ夢中とでも言った方がいいのだろうが、延々と同じことを繰り返している。そんな男を前にして、哲史は何をするわけでもなく、ただ彼を見ているほかなかった。もし、この奇妙な事態に救いがあったとするなら、それはこれが夢であることを哲史が知っていたことである。

 そう、これは夢だった。しかし随分と現実感をたずさえているので、哲史は憔悴してしまった。

 はじめに哲史がこの夢を見た時には、ただ恐怖で立ち尽くすばかりだった。二度目は逃げ出したのだが、ここまで来ればもう大丈夫、と思って後ろを振り向くと、すぐそこに男と扉があるのであって、少しもこの場から離れることができなかったことにげんなりさせられた。

 三度目も、同じように逃げ出したのである。今度は後ろを振り向かなかったのだが、ごく近い背後にかすかな打撃の音を聞いてしまったことから、哲史は力なく膝をついて、しばらくそのままにしていた。四度目から九度目くらいにかけても、あれこれと似たようなことをしていたはずである。

 十度目には——そうだ、確か話しかけたのではなかったか。もう、恐怖には退屈していたし、むしろ慣れっこになってしまっていた。だがこの試みも、結局は無意味なのだと気づかされた。彼は哲史のことなど全く気にも留めず、扉に悲しみをぶつけている。もうどうにでもなれ、と、哲史は湿った壁を背に座り込んでいた。

 奇妙な男と扉、そして大きなレンガの壁。それがここにあるものの全てである。この世界では哲史が何をしようと、結果としては何も変わらない。叫ぼうと、壁を蹴ろうと、殴ろうと、ここから逃げ出そうと——。夜に包まれた哲史を、男の鳴らす不吉な音が取り囲み、彼の精神を参らせていく。

 結末を迎えるには、扉を開くしかないことを哲史は知っていた。正確に言えば、扉を開こうとしさえすればよかった。しかし、何の抑揚もない夢に急に終わりを告げるこの瞬間に、哲史は最も恐怖を感じていた。だから彼は、最後の手段に出ないで済むように大方のことを試していたのだが、もうあらゆる手を尽くしたようだった。小さな溜息を漏らし、哲史はゆらゆらと立ち上がった。

 今、扉は哲史の目の前にある。咽び泣く男も、いる。できるだけ彼に触れないように、注意深く取っ手に手をかけようとすると、男はふっと泣くのをやめた。

 一瞬、時間が止まってまた動き始める。取っ手に触れる前の哲史の手から、一滴、また一滴、冷たい汗が滴り落ちた。その後、男はゆっくりとその顔を哲史の方に向けて、こう言い始めるのである。

 「ねえ、外に誰かいるの? ね、いるんでしょ?」

 そうだ。哲史はいつもここで目を背けたくなるのだった。少年の面影の残るその顔は——。

 「ねえ、誰が外にいるの? あの子、いるのかな。ほら、——。」

 「あの子って・・・。」哲史は苦虫をつぶす思いで、すぐにそれを否定し去ってしまった。もしあいつがいたとして、今更それが何だというのだ。

 「いるって言ってよおおおぉぉ!!」突如、大口を開けて男が喚き出した。

 「やめろ!やめろ!!」

 声にならない声を上げた。哲史は一瞬身構えて、なりふり構わず逃げ出した。必死に走った。あの男の叫び声が、背後の闇に溶けていくのを確かめようとも。

 

 なぜ、お前は満面の笑みで俺に問いかけるんだ。

 やめてくれ。お前といると、めまいがひどいんだ。吐き気も治まらない。

 

 ——夢が明ける。十度目の朝は、太陽を除けば風も土も眠りについて、無色の静けさとともに訪れた。哲史は一つ、大きな欠伸をした。

(続)

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