長編19
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夏の想い出と彼女の死体

街の雑踏を歩く僕は、ふと懐かしい気配を感じて、立ち止まった。

彼女がいた。

そんな気がした。

僕の脳裏にあの頃の彼女の顔が浮かぶ。

風に舞う艶やかで流れるような美しい黒髪。

夢を見ることに直向きであることを恐れない澄んだ瞳。

触れる物に優しい気持ちを抱かせる愛らしい笑顔。

幼い僕の恋心を奮い立たたせ虜にした、彼女の笑顔。

それらが一瞬、僕の網膜に、映る。

立ち止まった僕は、雑踏を虚ろう人の波の中に彼女の姿を探した。

だが、数瞬の躊躇のあと、僕は思い返す。

そんなわけはない。

彼女は死んだ。死んだんだ。

僕は、彼女の遺体を、実際に目にしている。

僕がどんなに心の底から願ったところで、彼女は帰ってこない。

…けれど。

僕は、雑踏に中に瞬いた彼女の姿を思い出す。

彼女は、死んだ。もういない。

だけど…

僕の心に、この胸に、

ひとつになって生き続けているのかもしれない。

僕は、あの頃の、綺麗で、愉快で、美しい彼女との想い出を、思い返す。

そう。想い出こそが、僕と、今は亡き彼女とを繋ぐ、唯一ただ一つの、絆なのかもしれない。

〜十年前〜

十年前の七月。小学校の下校中。煌めく太陽の下で。

帰り道の交差点で、彼女が僕に声をかけてきた。

一緒に帰ろう、と。

僕は照れ臭かった、真っ赤な顔を鞄で隠した。

けど、本当は、すごく嬉しかった。

それが僕と彼女の恋の始まりだった。

夏休み。僕と彼女は、毎日遊んだ。一緒にいた。

幼い心が抱く好奇心を恐れず、毎日、冒険をした。

僕の心のざわつきは、冒険にでる事への興奮か、彼女の存在が齎す恋慕の気持ちか。

夏の日差しが、アスファルトを走る僕らを照らす。

彼女の白いワンピースの背中が汗で透け、褐色の肌色が透けている。

気恥ずかしく視線を外す僕に構うことなく、彼女は僕の手を取り駆け出す。

目的地は、二人が密かに見つけた秘密の基地。

通勤に使う駅の雑踏。

人人人。

行き交う人の大群。

アスファルトを踏み鳴らす人の大群。

どこを向いても、どちらを見ても、目に映るのは人ばかり。

ホームに並ぶスーツケースを手にする背広の男性が腕にはめた時計を眺め顔を歪めてる。

ベンチに座る淡い色のスーツを来た女性が携帯電話を手に、真剣な表情で親指を動かしている。

大きなリュックサックを背負った眼鏡の男性が、雑誌を開いてニヤニヤしている。

この世に生を受け、生活を送る誰もが誰もに、自分の人生がある。

同じ人間など、存在しない。する筈がない。

裏を返せば、それはつまり、生を失った人間は帰ってこない、ということでもある。

人の数だけ心がある。想いがある。過去がある。記憶がある。

では、かつての生者…死者の心は、記憶は、消えてしまうのか?

否。死者の記憶は、生者に残る。

…生者の中に宿る儚い心の欠片…『想い出』として。

楽しい想い出は、優しい記憶は、美しい存在は、生ある者に生きる意思を、豊かな気持ちを、そして絶望をも乗り超えるような強い意志を齎す。

だが、時として想い出は、生者の心を乱し、泥濘に脚を取られた獣の如く、生きる者が先に進む事を阻む事もある。

そう、今の僕のように…。

…。

先日、死んだ彼女の幻の姿を目にして以来、僕の脳裏には彼女の残像が散らついていた。

眼を閉じれば、彼女の姿が浮かぶ。

眠りの中の夢の中で、彼女が優しく微笑む。

仕事の傍らで、食事の最中に、ふと彼女の姿が心に描かれ、手が、心が、止まる。

今でも、眼を瞑れば、彼女の姿が残像のように網膜に裏に映し出される。

…彼女は、死んだんだ! いい加減に受け入れなきゃ、ダメなんだ!

僕は眼を瞑ったまま、自分を叱咤する。

ドン!

すれ違った男性の肩がぶつかり、僕は我に返った。

肩が触れた男性に向かって、僕は頭を下げる。

だが、男性は見向きもしない。都会では当たり前の光景。

都会に出てきて一年が経ったが、この無機質で無感情な街に僕はまだ慣れない。

ふぅ…。僕は溜め息をつく。

…その時。

黒い髪が揺れた。

目の前に見覚えのある黒髪が流れた。

彼女だ!

いや、そんなわけない!

感情と思考の狭間で、僕は人混みに眼を凝らす。

だが、当然、彼女は、いない。

僕は小さく自嘲する。

彼女は死んだんだ。いい加減に、忘れるんだ!

僕は自分の心を再び叱責する。

だがその時。

ザワ…。

強い視線を感じた。

僕は視線の先に目を向ける。

…10m程の先の人混みの中に、彼女の姿が見えた。

人の群れの中に、彼女の顔があった。顔だけが見えた。

十秒間程…いや、実際はもっと短い時間だったのかもしれないが、僕は彼女の顔を凝視する。

澱みなく流れる人の中で、その流れに動じることなく、ピクリとも微動だにせず、彼女は僕に視線を向け続ける。

それは、瞳を閉じた時や、夢で現れる姿のような朧げなものではなかった。

だが、実在しているかと問われれば、違うと答えざるを得ない、儚く朧げな姿でもあった。

唾を飲み込み、一瞬瞬きをする。

そして、

僕が瞬きをしたその一瞬の間に、彼女は消えていた。

やはり、幻覚…、幻だったのか…。

〜十年前〜

町の外れの雑木林の中にある、廃屋。古びた和風の屋敷。

それが僕と彼女の、二人だけの秘密基地。

親にも、教師にも、同級生にも邪魔されない、僕らの秘密の空間。

広い庭は草木が茂り、心地良い風を僕らにもたらす。

縁側に腰掛け、僕らは語り合う。

二人の未来を。

大人になったら、一緒に暮らそう。

儚い約束。幼い誓い。

簡単な指切りで誓ったその約束が、どんなに困難なものだったのか、僕らは知らない。

今の僕らは知る由もない。

雨が降ってきた。最初はパラパラとした小粒の雫。

だが次第に雫の形は大きくなり、太陽は雨雲の影に隠れ、強い風を伴い、吹き荒ぶ水の粒となった。

僕らは、雨粒を避けるためにボロボロの襖を開けて廃屋の奥に足を踏み入れる。

当然、電灯はつかない。昼間だというのに廃屋の奥は暗闇が支配する空間となっていた。

その闇は、まるで僕らを吸い込み捉えるかのように存在し、屋敷の奥に巣食っている。

タウォォォォ…スアォンンンンン…ケェェェェエエェェェ…

暗闇の中から、風の音か雨の音か、それともそれ以外の何かの声か、正体不明の音がする。

彼女が僕の腕を掴む。

大丈夫だよ。怖くない。僕がそばにいる。絶対に守る!。

コォォォォォォ…コォォォォォォ…カぁァぁぁ…

音はまだ聞こえる。けれど…。

僕は、震える体を彼女に悟られないように強め、彼女を勇気付ける。

僕らは、隙間から土の見える腐り禿げた畳の上に身で寄せて座り込み、嵐が過ぎ去るのを待つ。

…。

隣にいる彼女の黒く美しい髪が、僕の頬を掠める。

彼女の香りが、僕の鼻腔を擽る。

彼女の手が、僕に手に触れた。優しい肌触りだった。

けど、彼女の手は冷たかった。

だから、僕は彼女の手を握り返した。

彼女が更に身を寄せる。

だから、僕は痛い程に細い彼女の体を抱き寄せた。

彼女の真っ直ぐな瞳が、僕を捕える。

だから、僕は彼女の紅い唇に、僕の唇を重ねた。

戸惑いを振り切って、

今のこの瞬間を忘れないように、想い出に刻み込むように、

そうして交わした温もりだけが、僕らを包んだ。

もう、音は聞こえない。

安いボロアパートで貧しい夕食を口にしながら、僕は昼間に見た彼女の姿を思い浮かべる。

あれは、確かに彼女だった。彼女の顔だった。

…だが、その表情だけが思い出せない。

微笑んでいたのか、

怒っていたのか、

それすらも判別がつかない。

幼い彼女の笑顔が、僕の脳裏に浮かぶ。あの笑顔を思うだけで生きている。

そう思える程、僕は彼女の笑顔を愛していた。

もし、死んだ彼女が、想い出の姿のままで…、幼いあの頃の笑顔でいてくれるなら、それは嬉しいことなのかもしれない。

しかし、もし彼女が怒っていたのなら…、

僕には彼女を憤らせる理由があった。

だからこそ、僕は彼女を忘れることができない。

…。

十年前の、あの時。あの廃屋で。

僕は誓った。彼女を一生愛すると。一生、添い遂げると。

…だが、それは現実にはならなかった。

〜十年前〜

8月。夏の終わり。

それは、彼女に許された最後の時間が終わった事を示していた。

彼女は、遠くへ引っ越した。

幼い僕には手の届かない、遠く遠く、もっとずっと遠くの土地へ。

バスで走り去る彼女の最後の姿。

最後まで、彼女は、笑っていた。

でも、涙を流していた。

僕の心に、夏に交わした僕ら二人の想い出が浮かぶ。

君との夏の終わり。忘れない。

君がくれた優しさを、忘れない。

君の笑顔が言っていた。ありがとうって。

君の涙が言っていた。また出会えるのを信じている、と。

最高の想い出を、

ありがとう!

って…。

そして十年後。僕らは再会した。

奇跡のような、再会だった。

それは、運命だったのかもしれない。

そして、彼女が死ぬことも、運命だったのかもしれない。

…運命。

そう思えば、僕の後悔も、少しは薄れる…。

彼女は、死んだ。

僕の腕の中で。

今際の際、彼女は、涙を流していた。

彼女の涙を見て、僕も涙を流した。

涙を流しながら、彼女の命の重みを両の腕に感じながら、

僕は心から願った。

早く…、早く…、

彼女が楽になりますように、

少しでも苦しむことなく、

安らかに最後の時を迎えてくれ、と。

その願いが叶ったか。僕は知らない。

ただ一つ確かなのは、

彼女が死んだ、あの時死んだ。

その事実だけだ。

その事実だけは、誰よりも僕は、理解している…。

〜一年前〜

都会に憧れ、華やかな生活に憧れ、産まれた田舎町を離れ、この街に移り住んだ。

だが、都会の風は、僕に冷たかった。

何度も仕事を首になり、僕は次第にやさぐれていった。

人の温もりが、欲しかった。

そんな時、僕は彼女に再会した。

酒に溺れ、路地で座り込む僕に、偶然声をかけてくれたのが、彼女だった。

僕の脳裏に、十年前の交差点で声をかけてくれた幼い彼女の姿が浮かぶ。

想い出の再来。それは、まさに奇跡だった。

彼女は僕を自宅に連れて行ってくれた。

食事を作ってくれた。

シャワーを貸してくれた。

寝床を用意してくれた。

優しく微笑む彼女は、僕に優しかった。

だから、僕は

彼女の手をとり、

肩を抱き寄せ、

無理矢理に、

押し倒した。

唇を、重ねた。

彼女の温もりが、心地良かった。

彼女の吐息が、気持ち良かった。

彼女の中は、温かかった。

けれど、彼女は、何故か、泣いていた。

彼女の姿が、脳裏に浮かぶ。

想い出の中の彼女が、優しく笑っている。

だけど。だけど彼女は死んだんだ。

忘れなければならない。

そうしなければ、僕はいつまでも彼女との想い出の虜のままだ。

僕は酒を飲んだ。記憶が朧げになる程に。

彼女が、愛する僕に残してくれた、僅かな金を費やして。

…。

酩酊の果て、僕は店のテーブルに突っ伏して寝ていた。

その時、僕は誰かに呼ばれたような気がして、眼を覚ます。

テーブルに引っ付いた頬を剥がし、僕はボンヤリと正面に目を向けた。

そこには、

顔 が あ っ た。

か の じ ょ の か お が …あ っ た!

ぬらぬらとした海藻にも見える黒髪を垂らし、

充血した眼を見開き、真っ赤な唇を真横に紡ぐ、

彼女の無表情な顔が、顔だけが、

目前に、浮かんでいた。

その顔は、浮いているにも拘らず、

まったく動きを見せず、微動だにせず、

ただただ浮かび、そして、真っ直ぐに僕を見つめていた。

それは、限り無くリアルな、彼女の生首だった。

その表情は、その無表情には、

いや…、冷たい嫌悪を含んだ彼女のその表情には、見覚えがあった。

それは、一ヶ月前、彼女が僕に向けた顔だった。

台所の屑篭に巣食う虫けらを見るような、

月曜日の集積所に集まるゴミ屑を見るような…

やめろ! その顔で僕を見るんじゃない!!

僕は彼女の顔を振り払うかのように、手を振り回す。

ガシャン!

飲みかけのグラスが床に落ち砕ける。

血のような色をしたワインが床に広がる。

目の前に目を向けると、彼女の顔は、消えていた。

〜三ヶ月前〜

僕は彼女の家に住み着いた。

彼女は、僕を快く迎えてくれた。住まわせてくれた。

当然だ。

僕らは、愛を誓い合った中なのだから。

僕は、あの廃屋で誓った約束を思い出す。

それを語ると、彼女も微笑む。あの頃の思い出と同じ笑顔で。

毎日、彼女は手料理を僕に振舞ってくれる。

ただ一緒にいるだけで、住む所も食べる事にも困らない。

だから、僕は働く事をやめた。馬鹿らしい。

僕は、毎晩、彼女を求めた。抱いた。

そして、思い付くばかりの淫らな行為をした。

気持ち良かった。

彼女もよがり喜びの声を挙げた。

けれど、彼女は、何故か、泣いていた。

僕は、そんな彼女の涙を唇で拭い去る。

…。

それから暫くした頃。

彼女は、僕に家を用意してくれた。

面倒臭い手続きも、敷金礼金家賃に至るまで、彼女が用意してくれた。

なぜ? 一緒に暮らせばいいじゃないか?

なぜ別れて暮らさねばならない! 一緒に暮らそうって言った約束を忘れたのか!

僕は彼女にそう詰め寄った。

そんな僕に、彼女は優しく微笑んでいた。

…少しだけ、力なく笑顔を作っているように見えたのは、きっと気のせいだろう。

視界の至る所に、彼女の顔が見える。

行き交う人の群れの中に、彼女の顔が浮かんでいる。

醜いものを見るような目を、僕に向けてくる。

僕の背筋に怖気が奔る。

…。

ボロアパートのエレベーターの中。僕は階層のスイッチを押す。

ふと、エレベーター内の鏡を見ると、

僕の顔の後横に、…彼女の顔があった。

戦慄した僕が後ろを振り向くと、顔は消えていた。

…。

野菜を鍋を煮込んでいた時。湯気が出たので、蓋を開けた。

その中に。彼女が、いた。真っ赤なスープに中に、彼女の顔は浮かんでいた。

彼女の顔はすぐに消えた。

僕は震える手で、薄泊色のスープを流しにブチまけた。

…。

彼女の表情は変わらない。

汚物を見るような視線を宿した両の眼が、僕を見つめる!

やめろ! その目をやめろ !!

〜一ヶ月前〜

僕は、働きもせずに毎日ブラブラしていた。

平日も日曜も、僕には関係ない。

僕には彼女がついている。

確か今日は彼女の給料日だった筈だ。

早速僕は、彼女の鞄から銀行のカードを抜くと、全額引きおろす。

…その金は、酒と煙草と、博打に消えた。

まあ、泡銭は持たない主義だ。構わないさ。

それから数日後。

急に彼女が余所余所しくなった。

時々、顔を青くし、トイレに向かっていく。

彼女の顔から、あの頃の笑顔が、消えた。

笑ってはいるが、陶磁器のような作り物めいた笑顔だった。

ある夜、彼女が僕に告げた。

「私達、離れて暮らそう」

彼女はそう言った。

なんでだよ! 僕は声を荒たげる。

約束を忘れたのか! 

「そうじゃないの。そうじゃないの…。でも、このままじゃダメなの…。お願い…、解って…。」

彼女はそう言いながら、お腹に手を当てる。

…一体なぜ、彼女は苦しんでいるんだ?

…。

…!

解った。

他に男ができたんだ!

僕を裏切って、他の男と暮らそうと考えたんだ。

「ふざけるな!」

僕は彼女を殴り付けた。

髪を引っ張り、床に叩き付けた。

腹を蹴飛ばした。

彼女は、言い訳をしなかった。いや。一言も喋らなかった。

黙ったまま、自分のお腹を押さえていた。

「何か言えよ!」

裏切られた僕の怒りは収まらない。

彼女は、変わってしまったんだ。

醜く穢れてしまったんだ。

もうコレは、彼女じゃないんだ。

あの頃の、思い出の彼女は、もういないんだ。

僕は、悟った。

その時だ。

声が聞こえた。

それは、十年前の何処かで耳にした声だった。

声は言っている。

やれ。

やれ。

やれ。

やれ。

やれ。

声は、そう言っている。

何をやるんだ?

そう思いながら、僕は床に這いつくばる彼女を見下す。

そうか。解った。彼女を…、

僕は彼女を蹴った。蹴った。蹴った。

何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

僕は彼女を、床に叩き付けた。叩き付けた。

何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

僕は彼女を引き摺り起こして、殴り付けた。

何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

声は止まらない。

もっとやれ。

もっとやれ。

もっとやれ。

声は止まることを知らない。

僕は声に従って、醜い彼女に罰を降す。

裏切り者の彼女に制裁を加える。

ヒューヒュー…。

動かない彼女の唇から呼吸音が響く。

息をしているだけの醜い肉団子。

彼女が、僕を見た。

その時の彼女の顔…。

台所の屑篭に巣食う虫けらを見るような、

月曜日の集積所に集まるゴミ屑を見るような…

汚物を見るような視線を宿した両の眼が、僕を見つめる!

ああ、思い出すだけで吐き気がする!

その目で僕を見るな!

僕の手が、彼女の細い首を掴む。

力を加えれば折れてしまいそうな、か細い首。

僕に脳裏に、あの廃屋で抱き寄せた、彼女の細い体が蘇る。

僕は、腕に力を加えた。

彼女の腕が、力無く僕を掴む。

無駄だ。無駄な足掻きだ。

心の中に響く声は、止まらない。

僕の腕も、止まらない。

僕は心の声に従うだけだ。

僕の腕の中で、

今際の際、彼女は、涙を流していた。

彼女の涙を見て、僕も涙を流した。

涙を流しながら、彼女の命の重みを両の腕に感じながら、

僕は心から願った。

早く…、早く…、

「死ね」

彼女が楽になりますように、

少しでも苦しむことなく、

叫び声一つ上げることなく、

安らかに

「死ね」

と。

その願いが叶ったのか。僕は知らない。

ただ一つ確かなのは、

彼女が動かなくなった。力なく腕が床に垂れる。

叫び声一つ上げずに、

誰にも目撃されることなく、

彼女は、死んだ。そう思った。

その事実は、誰よりも僕が、彼女を殺した僕が、理解している…。

暗闇から、冷たい手が伸びてくる。

僕の首を目掛けて。

細い指を持つ手が、彼女の手が、僕の喉仏に触れた。

声が出ない。

鋭利なカミソリで首を真一文字に裂かれたかのように、

冷たい手が僕の喉を締め付ける。

声が出ない。

息が出来ない。

酸素が肺に入らない。

冷たい首筋とは逆に、

胸が焼けるようだ!

あたまに血液が溜まり爆発しそうだ!

身体中に細胞が、悲鳴を挙げている!

意識が、消え失せた。プッツリと。

テレビに電源を消すかのように、至極簡単に。

…。

そして、僕は目が覚めた。

夢だった。

夢の中で、僕は殺された。

首を締められて、殺された。

首筋が汗ばんでいる。

僕は首に手を当てる。

ぬるり。

汗でない液体が、手に触れた。

それは、ジワリと首の皮膚に浮かんだ、血液だった…。

〜一ヶ月前〜

彼女を殺してしまった!

僕は我に返る。

心の中に渦巻いていた黒い情念の如き声は、もう聞こえない。

僕は、彼女の細い身体を黒いゴミ袋に詰め込み、彼女の車に載せる。

そして、彼女の死体を埋めるために車を走らせた。

目的地は…、二人が密かに見つけた想い出の秘密の基地。

そこしか思いつかなかった。

僕は多分、彼女を清浄な地に葬りたかったのだと思う。

美しい想い出の場所で、穢れた彼女を浄化したかったのかもしれない。

…。

想い出の廃屋の庭に、彼女を埋めることにした。

汗だくになりながら、人ひとり埋めるには十分な大きさの穴を掘った。

彼女の死骸を、穴に放り込む。

そして、上から湿った土をかける。

ふと、声が聞こえた気がした。

僕は辺りを見渡す。だが、誰もいない。

気のせいか…。

僕は作業に戻る。

コォォォォォォ…ロォォォォォォ…

再び耳に音が響く。

幼い頃、約束の日に聞いたものと同じ音がする。

その音…、その声は、先ほど自分の心に聞こえた声と同種のものだった。

それは、廃屋の奥の闇から聞こえるかのようだった。

…気のせいだ。

僕は作業に戻る……と、その時!

土に半分埋まった彼女の顔。

その閉じた目が、カッ!と見開いた!

充血した目が、僕を捕える!

彼女は、まだ生きていた!

…いや。彼女はもう死んだんだ。

醜い裏切り者の彼女は、僕が殺したんだ。

じゃあ、この半分泥土に埋まった女は誰だ?

…誰でもない。彼女じゃない。

だったら、用はない。いらない。

穴に降りた僕は、無機質に、作業的に、スコップの先端を、彼女だったモノの胸に突き刺した。

ヒュ…ゴボリ…ゴボ…ヒョ…ヒュ…ウ…

彼女だったモノの口から、赤い泡が漏れ出す。

血走った瞳は、もう見えない。

僕は作業に戻った。

駅のホームに、僕が足を踏み入れた時だ。

階段を登り切ると、

全員が、

ホームにいる全員が、

僕を見ていた。

そして、全員が、

彼女だった。

彼女の顔を、していた。

駅に電車が入ってきた。

ホームに降り立つ全ての人間が、

俺を凝視していた。

彼女の顔で。

あの、表情で。

ゴミを見るような視線で。

彼女の顔が、消えない…。

すれ違う人全てが、彼女に見える…。

男も女も、

子供も年寄りも、

看板もポスターも、

電光掲示板に映る人間も、

全てが彼女の顔をしている!

そしてみんなみんな、みんがが僕を見つめる!

あの顔で!

あの目で!

あの軽蔑の眼差しで!!

やめろ! やめてくれ!

目を閉じれば、想い出の彼女が浮かぶ。

だが、その想い出の中の彼女ですらも、僕を侮辱する眼差しを向けてくる。

夢を見れば、彼女が僕を殺そうと腕を伸ばしてくる。

首が、痒い! 瘡蓋になり、剥げて血が出て、また瘡蓋になり、

痒い痒い…痒い痛い!痒い痒い、痒いんだよ! 痛いんだよ!

痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痛い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痛い痒い痒い痒い痒い痒い痒い!!!!!!!

…。

もう、僕は、想い出に逃げ込むことすらも、許されない。

〜今日〜

月が雲に隠れた夜。

僕は、あの廃屋の周りに灯油を撒いていた。

燃やし尽くしてやる!

彼女を燃やし尽くしてやる!

そうすれば、彼女は消える筈だ!

この世界から。

僕の心から。想い出から。

灯油を撒い終えた僕は、ライターに火を点ける。

揺らめく小さな火を、独特の揮発性の香りを醸し出す液体に近付ける。

その時、雲の隙間から、月明かりが射し込んだ。

ライターを持つ僕の手が止まる。

…。

…。

…。

…。

月明かりに照らされた廃屋。

仄かな月の光が、廃屋の庭を照らす。

縁側に射し込む優しい光。

そこに座る、今はもう存在しない、かつての僕ら。

その光景は、…美しかった。

実際には、朽ちかけた家屋が月に照らされただけのはず。

だが、僕の心の想い出は、この場所を、想い出の場所を、この光景を、美しく彩る。

そう。想い出は、辛いだけの記憶を、時をかけて美しいものに塗り替え、心の傷跡を癒す事もある。

…人は、心に傷を抱えたまま生きる生物だ。

それでも生きていけるのは、想い出があるからだ。

…。

もう一度、彼女に会いたい。

もう一度、美しい彼女に会いたい。

僕は、廃屋の片隅に放り投げられていたスコップで…、彼女を突き刺したスコップで、庭を掘り返し始めた。

自分が埋めた死骸を、埋めてから一ヶ月が経過した死骸を、再び掘り返す。

狂気。

まさしく狂気の所業。

だが、僕はそれでも構わなかった。

狂ってても構わない。

それでも、もう一度、彼女に会いたい!

彼女に再び会えるなら、狂気に身を染めても、悔いはない!

…。

泥土の中から、彼女を抱え出す。

不思議な事に、掘り返した彼女の死体は…、

美しかった。

腐ってもいない。

虫に喰い荒らされてもいない。

それどころか、まるで生きていた頃のように、瑞々しい肌を保っていた。

僕が締めた首の痕も無い。

僕が突き刺したスコップの瑕も無い。

僕が暴力の限りを尽くした身体中の傷も無い。

生きていた頃と変わらない姿。

月明かりに照らされた彼女は、美しかった。

僕の腕に抱えられたまま、彼女が目を開けた。

そして、僕を見つめると、優しく、ニコリと微笑んだ。

それは、想い出の彼女の笑顔でもなく、辛いのを我慢して無理に作った笑顔でもなく、僕を侮辱した時の表情でもなく、

初めて見る、彼女の笑顔だった。

それはまるで、生まれ変わったかのような…。

僕は、彼女をヒシと抱き締める。

そして、

「ごめん! ごめんよ! 許してくれ!」

彼女の耳元で、僕は涙を流しながら、彼女に詫びた。心から。心の奥底から、謝った。

彼女も、僕を強く抱きしめる。

そして、一言、僕の耳元で、囁いた。

…腐った匂いが、僕の鼻腔にツンと香った。

…。

『ゆ る さ な い 』

「……………え?」

彼女の腕が、ズルリと僕の膝の上に落ちる。

『…お ま え も シ ね 』

僕の肩に、彼女の眼球がボトリと零れる。その眼球は僕の肩の上で僕を凝視している。

『…わ た し と シ ね 』

その時!

僕は背後に、黒い気配を感じた。

そして、

背後から、

鼻と唇が同時に剥がされる程の勢いで顔面を鷲掴みにされた。

さらに、

骨が砕ける程の力で手首を、

皮膚ごと髪が剥がされる程の怪力で、

足の関節が捩子曲がる程の乱暴さで、

頚椎ごと捩じり切られる程の握力で首を締められ、

全身を、何年間も液体に浸されたかのような凍える程の冷たい手に掴まれ、

そのまま、叫び声を挙げる僅かな隙も無く、

僕の身体は、闇が支配する廃屋の奥に、

引き摺り込まれた…。

〜数日後〜

廃屋から発せられる灯油の匂いに不審を感じた近所の住民が、警察に通報。

警察の調査の結果、

廃屋の庭から、死後一ヶ月は経過したと思われる若い女性の腐乱死体が発見される。女性は子供を身籠っていた。

また、廃屋の奥に位置する和式便所の便槽内から、「二体の男女」の死体が発見された。

一体は若い男性であり、身体中の骨が砕かれた状態で便槽内の汚物の中に横たわっていた。

もう一体の死体は、既に白骨化しており、死後十年は経過していると思われる。

この白骨死体は、身元の解る物は所持しておらず、衣類は破かれており、乱暴を働かされたかのような形跡があった。

また、死因は、飢えによる衰弱死…餓死であった。

…何者かに乱暴された後、便器の中に落とされ、誰にも気付かれる事無く、衰弱して死亡したものだと思われる。

恐らく、彼女は、助けを求めて叫び続けた筈だ。

タァァァァァァァ…スゥゥゥゥゥゥ…ケェェェェエエェェェ…テェェェェェェ…

コォォォォォォ…コォォォォォォ…カぁァぁぁ…ラァァァァァァ…ダァァァァァァシィィィィィィテェェェェェェ…

と。

そして、

糞尿にまみれたまま、

怨みを抱きながら、

…孤独に、

死んだのだろう…。

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