長編7
  • 表示切替
  • 使い方

腐臭

数年前まで、人と関わることの多い仕事をしていた。

当時は11月の終わりともなると、手帳の翌月の欄は飲み会の予定でびっしり埋まったものだった。

nextpage

大晦日が差し迫った数年前のあの日も、連日のように飲み会が続く中の一日に過ぎなかった筈だ。

nextpage

きっと私は疲れを溜め込んでいたんだと思う。

しかし、あの日私が見たものは疲れや酔いが見せた幻ではなかった。

幾度も記憶を辿ったため、未だにあの日の深夜の事はありありと思い出せる。

nextpage

あの日、飲み会を終え家路に向かう私が乗り込んだのは、沢山の人で犇き合う最終電車だった。

家の最寄り駅までは約40分。

3分の1ほど進んだところで、私は運良く席に座る事ができた。

酔いと疲れで、すぐに私はうつらうつらと居眠りを始めていた。

nextpage

目が覚めたのは、鼻を突く酷い臭いがした為だった。

生ものを放り込んだ三角コーナー、それを夏場に何ヶ月も放置したものを嗅がされている様な、凄まじい悪臭がした。

nextpage

起きた私の目に入ったのは、目の前に立つ男の薄汚れたスラックスと、黒ずんだ長期間洗っていないような白いシャツだった。

nextpage

あまりの悪臭に困惑しながら、窓の景色から現在地を確認しようとする。

振り返り様におかしな事に気が付いた。

nextpage

あんなに混んでいた車内のどこにも、人の姿がないのだ。

いるのは私と、目の前に立つ男だけ。

降りる駅を通り過ぎてしまったのではないかという不安より、目の前の男に対する不安の方がずっと強かった。

nextpage

私は恐る恐る顔を上げ、男の表情を覗き見ようとした。

顔は見えなかった。

男の手が、私の顔に覆い被さるようにして伸びてきていたからだ。

nextpage

青白い手は、肉が崩れ腐敗しているようだった。

その手が私の顔に近付いて来たのだ。

nextpage

私は反射的に顔を引き、後ろのガラス窓に後頭部を打ち付けていた。

ドンとガラスにぶつけた音と衝撃で、再び目が覚めた。

nextpage

車内の案内板を見ると、降りる駅までまだ5駅ほどある。

なんだ夢かと私は胸を撫で下ろした。

しかし、あの臭いだけは鼻の奥に残っていた。

周囲を見回してもあの薄汚れた男の姿はなかった。

nextpage

やっと臭いが消えたのは、電車を降りて身を切るような寒さの中、家路を歩いている頃だった。

駅から多くの人が向かう住宅街、その反対方向に当時私が住んでいたマンションがあった。

nextpage

人がまばらな大きめの通りを行き、路地に入る。

私の住むマンションは戸建て住宅が犇く、その路地の先にあった。

大通りを通っても帰れるのだが、路地を通った方が圧倒的に早かった。

nextpage

遅い時間ともなると、路地に人の姿は殆どない。

街灯の数も心もとなく、さして若くないとはいえ、女の私が歩くには不用心な道だった。

しばらく歩くと、私の後方を誰かが歩く音がした。

私は無意識のうちに歩くスピードを上げていった。

nextpage

だが、足音の大きさは変わらなかった。

私の歩調に合わせ、向こうもスピードを上げたようだった。

背中に総毛立つような感覚が走り、恐怖にかられた。

nextpage

ふいに、あの嫌な臭いが周囲に漂っているような気がした。

私は振り返る事も出来ず、駆け出していた。

nextpage

その日はよりによって、普段はあまり履かないヒールの高いブーツを履いていた。

前につんのめりそうになりながら、角を2回曲がり、マンションへと急ぐ。

nextpage

足音はどんどん近付いてきているようだった。

マンションの入り口には、オートロックのドアがある。

鞄をかき回し、鍵を探しながら走り続けた。

足音はすぐ後ろにまで迫っていた。

nextpage

鍵穴に乱暴に鍵を突っ込み、ドアを開け倒れ込むようにして中に入った。

ロックがかかる機械音がした。

振り返ると、去って行く男の足だけが見えた。

夢の中の男が履いていたのと同じスラックスだった。

nextpage

私の頭は酷く混乱していた。

あの臭いと服。

なぜ夢の中の男がいるのか。

訳が分からなくなっていた。

気が動転しながらエレベーターで9階に上がり、部屋へと急いだ。

nextpage

部屋の鍵を開け、玄関に入る。

後ろ手にドアを閉めようとすると、ガチャリと音が鳴らず、ズンと鈍い音がした。

nextpage

振り向くと、扉とドア枠の間に青白い手が挟まっていた。

私は思わず叫んでいた。

それでもドアの取手は離さなかった。

扉の上部にもう一つ手があり、扉をこじ開けようとしていた。

nextpage

物凄い力で引っ張られた。

とても持ち堪えられそうになく、半狂乱になりながら近くにあった物を掴み、それで手を殴りつけた。

一瞬力が緩んだ隙にほんの少しだけドアを開け、力一杯扉を閉めた。

nextpage

ドアノブを通して指が潰れるような不気味な感触がした。

何度か繰り返すうちに青白い指は扉から外れた。

私は慌ててドアを閉め、鍵とチェーンをかけた。

生臭く、鼻が曲がりそうな悪臭が充満する玄関で、私はへたり込んでいた。

nextpage

黒い血のような痕がついたドアのヘリを見つめながら、私は後ずさりをするようにしてリビングへと向かった。

玄関の向こうに男がいる気がして、扉から目を離す事ができなかった。

nextpage

警察に電話をかけ、男に追われ玄関まで来られた事を伝えた。

すぐに来てくれるという。

急いで部屋中の鍵を確認して回り、包丁を握ってまた玄関を見つめていた。

nextpage

しばらくすると、玄関の扉を叩く音と声のようなものが聞こえた。

安堵し、包丁を床に置いて鍵を開けようとしたところで気が付いた。

nextpage

どうやってオートロックを入ったのだろうか。

こんな時間に受付に管理人がいる筈もない。

その一方で、ちょうど帰ってきた人がいて、警察官も一緒に入った可能性もあると思った。

覗き穴から向こうを覗いてみた。

誰もいなかった。

nextpage

「警察の方ですか?」

覗いたまま声をかけたが、返事はない。

あの臭いがした。

今までで一番強い臭いだった。

ミシッと床をひずむ音が聞こえた。

後ろからだった。

nextpage

震えながら振り返ると、開かれた青白い手が私の目の前にあった。

恐怖のあまり目を瞑り、叫び声を上げた。

青白い手が私の口に突っ込まれた。

身体をくの字に折り曲げている筈なのに、手はズルズルと私の体内に侵入してくる。

nextpage

喉を通り胃の奥にまで侵入され、そこで手が崩れ落ちるような恐ろしい感覚がした。

そこで、私は気を失った。

nextpage

「大丈夫ですか!」

声が聞こえた。

気がつくと、私は玄関扉に寄り掛かるようにして倒れていた。

nextpage

私の体は嘔吐物で汚れ、酷い臭いがした。

ドアの隙間から、警察官と管理人の心配している顔が見えた。

nextpage

警察官は、マンション入口のインターフォンで私の部屋番号を押しても誰も出ないので、大家に来てもらい、中に入ったと話した。

nextpage

私はありのままを全て警察官に伝え、部屋の中を調べてもらった。

しかし、部屋の中に何者かが侵入した形跡は見つからなかった。

玄関に取り付けられている防犯カメラも調べられたが、映っていたのは逃げ惑う私の姿だけだった。

nextpage

エレベーターや一階付近のカメラにも、不審な人物の姿はなかったという。

残っていたのはドアに垂れた黒い液体と、あの臭いだけだった。

nextpage

液体は拭い取れた。

しかし、洗浄剤や消臭剤を何本使っても臭いだけは取れなかった。

私は液を吹きかけた雑巾で、狂った様に玄関中を擦り付けた。

nextpage

臭いの元は玄関ではなく、私自身である事に気付くまで、あまり時間はかからなかった。

鼻や毛穴、私の全身からあの臭いが染み出してくるのだ。

nextpage

身体を洗い、歯を磨いてもあの臭いはすぐに染み出してきた。

数時間もすると自分の臭いにえづき、吐いてしまう有様だった。

nextpage

一番仲の良い同僚に、恐る恐る臭いの事を打ち明けた。

しかし、何の臭いもしないという。

nextpage

正月に帰省した際、母に聞いても同じ事を言った。

医者に診てもらっても、どこにも異常はないという。

nextpage

皆そう言いながら、私を嘲笑っていると思った。

誰の言葉も信じられなかった。

現実に私は自分が放つ悪臭を感じていて、その臭いに吐き続ける毎日なのだ。

nextpage

引っ越しても何も変わらなかった。

どこにいても汚物にまみれているような臭いが付き纏い、決して慣れる事はなかった。

nextpage

外に出る時は数時間おきに香水を振り、口臭ケアの錠剤を大量に口に放り込んだ。

通りすがりに嫌な顔をする人がいたり「くさい」というフレーズが耳に入ると気が狂いそうになった。

nextpage

その度にトイレに駆け込み、制汗液が染み込んだ臭いのキツいペーパータオルで全身を何度もこすった。

乾燥し抵抗力を失った肌は、様々な感染症にかかり膿を内包した吹き出物だらけになった。

nextpage

膿は更に酷い悪臭を発するので、吹き出物が出来ては潰し、そこに消臭剤を塗り込んだ。

化学物質を塗り込まれた吹き出物の痕は爛れ、鏡に写る自分を正視できなくなった。

nextpage

すれ違う人々の口から「気持ち悪い」「化け物」という言葉が聞こえるようになり、人の多いところでは度々意識が飛んだ。

人に会うことはおろか、外に出る事すら怖くなり仕事を辞めた。

nextpage

精神科医の処方する薬を飲むことが欠かせなくなり、人と接触する事のない生活を送るようになった。

肌は無様な引き攣り痕を残し次第に良くなったが、臭いだけはそのままだった。

nextpage

臭いが消えない限り、外に出ても同じ繰り返しになるので、今も家から出ることは殆どない。

nextpage

以前の私は人と話す事が大好きで、仕事は生き甲斐だった。

結婚や出産、仕事でやりたかったこと、手の届くところにあった現実的な目標は、もはやおとぎ話に過ぎないものとなった。

nextpage

不思議とあの男の存在について考えることはあまりない。

考えるのは、あの時こうしていればという後悔ばかりだ。

nextpage

あの路地を通らなければ…

もっと早く帰ってれば…

飲みに行かなければ…

nextpage

何度あの日を反芻したか分からない。

いくらでも遡る事ができるので、後悔は無限に広がっていった。

異なる選択をしていたら、今の状況を回避できたという確証があるわけではない。

nextpage

むしろ、こうなる運命だったのではないかという気さえする。

そうだとすれば、後悔など無価値だ。

それでも後悔する事を辞められないのは、それが苦しいだけの現実から私を逃避させてくれる、唯一の手段となってしまったからだ。

nextpage

茶毘にされ、灰になったら臭いは消えるだろうか…。

ふと気がつくと、そんな事を考えてる自分がいる。

Normal
閲覧数コメント怖い
1,2683
9
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ

怖いです。ジリジリと迫り来る恐怖(汗)あの男は幻覚かたまたま通りかかった浮遊霊だったのでしょうか(´・Д・)」

はな様

コメント有難うございます。嬉しいです!
初めての投稿なので文章力もなく、読みづらくて申し訳御座いません…('・_・`)
もっと怖い話が書ける様に頑張りますので、今後ともよろしくお願い致します!

やばい、やばい(;´Д`)目に見える恐怖もきついが、身体に染み付いた臭いは、きつすぎますよね‥‥ある意味最上級の怖さ。゜(゜´Д`゜)゜。ですね。