長編18
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あなたは地獄そのものだ

ある秋の終わり頃。

福祉施設に勤める俺は、出張で、千葉県で開催される研修に参加した。

あまり旅行に行かない俺は、面倒臭いと思いながらも、久しぶりの遠出でワクワクしていた。

そんな高揚感を感じていた俺は、せっかく千葉まで来たので、帰りの新幹線に乗る前に、寄り道をして行くことにした。

目的地は、ネットで有名なホラースポット『八幡の藪知らず』である。

都会の真ん中、住宅街の中にポツンとある、僅か18m四方の竹の森。

何度かこの森の存在をネットで見て知っていた俺は、物見遊山気分で、電車を乗り継ぎ、森のある駅に向かった。

『この藪に足を踏み入れると二度と出てこれなくなる』という言い伝えのあるこの土地は、遥か昔の江戸時代から、禁足地とされており、神隠しの伝承とともに有名であった。

なぜこの地が禁足地となったかは諸説諸々あるが、

かの水戸黄門が迷って出て来れなくなり立入禁止にした説、

昔の豪族の墓所とする説、

平将門の墓所である説、

様々な推測がなされているが、はっきりとした理由は未だ不明である。

しかし、近隣の住人は、この地に対して畏敬の念を抱いており、今持って立ち入る事がタブーとされる禁足地となっている。

俺が目的地『八幡の藪知らず』に到着した時、すでに周囲には夜の闇が降りていた。

俺は、僅かな恐怖心とそれを上回るワクワク感に身を浸しながら、この場所を観察する。

18m四方の森は、墓石の様な石柱にぐるりと囲まれており、数分で一周できた。

四方の一片、森への参拝口には、灰色の鳥居が立っており「不知森神社」の名が彫られておる。

俺は鳥居をくぐり抜け、僅か数mの敷地にある社殿に足を踏み入れる。

森の周囲には車や住宅の明かりがあるが、一度敷地内に入れば、明かりは自分の携帯電話のライトのみである。

俺は携帯の小さな明かりで、社殿の中を照らす。

社殿の奥には、小さくも厳かな佇まいの神社がある。

周囲には、鳥居と同じこの地の名前が刻まれた石碑がある。

俺は、石柱の隙間からライトを森の向けた。

森の中は、縦横縦横無尽に竹が伸びており、俺の照らす明かりと視界を遮る。

地面には、数え切れないほどの腐り倒れた竹が見える。

笹の葉のざわめく音が周囲の車の音をかき消した。

時々、か細い虫の音がチキチキと聞こえる。

光を通さない程に竹が群生しているが、光の透け方から察するに、森の中央には隙間があるようだったが、ここからでははっきりと見えない。

…なんだ、こんなものか。

幽霊に出会えるとか、何かしらの恐怖の体験をするとか、そんな出来事を期待していたわけではなかったが、俺は少し残念な気分で、社殿に背を向け、森を後にする。

その時。

俺は視線を感じた。

強い視線だった。

鋭い刃で串刺しにされる。貫かれる。そんな形容が合う感覚。

俺は社殿を振り返った。

…何もない。

しばらくの間、…おそらく数秒間の事であろうが、俺は視線を感じた方向…社殿を凝視する。

石碑の隣で、何かが動いた。

黒い影がユラリと蠢いた。

そして、

黒い影が

姿を現す。

それは、

人の形をしていた。

人の形をした、黒いナニカ、だった。

…なんだあれは?

俺の背筋に怖気が走る。

首の後ろがチリチリとする。

両の肩に寒気を感じる。

喉の奥に得体の知れない違和感を感じる。

俺は、乾いた唾液を無理矢理に飲み込もうとする。

だが、上手く飲めない。

喉の違和感が俺の嚥下機能を阻害する。

膀胱が収縮し、尿意を感じる。

やばい!

見ちゃダメだ!

早くここから退け!

脳が体に指示を出す。

だが、まるで脊髄がその電気信号を無視するかのように、

俺は視線を反らせない。

俺の足は動かない。

俺は、自分の体に向かって、必死の抵抗を試みる。

まるで数十キロの荷物を持ち上げるような意思と筋力を費やして、

俺は、一度だけ、瞬きをした。

僅か0.1秒間。俺の視界が瞼の裏側にある闇に染まる。

…直後。

黒いナニカは、

石碑の横から、消えていた。

鉛が外れたかのように、体が軽くなる。

全身を襲っていた寒気も、消えた。

ゴクリ…。

唾も飲み込める。味も感じる。

俺は周囲を見渡す。

国道14号線を走る自動車の黄橙色のライトが眼に入る。

俺は、胃と肺に溜め込んだ濁りを吐き出すかのように、大きく、わざとらしく、深呼吸をして、

禁足地『八幡の藪知らず』を、後にした。

新幹線の中で。

俺は缶ビールを飲みながら、ボンヤリと時速270kmで流れる夜景に目を向けていた。

…さっきのあれは、なんだったんだろう。

なるべく考えないようにしていたのだが、流石に二時間近く新幹線の席に座っていれば、嫌でも先程の事が思い浮かんでしまう。

ゴウッ!

新幹線がトンネルに入った。

視界の先の夜景がトンネルの黒い壁に変わる。

その時、俺は気付いた。

俺の座る席の窓の右下に。

黒い手形があった。

…誰かのイタズラだろうか…。

俺は、数瞬の間、気無しに、その手形を見つめてた。

ぬるり。

手形が、動いた。

窓の中央に向かって、だ。

…手形じゃない!

俺の視線の先で、ゆっくりと、だが確実に、

虫が這うような速度で、

手形が、

いや、

誰かの、…ナニカの手が、

窓の中央に向かって、

…俺に向かって、

這ってくる!

めいいっぱいに指と指の間を広げた手形は、まるでヤモリのように新幹線の窓にへばり付いているようであった。

「う、うわ!!」

我に返った俺は、短い叫び声を上げながら、イスから立ち上がり尻もちをつく。

尾骶骨を打つ衝撃が俺を貫くが、痛みを感じる余裕は、無かった。

周囲の乗客が、何事かと床に座る俺に好奇の視線を送る。

俺は、窓に視線を向ける。

だが、例の手形は、すでに窓から消えていた…。

車掌に相談して席を変えてもらった俺は、イヤホンを耳に付け、大音量で音楽を鳴らし、硬く目を瞑り、周囲の状況が入らないように感覚を遮断する。

それからしばらくして、

肩を叩く手に驚き、俺は目を覚ます。

いつの間にか眠っていたらしい。

肩を叩いていたのは、車掌だった。

終着駅に着いたため、俺を起こしてくれたのだ。

俺は車掌に頭を下げ、駅のホームに降りる。

…帰ってきた。地元は、やはり落ち着く。

駅から出た俺は、そのまま自宅に向かって歩き出した。

…その時。

駅の隣のビルの窓に、黒い影がへばり付いていたように見えたのは、きっと気のせいだろう…。

数日後。

夕方。仕事帰り。

俺は会社の敷地内から、車を出す。

会社から自宅まで、車で30分ほどである。

道中で陽が暮れ、信号で停車していた車中の俺は、車のライトを点灯する。

ライトをつけた瞬間。

そのライトの光に照らされたかのように、

俺の車の正面に、

アレが、

黒い人型の、ナニカが、現れた。

ライトに照らされたナニカは、まるで黒い切り絵のようであった。

ナニカは最初、俺の存在に気付いていないかのように、体ごと横を向いていた。

車の前を横切る歩行者のように。

…気付いていない?

俺は、ナニカが、そのまま俺の前から去ることを願った。

…だが、願いは、叶わない。

ナニカの首が動く。

頭の部分がきっかり45度、横を向く。

俺の車に向かって、顔を向ける。

頭の部分に、二つの切れ目が入った。

5cm程の切れ目。

その切れ目が、上下に開く。

あれは、

眼、だ。

ナニカの眼が開いた。

人間の目ではない。

瞳孔が縦に伸びる。まるで爬虫類の瞳だ。

冷たい視線が、

あの時と同じ視線が、車のフロントガラスを突き抜け、俺に刺さる。

冷たく鋭い刃物で貫かれるような視線。

両の眼の下に、三つ目の切れ目が入る。

15cmはある切れ目。

人で例えるなら、口にあたる箇所。

その切れ目が、ゆっくりと動いている。

よく見れば、その口の動きは、同じパターンを繰り返している。

まず、切れ目が左右横に伸びた。

次に、切れ目が短くなり、まるで口をすぼめるような形を作る。

その次は、横に楕円を作るような形。

最後は、切れ目が上下左右に均等に開き、円形を作る。

俺は、ナニカの口の動きを見て、ナニカの言わんとする事に気付いた。

「ミ」

「ツ」

「ケ」

「タ」

俺の背筋に、森で感じた時以上の怖気が奔りる。

プワーッ!!

後続車のクラクションで、俺は我に返った。

俺は視界を前方に向ける。

ナニカの姿は消えていた。

信号は、すでに青だ。

俺は、震える足で慎重にアクセルを踏み、車を進ませた。

その夜である。

俺はなかなか寝付けず、ベッドからトイレに起き出す。

ふと、廊下の電灯が点灯したままなのに気付く。

…おかしいな。消し忘れたか?

一人暮らしの俺には、同居人はいない。

俺以外に電灯を操作する人間はいない筈である。

俺は、壁のスイッチに手を伸ばし、天井の電灯を消す。

廊下の先は玄関であり、そとの街灯の光が差し込んでくる。

その時、俺は一瞬ゾクリとした。

玄関の横のコート掛けに、俺のコートが掛けてあるのだが、

そのコートが外の街灯の光で影を作り、人の形に見えたからだ。

俺は念の為、もう一度天井の電灯を付け、その影が自身のコートである事を確認する。

ホッと息をつき、俺は再びライトを消す。

…だが、そこで俺は、違和感に気付いた。

コートの横に、もう一つ人影があるように見えたのだ。

俺は再びライトをつける。

…何もない。コートだけだ。

ライトを消す。

…おかしい。やはり、人影があるように見える。

目の錯覚だろうか?

俺は再々度、ライトをつける。

…何もない。

ライトを消す。

また人影のようなものが見える。

そして俺は、さらなる事実に気付く。

人影に見えるものが、段々と俺に近付いているように見えたからだ。

…いやいや、あり得ない。錯覚だ!

俺は、もう一度、天井のライトを消した。

その瞬間。

俺の目の目前、1m先に!

黒い影が、いた。

錯覚じゃ、ない!

「わーーーー!」

俺は寝室に駆け込み、布団を被り、無理矢理目を閉じた。

次の日。

夜勤。巡視中。

昨夜、自宅に、ナニカが現れた。

いったい、俺はどうしちまったんだ…。

だが、あれから俺の目の前に、あいつは現れていない。

むしろ、今夜が夜勤で良かった。

俺は夜勤の相方である同僚と巡視を終わらせ、ステーションに戻る。

巡視が終わったので、同僚が仮眠の為に個室に入っていった。

ここから3時間は、俺一人だ。

集中せねば。

俺は、ゆったりと椅子に腰掛け眼を閉じる。

数瞬の一息の後、俺は目を開けた。

…冷たい気配を感じた。

俺は、椅子に座ってリラックスした姿勢のまま、隣に目を向ける。

ステーションの、面会カウンターの向こう側で、

黒いナニカが、

笑っていた。

「う! ぎゃーーーーーー!!」

俺は叫び声を上げる。

どうした!と、俺の声に驚いた同僚が飛んでくる。

相方は、俺の指差す方向を見る。

何もないじゃないか! 驚かすのはやめてくれ!

そう言って、同僚は迷惑そうな視線を俺に向け、個室に戻っていった。

それから

あいつは

黒いナニカは

俺のすぐ近くに

いる

何時も

如何でも

何処までも

耳元で囁き声が聞こえるんだ。

いや、囁くなんて可愛いものじゃない。

あれは、…叫びだ。

断末魔の恨み辛みを込めた、怨嗟の声だ。

何の前触れもなく、

俺の耳元で、

誰かが、ナニカが、叫ぶんだ。

その声は、いや、声じゃない。

甲高いサイレンのような、重いうねりのような、不快な音だ。

それが突然、耳元で聞こえるんだ。

家で一人で居る時でも。

仕事中でも。

寝床で微睡んでいる時でも。

飯を食ってる時でも。

トイレに篭っている時でも。

いつどんな時でも、いきなり突然に、あいつは叫び出すんだ。

そのたびに、俺は耳を塞ぎ、体を丸めて、叫びが過ぎるのを、待つしかないんだ…。

体調が優れない。

眠いけど、眠れない。

瞼が重いのに、閉じれない。閉じたくない。

闇が、怖い。

頭が重い。ドロリとした液状の鉛が詰め込まれたようだ。鉛の熱が、俺の脳味噌を焦がすんだ…。

耳鳴りも止まない。

ヘッドホンして、大音量で音を鳴らしても、あいつの叫び声は聞こえる。

音に負けじと、更に巨大な叫びを俺の頭にぶつけてくる。

腰が痛い。

腰が重い。

立ち上がるのが、辛い。

整形外科にも行ったが、治らない。一日でブロック注射5本打ったが効かない。

「働きすぎですね」だと? 違うんだよ。あいつのせいなんだよ。

畜生。誰もわかってくれない。

身体中が痒い。

痒くて痒くて、血が出るまで掻き毟る。

血が出て爪の隙間が黒く染まっても、痒くて痒くて仕方ない。

瘡蓋になって、痒くて掻いて、剥げて血が出てまた掻いて。

痒くて痒くて、耐えられない。

皮膚科に行った。けれど治らない。チューブの薬を塗っても、飲んでも、効果なんてありゃしない。

「ストレスですね」だと? 違う! 全部全部、あいつのせいなんだよ!!

数年前に同期と撮った写真を見た。

おかしい事に気付いた。

俺だけ、黒い。

日に焼けたとか、そんなレベルじゃない。

真っ黒だ。

極太マジックで塗り潰されたみたいに、真っ黒だ。

…なんで、俺だけ、こんな目に遭うんだ?

夢を見る。

ただの夢じゃない。

眠っている時だけじゃない。

起きている時でも、見るんだ。

白昼夢ってやつか?

突然に、瞼の裏に光が走って、知らない光景が浮かぶんだ。

最初は夢だった。

【俺は、硬く暗く閉ざされた白木の箱の中にいた。叩いても、蹴飛ばしても、叫んでも、誰も気付いてくれない。そのうちに、段々と足元が暑くなってきた。いや。全身が熱い! 燃やされている! 助けてくれ! 俺は叫んだ。

だが無駄だった。誰も助けてはくれない。喉が焼ける。息ができない。皮膚が焼け爛れる。爪が溶ける。骨が炭化する。…そして俺は、数kgの乾いた骨片と、質量の無い白煙となった…。】

次は、家で憔悴していた時だった。

【突然、家全体が揺れ出した。強い揺れだ。地震か! だがこんな酷い揺れは始めてだ。天井のランプが千切れ落ちる。ブラウン管テレビの足が折れ床に倒れる。あれ? うちにブラウン管テレビなんてあったか? 茶の間にあったタンスが倒れた。俺はタンスの下敷きになる。

なんとか這い出そうとするが、どうしても足が抜けない。早く逃げなきゃ! いや、お前達だけでも逃げるんだ! 俺は泣き叫ぶ妻と子供に逃げろと叫ぶ。だが声は届かない。逃げられない俺の頭に砕けた瓦礫が降り注ぐ。目の前が血で染まる。もう体は動かない。俺の身体に、天井が降ってきた。】

仕事中。書類にペンを走らせていた時。

【突然、目の前の人間がペンを取り上げ、俺の目に突き刺した。俺は叫び声を上げる。大丈夫だ、もう一個ある。そう言って目の前の男がニタニタと笑っている。男は言う。お前がスパイだろう、と。違う! だが男に俺の叫びは届かない。男が両脇にいた軍服の男達に指示を出す。両手を押さえていろ、と。俺の口に布が噛まされ、無理矢理に机の上に手を広げられる。

男は、小さな小さな針を十本取り出し、机に並べた。一本目。男は俺に指の、爪の隙間の柔らかく敏感な肉に針を刳り刺す。肉を貫く痛みで俺は叫んだ。だが口を塞がれ声が出ない。男が言う。大丈夫だ、まだ9本ある、と。】

会社帰り。車に向かう途中。

【砂浜だった。薄暗く、雨が降っている。俺の周囲を白装束の着物を着た数人の人間が囲んでいる。周囲を見渡していた俺の頭を誰かが掴む。下を向け! 手も足も縛られ、正座の姿勢のまま、俺は地面に顔を向けさせられる。俺の頭に布がかけられた。見えるのは、小さく穴の掘られた砂の地面だけ。いったい、何が起こるんだ?

その時。俺の首に冷たさが奔った。空が、地面が、回転する。転がっている。いや。転がったのは、俺だ。俺は、頭から先のない自分の体を、地面から見上げていた。叫び声は、出なかった。】

そして。いつでも。どこにいても。

俺の脳裏に情景が映し出された。

【鋭い槍が、俺の胸を貫いた。肺が熱い! 息ができない!】

【鋭利な刃が、俺の足を切断した。血が止まらない。体が冷たい。寒い。寒い。】

【数本の矢が、俺に刺さる。急所は外れた。だが、この傷ではもう助からない。助からない兵士は捨てられる。いらない荷物のように、棄てられる。俺の叫びは、誰にも聞こえない。聞こえていても、聴こえない。】

俺の夢の中では、俺の知らない何処かの誰かが、必ず、死んでいた。

死ぬ程の苦痛と絶望と、叫びの中で。

部屋の端に、黒いナニカが立っている。

あいつのせいで、

俺は、叫び声に際悩まされ、何度も何度も何処かの誰かが死ぬ光景を見せられてきた。

いつの頃からか、あいつの姿は、更におぞましい姿に変貌していた。

黒い人の形である事に変わりはない。

だが、眼の数が、増えていた。

一つや二つではない。

数えるのも下らないほどに、全身が目で覆われていた。

きっと、掌の中も、足の底にも、瞳があるんだろう。

それぐらいびっしりと、目玉が全身を覆っていた。

その全ての目の視線が、俺に向かってくるのだ。

その視線と対峙しながら、俺は、折れそうな心の中で、小さく決心をする。

…俺に取り憑くあいつは、俺の近くから、いなくならない。

だから、戦わなきゃ、ならない。

そう悟った俺は、近くの寺に相談に向かった。

俺は近所の寺でお祓いを受けた。

如何にも胡散臭そな坊さんが、俺に向かって経を唱える。

それだけで、かなり高額の寄付を強要された。

そして、お祓いの効果の程は…、

皆無である。

お祓いから数日経っても。

俺の耳元では絶えず叫び声が鳴り響き、死の情景は、消えない。

俺は、県内で最大の規模を持つ寺を尋ねることにした。

山奥にあるその寺院の空気は澄んでおり、先日訪ねた寺に比べ、…清涼感と表現していいのか解らないが、…清廉な心地よさがあった。

だが、本殿を訪ねた瞬間。

一人の坊さんが、悲鳴を上げた。

俺を見て、悲鳴を上げたのだ。

何事かと、坊さんたちが集まってくる。

一部の坊さんは、俺の背後に視線を向けている。

皆、青白い顔を更に蒼白くしている。

一人の坊さんが、口を開いた。

穏やかながらも、意思の篭った声だ。

「出て行ってくれ」と。

まさか何もする前から門前払いを受けるとは思わず、俺は、「ちょ…待ってくださいよ!」と反論する。

他の坊さんが口を開く。

「あんたは…地獄そのものだ。」

地獄…。

俺に取り憑くナニカは、それほどのものなのか…。

「待ちなさい。」

一際穏やかな声が境内に響く。

坊さん達が声の主に目を向ける。

そこには、齢80歳は超えると思われる、豪奢な衣に身を包んだ坊さんがいた。

話の解る人がいた!

「助けてください!」

俺は、坊さんに頭を下げる。

どうやらこの坊さんは、この寺院の責任者…住職らしい。

住職は、俺を連れて寺に中に入っていく。

住職は最初に、寺院の者の非礼を詫びた。

その後、俺に取り憑く黒いナニカの説明を始める。

住職の話によれば、あの黒いナニカは、無念に死んだ物達の怨霊の集合体らしい。

その怨嗟の声や断末魔の情景を、俺に見せているとの事だった。

戦時中のスパイ容疑で、

関東大震災の被害で、

江戸時代の打ち首で、

戦国の世の戦での最中に、

その他様々な時代の、様々な出来事で、無念と絶望の果てに死んだ者たちが成仏できず悪霊となり、それが寄り添い集ったモノが、俺に取り憑く悪霊の正体だった。

「でも、なんで俺なんですか!! 俺は、何もしていません!」

住職によれば、悪霊は、この世とあの世の境目の様な場所に集まりやすく、俺が『偶然』あの森で、ナニカと波長があったために、取り憑かれたのではないかと教えてくれた。

その説明に、俺は激昂する。

「じゃあ、俺があのナニカのせいで酷い目にあっているのは、全て『偶然』…つまり『運が悪かった』からなんですか!」

住職は、言葉なく頷く。

俺は興奮しながら言葉を続ける。

「世の中には、ほんの軽い気持ちで、何気なく心霊スポットに行くような奴らばかりですよ! それが…、それが、なんで…俺にだけ、取り憑くなんて…、なんでこんな事が、起きるんですか! 俺の身にばっかり…。運が悪い…そんな理由で…俺に、だけ…。」

俺の声は、最後は涙声だった。

膝を折り床に手を付く俺に、住職は静かに言葉をかける。

「運とは、つまり運命です。浄や不浄に限らず、全ての出会いは、運命なのかもしれません。」

「運命…。出会い…。」

「あなたに取り憑く悪霊も、もともとは、無念の内に亡くなり、行き場を失った可哀想な者達です。あなたに死の情景を見せるのは、もしかしたらあなたに救いを求めての事なのかもしれません。」

「救い…。」

「そうです。あなたは、あの悪霊を救えるかもしれないんです。それは、あなたの『希望』になりませんか?」

俺は、今も視界の隅に映る黒いナニカに目を向ける。

黒いナニカは、無数の視線を向けながら、ただ、立ち竦んでいる。

住職は、言葉を続ける。

「あの悪霊を祓う事は、可能です。ですが…その為にあなたは辛い思いをする事になるかもしれませんが…。」

「…俺がそれを耐えれば、あの悪霊は…霊は、成仏できるんですね?」

「はい。」

住職は静かに頷いた。

今夜、お祓いのために、俺は寺院の御堂に泊まることになった。

窓は全て塞がれ、御堂の中を照らす明かりは数本の蝋燭のみ。

扉には閂が降ろされ、部屋の四方には塩が盛られている。

住職他十数名の坊さんは、御堂の外で経を読んでいる。

この御堂の中で明日の朝まで過ごすことが、お祓いの内容であり、俺の役割だった。

この数ヶ月。

黒いナニカのせいで、地獄を見てきた。

だが、この一晩で、全てが終わる。

こいつを成仏させてみせる!

ある意味、俺は達観していた。

それは、この先に待つ開放感への期待によるものか、

それとも数多の死の情景を見せられ続けたことによる影響か。

もしくは、絶望の果てに、それでも「誰かを助ける」というヒロイックな感覚に酔っているだけなのか。

いや。この際、そんなことはどうでもいい。

この晩を乗り切った先に、答えが有る筈だ。

そして。

その晩。

俺は、過去最大級の死の情景を見ることになる。

その死の苦痛も、絶望感も、今までの比では無かった。

【…椅子に縛り付けれている俺。いや。私。私は俺より遥かに背が小さい。両手は椅子の肘掛に固定されている。口には猿轡が、目には目隠しがされ、身動きどころか、言葉すら発っせられない。痛い! 指先に痛みが走る。痛いなんてものじゃない。熱い! 痛い! 指先の感覚が無い! その痛みは全ての指に及んだ。目隠しが外される。私は反射的に自らに指を見る。指は全部『無かった』。

泣き叫ぶ私。目の前に男が現れる。三人の男性。汚らしい目を私に向けてくる。口を無理矢理開かされる。鉄くさい香りが鼻を突く。ブチ。痛い! カチャンと床に小さく硬いものが転がる音がする。20回ぐらい。私の口に吐き気を催す何かが詰め込まれた。息が詰まる。もう嫌だ。しにたいしにたい死にたいシニタイ殺して殺してコロし、て】

俺は、目が覚めた。夢を見ていた。

吐き気がする。

俺は御堂に床に吐物を撒き散らす。

辛い。苦しい。

絶望感が俺を支配する。

俺は、時計を見る。

22時。

…夜明けまでは、まだ遠い。

俺の瞼の裏に再び先程の死の情景が、繰り返された。

0時

2時

4時

そして、6時

夜が、明けた。

隙間から差し込む日差しを見ながら、床に倒れたまま、俺は放心していた。

床には、俺の吐物が其処彼処にぶちまけられている。

身体中、汗と尿でベタベタであり、衣服は肌と床に引っ付いてしまっている。

一晩でおそらく数kgは痩せたであろう。

それほど凄惨な夜だった。

そんな俺を支配する感情は、一つ。

…これで、終わったんだ。

それ以外の感情は、持ちあわせていなかった。

住職と、他数名の坊さんが、御堂に入ってくる。

住職は、俺に「お疲れ様でした。ご立派です。」と告げる。

坊さんが俺の腕を掴み、立たせる。

持ち上げるというよりも、無理に引っ張り起こすように。

「これで、終わったんですね…。」

俺は住職に話しかける。両腕は屈強な坊さんに掴まれたままだ。

「はい。昨夜、あなたに死の情景を見せた悪霊は、祓われました。」

…良かった。助かったんだ。

住職は言葉を続ける。

「そして、あなたには、

あと十五万九千九百九十九匹の悪霊が取り憑いています。

全ての悪霊を祓えるまでは、まだ終わりません。

さ、頑張りましょう。」

住職の言葉を耳にして、

俺は一言だけ、つぶやいた。

「……………………は?」

絶望の数だけ、地獄がある。

その全ての地獄の情景を見なければ、終わらない。

視界の先で、数多の怨念の集合体である黒いナニカが笑ってる。

地獄はまだ終わらない。

『運が悪い』

ただ、それだけの理由で。

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ネタバレ注意

これも落ちが見事です!!
よみやすいし背筋がヒヤッとするしで大好きです。

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