長編20
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ストーカー

※コピペ

「最初はドアスコープだったんです」

 彼女は顔をこわばらせながら、ゆっくりと話しはじめた。

「私の家のスコープが外されて、廊下に落ちていたんです。朝、家を出てそれを見つけた時は何か分からなかったんですけど、

その日、ちょうど部屋の電灯を点けっぱなしのまま出てしまって、夜に帰宅して鍵を開けようとしたら、ドアの真ん中が妙に光っているので、ドアスコープが外されていることに気づいたんです。それが2カ月前のことでした。

 それでも、その時は『あれ?なんで外れてるんだろ』って感じで、それがストーカーの仕業だとは思わなかったんですけど、

それからしばらくすると帰宅する時に何だかあとをつけられているような気配を感じたり、真夜中の3時とかに『ドンッドンッ』ってドアを叩かれたりするようになったんです。

 それで、ある時から家に帰ってみたら、

“スタバのコーヒー、まずかった?”とか、

“今日買った雑誌はバカが読む雑誌だよ”とか

 そういったことが書かれたファックスが1週間に2、3枚届くようになって、最初の頃のは、気持ち悪いのでもう捨ててしまいましたけど。それでも、私、これはきっと何かの間違いじゃないかと、そう考えようとしてたんです。

けど、最近はほとんど毎日のように、私がどこに行ったとか、何をしたとか書かれたファックスが届くようになって、それで私、だんだん怖くなって。けど、どこに相談していいか分からなくて。でも、昨日ポストを見たら中にこれが入っていたんです。それで、慌てて私…」

 彼女が震える手で差し出した紙は、彼女の化粧台を写した写真をプリントしたものだった。引き出しがすべて開けられている。その裏には、こう印字されていた。

 安い化粧品を使っていると、

 せっかくの君の美しさが台なしだよ。

 今度僕がいいのを買ってあげるね。

「おおよそのことは分かりました。

 で、この事は誰かに話しました?」

 相手の男はそう言った。彼女が電話帳広告で見つけた興信所の男で、差し出した名刺には「相沢」と名前が記されていた。

見たところ、年齢は若いはずだが、口数が多くて、どこかに中年じみた雰囲気が漂っていた。彼女には、こんな男に自分の秘密を話すのは我慢できない事だったが、今はそれどころではなかった。

「いえ、誰にも。今が初めてです」

「そりゃあ良かった。ストーカーは案外と顔見知りの場合が多いんですよ。いや良かった」

 そう言われて、彼女の脳裏に幾つかの男の顔がよぎった。会社の上司、同僚、友達、友達の彼氏…まさかと思いつつも、疑いだすと否定しきれない。

「で、どうされます?こういう場合のメニューは一応こうなっておりますが…」

 相沢がそう言って彼女の前に差し出したメニューには、料金の安い順に色々な項目が記されていた。これを順にやって一番下までいくと結構な料金になる。

「…一番下の『犯人を特定し、法律に即して二度とストーキングできないようにする』までいかないとあんまり意味ないんですけどね。

盗聴器を除去してもまた仕掛けられる可能性だってありますから。どうです、とりあえず一番上の『盗聴機器などを除去する』から始めましょうか?」

 選択肢など結局無いのだぞと言わんばかりに相沢はそう言った。

「ええ、そうしていただけますか。できれば、すぐにお願いできますか。今日も会社は休んで来ましたし、もう怖くて家にも帰れないんです」

「わかりました。結構ですよ。早速、お宅にうかがいましょう」

 自宅に着くまでの車の中、相沢は喋り通しだった。彼が見つけたストーカーの話し、とんでもない手口、ストーカーからとんでもない目にあった被害者の話し…

相沢は自慢話をしているつもりのようだったが、今の彼女にとって、それは脅迫以外の何ものでも無かった。

(誰か、この男の口をふさいで)

 そう叫び声を上げそうになった時、車はようやく彼女のマンションに着いた。

 相沢は車を降りずに、そのうるさい口を閉じて車内から辺りを見回した。

「あのマンションですか?」

 彼女がうなずくと、相沢は少し考え込んでこう言った。

「こりゃあ、失礼ですけどあんまり良くないマンションですなぁ。道が狭くて人通り少ないし、他の家からベランダやエントランスがあんまり見えない所にあるでしょ。こんなんが一番狙われるんですわ」

「でも、私、一応エントランスがオートロックになってる所を選んだんですけど」

「ああ、ありゃあまったく無意味ですわ。誰かが入るときに一緒に入ったり、宅配業者のクール便とか装って適当な部屋を呼び出したら一発で入れてくれるでしょ。

いきなり断る人なんていないし、後で誰も来なくて、おかしいと思ってもどうしようもない。けど、見たところこれで外部の電話線のセンは消えましたわ。これじゃ多分、無理」

「電話線?」

「家から出てる電話回線の途中に盗聴器を仕掛ける場合があるんですわ。けど、見たところこのマンションの電話線だと無理ですね。盗聴してるとしたら、多分無線でしょうな」

 そう言うと、相沢は車のダッシュボードに備え付けられた無線機のような物のスイッチを入れ、周波数を合わせはじめた。これで盗聴器が発している電波を捕らえるのだと詳しく説明した。

 相沢がその機械を操作すると、ノイズや電子音に混じって人の声らしき音も聞こえてきた。

 しばらくこれを聞いていた相沢は、顔をしかめてこう言った。

「こりゃダメだ」

「どうしたんですか」

「あっちこっちから出てますわ。多分、お宅のとこ以外にもこの辺で盗聴されている家が何軒かあるんですね。ここからだとどれがお宅んとこの分かわかりませんわ。部屋へ行かしてもらってもいいですか」

 もちろん、と言いたい所だが彼女は少し戸惑った。自分の部屋を見られるのは構わないのだが、問題は隣りの部屋だった。どんな奴だか知らないが隣りの住人は相当な淫乱らしく、昼夜構わずセックスしてその喘ぎ声が彼女の部屋まで聞こえてくることがあったのだ。

(どうか隣りのバカが昼間からエッチなんてしてませんように)

 彼女は心の中で祈りながら、相沢をマンションへ案内した。そんな彼女の心の内など素知らぬ顔で、相沢はずけずけと彼女の部屋に入ると、大きなカバンからトランシーバーのような機具を取り出して、部屋のあちこちを調べ始めた。

彼女は一度この光景をテレビの特番か何かで見たことがあった。でも、まさか自分の部屋でそんなことが再現されるとは。彼女はまだ半信半疑で相沢の仕事をじっと凝視した。

「こりゃあ凄いですな。部屋中盗聴器だらけですわ」

 相沢のその言葉通り、彼女部屋のあちこちから彼女の知らない妙な機械が出てきた。

 コンセントのカバーの内側、

 延長コードのタップの中、

 電話の受話器の中、

 ブレーカーの中、

 ベッドの下、

 天井の電灯の中や、エアコンのパイプ穴を塞いでいる粘土の中にも何かしら小さな機械が埋め込まれていた。

 相沢はまるで宝探しでもしているのかのように、「ここにもあった。あ、ここにも」などと言いながら、鼻歌まじりで盗聴器を探し出しては床の上に積み上げた。

部屋にある物という物はほとんどひっくり返され、部屋はまるで引越の前の荷造りでもしているかのような状態になった。そして、最後に、ユニットバスの換気扇の中からピンホールカメラのような物が出てきた時、彼女は自分の気が遠くなるのを感じた。

「これで全部という保証はありませんが、まあ、大丈夫でしょう。ほとんどありとあらゆるタイプの物が仕掛けられていたんで、こっちも考えられる限りの所は全部探しましたからね。これは一応、何かあったときの証拠品として置いといた方がいいですよ。ああ、大丈夫。全部、電源は入ってませんからもう盗聴できませんよ」

 相沢が笑って指差した先には、取り除いた盗聴器の類いが小山のように積まれていた。

「で、この後、どうします?一応、ご依頼としてはこれで終了ということになりますが」

「…というと?」

「いや、次のステップ…もちろん料金は追加になりますが…に進むか、これで終わりにするか」

 もどかしい相沢のもの言いに彼女はイライラしながら言った。

「次のステップって何でしたっけ?」

「次は、一応、定期的にチェックしてうちからアドバイスを続けるということになります。もちろん、相手を特定するというのが最終ステップですけど、どうします?」

「とりあえず盗聴器は全部取って頂いたんですよね。これで、その、大丈夫なんでしょうか?二度と盗聴器は仕掛けられないんですか」

「いや、それは何とも。それについてのアドバイスも次のステップになるんですよ」

(そんな!)

 彼女は頂点に達した怒りを抑えながら「次のステップ」とやらの依頼をした。

「じゃあ、正式な契約は事務所に戻ってからということで、とりあえず今ここにいるうちにアドバイスして置きますと…」

 と言いながら、相沢はカバンから電話機を取り出した。

「今お持ちの電話機は使わないで、これを使ってください。コードレスホンって、それ自体が盗聴器なんですよ」

「えっ?」

「親機が子機に飛ばす電波自体が盗聴されるんですよ。それを傍受するのって、実は違法でも何でもないんです、知ってました?ラジオを聞いてるのと同じ。『放送』する方が悪いんです。あ、それと大家さんに言って玄関の鍵は替えてもらってください。

できれば2つ以上、ディンプルキーというタイプにしてもらってください。今ついてる鍵は、そうですね、僕だったら10秒くらいで開けれちゃいますわ。もちろん完璧に対応するには、セキュリティの万全な所へ引っ越すしかないんですけどね」

 彼女はその場で引っ越すことに即決し、相沢にマンションを紹介してもらうことにした。その夜は、わけを説明して友達の家へ泊めてもらった。とてもじゃないがあの部屋に一人でいることなどできない。

 そして翌日、仕事を終えた彼女は、引越の段取りをつけるために一度だけ帰宅した。

 扉の前に立った彼女は、ひとつ深呼吸をしてから、恐る恐る部屋の鍵を開けた。

 ゆっくりとドアを開く。

 何もない。

 忍び足で部屋に入り、電灯を点ける。

 床には、あの忌まわしい盗聴器の山が昨日のまま積まれている。

 それを見て、彼女がため息をひとつついた時、相沢が貸してくれた電話機が「ピーッ」という電子音を立てて、ファックスを1枚吐き出した。

 僕から逃げようなんて、ムダだよ。 

 その日から1カ月、彼女は家に戻らなかった。

 電話番号と携帯の番号を変え、引越業者に頼んで荷物を新しいマンションに移してもらい、1週間に1度は相沢に部屋をチェックしてもらった。もちろん、新しい部屋からは何も見つかるはずは無かったし、引越が済んですぐに家に戻っても良かったのだが、彼女の不安が消えるまでには1カ月という日数が必要だった。

泊めてもらっていた友達が、そろそろ我慢しきれずに彼女に皮肉を言い始めた頃になって、ようやく彼女は家に帰る決心がつき、相沢に同行してもらって、新しいマンションへ行った。

(大丈夫。もう何もない。何も起こらない)

 自分を言い聞かせるように、そう念じる彼女の心中など知るはずも無く、相沢は相変わらず喋り続けていた。

「…ちょっと家賃が高いですけどね、このマンションは完璧ですよ。管理人は常駐だし、監視カメラが8台もついてるんですよ。窓にはセンサーがついてるし、それで、ほら特にこの玄関」

 そう言いながら相沢は彼女の部屋の前に立って、手に持った鍵を見せびらかせた。

「これがディンプルキーです。鍵のパターンは120億通りで合鍵複製は不可能。しかもダブルロックだから、ピッキングもまぁ大丈夫でしょう。やる前に普通はあきらめますわ。内鍵はサムターン回しができない奴を使ってるし、それにほら、これ、すごいでしょ。

このマンション、鍵がデッドボルト式でかかるようになってるんですよ。閉めたらドアにカンヌキがかかるんです。これ、バールでもこじ開けられないんですよ。ああ、そうそう。だからくれぐれも鍵は無くさないようにしてくださいね。ははは…」

 そう喋り続ける相沢の言葉通り、新しい部屋では何も起きることは無かった。ようやくいつもの、普通の生活が戻ったと思っていた。その朝までは。

 電子音で目覚め、そのファックスを見た瞬間、彼女は頭から音を立てて血の気が引くのを感じた。そして、大急ぎで着替えると部屋を飛び出し、携帯で会社に電話を入れてから、相沢の事務所に向かった。

 だから僕が上等なのを

 買ってあげるって言ってるのに。

 安物の下着なんて付けてると

 自分が安っぽくなるだけだよ。

「…前にも言いましたけど、完璧に対策するなら、相手を特定して法に訴える最後の手段に出るしかないんです。けど、あのマンションは完璧なんだけどなぁ。それに電話番号は変えたんですよね。じゃあこれは何かの間違いじゃないのかなぁ。盗聴器とか、もうどこにもないはずなんですけどねぇ」

 彼女の気も知らないで、相沢は彼女が差し出したファックスを見ながらそう言った。

「違うんです。そうじゃないんです。絶対、どこかにまだ盗聴器というかカメラがあるはずです」

 彼女は相沢のとぼけた顔に怒りを感じながらそう言った。

「そうは言ってもですね、確か一昨日でしたっけ、土曜日に調べた時も何もありませんでしたよ」

「いや、絶対にあるはずです。だって、これ、昨日の晩に、私の部屋の中を覗いて書いているとしか思えないんですよ」

「と言うと?」

「昨日の晩、私、インターネットで確かに下着を注文したんです。タイミング的にその事を書いているに違いないんです」

「インターネット…」

 相沢は絶句した。どうやら、ちょっと勝手が違うらしい。黙ったまま立ち上がると、事務所の奥へ行った。そして少し難しい顔をして戻ってきた時、彼女は相沢が口を開く前にこう言った。

「あの、手に負えないようなら、私、もう一度引っ越すか、他の所に頼みますし、もういいです」

 夕刻、彼女とともに彼女のマンションに向かった相沢は、他に2人の男を連れていた。一人はかなり若い男で、相沢は「この人が『分かる人』です」と紹介した。

コンピュータとか、インターネットとかの専門家らしい、髪ばボサボサ、分厚い眼鏡をかけ、一見してオタク系と分かる顔をしていた。相沢が紹介しても、黙って外を見たまま彼女の方を見ようともしない。

 もう一人は中年の男だ。熊のような大柄の身体に、暴力団と言われても信じそうなくらい強面の顔をしていた。どうやら相沢の会社の社長らしく、相沢はむっつりとしたその顔にペコペコしながら他愛のないことを喋り続けていた。

「黙れ!」

 社長はそう怒鳴ると相沢の口をこぶしで殴り付けた。

「お前、いつまで喋るつもりだ。

 今度口を開いたら、ぶっ殺す」

彼女は音を立てないように自分の部屋のドアを開けると、強面の鬼社長だけを先に部屋へ入れた。まだ完全に盗聴器やカメラが無いとは断定できないからだ。ひょっとしたら相沢が見落としている物があるのかも知れない。

このやくざ風の鬼社長は、それをまず確認するためにここへ来たようだ。

 鬼社長は、その武骨な風貌に似合わないしなやかな動作で、玄関から廊下、トイレ、浴室と入念に各部を調べていった。最初、相沢がずけずけと部屋に入って行った時とは大違いだ。

 そして、

(大丈夫だ、何も無い)

 というように首を振りながら部屋から出てきたとき、相沢が思わず

「でしょ?!無いで…」

 と言いかけた途端、鬼社長は思いきり相沢の顔をこぶしでぶん殴った。相沢は鼻から血を飛ばしながら、マンションの廊下を転がった。そして、ゆっくりと玄関のドアを閉めてからこう言った

「馬鹿野郎。今度は殺すと言っただろうが。お前、何度いえばわかるんだ。こういうのに完璧は無いんだ。もし相手に今の声が聞こえてたらどうするんだ」

 相沢は腫れ上がった鼻をさすりながら、泣きべそをかいた。鬼社長はその顔にもう一発喰らわせてから彼女の方に向き直りこう言った。

「いいですか、今の所どこからも電波は発信されてませんけど、これでもまだ何か仕掛けてるとしたら、こいつは相当なストーカー野郎っちゅうことです」

 彼女はうなずいた。

「手口は分からんが、ひょっとしたら遠隔操作で発信機のスイッチを操作できるのかも知れん。けど、もしカメラがあるなら絶対に電波で映像を飛ばしているはずですわ。できれば、相手に気づかれないように、その瞬間を見つけたいんで、部屋に入っても静かにしててください、いいですね」

 部屋に入ると、今度は「オタク」の出番だった。

 電源を入れる前に彼女のパソコンをいきなり分解すると、慣れた手付きで中をチェックしはじめた。納得がいくと今度はあっという間に元に戻し、オタクが持ってきたノートブックに接続して電源を入れた。

 ピッ

 小さな起動音がいやに大きく部屋に響く。

 この間、ずっと無線機のようなものを凝視し続けていた鬼社長は、顔を上げてオタクの方にうなずき「大丈夫だ、まだ何もない」という合図を送った。

 オタクはカバンから何枚もCDを取り出し、パソコンに入れて何事かをチェックした。何か専用のソフトを使っているのだろう。時にオタクはインターネットに接続したり、外へ出て携帯電話で誰かと話しをしたりしていたが、その顔は時間が経つごとに曇っていった。

 カーテンを閉じ電灯も点けないままの部屋の中は、もうすっかり暗くなっていた。ただ2台のパソコンのモニタの明かりだけがぼんやりと部屋を照らし出している。他の3人が固唾を飲んでオタクの様子を見守る中、オタクはおもむろに紙とペンを取り出すと、走り書きして3人に差し出した。

 外部からアクセスなし

 パソコンの中にも何もない

「何だと?」

 そういう顔で鬼社長が顔をしかめると、オタクはひるむことなくさらに文字をこう書き足した。

 間違いない

 何も仕掛けられてない

 ハッキングもされてない

 その時だった。

 電話機が電子音を発して、1枚のファックスを吐き出した。

 やあ、今日は早く仕事が終わったんだね。

 こんな時間からパソコンで何をやっているんだい。

 これを見るなり、オタクは目を丸くして首を振った。鬼社長は例の無線機風の機械を引っつかんで睨み付け、やはり首を振った。

 そのうちに電話機がまた電子音を立ててファックスを吐き出す。

 驚いたかい?ふふふ。

 君のパソコンはもう僕の魔術にかかったのさ。

 あの間抜けな探偵さんにも分からないよ。

その2枚目のファックスを凝視していたオタクは、とっさにパソコンから電話線を外して、その先っぽを鬼社長の前にぶら下げた。相手がインターネットか何かで、回線を使って外部からパソコンと接続しているのなら、これで分かるということだろう。

 鬼社長は暗い部屋の中をぐるりと見渡した。といっても彼女の部屋の中には、探すまでもなく物が余り無かった。生活らしい生活ができるほどの日数もまだ経っておらず、荷物はほとんど段ボールの中に入ったままだ。

 だが、電話機は3枚目のファックスを吐き出した。

 いいから、パソコンに何か文字を打ってごらん。

 僕にはそれが見えるから。

オタクは「そんなはずはない」というように激しく首を振った。鬼社長は彼女の肩に手をかけ、モニタに向けて顎をしゃくった。

「何か打て」ということらしい。

 彼女は震える手でマウスを掴むと、メモ帳を開けてこう打ち込んだ。

 あなたは誰

 しばらくすると電話機が4枚目を吐き出した。

 君が僕のことを愛してくれるようになったら

 教えてあげるよ。

 それを見るなり、オタクは「信じられない」といった顔で息を飲んだ。そしてもう一度彼が持ち込んだノートブックで何事かチェックし、電話線を確かめた。壁のジャックからは電話機にコードが繋がっているが、電話機から彼女のパソコンに繋ぐコードは外されたままだ。

そして、無言のまま一端外へ出て戻って来ると紙にこう走り書きした。

 プロバイダにも確認した

 今このパソコンは外部に全くつながっていない

 これを見ると鬼社長はおもむろに上着を脱いで彼女の後ろでそれを覆いかぶせる風に広げ、「もう一度書け」というように彼女の背中を押した。これでモニタは彼女しか見えない。彼女は戸惑いながら再びキーボードを叩いた。

 なぜこんなことをするの?

 電子音、5枚目のファックス。

 君を目覚めさせてあげるためさ。

 そのために僕は何だってする。

 君はまだ本当に君を愛する人と

 出会ってないのさ。

 それが僕なんだけどね。 

 この間、鬼社長は無線機のような物を必死に操作していた。オタクは彼女からもぎ取るようにしてマウスを掴むと彼女のパソコンの何事かを確認したが、信じられないという顔をすると、ゆっくりとマウスから手を放した。

 その時、それまで黙って部屋の隅でしょぼくれていた相沢が立ち上がり、部屋の電灯のスイッチを入れた。

 真っ白い蛍光灯の明かりが、相沢を睨み付ける鬼社長の形相を照らし出した。その鬼社長に向かって、相沢が「待て」という風に手を出したとき、6枚目のファックスが届いた。

 そろそろ君も僕のことを分かってくれよ。

 今晩あたり、君に会いに行こうかなぁ。

相沢はその紙を引っつかむと、走り書きで

「見えてない」と書いた。

 なおも鬼社長が睨み付けている顔を見ると、相沢は、さらにその前に「こいつオレたちのことが」と書き加えた。

 こいつオレたちのことが見えてない

 全員が静まり返って、相沢のその汚い字に見入っていると、どこからかかすかに小さな乾いた音が漏れ聞こえてきた。そして電子音。7枚目のファックス。

 なぁんてね。

 鬼社長は決然と立ち上がり、キーボードを指差して彼女に「もう一度、何か打て」と命じると、カバンから聴診器のような物を取り出して部屋の壁に押し当てた。

 私の家を知っているの?

 かすかな音、電子音、8枚目のファックス。

 君って面白いこというね。

 そんなの決まっているじゃないか。

 僕は君のことなら何もかも知っているさ。

 本当は、君が僕のことを愛していることもね。

 鬼社長は、聴診器を離すと壁を指差した。

 ストーカーは隣りの住人だったのだ。

 鬼社長は相沢に手で合図して玄関に回らせると、自分は静かにベランダ側の戸を開けて外に出た。その途端、窓のマグネットセンサーが反応して、けたたましい警報音が鳴り響いた。

 相沢は外で隣りの玄関のドアを激しく叩いていた。そして、この男は二重人格かと思えるほど、いかつい声を張り上げた。

「こら、出て来やがれ!このストーカー野郎!」

 その途端、隣りの部屋で明らかに大きな音がして、やがてベランダから鬼社長の怒鳴り声が上がった。

「この野郎っ!」

 彼女がベランダに出てみると、どうやって行ったのか、鬼社長が隣りのベランダに移っていて、初めて見る隣りの住人と揉み合いをしていた。

「こいつっ」

 鬼社長が羽交い締めにしようとすると、男はその腕に噛みつき、鬼社長がひるんだ隙に、何のためらいもなく人差指を鬼社長の目に突き立てた。

「うがあああああ」

 鬼社長は猛獣のような叫び声を上げ、左目の辺りからどろりと赤い物を落とした。

 それでも鬼社長は倒れず、逆に狂ったように男を殴り始めた。その岩のようなこぶしを何度も身体に受けた男はやがて諦めたように、ふっと力を抜いてベランダでじっとその様子を見続けていた彼女の方を見た。

 年は彼女と同じくらい。

 意外にすっきりとした、

 女のような顔立ちのその男は、

 口元に薄く笑みをたたえると、

 ベランダの柵の向こうへ乗り出した。

 バンッ

 7階下の道路で、小さく音がした。

 男は頭を真下にして垂直に落下していた。

 翌日の夕刊には、この彼女の部屋で起きたことが小さく事件として載せられていた。彼女は何度も同じ説明をしてやっと警察から解放されたが、家の前でマスコミらしい何人かの男がうろうろしているのを見て、彼女はもう一度友達に頼み込んで泊めてもらうことにした。

 もう一度引っ越そう。

 その時、彼女はそう決心した。もうあのストーカーに悩まされることは無いのだが、あの部屋にはいい思い出は一つもない。落ち着いたら、どこかいい所で、もう一度まっさらな部屋を借りることにしよう。そうすれば全て忘れることができるはず。

 そう思っていたのに、あい変わらず中年じみた口調で相沢から連絡があった。要件は料金の支払いと、ついでに、彼女にはもうどうでもいいことだったが、その後の警察の調べで、あのパソコンの謎が解けたのだという。

「…あれはね、ハッキングとかとは全然関係無かったんですよ。仕掛けはコードレスホンと同じですわ。パソコンとかテレビとかいうのは、何でもモニタから電波みたいなのを発しているそうで、それを近い所で受けて特殊な機械で映し出すと、モニタで映ってるのとまったく同じ映像を再生できるらしいんですよ。

あの男、それをやっていたんですね。道理ですぐそばに僕達がいても気づかなかったわけですわ…」

 そして、マンションの前からやじ馬やマスコミが消えた頃、彼女はようやく家に戻った。あの男の部屋の前を通ったときは、さすがに嫌な思い出が蘇ったが、あの男はもうこの世にいない。

警察の話しでは、即死だったという。部屋に残された遺品も、警察とあの男の家族が何もかも引き取って、今はがらんどうの空き部屋になっているらしい。反対側の隣人も、今回の事件を聞いてすぐに引っ越したそうだ。

家に戻るのを避けていた彼女だけが、取り残されていたというのも皮肉な話しだ。

 彼女はおよそ1カ月ぶりに自分の部屋の前に立ち、ドアノブに鍵を差し込もうとしたとき、ドアの下に一枚の紙が差し込まれているのを見つけた。

 ドアを開けてそれを取り上げた彼女は、自分の目を疑った。

 これでやっと二人きりになれるね。

(誰かのいたずら?)

 そうに違いなかった。

 マスコミの報道を見た誰かがした悪質ないたずらに違いない。

 けれど、この書き方はあの男に違いない──彼女は心のどこかで浮かんだ思いを必死に打ち消しながら、真っ暗な部屋へ入った。

 電灯を点ける。

 何もない──あの日と同じ。

 彼女は、はっと振り返り電話機を見た。

 ファックスを受信している。それも、数十枚。

 僕から逃げようなんて、ムダだよ。

 それから半年。

 相沢の興信所は、話しにならなかった。鬼社長は失明した左目が悪化し、あれ以来、満足に仕事もできない状態らしい。相沢は何度頼んでも何も見つけられず「そんなことあるわけがないでしょう」の一点張りだった。

相沢ではやはりあてにならない。そう思って、他の興信所にも頼んだが結果は同じだった。どこに頼んでも、相沢と似たり寄ったりのことを繰り返すだけだ。

そればかりか、どうやら彼女の自演すら疑っているようだった。彼女が自意識過剰の余り、被害を装っているのではないかと思っているらしい。だって、部屋の中をどう調べても何も出ないし、そもそも、そんなことあるはずないからだ。

 そう、冷静に考えれば、誰だってそう思う。死んだ男にファックスを送れるはずがない。これはきっと誰かのいたずら。

 彼女は電話番号と携帯の番号を何度も変えた。住所も変えた。疑わしい物は全部捨てた。パソコンも、テレビも、電話機も。

部屋に備え付けのエアコンも取り外して、パイプ穴は石膏で固めた。それどころか部屋を変える度に興信所に調べてもらったので、彼女の部屋はもう廃墟同然だった。部屋に残された物で原形を留める物はほとんど無い。

目覚まし時計、電卓、コーヒーメーカー、電子レンジ…ありとあらゆる電気製品は分解されたまま放置されていた。コンセントはカバーを取り外して電気コードが剥き出し、浴室やトイレの換気扇もカバーが外されたまま。

そこにぽっかりと口を開けた空洞は、まるでその暗闇自体が彼女を見つめているようだったが、彼女にはもう二度と閉めることはできなかった。

彼女には自分の部屋に自分の見えない空間があることが不安でたまらなかったからだ。だって、今も、何度部屋を変えても、毎日のように部屋に帰れば玄関にあの紙が落ちているからだ。

 僕から逃げようなんて、ムダだよ。

 彼女の部屋の隣りで、一人の女が口元に薄く笑みを浮かべながら、同じメッセージが書かれた紙を何十枚もプリントし続けていた。

「私の彼氏の命まで奪ったお前を、

 私はけして許さない」

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