中編6
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母親を呼ぶ声

お隣さんの奥さんが亡くなったのは数か月ほど前の事である

まぁ、お隣と言ってもマンション内の事だから

ご近所づきあいと言うのも特になかったのだが

ただ旦那さんがまるで不祥事を起こしたような

悲痛な面持ちでその訃報を知らせに来た姿には

胸が締め付けられる様な思いがした

なにしろ隣さんには3歳ぐらいになる男の子が居り

これから先最も『母親』を欲する時期である

その事を考えると母親の無念さ、父親の悲壮感、子供の寂しさなど

その心情は察するに余りあった

しかし、人は悲しみに暮れているだけにはいかない

恒久的に明日は訪れ、今日になり、昨日へと移り変わる

その中でやがて悲しみには慣れ

新しい生活に挑まなくてはならない

仕事の都合上だろうか

お隣さんはその後もそこに住み続けた

旦那さんは父子家庭ながら立派に

仕事、育児、家事をこなして居るようだった

そんな旦那さんの姿に勇気づけられたり

少しをはお隣を見習えと

休日には居間で寝っ転がる事しかしない自分の旦那を蹴飛ばしながら

過ごしたこの数か月

ここ最近、気になる事が出来た

隣から漏れ聞こえる子供の声である

それは「ママ―、ママ―」と嬉しそうに呼ぶ声だ

ついこの間までは

夜中に「ママ―、ママ―」と泣き叫ぶ声が聞こえていたのだ

それは聞くに堪えず

私はそんな時耳に蓋をするような気持で眠りについたものだ

勿論、クレームをつけるなんて事もできる筈ない

辛いのは何より旦那さん自身である

ところがそれが泣き止むどころか

喜ぶような声で「ママ―、ママ―」と呼ぶ声が聞こえてくるのだ

しかも奇妙なことに呼び求める声以外も聞こえてくるのだ

残念ながらその内容までは掴むことは出来ないが

子供はまるでそこに母親が居るが如く言葉を発している

勿論子供であるから、単純な単語のやり取りではあるが

それはまるで母と子のコミニュケーションのそれである

私は背中に薄ら寒いものを感じた

昔読んだ怪談話で

自分の奥さんを殺し自宅の庭に埋めた男が

母親が消えたのに全然気にしない息子を不思議に感じ

その事について尋ねたら

「お母さんだったら、お父さんがいつも背負ってるじゃないか」

と答えたという怪談を聞いたことがある

どうもオカルティックな方向に思考が向かってしまう

しかし、そんなある日

それが見当違いであることが判る現場を目撃した

隣の部屋に女の人が入っていく瞬間を見かけてしまったのだ

しかもその女の人は慣れた手つきでバッグから鍵をだしドアを開けたのだ

私はいい方向に自分の妄想が外れていたことを心から喜んだ

前の奥さんが死んで数か月

確かに早すぎると世間は言うかもしれないが

しかし、逆に子供のことを考えると

早ければ早いほどいいのも事実だ

そしてどうやらそれは上手く行っているらしい

新しいお母さんと前の奥さんとの区別を

子供が理解しているのかは分らないが

それでもいいではないか……今は

子供が成長し、それを十分受け入れられるようになってから事実を伝えれば

私はその隣から漏れ聞こえる声に微笑ましいものを感じずには居られなかった

それから数週間が過ぎたころ

偶然、隣のご主人に出くわしたことがあった

私はこれ見よがしに

敢えて下品な話好きのおばさんと言った感じで

「この間見ちゃいましたよ。女性らしき人が部屋に入るの」

と言った

そこには多分に、『勿論誰にも言わない』し

『私は応援してますよ』というニュアンスを含めたつもりだった

ところがご主人の反応は意外なものだった

「見てしまったのですか!?」

と驚愕したような表情で叫ぶと

可哀そうなぐらい恐縮そうな顔をし

「やっぱ駄目ですよね……本当は自分でも良くないとは思っているのですが」

と続けた

私は自分の軽率さを恥じた

この人はきっと父子家庭というものを常に意識して生きているのだ

世間からどのようで目で見られているか

それがどう子供に影響するかそれを気にしながら

きっと疲れる事だろう……

それからさらに数週間が過ぎた頃

隣からあの微笑ましい声が聞こえることは無くなった

私はあの時あんなことを言わなければと強く反省した

ひょっとしたら私は幸せに復活しようとしていた

一つの家庭をただ徒に壊しただけではないのか?

そして調度その頃からなのである

このマンションの近くで不審者が目撃されるようになったのは……

ある日、再びご主人に出くわした私は

注意深く言葉を選びながらこう言った

「確かにお子さんの事は一番重要なことかもしれません

しかし、あなた自身が幸せであることも子供の幸せに含まれるという事を

どうか忘れないでください」

始めご主人は私が何のことを言っているのか分らない様子だったが

「あの女性の件ですよ」

とこっそり付け加えると、急にすべてを理解した表情になり

「あー、あの女性の件ですか、それならもうカタは付きました」

ご主人は明るくそう言ったがそれが余計に痛々しかった

しかし、また一つ気になる事が最近出来てしまったのだ

気のせいなのかもしれないが最近マンションに現れるという不審者

実は女性なのだがその身体的特徴がどうも

あの時お隣に入っていった女性とそっくりなのだ

勿論記憶の紛れもあるし、一瞬しか見えなかったので確実とは言えない

さらにこれまたおっちょこちょいの私の邪推なのかもしれないのだが

要するに別れ話の末にあの女性はストーカー化したのではないだろうか?

という疑問が湧いてくるのだ

そんなある日、抜き差しならない状況が発生した

それはなんでもない平日の昼間の事であった

平日の昼のマンションというのは異常なぐらい静かなものである

外の歩く人の足音が聞こえるぐらいだ

その時聞こえたそれは明らかに女性もののハイヒールのそれだった

洗濯物を取り込んでいた私は何とはなしにその音を聞いていたのだが

その音はお隣の部屋で止まったのだ

聞きなれたカチャリという鍵が開く音がし

何者かが隣に入っていった

そして次の瞬間その声を耳にすると

私は心臓を掴まれる様な気分になった

「ママ―、ママ―」

私は部屋を飛び出した

もちろん、その手には武器になるようなものとして

たまたま目に入った果物ナイフを握っていた

さらには私はしかっり聞いていたのだ

女は確かに鍵を開けたが閉めはしなかったことを

つまりお隣のドアは今開いている

考えるよりも体が先に動いた

私は何の躊躇もなくお隣に土足で上がり込むとリビングまで一気に駆け込んだ

子供は居ない……

「ママ―、ママ―」

それは隣の部屋から聞こえてくる

その時になって私は初めて自分が何をしているのかを意識した

急に緊張してくる

「ママ―、ママ―」

私はゆっくり隣の部屋のドアに近づくと

慎重にそのドアノブに手をかけた

あんだけ派手に上り込んだのだから

今更、音を殺しても仕方ないのだが

中で待ち構えている居るであろう人物に

無防備で挑むよりは良いと思われた

「ママ―、ママ―」

意を決し私は勢いよくドアを開けた

そこには女性の……恰好をしたご主人が居たのだ

話しを聞くと始めはそんな趣味はなかったらしいのだが

母親を恋しがって泣く息子をどうにかしようと

半ばヤケになって生前の奥さんの恰好をしたのだという

するとどういう事か子供が泣き止んだ

その当時、藁にもすがる気持ちだったご主人は

いつしか毎晩女装するようになったらしい

ところがそれが本人にも予想だにしなかった

ある感情を湧き起こしたらしいのだ

つまり、「この姿を誰かに見せたい」という欲求だ

もう子供のためとかいうのは詭弁でしかない

子供の前での女装を辞めたら、余計に抑えが効かなくなったらしい

不審者が出没し始めたのは丁度その頃だ

もうこれ以上言う事はない

すべて私の勘違いから始まったことであり

私は額をこすり付ける程、土下座して謝った

そして

「不審者がご主人だったことは誰にも言いません!」

という約束とともに

「やるんだったらご近所じゃない方がいいんじゃないですか?」

というアドバイスを加えようやく許してもらった

しかし、それでもである

私にはどうしても気になる事が一つあった

今回はたまたま休みなので平日の昼間に女装したとの事だったが

ご主人は今までその時間帯に女装したことはないとの事らしい

一方私は嬉しそうに子供が「ママ―、ママ―」と呼ぶ声を

平日の昼間にも幾度か聞いたことがある

子供は何に向かって言葉を発していたのだろう?

私はその部屋にあった母親の仏壇を見ながら

今度こそ見当違いでない事を祈った

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ネタバレ注意

キャーぞくっときました♪