大長編94
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風鈴と簪

第一章 夢の始まりと日本家屋

今日は雲も疎らな快晴。

日の光が辺りを焦がし、陽炎が揺らめいている。

「やっと着いた……」

そんな激しい炎天下の中、息絶え絶えに青年が呟いた。

額に滴る汗を拭いながら、辛そうな表情で眉間にしわを寄せている。

青年は背中に大きなリュックを背負い、服装も気温に比べて厚着である。

登山者の風貌。

それに近いものがあった。

青年の視線の先には、古めかしい日本家屋が建っていた。

手入れはあまり行き届いていない様子だ。

所々が痛んでおり、穴が開いている所や崩れてしまっている所もある。

それらを修理している様子もない。

もちろんではあるが、人の気配など皆無だった。

ただそびえ立ち、何とも言えない存在感を露わにしている。

家屋は木々や草に囲まれており、周辺には同じような家屋は全くない。

ただあるのは植物の緑や茶と、空の色を反射した池の青と白だけ。

都会にある様々な色は、そこにはなかった。

まるでこの場所だけ時間軸がずれ、時が止まっているかのような錯覚を感じさせる場所。

しかし、草が風になびく様子や小鳥たちのさえずり、虫達の鳴き声が聞こえてくることから、時は止まっていないということは明らかだった。 

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「俊(しゅん)、待てって!おっここか?」

青年の後ろから、もう一人の青年が歩いて来た。

最初に到着した青年を俊と呼びながら、声を張り上げている。

服装は、俊と呼ばれた青年に比べ軽装ではあったが、背負うリュックはかなり大きい。

「ああ、ここだ。孝(たかし)、早く来いよ」

俊は振り返り、歩いてきた青年を孝と呼んで手招きした。

俊はもう辛そうな表情をしてはおらず、むしろ嬉しそうで楽しそうな表情。

孝と呼ばれた青年は、代わりにではないが辛そうな表情をしていた。

「どうだ、スゲーだろ?」

「ああ、スゲェ。お前よくこんな穴場を見つけたな」

俊の自慢気な言葉に同調する孝。

隆は俊より一歩前に出て家屋を眺める。

顔を右から左へ。

家屋周辺をくまなく観察するように、視線を動かしていた。

辛そうな表情は、徐々に好奇な表情へ。

明らかに興奮を隠せてはいなかった。

孝の変化に、俊も嬉しいのだろう。

表情はより自慢気に、満足そうなものへと変わっていった。

 

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「春くらいに親父とこの山へ登山に来たんだよ。その時にここを見つけてな。雰囲気に一目惚れして、何度か様子を見に来てたんだ。いつも人はいないし、近くにも人は住んでいない。少し離れた所に集落みたいなのがあったから尋ねてみたんだけど、今はもう住んでいないって。これはもう、キャンプに利用する手はないだろ?」

俊は鼻を指で擦りながら、事の経緯を誇らしげに語る。

さしずめ、探検者の気分なのだろう。

新たな大陸を発見したかのような、宝を発見したかのような。

自然と身振り手振りを加え、少し大げさに説明していた。

「そりゃそうだ。これだけ立派だったら、雨の心配もいらねえし。一週間、羽を伸ばせるな」

俊の話に頷きながら、孝は背負っていたリュックを降ろした。

重たそうで鈍い音が小さく響き、それに合わせてため息を吐いている。

「さすがに、一週間分の食料は重てぇや。とりあえずさ、そこの木陰で一休みしようぜ?腹減った」

そう言いながら、彼はすぐ近くにある木陰を指さした。

「それもそうだな。時間はたっぷりある。少し休憩して、“俺達の屋敷”を掃除することから始めなきゃな」

俊は満面の笑みで孝に同調し、木陰へと向かいながら背負っていたリュックをずらす。

孝も降ろしたリュックをもう一度持ち上げ、俊の後に続いていた。

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夏場の木陰は、驚くほど涼しい。

家屋があるのが山の中腹だったことも幸いしてか、吹き抜ける風はさらりとしていて温度も低い。

街で吹き抜ける、熱を帯びた風とは訳が違う。

汗にまみれていた二人の体も、優しい風が心地よく拭っていた。

二人はリュックの中から弁当を取りだし、それぞれ開いて食べ始めた。

ゆっくり丁寧に食べる俊に比べ、孝はひたすら口へ食べ物を押し込み、飲み物で流し込む。

食事の方法に比例するように俊は淡々とした性格であり、孝は慌て者。

一見すると相性の良くはない二人であるが、実際はかなり相性がいい。

互いに足りない所を補える間柄だ。

今回のキャンプも、発案と計画は俊ではあるが、実行は孝が決めた。

もし孝が乗り気ではなかったら、この計画は準備だけ進んで破綻していただろう。

「風も気持ちいいし、外で食うメシは旨いし、最高だな」

孝が口をモソモソ動かしながら俊を見る。

「ああ。誘われて正解だっただろ?」

「お前も、俺を誘って正解だったろ」

ニヤリと笑う二人。

互いに口では牽制し合ってはいるが、お互いの存在が無ければ成立しなかったことは分かっている。

だからこそ、それ以上の言葉は不要だった。

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「さあ、そろそろ掃除を始めようか?」

昼食に加え少し休憩した二人。

その休憩は、俊の立ち上りながらの一言で終わりを告げた。

「それもそうだな」

続いて孝も立ち上り、ズボンについた砂塵を払う。

「とりあえず、中を確認しよう」

「ああ」

リュックはそのまま木陰に置き去り、孝を先頭に二人は家屋へと向かった。

「戸は開くのか?」

玄関の前まで着いた二人は立ち止まり、孝が戸を左右に揺らしながら俊へ問う。

「さすがに開けた事はない。でもお前の馬鹿力ならどうにでもなるだろう?」

少し嫌味混じりな言葉に、孝の睨みが俊へと向けられる。

俊は蛇に睨まれた蛙の様に動けない。

その代わりに、視線が左右に泳ぐ。

「じょ、冗談だよ」

「冗談でもない癖に。まあ、楽勝だ」

なんとか逃げようとする俊に孝は悪態をつくと、俊から視線を外して両手で戸を掴む。

そして一気に引き寄せ、戸は大きな音を立てて開いた。

家屋の中から、突如として埃が排出され宙を舞う。

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長い年月で溜まった埃はさぞ大量だったに違いない。

二人は瞬く間に包まれ、姿が隠れると同時に咽せて咳き込む声が聞こえてきた。

「なんだこりゃ。スゲェホコリ」

「本当に凄いな。驚いた」

二人は両手を扇ぎ、埃から脱すべくやっきになる。

しかし一度舞ったホコリは、中々落ち着く様子は見られなかった。

「おっ、やっと落ち着いてきた」

しばらく経って、ようやく漂っていた埃が落ち着き始めた。

俊は思い切り背伸びして、中の様子を伺う。

しかし部屋の中は薄暗く、様子は全くわからなかった。

ただ、一番奥に白い模様の様なものが見えていることに気付く。

彼は更に目を懲らして、家屋の中を覗き込んだ。

チリン――。

何かの音。

それが俊の耳元を通り抜けた。

それに合わせて、彼の表情が一変する。

愕然という言葉が相応しい程の、驚きに包まれた表情だった。

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「誰かいる……」

俊がぼそりと呟く。

彼の瞳に映るのは、着物を纏った人の姿だった。

白い紐のようなものにぶら下がり、力なく項垂れる姿。

髪は長く、腹や背の位置まで垂れている様だ。

着物には薄い色の模様が描かれている。

髪が長いことと着物姿から勝手に女性だという想像をし、紐にぶら下がる姿から自殺しているとも彼は連想していた。

楽しみだったキャンプへの期待が、一瞬にして凍りつく。

彼は力なく崩れ落ち、その場に膝を突いた。

「俊、どうした?」

ようやくホコリが落ち着き、孝は俊の姿を視界に捉える。

俊の愕然とした表情に驚き、彼は駆け寄った。

「おい、しっかりしろ?何か見えたのか?」

俊の様子が尋常じゃない。

孝は俊の両肩を掴み、軽く振る。

しかし、俊は項垂れたまま動こうとはしなかった。

「自……、女……、吊って……」

聞き取りづらい小さな言葉を、俊はひたすら呟いていた。

 

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「おい、しっかりしろ!何を言ってるか全然わからねぇぞ?落ち着けって!」

俊のただならぬ様子に、慌てる孝。

両手の力が更に強く、振りも大きくなる。

しかし、俊は大きく揺れるだけで状況は変わらない。

ブツブツと言葉にならない声を、ひたすら呪文のように唱えている。

孝は仕方なく俊から手を離し立ち上がった。

そして勢いよく振り返り、家屋へと視線を向ける。

家屋には何があるのか。

知らなければ対処のしようがない。

その結論に至った彼は、家屋の様子を探ることに決めた。

孝の視線は、家屋の戸の先へ。

中は薄暗く、視界は悪い。

少し離れているこの位置からでは、あまり詳しい様子はわからなかった。

より詳細に確認するためには、近づく他ない。

彼はゆっくり、ゆっくりと足を前に出す。

息を飲み、額からは汗が滲んでいる。

体は、微かにではあるが恐怖に震えていた。

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俊をここまでおかしくするものの正体とは、一体何なのか。

それを考えれば、孝が恐怖を覚えるのは当然である。

また、自分も俊のようにおかしくなってしまったらどうしようと思い、不安を抱えるのも必然であった。

恐怖と興味、不安と期待――。

様々な感情と思慮が交錯し、今の彼をつき動かしている。

最大限の警戒をすることで、辛うじて体は前に進む。

そしてそれに合わせ、家屋の中の様子も次第に見え始めていた。

家屋の中は、ほとんど光が差し込んでいない様であり、かなり薄暗い。

長い年月使われていないのだろう。

そう思わせる様な砂埃が、床に降り積もっていた。

正面の壁には、白に薄い色の模様が描かれている布が紐で吊されており、それも色あせて隅が綻んでいた。

雰囲気こそ決して良くはないが、俊をおかしくするようなものは一切ない。

しかし、まだ気付いていないだけでおかしくするようなものは潜んでいるかもしれない。

孝は唾を飲み込む。

唾液が喉を通り落ちていく感覚さえ、彼は感じた。

神経が緊張で研ぎ澄まされているのだろう。

ゆっくり足音を立てず、そろりと歩き進む。

そしてとうとう、孝は戸の前まで辿り着いたのだった。

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戸から頭を入れて、家屋の中の様子をじっくり眺める孝。

はやり砂埃が溜まっていて、正面には白い布が吊されていた。

所々で物が壊れていて、破片などが散らばっている。

鼻につんとくるような、酸味のある独特の臭いも漂っていた。

ただ、恐れおののくような何かは見当たらない。

彼の心は少しだけ安堵が漏れ、それがため息として放出された。

その後も孝は警戒を怠ることなく、忍び足で家屋の中へと入った。

聞こえてくるのは、外で風のそよぐ音だけ。

他には何も聞こえない。

彼はキョロキョロと視線を左右に動かしながら、どんな些細なことでも見逃さないよう、目配せをしている。

家屋の中は木目の天井に白地の壁を用いており、床は板張り。

古い家屋のためか、天井は低くて押し迫って来るようだった。

壁は白地のせいか、所々黒いシミのようなものが付着している。

床は孝が歩く度に足跡を残し、忍び足でも板の軋む音が響いた。

不気味といえば不気味。

違うと言えば違う。

恐怖を煽ることあれど、恐怖そのものはそこに存在しなかった。

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「何もない……よな?」

誰かに語りかけている口調だが、近くには誰もいない。

孝は自分に語りかけていた。

それは単純に自分の存在を誰かに示すためであり、また自分自身を安心させるための術。

案の定返事はなく、彼の声は家屋の空気に紛れていった。

孝はゆっくり、ゆっくりと歩き進み、一つ一つの部屋を確認した。

しかし、状況は何処の部屋も変わらず、年月と共に荒んだ様子だけが伺える。

残る部屋は、廊下を突き進んだ一番奥だけになった。

視線がそこへと向くと、自然と彼の足は止まっていた。

「あれが最後だな……」

孝はそう言って大きく一度深呼吸すると、戸を目指して再び歩き出した。

ずっと何もなかった。

最後の部屋も、大丈夫だろう。

そんな中身のない自信のお陰か、家屋に入りたてのような緊張感を彼は覚えてはいなかった。

ゆっくりとした小さな動きは、徐々に速く大きくなる。

決して長くはない廊下。

あっという間に、目指していた場所へと彼は辿り着いた。

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孝は手を伸ばし、戸を掴む。

しかし、そこで彼の動きは一度停止した。

「大丈夫、大丈夫……」

自分を安心させるおまじない。

そんな雰囲気で、彼は小さく呟いた。

手には汗を握り、額の汗は留まることを知らない。

しかし、今更開けない訳にはいかないし、単純に確認しなければ問題は解決されない。

彼は、大きく息を吸い込む。

そして両腕に力を込め、力任せに戸を一気に開いた。

勢いよく開いた戸のお陰で辺りには砂埃が舞い、視界がぼやける。

孝はそれを吸い込まない様に、口と鼻を手で塞いだ。

空いている方の手は左右に動かして周囲を扇ぐ。

部屋の中は真っ暗である。

彼の眉間にしわが寄る。

目を懲らしているのだろう。

それに合わせて、彼の瞳は部屋内の全てを捉える様に右往左往していた。

段々と暗さに目が慣れて、部屋の中が彼の視界に入り晒されていく。

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「大した物は何もない……よな……?」

良い意味で期待は裏切られた。

いや、危惧は回避された。

孝の視界には、俊を恐れおののかせる物は何一つなかった。

部屋は倉庫なのだろうか。

木材で作られた棚に、高さ一メートルで幅はその半分くらいの坪が四つほど置いてあるだけ。

床には、藁のような物が敷き詰められていた。

天井は他の部屋と同じく、高さが低くて木目のものが均一に並んでいる。

恐怖を象徴する物も、主張する物もそこにはない。

「何だよ、全く……」

彼は安堵のおかげか、苛立ちのこもった言葉と共に、静かに息を吐き出していた。

全ての部屋を覗いては見たものの、俊を恐怖のどん底へと陥れる様な物も者もありはしなかった。

きっと、埃のせいで視界があやふやだったため、何かを見間違えただけだろう。

ただの勘違い。

多分玄関に飾ってあった白い布が、お化けにでも見えたのではないか。

孝はそういう結論に至った。

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結論に至ってしまえば、警戒は一挙に解かれる。

事実、強ばっていた体は脱力し、孝は力なくその場に座り込んだ。

そして大きく一度ため息を吐き出し、額の汗を拭う。

「ったく俊の奴……。後で笑い話にしてやる」

そう言って、彼は口元を緩めた。

一息つくと、孝は周辺を見渡した。

さっきまでは恐怖を煽っていたはずの暗がりも、既に何とも感じない。

薄気味悪い壁のシミも、床の砂埃も。

汚いとは思えど、ただそれだけの感情しか湧いては来なかった。

綺麗にしてしまえば、なんの問題もない。

全ての戸を開き、空気を入れ換えて、掃除さえしてしまえば“俺達の屋敷”なのだ。

そう彼は思うと、隠れ潜んでいた喜びが再び姿を現してくるような感覚を覚えた。

「よし、俊のビビリを安心させてやるか」

孝は呟くと、ゆっくりと重い腰を上げた。

今度は警戒など全くせず、廊下を歩き始める。

あれだけ時間の要した距離も、今度はあっという間。

自分自身もかなり臆していたことを彼は痛感しながら、玄関へと辿り着いた。

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玄関の壁には、あの白い布。

紐に吊され垂れる姿は、人が首を吊っている様にも見えなくはない。

俊はきっと、舞う埃のせいでこれが幽霊か自殺している人に見えたのだろう。

「本当に俊はビビリだなぁ……」

孝はぼやきながら布を掴み、それを引き寄せる。

年月の経過と共に綻んだ布は脆くもすぐに破れた。

手には、布がしわくちゃにされて握られる。

そして、彼は壁に背を向けて歩き出す。

外にいる俊を安心させるために、玄関を抜けて家屋から出て行った。

チリン――。

歩く孝の耳に、急に甲高い音色が届いた。

「ん?何の音だ?」

彼は一瞬立ち止まり、左右へ首を振って辺りを確認した。

しかし、音源は何処にも見当たらない。

「気のせいか……」

彼は首を傾げ、再び歩き進む。

表情はにこやかで、どこか嬉しそうである。

しかし、彼を捉える視線が一つ。

もちろん彼はそのことに、気付くことはなかった。

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「俊」

孝は俊の下へ着く直前に声をかけた。

俊は相変わらず視点が定まっておらず、呆けたまま家屋を見つめている。

両膝をつき、体に力は入っていない。

顔には大量の汗が粒となって付着し、所々で流れ落ちている。

その様子を見た孝は、ニヤリと笑った。

そして、しわくちゃに握っていた布を俊へ向けて放り投げた。

布は弧を描きながら宙を舞い、端が風にそよそよと乱れる。

そして、それは俊の頭にぶつかると大きく開いて彼の姿を隠した。

「うわっ、なんだ!うわぁぁ!」

突然のことに俊は驚き、声にならない声で叫ぶ。

固まっていた体を動かして、必死に身悶えた。

すると布は体から離れ、地面へと力なく落ちる。

彼はその布を凝視しながら、荒い呼吸を肩でしていた。

「それが幽霊の正体。ただの布だぜ?」

険しい表情を浮かべる俊に向けて、孝が呟く。

俊はそれに反応して、孝の方を向いた。

視線が重なると孝は満面の笑みを浮かべ、それに伴って俊は驚きの表情を浮かべた。

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「ゆ、幽霊なんて生易しいもんじゃない、人が首を吊って死んでるだろ!」

「じゃあ、もう一度見てみろよ?首を吊ってる人がいるか?」

家屋の玄関を指差し、必死の表情で訴えかける俊。

しかし、孝はあっけらかんとした表情を見せるだけ。

彼は自分の目で家屋の中を調べ、安全を確認してきた。

それが自信となって表れているのだろう。

「だってほら、あそこに……」

俊は玄関の方へしかめた顔を向けながら、声を張り上げる。

もう一度見なければならないのが忍びないのだろう。

ハッキリと見ないように目を萎めている。

「あれ、いない……?」

しかし向き終えると、張り上げていた声は勢いを無くして消えていった。

玄関で首を吊っていたはずである、女性の姿が見当たらなかったからだ。

首を吊っていた紐も、忽然と姿を消していた。

ただ見えるのは、壁の白と床のこげ茶色。

なんの変哲もない、玄関の情景。

それだけだった。

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「なっ?何もないだろ?」

俊の様子に喜ぶ孝。

調子の良さそうな声で問いかける。

すると、俊は孝の方へ向き直した。

驚きに満ちた表情をしている。

「そこに落ちているのが、俺が今さっきお前に投げた布だよ。それは玄関に掛けられていた。紐にぶら下げられてる状態だったよ。お前はそれを幽霊だか自殺した人だかわからないけど、ホコリのお陰で見間違えたんだ。それだけのことだよ」

孝は呟きながら、落ちている白い布の方へ歩いていく。

そして布を拾い上げ、俊に見せびらかせるように広げた。

「ほら、ただの布。俊のビビリ」

孝の悪戯な笑み。

しかしそれらは俊を嘲笑うものではなく、優しさのこもった悪態。

それにより、ようやく俊は状況を把握した。

「なんだ、勘違いかよ……」

俊は力なく呟くと、そのままその場にへたり込んだ。

大きなため息と共に、肩が下がる。

しかし、表情は多大な安堵に包まれ、和やかなものとなっていた。

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「少し休憩したら、掃除を始めようか。“俺達の屋敷”、綺麗にしなきゃいけないもんな?」

「そうだな……」

孝もその場にドカッと勢いよく座り、二人でニヤリと笑う。

孝の気遣いが、俊には素直に嬉しかった。

だが少しの照れもある。

俊は指で鼻を擦りながら、軽く俯く。

「孝、ありがとな」

そして、小さな声で礼を言った。

「俊がビビリなのは昔からだろ?いちいち気にすんな!」

礼を言われるのは、孝だって恥ずかしい。

彼は呆れるフリをして声を張り上げ、その場に大の字で寝ころんだ。

風が、二人の間をすり抜ける。

「風が気持ちいい!」

「ああ、やっぱり最高だ」

俊も空を見上げ、大きく体を伸ばした。

広がる青空に、大きく膨らんだ入道雲が一つ。

夏を感じさせる、気持ちの良い景色。

チリン――。

しかし家屋の中では、小さく甲高い音が鳴っていた。

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第二章 夕暮れの宴と夢心地

青い空が時間の流れと共に、茜の空へ変わっていた。

古めかしい日本家屋は茜色に染まり、空の色を映している。

辺りも同じように茜色へと移り変わり、影だけが違う色を主張していた。

しかし空の彼方は、夜の闇に飲み込まれて藍へと変わり始めていた。

空の茜は、瞬く間に夕闇へ飲み込まれてしまうだろう。

辺りは外灯もなく、そうなれば頼りは月と星の煌めきのみ。

全ての物は静かなる闇に飲み込まれてしまうのを、ただ待つばかりだった。

あれから俊と孝は、二人で家屋の大掃除をした。

全ての扉を開け、家屋の中に風を通した。

床や様々な場所に降り積もった砂埃は払った。

近くの池で水を汲み、持ってきていた雑巾を使って、ありとあらゆる所を拭いた。

しかし、二人の想像以上に家屋の中は広く、一日で全ての部屋を掃除するまでには到底至らない。

とりあえず寝床を確保するために、一部屋だけを念入りに掃除することになった。

二人はいろりのある部屋を選び、ひたすら掃除に勤しむ。

夕暮れ前には綺麗になり、それから二人は薪代わりの木の枝を拾いに外へ出かけた。

そしてつい先程戻り、ようやく一息ついたのである。

体の疲れを感じていた二人ではあったが、心は全く疲れを知らない。

二人は終始笑顔であり、楽しそうに会話を楽しんでいた。

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孝はいろりに拾ってきた木の枝を入れ、すぐに燃えそうな藁も入れた。

藁は倉庫の床に敷いていたのを少しだけ拝借した物だ。

持ってきていたライターで藁を焼き、その火を木の枝へ燃え移す。

瞬く間に火は大きくなり、俊は少し太めの木の枝でそれらを突きながら馴染ませる。

すると木の枝は安定して燃え始め、次第に木の弾ける音が部屋の中で鳴り響いた。

「なあなあ、今日は何作んの?俺、お前の作るメシ大好き!母ちゃんのより旨いもんな」

自分のリュックを漁っている俊に、孝は興奮気味に語りかける。

逸る気持ちを隠せないようだ。

俊を後ろから覗き込んでいる。

そんな彼の興奮に、俊は苦笑い。

そして、逃げるようにリュックごと彼から離れた。

「俺はお前の嫁か。あいにくだけど、俺にそんな趣味はない。今日は持ってきた缶詰と米でおじやを作る予定だよ」

リュックから片手鍋と缶詰を二つ、そして米の入った袋を一つ。

俊はそれらを掲げて孝に見せた。

孝はそれらを見て、瞳を爛々と輝かせる。

「俺にもそんな趣味はないけど、是非とも俺の料理長を頼みたいくらいだ」

孝は興奮治まらずに、意味不明なガッツポーズを見せていた。

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「じゃあ、たくさん稼いで俺を雇ってくれ」

「おう、そうするわ!」

孝の話についていけなくなった俊は、適当に返事をする。

しかし、意外にも孝はそれにさえ、乗り気であった。

そんなやり取りを繰り返すうちに、次第に俊は料理へと集中するようになった。

片手鍋を囲炉裏の中に置き、鍋を熱する傍ら袋から米を出したり、缶詰を開けたり。

淡々と準備を続ける。

動きに一切の無駄がなく、実に手際が良い。

調理道具や調味料も持参して来ていた俊は、それらも上手く使っていた。

孝はそれを嬉々とした表情で眺め、実に幸せそう。

そして料理は瞬く間に出来上がり、部屋内には良い香りが漂った。

「よし、出来上がり。孝、皿出してくれよ」

自らの一言で、俊は集中から解放される。

孝の方を見ると、すでに取り皿の準備は済まされており、あとは盛り付けるだけだった。

「用意周到だな」

「当たり前だ。こういうことに抜かりはない」

驚く俊に、孝はえらく自慢気。

胸を張って自らの威厳を見せつけるような素振りを見せていた。

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無事料理も完成し、二人はそれを分け合って食べた。

孝は相変わらずガツガツと料理を平らげ、俊は淡々と口に運んでいる。

余程美味しかったのだろう。

孝はおかわりもしていた。

それに対して俊も作り甲斐があったと喜び、張り切って大盛りのサービス。

孝はそれに喜び、またガツガツと平らげていた。

二人は終始笑顔で、笑いが絶えない。

外からは、虫や他の生き物の鳴き声がささやかなBGMとなって聞こえてくる。

さながら宴の気分で、二人は夕食を楽しんだ。

「ふぅー……。腹一杯」

食事を終えた孝は、少し苦しそうなため息をつきながらお腹をさすっていた。

しかし表情は満足げで、とても幸せそうだ。

「お前食い過ぎ。まあ、俺も作り過ぎたけどな」

俊はそんな孝の幸せそうな表情を見て、とても満足気。

調理道具を片付けながら笑みを覗かせる。

しかし。

チリンチリン――。

突如聞こえてきた甲高い音色。

その瞬間、彼の動きは止まった。

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聞き覚えのある音に、俊の記憶が甦る。

この音の直後、彼は首を吊った女性の自殺体を見たのだ。

しかし、あれは砂埃のせいで布をそうだと見間違えたものだ。

絶対に幽霊や自殺体の類ではない。

それは分かっている。

しかしあの時の音が、何故今になって聞こえてくる?

そう思うと、一抹の不安が俊の脳裏を過ぎった。

体には勝手に力が入り、思わず強ばる。

頭では分かっていても、体は正直だった。

恐怖という経験を、体は身を以て覚えていたのだ。

次第に足は震え、背筋にはぞくぞくとした悪寒を感じる。

音源が何処なのか。

音源は何なのか。

知りたい。

知りたくない。

知りたい――。

彼の心は、恐怖と興味の狭間で揺れる。

しかし、気がつけば音のする方へゆっくり視線を向けていた。

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チリンチリン――。

俊の視線の先には、小さな風鈴が一つ。

開けていた扉から吹き抜ける風に揺れ、小さな音色を奏でていた。

「どうした、俊?」

一点を凝視している俊の姿に、孝は首を傾げる。

そして不意に問いかけ、視線の先を追った。

「いや、あれ……」

俊は口を濁しながら答え、風鈴の方を指さす。

すると、孝の瞳にも風鈴の姿が目に止まった。

「ああ、それ風鈴。中々風流だろう?」

俊は、風鈴を知らないのだろうか?

そう思った孝は、視線を俊へと戻しながら答えた。

「いや、それはわかるけど……。お前が持ってきたの?」

俊も顔を孝の方へ向け、視線が重なると更に問いかけた。

「ううん。掃除してたら、他の部屋でぶら下がってて。これがあるといかにも夏って感じがするじゃん?だいぶ前からそこに掛けていたけど、夜になってから風が弱くなったから、中々鳴らなかったんだな」

孝は気だるそうに立ち上り、風鈴へと近付く。

そして、手を伸ばしてそれを掴み、元の位置へと戻っていった。

 

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「ほら、これ」

孝は手に持った風鈴を、俊へ手渡そうとする。

しかし、それを俊は受け取らない。

気味悪そうに顔をしかめて、見つめているだけ。

彼の手は、風鈴を掴むことはなかった。

「悪い、遠慮しとく」

そう言って、受け取りを拒んだ。

「相変わらず怖がりだなぁ」

孝は俊の対応に少し不満気。

紐の部分を掴んで、風鈴を揺らした。

チリンチリン――。

高い音色は透明感がある。

音自体が涼しい訳ではないが、暑さを和らげるような不思議な冷たさを感じさせる。

透明なガラスはいろりの炎を映し、微かにだが揺らめいていた。

淡い赤色の模様は、大きく主張をしていない。

しかし、それがなければもの悲しいような、物足りなさは覚えるだろう。

でも風鈴であれば、涼しさを与える青の方がいいのではないだろうか。

俊は思わず風鈴の姿に魅入り、ぼんやりと物思いに耽る。

孝は俊の様子に、少しだけ嬉しくなった。

 

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「なっ?なんかいいだろ?」

「あっ、ああ。悪くない」

孝の声に、俊は現実に引き戻された。

彼の言うように、確かに悪くはない。

夏を思わせる風物詩の一つとしては、十分に役立つだろう。

俊は笑顔で孝の問いに答える。

「じゃあ、さっきの位置に戻すな」

「ああ、わかった」

俊の答えに、孝は満足そうな笑顔を覗かせる。

そして、風鈴を元の位置に戻した。

チリンチリン――。

再び吊るされた風鈴は、風になびいてすぐに揺れた。

高い音色が部屋内に響く。

合わせて部屋を吹き抜けた風が、興奮した体に心地良い。

「俊、そう言えばさ……」

だが、風鈴の話はここまで。

孝が別の話題を俊に振ったことで終わりを告げた。

覚めやらぬ興奮に、話題もたくさんあるのだろう。

いつの間にか盛り上がり、二人の意識に風鈴の存在は消えていく。

風も止んだのか、音すら奏でることはなかった。

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楽しい団欒の時間は瞬く間に過ぎ去り、夜も更けていった。

いつの間にか月は存在を隠し、星達も主張を弱めている。

辺りは夜の闇に支配され、光を失いつつあった。

生きとし生けるもの全てが闇を恐れ、姿を潜める。

心地よいBGMを奏でていた鳴き声も、いつの間にか闇に飲み込まれて消えていた。

「そろそろ寝るか?」

眠たそうに目を擦りながら、孝が俊に問いかけた。

「そうだな」

俊もそれに頷き、大きなあくびを一つ。

孝もつられて大きなあくびをしていた。

朝の登山と昼の掃除、夜は宴と団欒。

普段とは違う環境で過ごした二人の体力は、限界に達しようとしていた。

寝る時間には少し早いが、明日も掃除に遊びに忙しい。

しっかり体力を回復させて、翌日に挑みたい。

そして何より、静けさが眠気を誘っていた。

温度も下がってきて、寝苦しさは感じないだろう。

心地よさに浸りながら眠れば、さぞ気持ちいいに違いない。

その思いに至った二人は、のそのそと立ち上がり寝るための支度を始めた。

 

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二人はそれぞれ自分のリュックから、寝袋を取り出した。

いくら夏場でも、山の夜は肌寒い。

それは雨風がしのげる家屋の中でも同様だった。

雑魚寝すれば、ほぼ確実に風邪を引いてしまうだろう。

そう考えていた俊は、事前に孝へ準備するように言っていた。

孝もこの家屋がどんな雰囲気のものか分からなかったため、素直に従って持ってきていたのだ。

「風邪なんか引いたら、勿体ないからな」

「そうだな。せっかくのお楽しみがなくなっちまう」

「言えてる」

軽く笑う俊に、満面の笑みを作る力は残されていない。

それは孝も同様で、彼は口を軽く緩めるだけだった。

「火はさすがに消した方がいいよな?」

「もちろん。火事になったら大変だからな」

念の為に確認をした孝に、俊は深く頷く。

やはり木造の家では、火事に最大限の注意を払わなければならない。

孝は辺りを見渡して、池の水を汲んでおいたバケツを探した。

そして、部屋の隅にバケツを見つけると、のそのそと立ち上がる。

「じゃあ、水でも掛けるか?」

ゆっくりとバケツへと向かいながら、俊へ問いかけた。

 

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「ああ、いや。いろりの火は水をかけて消しちゃだめなんだ」

俊の言葉に、孝の足がピタリと止まる。

そして、ゆっくりと俊の方を振り返った。

俊はいろりの中にある灰を炭化している木の枝へ、大量に振りかけている。

「酸素がなければ、火は燃え続けることはできない。こうやって、灰の中に火を閉じ込めれば、酸素不足で自然と火は消えるのさ」

更には燃やしていない木の枝で、更に灰を被せていた。

すると、赤く輝いていた炎は赤みを増して段々と小さくなる。

そしてやがて赤黒くなっていき、ついには消えてしまった。

「おお、さすがは俊。アウトドア好きを豪語してるだけはあるわ」

暗くなった部屋内で、孝の声は俊を称えている。

「まあな。さあ、寝よう?」

俊は称えられて照れているのか、軽く返事をするだけに留め、寝ることを促した。

孝は元の位置に戻り、寝袋にくるまった。

俊も同じく寝袋にくるまり、がさごそと寝袋の生地が擦れる音が続く。

しばらくするとその音はゆっくり小さく消え、部屋内はしんと静まり返る。

「明日からが楽しみだな」

「ああ、本当に」

代わりに、二人の囁く会話が小さく響いた。

 

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「今回は二人で楽しもうな。ここをもっと綺麗にしてさ」

「ああ、そうだな」

寝袋にくるまり、寝そべって天井を見上げる二人。

孝は楽しそうにこれからを語り、俊はそれを楽しそうに聞いている。

ただ、眠気は容赦なく二人を襲う。

どうしても二人の口調はボンヤリとしたものだった。

きっと夢朧気に、二人の脳内では明日からの展望が映像となって映し出されているのだろう。

「次に来るときは修理道具も持ってきて、綺麗に直してやろう」

「ああ、もちろん」

「冬も過ごせるくらいにして、年越しってのも良いんじゃねえか?」

孝は展望を更に広げ、夢のような話を展開する。

しかし、俊にはアウトドアの経験がある分、それは夢物語だということは分かっている。

「すごく壮大な話だ。でも、本当にそうなったら楽しいかも」

しかし、ここはキャンプ場ではない。

このしっかりとした作りの家屋をしっかり直せば、孝の言うようなことが現実にできるかも知れないし、できるのであれば楽しみで仕方がない。

思わず、笑みがこぼれる。

 

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「そうなったらじゃなくて、そうするんだ。夢は願うだけじゃ叶わない。行動して実行することで初めて叶うんだ」

「ああ、頑張ろう」

孝のいつもの口癖が飛び出てきた。

“夢は願うだけじゃ叶わない。行動して実行することで初めて叶うもの。”

行動力のある、孝らしい口癖。

俊はこれを言われると嬉しくて、いつもつい同調したくなる。

孝のそういうがむしゃらな性格が好きなのだ。

今回に限ってもそれは変わらなくて、俊は孝に同調する。

「そう来なくちゃ」

俊の反応に、孝は凄く嬉しそうだった。

「孝ごめん、俺もう限界」

「ああ、俺も」

とうとう二人の眠気は限界に。

二人はゆっくりと目蓋を閉じた。

「おやすみ」

この会話を最後に、小さな寝息が聞こえ始める。

部屋内は、ゆっくりと静寂に包まれた。

 

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第三章 夢は音色とともに儚く消えて

チリン――。

暗く、静けさだけが支配している部屋内で、高い音色が突如として奏でられた。

戸や窓は閉め切られている。

風が入ってくる隙間などはない。

音色だけが確かに部屋内で響いていのだ。

風鈴は、相変わらずぶら下がり吊されたまま。

動いている様子はない。

俊と孝の二人は相変わらずの寝息を立て夢の中に浸っている。

疲れていることもあってか、物音に気付くことはなかった。

チリンチリン――。

幾度となく、響く音色。

そして、段々と床の板張りが軋む音が混じり始める。

まるで誰かが歩き、軋んでいるかのような音。

だがそこに、人の姿はない。

ただ音だけが鳴っているのだ。

ギシッ――。

ギシッ――。

音は二人の周りを沿うように続く。

 

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「う……ん……」

度重なる音色と軋む音に、俊の意識は徐々に現実へ引き戻されている様だ。

眉間にしわを寄せ、煩いとも言わんばかりの表情で寝返りをうっている。

すると、軋む音は彼の動きに反応して、段々と彼の周りだけに集まり始めた。

ギシッ――。

ギシッ――。

チリン――。

軋む音は段々と間隔を狭め、回数も増えていく。

音が俊を完全に囲んでいた。

そしてとうとう、俊は眠りから覚めたようだ。

閉じていた目蓋をゆっくりと開き、視線だけが右往左往する。

そして、瞬間的に目を見開いた。

しかし、彼の視界は暗い。

暗がりの中で部屋の様子だけが映し出されていた。

ギシッ――。

今度は、俊の背中側で板の軋む音が聞こえた。

その瞬間、俊の体が強く跳ねる。

誰かいる。

咄嗟にそう思った彼は、目蓋を強く閉じた。 

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(誰かいる。泥棒か?熊か?早くいなくなってくれ)

俊は力を全身に込め、体を丸めた。

姿形こそ彼の目には映らなかったが、何かが居ることは確実だったからだ。

後ろに気配を感じる。

そう思うと恐怖以外の感情は湧いてこない。

正体が何にせよ、今の彼には対処のしようがないからだ。

寝ているフリを続けて、いなくなることを願うしかなかった。

しかし。

チリンチリン――。

俊の願いは、儚くも消えてゆく。

耳元で聞き覚えのある、高い音色が鳴ったからだ。

(あれは……)

この音は、風鈴の音色。

家屋の中を初めて覗き込んだ時に、聞いた音色だった。

聞いた直後に布を自殺体と見間違えた、忌まわしき音。

そして、孝がこの家屋のどこからか持ってきた風鈴の音色でもある。

孝は風流で良いと言ってはいたが、正直彼には良いとは思えなかった。

昼間の記憶を呼び起こす音だったからだ。

それが今、このタイミングで再び鳴り響く。

彼の体は、恐怖に震えた。

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(孝、孝!起きてくれ)

震える体を隠す為に、俊は体に力を更に込めた。

そして孝を呼び、助けを求める。

今頼れるのは孝しかいない。

しかし、声は何故か音として発することはなかった。

微かに吐息が漏れるだけである。

(何で声が出てこないんだ!クソッ、何でなんだよ!)

大声で叫んだ筈が、やはり音にはならなかった。

俊は焦って目を見開き、視線を孝の方へと向ける。

手を伸ばして孝の腕を掴もうとしたが、腕はピクリとも動かない。

ここでようやく、彼は自分の体の自由を奪われていることに気付く。

視線を動かす以外の自由は、既に叶わなくなっていた。

そのせいで思考は混乱し、極度の恐怖心からか精神が乱れる。

(助けてくれ!うわぁぁっ、孝!)

「た……、ぁぁ……」

必死で助けを求めるが、それでも小さな唸り声程度にしかならなかった。

もちろん、それ位で孝が起きる訳がない。

彼は幸せそうな表情で、ただ寝息を立てていた。

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ギシッ――。

俊の背中の方で聞こえてきた音を最後に、軋む音が止まった。

(どこかに行け!ここからいなくなれよ!)

音が消えることは、恐怖を煽る以外の何ものでもない。

冷や汗が全身からじわりと出てきて、彼の体を濡らす。

(そうだ、これは夢だ。昼間にあんなものを見たから、変な夢を見ているんだ。落ち着け。目を閉じて眠れば、自然と元に戻る。眠るんだ)

彼は半ばやけくそになりながらも、目蓋を閉じようと躍起になった。

これは夢。

悪い夢に過ぎない。

眠りさえすれば、全てが丸く収まる。

そうとでも思わなければ、彼は気が狂いそうだった。

ひたすら目蓋を閉じようと、目に力を込めていた。

しかし。

「フフ……」

急に耳元で囁かれた女の声。

俊は驚愕の表情を浮かべ、無理に閉じようとしていた目蓋を開いてしまった。

真っ先に逃げだそうと彼は思ったが、体が言うことを聞いてくれない。

それでも無理矢理足掻こうとした時、背筋にヒヤリとするものが突然触れてきた。

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「どう?これが夢だと思う?私が触れているの、わかるでしょ?」

(ヒッ……。孝!)

触れているのは、女の手だろうか。

氷のように冷たいが、硬さはない。

柔らかな感触がヒヤリと伝わってくる。

俊はゾクリとした背筋を伸ばし、声にならない声を上げる。

そしてその後すぐに、助けを求めるために孝の名前を叫んだ。

しかし、彼の声が部屋に漏れることはない。

チリン――。

風鈴の音だけが部屋内には響く。

「フフ……、声を出そうとしても無駄よ。声は出ない」

女には、俊の声が聞こえている様だ。

彼を嘲笑うかのような言葉を呟き、声色は驚くほど冷たい。

「ねぇそんなことより、私とお話しましょう?お客さんが来るの、久しぶりなの」

女は更に言葉を続け、今度は声色を甘くさせる。

触れている手は背筋をそっとなぞっていた。

俊は女の手が下る度に体を震わせ、反応する。

「反応が可愛いわね」

女は小さく笑い、そっと俊の背中から手を放した。

 

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「ねぇ、私とお話しましょう?今、そっちに回るから」

声が離れていくと共に、立ち上がる女。

女は白い着物を羽織っており、所々に薄い赤の模様がチラリとのぞいている。

肌は青白く、着物の白にも劣らない。

長い黒髪が背中と腹の位置まで垂れ、そのせいで表情を隠していた。

しかし、髪の隙間から見える唇。

艶やかでいて、赤みが強い。

口元が軽く吊り上っているのが印象的だった。

ギシッ――。

ギシッ――。

再び聴こえてくる、床の軋む音。

それは俊の頭上を回り込むように響いた。

(く、来るな!俺はお前なんかと話したくはない!来るな、出て行け)

段々と近づく二つの音に、俊は怯えて拒絶する。

彼はまだ女を見た訳ではない。

彼の中での女の印象とは、昼間に見た自殺体だった。

その自殺体の顔も見た訳ではないが、死んだ者の顔など見たくはない。

しかし、音は止まることなく、やがては眼前に。

そして、彼の視界に足が映し出された。 

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白い。

真っ白な足。

肌は透き通り、血管が張り巡らされている様子がよくわかった。

足首は細く、そこからすらりとふくらはぎが姿を現している。

暗がりに映るその姿は幻想的で美しい。

しかし。

俊にはそれが恐ろしく、美しさなど微塵も感じなかった。

この場所には自分と孝以外に人はいない。

いるはずがないのだ。

この女は、きっと人ならざる者。

幽霊などまやかしだと彼は思っていた。

だが、今目の前に映るのは、まさしくそれの足なのだろう。

彼は、なんとか目を閉じようと試みる。

見たくはない。

見てしまったらどうにかなってしまいそうだから。

もしかしたら、目を閉じることができるかも知れない。

そんな恐怖と淡い期待に駆られ必死になったが、やはり試みは叶うことはなかった。

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白き両足は俊の方へ向き、一歩ずつ後ろへ下がる。

そして右膝が床につき、次に左膝もすぐに追いついてきた。

正座の姿勢である。

俊の視界には、女の腹から下の姿が見えている状態だった。

まだ、顔は見えない。

だが、すべての姿が露になるのも時間の問題。

俊はありったけの力を使って目蓋を閉じようと力を込める。

思い切り。

必死に。

力の限り。

なんとかして、女の全貌を見てしまわないように努力した。

もしかしたら出来るかもしれないという、希薄な願いを叶えるために。

しかし。

次第に正座が崩れて、女の両手が前のめりで床についた。

白く細い腕が着物から露になる。

腕と合わせて指も驚くほど細く、力が入っているのか爪は床に食い込んでいた。

俊の視界には女性の顔から下すべてが映る。

前のめりになっているせいか着物の胸元は軽く垂れ、隙間からは女性らしい膨らみが二つ。

それも徐々に下降を始めていた。 

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(やめろ、それ以上動くな……。俺はお前と話なんてしたくないし、顔も見たくない。早くここから出て行け!)

ひたすら目蓋を閉じるために力を入れつつ、言葉で牽制をする俊。

「いいじゃない、少しくらい。それにここは私の家よ?貴方達が勝手に入ってきただけ。部屋を一つ貸してあげたのに、それは酷いんじゃないかしら?」

しかし、女はうすら笑いを含みながら、俊の怒号を軽くあしらうだけ。

動きに変わりはない。

髪が徐々に床に垂れ、その量も増えていく。

彼の視界に女の顔が映るのも、もう間もなくだった。

(じゃ、じゃあ出て行く!出ていくから許してくれ。いや、許して下さい!)

あまりの恐怖に、俊の俊は態度を一変させた。

牽制が効かないのであれば、謝ってでも回避したいと急に態度を変えのだ。

謝って済む問題ではないことなど、わかりきってはいる。

だが実際、彼にとってこの家屋でキャンプを続けることなど不可能だった。

逃げ出せるのであれば、すぐにでも逃げ出したい。

助けを請うて縋ってでも、彼は逃げ出したかったのだ。

「それで、私が引き下がると思う?」

助けを請う俊に、女の声が急に低くなる。

そしてそれに合わせるように、女の顔は彼の視界にとうとう入ってしまった。

 

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顔のほぼ半分を隠している女の長い髪。

隙間から見える頬は青白く、足と同じように血管が網目のように透けている。

唇は鮮やかな赤で、微笑んでいるのかのか少しだけ緩んでいた。

そして目は吸い込まれるような黒。

白い部分は全くない。

目玉そのものが黒いのだ。

(目が!目がっ!)

「んっ……、んっ……」

俊は力の限り叫んだ。

女には目がないのだ。

眼球の白い部分も瞳もまるでない。

そこにあるのは空虚な闇だけ。

穴が空いているようにも見える。

ありえない女の顔つきに体中に恐怖が駆け巡った。

しかし、彼は動くことができない。

顔を背けることも、目蓋を閉じることもできないのだ。

その身を震わせ、怯えるしか術はない。

女の表情が、彼の脳裏に焼き付いていく。

 

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(うわぁっ!)

「んんっ」

「どうしたの?そんなに怯えて」

発狂する俊に、女はクスリと小さく笑う。

そして手を伸ばして、彼の顎を軽くなぞりながら問いかけた。

彼の体はビクリと大きく仰け反り、また小さな震えへと戻っていく。

それを見た女は、満足そうに微笑んだ。

「私が怖いの?怯えて可哀想ね。何も見えなかったら怖くはないかもよ?」

女はゆっくりと更に俊へ近づき、今度は両手を頬に添えた。

そして指先をゆっくり這わせながら、優しく耳元で囁く。

(嫌だ、やめてくれ!触るな!)

目の前に映る空虚に怯えつつも、彼は必死に抵抗した。

腹の底から声を出し、力の限り動こうと抗う。

しかし、体は相変わらず言うことを聞かない。

「怖いのは今のうちだけ。すぐに不安はなくなる」

女は諭すように彼へと語りかける。

そして、頬に添える両手を徐々に上へとずらし始めた。

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(煩い!やめろ!触るな!)

必死な叫びも、声とならなければ虚しいだけ。

顔を這う指はやがて、目尻へと到達した。

目尻から目蓋へ。

目蓋から目尻へ戻る。

なぞるような指の動き。

「私に頂戴……。その目を、その目蓋を、私に頂戴!」

女の声が俄かに荒くなり、力強くなっていく。

なぞる指もそれに合わせて強く、食い込むようになっていった。

(もう……ダメだ……)

どんなに抵抗しようとしても、体は動くことはなく、声を出すことすら叶わない。

どうしようもないのだ。

諦めが、俊の心を支配していく。

こんなことなら、この家屋をキャンプに使おうなどと思わなければ良かった。

後悔が、彼の心を満たしていく。

(孝、ごめんな。こんな所を見つけて。こんな所に泊まろうなんて言い出して。本当にごめん……)

気がつけば、諦めと後悔は孝への謝罪へ。

そして、彼は完全に諦めたのか、体の力を抜いてすべてを女へと委ねた。

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俊の目蓋は閉じ、目尻から一筋の涙が伝う。

「目を……、目をぉぉ!」

女はそんなことを構うことなく、狂った声を荒げながら叫んでいる。

そして、指を更に目蓋へとめり込ませた。

しかし、彼は最早抵抗することはなかった。

(孝、ごめん。ごめん……)

ただすべてを委ね、心の中で自らの行動を嘆き、孝への謝罪を続けていた。

“俊、なんでもそうやって諦める癖、いい加減やめろよな?”

目蓋に痛みを感じた瞬間、急に孝の声が脳裏に響いた。

これは孝の口癖。

いつもの弱気な俊を奮い立たす、孝なりの励まし。

彼は驚き、閉じていた目蓋を一気に開いた。

「孝!」

俊は女の手を振り払い、孝の方へ顔を向ける。

しかし、孝はまだ眠りの中だったようだ。

孝は彼の声に驚き、体を飛び起こす。

そして、彼はあることに気づいた。

声も体も、全て自由になっていることを。

 

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「俊?誰だ、その女?」

孝の寝ぼけた声に、女の顔がその方へ向く。

「孝、逃げるぞ。走れ!」

孝の顔が青ざめていく途中で俊は叫んだ。

そして思いきり足を踏み込み、孝の方へと駆けていく。

孝も慌てて寝袋から飛び出ると、二人は玄関へ向かって走った。

「目を……。待てぇ!」

走り逃げるタイミングに乗り遅れて、女が叫び走り始めた。

しかし、待てと言われて待つ者はいない。

二人は止まることなく廊下を突き抜け、靴も履かずに玄関を飛び出た。

女も裸足のまま玄関を飛び出て、ひたすら二人の後ろを追う。

闇夜に支配されている山の中は暗く、道しるべなど皆無。

「俊、どこに行けばいいんだ!」

先頭を走る孝が、振り向きざまに俊へと問いかけた。

「こっちだ。ここをひたすらまっすぐ!」

俊は方向を指さし、声を張り上げる。

指さす方角は、更に真っ暗な森の中。

「大丈夫かよ!」

孝は不安を漏らしながらも、足により力を込めた。

 

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「目ぇ!目ぇぇっ!」

逃げる彼等に、女は奇声を上げながら走り寄る。

さながら雄たけびだ。

響く度に草木が揺れる。

走り進む足音は地響き。

足が地に着く度に、大地は揺れた。

「何なんだよ、あの女は!」

孝には今の状況が全く持って掴めていない。

何故逃げているのか、何故追われているのかを。

「風鈴だ!アイツは風鈴のお化け。俺が昼間見たのもアイツだよ!」

俊も知っていることと言えば、それくらい。

いや、お化けという言葉さえ、あくまでも推測だ。

人の温もりと思えぬ冷たさと目玉がなくても見えているという雰囲気だけで、彼は女をお化けだと考えている。

「とりあえずここを下れば人里に出る!それまで逃げるんだ!」

今は話をするべきではない。

俊の思いは伝わったのか、孝はそれ以上何も言うことはなかった。

ただひたすら必死に、必死に女から逃げだした。

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無言になった彼等から聞こえてくるのは、荒い息遣い。

足を踏み込む度に聴こえてくる、木の枝が折れる音。

石を踏む度に聴こえてくる、唸り声。

これだけだった。

彼等の足は、靴を履かずして山を下れるほど、強く硬い訳ではない。

足は所々切れ、血が滲み、青い痣が出来ている。

痛みでもはや感覚すらまばら。

だがしかし、彼等は逃げた。

必死の形相を浮かべ、必死に歯を食い縛り、必死に足を前に出した。

しかし女は顔色一つ変えず、狂ったように口元を吊り上げ、二人を追う。

手と足を交互につき、まるで獣のような走りだ。

空虚な眼は、全てを吸い込まんと大きく開いていた。

口は大きく開いたり閉じたり。

笑い声と怒声が混じり合う、狂った声を放つ。

風になびく髪は大きく広がり、白い着物はいつの間にか赤く染まっている。

薄い色の染みがついていた箇所を中心に、赤黒く広がっていた。

最早、幽霊なのか獣なのか、妖怪なのかさえわからない。

ただ恐怖を煽る象徴であることは間違いなかった。

そんな恐怖の象徴が、彼等との距離をジワリ、ジワリと縮めていく。

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「やべぇ、追いつかれる!」

チラリと後ろに視線を向けた孝が、青ざめた表情で前を向き直した。

徐々に近付いていた女が、もう間もなく彼等に追いつこうとしていたからだ。

既に力の限り逃げている。

これ以上、足を速めることはできない。

戦慄と焦燥。

それが孝を青ざめさせているのだ。

ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ……。

孝は恐怖に心が折れそうだった。

「後ろは気にするなっ!諦めたら終わりだぞ!」

そんな孝の心情を察知してか、俊が突然励ました。

しかし、決して彼に余裕があるわけではない。

孝は自分を救ってくれた。

自分が励まさないで誰が励ますのか。

そんな思い故に、自らを奮い立たせて言葉を口にしているのだ。

孝は驚き、俊へと視線を向ける。

「そこが出口だ!そこを抜ければ集落がある。とりあえず一番近い所に駆け込むぞ!」

視線の先には、嬉しそうに叫ぶ俊の姿があった。

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俊の言葉に、孝は再び視線を前へと向けた。

視線の先には、ずっと暗かった道の先に少しだけ明るくなっている場所があった。

それは進む度に段々と近付き、更に先の様子も見え始める。

民家らしき家屋が見えてきた。

このまま駆け込めば、助かるかも知れない。

そんな淡い期待が、彼等の心を埋め尽くす。

もう少し、もう少し。

彼等は縋る様に心の中で繰り返し呟き、ただひたすら前に進む。

すると、段々と周辺が明るくなってきた。

民家から漏れる光と月の煌めきが辺りを照らしているからだ。

助かった。

彼等の表情は、その気持ちで一気に明るくなった。

出口まで、あと10m。

5m。

3、2、1……。

「あっ……」

出口を抜ける直前、俊が何かに躓き小さく声を上げながら大きく転んだ。

孝は、それに気付くもすぐに止まる事ができず、出口を抜けてしばらくして滑るようにして止まった。

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ゴン――。

何かがぶつかる大きな音。

孝が振り返ると、女が何かにぶつかり仰向けに倒れている様子だった。

そのすぐ横で、俊が俯せに倒れている。

孝は咄嗟に、俊と女がぶつかったのだと思った。

「俊!」

彼は大声を張り上げ、俊の下へ駆け寄る。

女は体勢を戻す事に苦戦しているのか、ジタバタと手足を動かしていた。

「大丈夫か」

「つぅ……。大丈夫」

返事をした俊に、孝は安堵のため息。

彼は俊の腕を掴んで引き揚げる。

引き揚げられた俊はよろよろとよろめきながら立ち上がると、すぐに体についた土や砂埃などを払った。

孝もそれを手伝い、しかし途中で一点を見つめて動きを止めた。

俊も孝の制止に気付き、同じ方向へと視線を向ける。

彼等の視線の先には、態勢を戻した女が不気味に口元を吊り上げてニヤリ。

そして、二人を襲わんと飛びかかった。

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「くっ……」

やられる。

咄嗟に思った俊は思い切り目蓋を閉じ、衝撃に備えるために体に力を入れた。

しかし、孝は咄嗟に俊の服を掴むと、力任せに自分の方へと引き寄せる。

「ああああっっ!」

無我夢中の咆哮。

孝の叫びは雄たけびとなって辺りに轟いた。

振り下ろされる女の手と、孝に引き寄せられる俊の体。

それはわずか数cmで空を切り、触れることはなかった。

勢い良く俊を引き寄せた孝は、勢いそのままに尻もちをついて倒れる。

俊も引かれるままにその場に倒れ込んだ。

そんな隙を、女が逃がす筈はない。

「目ぇぇっ!」

雄たけびを上げながら再び力むと、彼等に再び襲いかかった。

彼等は女の動きにすぐ気付いたが、倒れこんでいる体ではうまく逃げることはできない。

逃げ道を失ったと、体を強張らせる。

今度こそ諦めて、目蓋を強く閉じた。

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しかし。

ゴンッ――。

何かがぶつかる鈍い音。

「ギャッ」

それに合わせて、女の低く荒い声が響く。

そして来るはずの衝撃は、彼等に襲いかかることはなかった。

いつまでも来ない衝撃に、俊がゆっくり目蓋を上げる。

「えっ……」

そして、何とも気の抜けた声を出した。

そんな俊の声に、孝もゆっくりと目蓋を上げる。

二人の視線の先には、いきり立ちながら何かを激しく叩く女の姿がそこにはあった。

「がああっ!」

女はしきりに叫び、彼等の方へと進もうとするが、何かに阻まれている。

阻む何かを激しく叩き、衝撃音が太鼓のように鳴り響いた。

しかし、そこには実際何もなく、阻むものなど一切見えはしない。

現に、彼等は阻まれることはなかった。

彼等はその異様な光景に、視線は釘付け。

あいた口が塞がらない。

呆気にとられた表情で、しばらくの間動くことはできなかった。

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「こっちに……、来られない?」

「……みたい、だな」

顔を見合わせた二人は、まだ状況を把握できていない。

ただ、とりあえず助かったことだけは安易に理解できた様だ。

二人はほぼ同時に安堵のため息を吐き出す。

そして、強張っていた顔が、俄かに落ち着きを取り戻し始めた。

しかし、二人の安堵は一瞬で崩れ去る。

「主等、何をやった!」

後ろから聞こえてきた怒鳴り声に、驚いたからだ。

彼等は一斉に振り返り、怒鳴り声の方を向く。

するとそこからは、老婆が一人駆け寄ってきた。

表情も険しく、まさに怒り心頭の状態であった。

「何って……」

「今はいい、黙っておれ!」

答えようとする孝を怒鳴りつけた老婆は、女の方へと振り向いた。

「ここは主の来るところじゃないわい!山へ帰れ!」

「ぐぅぅ……」

老婆の怒鳴り声に、女は唸り声を上げながら恨めしそうな表情を浮べていた。

 

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「がああぁぁっ!」

ドンッ--。

ドンッ--。

女は激しく何かを叩き、雄たけびを上げる。

しかし、こちらへはやはり来ることができないようだった。

「ここは主のような者が来る所ではないわい!山へ帰れ!」

老婆は険しい表情を崩さず、罵声にも近い言葉を負けじと放っている。

何度も、何度も。

そしてとうとう、女は諦めたのか彼等に背を向けて駆け出した。

「たわけが!」

駆ける女に老婆は言葉を吐きつけ、鋭く睨みつけた。

しかし、女は既にある程度離れていて、老婆の睨みも最早届かない。

女の姿が段々と闇に紛れ、その姿を消していく。

老婆はその様子を毅然とした表情で見つめ、視線は何者も寄せ付けない強さがあった。

ただ歳のせいか、息を切らして肩で呼吸をしている。

俊と孝の二人は、その様子を唖然とした表情で眺めていた。

開いた口が塞がらない様子だ。

「すげぇ……」

孝は思わず、驚きをこぼしている。

俊は口を開いたり閉じたりしていたが、言葉にはならなかった。

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「もう大丈夫じゃ。次期、夜も明ける。あやつは光を好まんからな」

老婆は振り返り、彼等に視線を向けた。

そして一瞬だけ、険しい表情を消して笑みを見せる。

安心させるためであろう。

老婆の言葉に、彼等は安堵で脱力する。

「よかった……」

「ふぇー、助かった……」

それぞれが、気の抜けた言葉をため息と共に零していた。

「まずは手当てじゃ。その足、消毒をせにゃバイ菌が入る。家に来い」

優しい表情が、再び険しくなっていく。

老婆はまるで叱るような口調と視線で二人を制した。

彼等は安堵した表情を強張らせ、苦笑いを浮べる。

やっぱりかと思ったのだろう。

「その後は説教じゃ。覚悟せい」

老婆は二人の表情を見て、更に止めを刺した。

そして今度は、悪戯な笑みを浮べる。

「……はい」

「げっ……」

彼等が表情を更に歪めたのは、言うまでもなかった。

 

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朝日が昇って来たのだろうか。

山の頂上は俄かに明るくなり、日の光を反射する。

闇夜の暗き空が徐々に青く暁の空へと変わっていく。

月や星達は朧に姿を濁していき、やがては霞んでいった。

「歩けるか?」

「大……、丈夫です」

「いってぇけど」

老婆の問いかけに、ゆっくりと立ち上がり応える二人。

しかし、緊張の解けた状態では痛みも普通に襲ってくる。

それぞれが痛みに表情を歪め、同時に強がった苦笑いを見せた。

「若い癖に軟弱じゃのう」

彼等の様子に、老婆は呆れ顔で呟いた。

そして、大きな声を張り上げて盛大に笑う。

「まあええわい、ついて来なさい」

そう言って、二人を尻目に一人でそそくさと歩き始めた。

「なんて薄情なばあさんだ……」

「まあまあ」

孝の呆れ顔での呟きを、俊がなだめる。

そして、彼等は痛む足を引きずりながら、老婆の後をついて行った。

 

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第四章 女の悲劇と邪な夢

太陽の光は辺りを目映いばかりに照らし、ありとあらゆる物を輝かせた。

代わりに今までを支配していた闇は影を潜め、物陰としてひっそりと存在する。

生きとし生けるものが活動を始め、それ以外のものは活動を抑える。

特に夏を謳歌する蝉達が、我こそはと言わんばかりに鳴き喚いていた。

「ほれ、一人終わり」

老婆は俊の背中を勢いよく叩きながら、威勢の良い声を張った。

「あ、ありがとうございます」

彼は痛みに顔を歪め、しかし感謝の気持ちを伝える。

そんな彼の姿勢に、老婆も満足そうだ。

「ほれ、次行くぞ」

そう言って、急かしく孝の方へ救護道具を持って移動した。

とうとう自分の番になったことを怖れ、苦笑いを浮かべる孝。

しかし、老婆はそんなことを気にする様子もなく、彼の横に道具を並べていった。

そして何も口にすることなく、淡々と手当を始める。

先ずは消毒液。

これを老婆は贅沢に使い、彼の足に大量にかける。

「いってぇ!」

彼の叫びは部屋中に響き渡り、その様子を眺める俊は苦渋な表情をしていた。

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「若いもんが、これくらいで叫ぶとは何事じゃ。全く、恥を知れ」

孝の叫びに対し、苛立つ老婆。

当てつけに彼の足へ平手打ち。

もちろん、孝の顔は痛みに歪んだ。

「おい、ばあちゃん!怪我人には優しくだろ?」

「甘えたがりには痛みで教育するんじゃ。昔から決まっておる」

涙目になりながら、彼は必死に訴える。

しかし、そんな彼の訴えも老婆には戯れ言としてしか認知されないのだろう。

完全に彼の訴えを棄却していた。

そのやり取りの後、老婆は黙々と手当を続けた。

その手つきは優しく、手慣れた動きは流ちょうだ。

だがしかし、野山を駆け下りた代償はかなり大きい。

老婆の優しい手付きでさえ、孝には痛みが伴った。

ただ、それに対して文句を言うのは間違っている。

それくらいのことは彼も分かっていた。

ひたすら我慢を続け、歯を食い縛ることで堪え忍ぶ。

拷問とも言える痛みを、彼は必死に耐えたのだった。

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「これで完成じゃ!」

ようやく全ての手当が終わり、老婆は歓喜の声を上げた。

そして額の汗を拭い、大きくため息を一つ。

表情は仕事をやり終えた満足感からか、少し誇らしげだった。

「ばあちゃん、ありがとな!」

「本当にありがとうございました」

孝の労いの言葉。

それに合わせて、俊も再度礼を言う。

「気にすんな。こんくらいの手当しかここではできんからな。後は父ちゃん母ちゃんに病院へ連れていってもらわなにゃいかんよ」

彼等の感謝の気持ちに、老婆は少し照れたのだろう。

そそくさと立ち上り、二人に背を向けながら呟いていた。

「今、茶でも淹れる。主等は座っとれ」

老婆は二人に背を向けたまま、台所へと歩いていった。

そして台所へとたどり着くと、湯飲みや急須の準備をすぐに始める。

「お前の足、凄い巻かれてるな」

「お互い様だろ?」

老婆が離れて、改めてお互いの足を見つめ合う二人。

彼等の両足には痛々しい程に包帯が巻かれており、差などほとんどない。

しかし、孝の冗談に俊は笑みを浮かべ、それに合わせて孝も笑顔になった。

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「足がこんな状態でも、生きている。俺はそれが嬉しいよ」

「まあ、そうだな。さすがにあれはヤバかったし、よく生きて帰ってきたよ」

率直な感想だった。

つい先程までは女に追われ、命すら危ういと必死に逃げていた。

これくらいで済んだのは、奇跡なのかも知れない。

逃げ切れなかったら命はなかっただろう。

怪我はともかく、生き存えたことが嬉しい。

彼等は素直に喜びを分かち合った。

なんとも言えない安心感に浸り、少しの間無言になる。

心の底から湧き上がる安堵に、しんみりと物思いに耽っていた。

「でもさ、これからあのばあちゃんにこっぴどく叱られるんだろうから、それはそれで災難だよな」

孝はしんみりとした空気が苦手だ。

急に茶化した態度をとる。

「……バカ野郎」

孝のいつも通りな行動に、俊はため息をついた。

雰囲気も何もないからだ。

しかし、罵声を浴びせた俊の表情は意外にも明るく、孝もそれを見て悪戯な笑みを覗かせる。

孝が自分を気遣ってあえて茶化しているのを、俊は知っていたからだ。

 

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「ほれ、飲め」

お茶を淹れて戻ってきた老婆が、湯飲みが置かれたおぼんを二人に差し出した。

「どうも」

「ありがと」

彼等は湯飲みを受け取り、それぞれ礼を言った。

老婆はそれに頷くと自分も湯飲みを持ち、空いている方の手でおぼんを床に置く。

そして、ゆっくりと自らの席に腰掛けた。

彼等は、それぞれ受け取った湯飲みのお茶を一口飲んだ。

柔らかい香りが鼻を抜け、暖かさが疲れた体を癒す。

口の中の渇きも優しく潤され、表情は俄に綻ぶ。

「なんで主等はあいつに追われとった?それにあんな時間に何故山におる?キャンプをするほど高い山じゃなかろうに?」

タイミングを見計らっていたであろう老婆は、二人が口から湯飲みを離した所で問いかけた。

口調はゆっくりだが、少し声色が冷たい。

まるで何かを疑っているようだった。

老婆の問いかけに二人は綻んだ表情を引きつらせ、苦笑いを浮かべる。

「実はこの山の途中に民家を見つけて、そこでキャンプをしてまして……」

俊はゆっくりと気まずそうな雰囲気で、ことの経緯を語り始めた。

 

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俊は日本家屋を見つけた時の話から始め、計画を立てたり下調べをしたことも話した。

もちろん昨日からキャンプを始めたことも、キャンプの最中に経験したことも全て。

時折孝も説明に加わり、俊が呆然としていた時の一人で家屋内を調べたことまで詳しく話した。

助けてくれた上に、手当てまでをしてくれた老婆へのお礼の意味も込めて。

彼等なりに、誠心誠意経験を話した。

老婆は彼等の説明をひたすら黙って聞き入り、時折頷く程度で話を遮ったり口を挟んだりはしなかった。

彼等は淡々と説明を続け、老婆はひたすら聞き手に回る。

淡々とした時間は、瞬く間に過ぎ去った。

「これが、僕達が知っているすべてです」

俊はそう言うと、小さくため息を一つ。

長い間話していて喉が渇いたせいか、時間の経過と共に冷めてしまったお茶を一気に飲み干した。

喉を鳴らし、次々に流し込んでいく。

孝も同じように、一気にお茶を胃に流し込んでいた。

老婆はそれを見て、不意に立ち上がる。

そしておぼんを掴むと、彼等の前に差し出した。

「まだ飲むじゃろ?」

老婆の表情は酷く穏やかなものだった。 

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「わしが茶を淹れている間に、父ちゃん母ちゃんに電話しろ。その足じゃ山を下れんからな。すぐ近くまで道路が来とるから、わざわざ登ってくる必要はない。電話を持っていないなら、そこの奴を使えばいい」

湯飲みを受け取った老婆は、ゆっくりと再び台所へ。

そして歩く途中、家族へ連絡するように指示をした。

受話器があるところを指差し、台所へ着くとまた準備を始める。

彼等は、黙々と準備をしている老婆の背中を眺めた。

「怒られないのかな?」

「どうだろう?そんな雰囲気はなさそうだけど」

声を潜めてお互いに確認する。

老婆が予想に反して優しいからだ。

二人は首をかしげ、お互いを見合う。

だが見合って所で、答えなど出てくる筈はなかった。

「とりあえず、電話するか?」

考察を諦めた孝が、ポケットから携帯電話を取り出した。

「持ってたんだ」

俊は孝が携帯を持っていた事に驚く。

「たまたまポケットに入れっぱなしだったんだ」

孝は偶然にも関わらず、やけに自慢気だった。

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「じゃあ、迎えはうちの親に来て貰うよ。来たことある場所だし、早いだろ?」

両方の親に来て貰っても、意味はない。

そう思った俊は、孝に提案した。

ここに来たきっかけは、父親との登山。

それであれば自分の父親に相談した方が確実にここへと辿り着くだろう。

そう思ったのだ。

「それもそうだな」

孝は一瞬考え、確かにそうだと納得したのかすぐに携帯を俊に手渡した。

「ありがとう」

俊はそれを受け取り、微笑みながら礼を言う。

そして、携帯を開いて、すぐに自宅の番号へと電話をかけた。

携帯を耳に押し当て、呼び出し音が彼の耳に響く。

「もしもし?」

電話はタイミングよく、すぐに繋がった。

電話に出たのは母親だった。

俊はことの経緯を軽く説明し、父親に電話を代わって貰うようお願いする。

今日は偶々日曜日。

仕事が休みの父親はすぐに電話に出てくれた。

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電話を代わった父親に、俊はことの経緯を話した。

母親の時とは違い、少し詳しく。

彼の話に、父親は最初こそ冷静に聞いていたが、途中で怒りが心頭。

電話越しに、彼を怒鳴りつけた。

電話越しとは言えど、大きな声を出されると耳は痛いし、気持ちもいいものではない。

しかし、彼は苛立ちをぐっと押さえ込んで、謝りを交えながら更に話を進めた。

これは自分のためだけではなく、孝のためでもあるからだ。

それに、実際に悪いのは自分。

怒鳴られても仕方がない。

それ故の誠意だった。

俊がちゃんと反省をしていると理解した父親は、段々と怒鳴るのを止める。

そして、迎えにいく旨を伝えて電話を切った。

「大丈夫か?お前の父ちゃん、相当怒ってたみたいだけど」

「大丈夫。迎えに来てくれるって。車で来るだろうから、一時間くらいで来ると思うよ」

「そっか」

電話を切った俊に、声をかける孝。

心配そうな表情を見せていた。

 

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しかし、俊は意外にも落ち込んでいる様子はなかった。

苛付いている素振りも、悲しそうな素振りも見受けられない。

むしろ、安堵しているようだった。

そんな俊に孝もホッと一息。

安堵の表情を浮べた。

「迎えには来てくれんのか?」

老婆は戻ってきて、先程と同じように湯飲みをおぼんごと差し出した。

彼等は、先程使った湯飲みを受け取り、それぞれ礼を言う。

「迎えに来てくれるそうなので、一時間ほどで着くと思います」

「そうか、良かったな」

俊の報告に、老婆は満足そうに微笑む。

そして、老婆は体を億劫そうに傾け、自分の席についた。

「もう少しで迎えが来るなら、そろそろ話そうか」

お茶を啜りながら、老婆が一言。

同じようにお茶を飲んでいた彼らは、湯飲みから口を離して視線を老婆へと向ける。

老婆は二人の視線に気付くと、咳払いを一つ。

そして、ゆっくりと丁寧に話し始めた。

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山の中腹にある日本家屋の主は、代々伝わる硝子細工の仕事をしていた。

この山で採れる上質な素材は、火を入れると何とも言えない味わい深い硝子を作り出す。

ただし、その上質な素材は山の頂上付近でしか採れない。

そのため、この集落から離れた場所に家を建て、生活していたのだった。

当時、家主だった男は頑固も頑固。

仕事一筋の男だったそうだ。

一旦仕事を始めると、食物を口に入れることも寝ることもせずに、ひたすら仕事に明け暮れていたという。

当時嫁はおらず、世話をする人間などいなかった。

そのせいもあったのだろう。

男の体を心配した集落の人間達は、男に嫁を取らせたという。

嫁に来た女は、山を降りた谷境にある村から来たそうだ。

谷境の村は資源に乏しく、また土地も荒れていたため、貧困を極めていたという。

それで、少しでもいい生活をしたいという欲求があったのだろう。

男は硝子細工で、それなりの財を築いていたのもあったし、何分仕事熱心だったことから、その財は膨れるばかり。

女にとっては、恋愛感情というより、その財に目が眩んでいたのかも知れない。

男と女は恋愛など一切なく、ただの世話係として籍を入れたのだった。

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貧困から、籍を入れたことで一気に財を成した女。

男は一度仕事を始めると、山頂の工場から降りてこない。

朝と夕に食事を届け、後は家の掃除に勤しむだけ。

時間的にも精神的にも、余裕のある生活だった。

それだけをしっかりこなせば、食うに困らないのだ。

しかし、女は献身的に働いた。

常に家を綺麗に保ち、食事も男の体を気遣ったものばかり。

決して手を抜くこともなかった。

それは、今の生活を手放したくない。

元の貧困に戻りたくない。

その一心だったそうだ。

最初の内は。

ただ、人里離れた生活は人恋しいものでもある。

例え利害関係で籍を入れたとはいえ、世話をしていれば情も湧くもの。

いつの間にか女は、男のことを愛していた。

男は仕事の時こそ厳格な人間ではあったが、普段は優しい男であり、いつも献身的に尽くしている女には、特に感謝していた。

感謝が情に変わる。

いつの間にか男も、女のことを愛していたのだ。

 

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お互いに想い合い、愛情を抱く二人。

しかし、男は気持ちを明かそうとはしなかった。

愛情など初めての経験であるし、照れも少なからずあったのだろう。

それに、更に裕福な生活を女に送って貰いたい。

それ故に、更に仕事へ精を出し、打ち込んだのだ。

女も、気持ちを明かそうとはしなかった。

男は自分を愛してはいない。

ただの世話係だと思っている。

自分が愛していると言えば、仕事の邪魔になりかねない。

ただひたすら献身的に世話をすることに徹した。

お互いに想い合っているはずなのに、お互いの想いには気付かない。

そんなもどかしい、寂しく切ない日々が続いたそうだ。

そして、我慢の限界は女へとやってきたそうだ。

男は、ほとんど家に戻ってくることはない。

朝夕の食事さえ届ければ、時間はたっぷりあるのだ。

自分が何をしようと、男は気付くことはない。

女は、自分の寂しさを紛らわせるために、この集落の若者に手を出した。

ひと時の快楽と温もりをを得るために、男を裏切ったのだ。

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最初は一度のつもりだった。

しかし、甘い誘惑は女を捉えて離さない。

二度、三度と体を重ねてしまう。

重ねている間は幸せで、甘美な心地良さに包まれる。

終われば虚しさと男への罪悪感に苛まれる。

だが、また甘美な心地よさが恋しくなる。

止めよう。

もう止めよう。

あと一度だけ。

これを最後にもう止めよう。

女の心は欲望に飲まれていった。

止めようと思っても止められない。

女は欲望という麻薬に侵されていったのだ。

段々と男への世話も疎かになり、部屋の掃除もしなくなった。

自分を見てくれない男に苛立ち、憎しみすら抱くようになる。

ただ欲望に浸り、ただ甘美な心地よさに溺れていく。

しかしそんな堕落な日々は、長くは続かなかった。

 

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男はある日、女に日頃の感謝を込めて、仕事でもある硝子細工でプレゼントをしようと思いついた。

少しでも自分を感じて欲しい。

夏が近いこともあって、鮮やかな色合いの風鈴を作った。

そして、女の長い髪を結う簪(簪)も。

普段の仕事より、丹精を込めて。

日頃の感謝の気持ちと、精一杯の愛情を込めて。

男はこれを届けた時に、自分の気持ちを伝えようと思っていた。

女として、そして妻として愛していると。

出来上がった風鈴と簪を手に持ち、久しぶりに山を降りたのだった。

男が久しぶりに家へ戻ると、しばらく見ないうちに廃れていることに気付いた。

まるで籍を入れる前のような、自分が全く手入れをしていない時のような荒れ具合。

もしかして、女の具合でも悪いのだろうか。

男は心配になり、慌てて家の中へと入っていった。

すると、家の中では、甘ったるい声が聞こえてくる。

盛った雌の鳴き声だ。

男は不審に思いつつも、部屋の奥を急いだ。

廊下を抜け、いつも女がくつろいでいる、いろりのある部屋へ。

そして辿り着いた男は、何の迷いもなく戸を開いた。

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男の目に映ったのは、若い男と女が激しく求め合う姿。

若い男は、集落にいる者だった。

過去に遊んでやった記憶もある。

そして女は、自分の妻。

愛していると伝えようと思っていた妻だった。

女は男の帰りに気付き、慌てて着物を羽織ることで素肌を隠した。

若い男はそのまま逃げ出そうと、男を横切ろうとする。

しかし、男は若い男を逃がすことはなく、持っていた簪で若い男の目を一刺し。

痛みに叫ぶ若い男を押し倒し、更に追い討ちをかけるように目玉へと簪を何度も振りかざしては刺すを繰り返した。

そして若い男は叫ぶことを止め、やがて息絶えた。

女はその様子を、ただ震えながら見つめるだけだった。

若い男が動かなくなると、男は立ち上がった。

そして、血塗られた簪を手に持ったまま、女の下へ向かう。

体は血に染まり、顔はまるで鬼のように険しい。

男の怒りの矛先は、とうとう女へ。

標的が変わったのだった。

 

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女は、向かってくる男に力の限り叫んだ。

自分を見てくれなかったことへの寂しさと、心細さを。

しかし、男の歩みは止まらない。

男は裏切られた気持ちで、一杯だったからだ。

愛していたのに。

愛していたのに。

男は女へ簪を振りかざし、やはり目玉へ突き刺した。

右目も左目も、何度も何度も突き刺した。

やがて女も動かなくなり、白い着物も赤く染まっていた。

男は女から離れると、簪を柱に突き刺した。

そして、着物抑える紐を巻きつける。

動かなくなった女を持ち上がると、首に紐を巻きつけて吊るした。

更に女の着物に血にそまった風鈴を結びつける。

そして、男はそのまま家を出て行った。

数日後。

崖から飛び降り死んでいる男が発見された。

見るも無残に潰れ、血に染まる肉の塊。

嫁である女に知らせようと家を訪れた集落の人間が、横たわる若い男と、首を吊る女の姿と血のりで赤黒く染まった風鈴を発見したのだった。

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それからと言うものの、夜な夜な集落や山中を徘徊する女の姿が見られた。

姿形や目のない様子から、その殺された女の幽霊だという噂は広がる。

そして、事態を重く見た村長が、知り合いの坊主を呼んで、この集落と男の家に結界を張ったのだった。

「かなり昔の話、それこそわしもまだ生まれとらん頃の話じゃ。それに、これはあれこれ脚色されとる。どこまでが正しくて、間違っているのかはもはや誰にもわからん」

全ての話を終えた老婆は、深いため息をついた。

少し、疲れた様子も見受けられる。

しかし、冷め切ったお茶を啜り、一息つくと更に言葉を続けた。

「今はそのことを知る者はごく一部のみ。幸い、男の家は見るも無残に廃れておったから、人が徘徊することもほとんどなかったのじゃ。しかし、主等がきっと結界を破り、あやつを解き放ったのだ。また封印せにゃ、大変なことになる」

老婆は少し不安な表情。

二人も自分達のせいである故に、顔色を悪くした。

「なんて顔しとる。心配せんでもいいわい。これもいい頃合いじゃ、あの家はもう潰す。それでもう一度坊さんを呼べばいい。あやつもそろそろ解放してやらんと可哀想だろ?」

二人を気遣い、優しく微笑む老婆。

その言葉と表情は、彼等には有難く安心させるものだった。

安堵のせいか、二人はほぼ同時に深いため息を吐く。

 

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「じゃがしかし、お前達には約束してもらわなきゃいかんことがある」

老婆は急に厳しい表情をした。

安堵で緩んでいた彼等の表情も、それに合わせて引き締まる。

「この話は口外せんこと。若い者は血気盛んじゃ。悪ふざけで来られても、わし達がこまる。被害が出てからじゃ遅いからの。それとこれからは、無闇やたらに空き家を自分達の家にしようなどと馬鹿げた考えを持たぬことじゃ。家とは住んでいた者の魂が宿る場所じゃ。そこに何があるかはわからん。今回のように、血塗られた過去をもつ空き家も多い。家を持ちたいなら必死に勉強して、金を稼げるようになってから自分で建てるんじゃ。邪な気持ちは邪な者を惹き付ける。それだけは約束せい」

老婆の叱咤。

それは言葉に重みがあり、説得力があった。

そして今回、確かに彼等二人には邪な気持ちがあったのも事実だった。

学生にも関わらず、見つけた家を安易に得て、自分達の物にしようという夢を描いた訳である。

楽をして、邪な気持ちで夢を得ようとしたのだ。

二人は老婆の話により、それを気付かされる。

「そうですよね。すみませんでした」

「ごめんなさい」

二人は真に反省し、謝罪を口にする。

「解ってくれたなら、もういい。気にするんじゃないぞ」

老婆の暖かな笑顔。

その笑顔に、二人は自然と笑顔になれた。

 

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コンコン――。

急に叩かれる扉。

俊と孝の二人は、その音に体をビクつかせた。

しかしその直後、扉は開かれる。

「ご免下さい」

聞きなれた声と共に家に入って来たのは、俊の父親だった。

「父さん!」

「俊の父ちゃん!」

父親の姿に、二人の表情は一気に明るくなった。

「お迎えがきたようじゃの」

老婆はそう言って、ゆっくりと立ち上がると、玄関の方へと体を向ける。

「いらっしゃい」

優しい笑顔で歩きながら、俊の父親を迎えた。

「本当にすいませんでした」

老婆と目が合った俊の父親は、すぐに深々と頭を下げた。

「気にせんどってください。僕ちゃん達、怪我してますから早く病院に。わしじゃ簡単な手当てしかできんからの」

しかし、老婆は右手を左右に振り、終始笑顔。

むしろ二人を心配している様子だった。

俊の父親は、二人の方へと視線を向けた。

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「そのようですね。すいません、何から何まで。すぐに病院へ連れて行きます」

「そうして下さい」

俊の父親には分厚く包帯で巻かれた二人の足が見え、思わず顔が引きつった。

大怪我をしていると思ったのだろう。

ただ、今はそれよりも老婆に迷惑をかけたことに対して詫びなければ。

すぐに老婆へと視線を向けると苦笑いを浮べて再度謝っていた。

その後は、俊の父親がそれぞれ手を貸し、二人を車へと運んだ。

もちろん、それを老婆は手助けする。

俊の父親は終始老婆へ謝り、何度も何度も礼を言った。

老婆はその度に恐縮し、優しい笑顔を皆へ向ける。

一切怒っているような素振りや面倒そうな素振りは見せなかった。

そして、すべてが終わり、老婆も見送りのために外へ出た。

車に乗り込んだ三人が、窓を開けて老婆の方を見る。

「本当にありがとうございました。お礼は後日、また改めてお伺いします」

俊の父親は感謝の気持ちで一杯なのだろう。

最後の最後まで、老婆へお礼を言い深々と頭を下げていた。

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「おばあさん、本当に色々とありがとうございました!」

「ありがとう、おばちゃん!」

彼等もまた、老婆へと感謝している。

俊の父親に続いて、それぞれが自分の言葉で礼を言っていた。

老婆はもはや何も言わず、笑顔でうんうんと頷くだけ。

当たり前のことをしただけで、特別なことをしているつもりはないのだろう。

挨拶もそこそこに、父親は窓を閉めようとしていた。

「ちょっと待って」

扉を閉めようとする父親を制し、窓から身を乗り出す俊。

「おばあさん、約束は絶対守りますから!」

動き出す車。

最後に俊は、身を乗り出して自分の気持ちを伝えた。

「俺も守るよ!ばあちゃん、ほんとありがと!」

孝も、同じようにして礼を言っていた。

老婆は、再び優しい笑顔でニッコリと微笑む。

そして、右手で小さく手を振っていた。

彼等もまた、大きく手を振って、それに応える。

老婆の姿が見えなくなるまで、それは続いた。

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老婆の姿が完全に見えなくなり、二人は車中に戻った。

背もたれに身を預け、大きくため息を一つ。

そして、お互いに顔を見合わせた。

「良かったな」

「ああ、本当に」

生き存えたことに対してなのか、単純に色々な経験をできたからなのか。

二人は良かったという言葉で今回の経験を締め括った。

きっと、全てに対して良かったというのが正直なところなのだろう。

「お前達、病院に行って帰ってきたら事情を聞くからな。覚悟しておけ」

二人の様子が落ち着いた所で、俊の父親が一言。

その表情は怒りに満ちていた。

「はい」

「わかり……ました」

二人の顔色が、見る見るうちに青くなっていく。

確実に怒られることを想定してのことだろう。

しかし、その表情はどこか安心したような、安堵の表情だった。

人の怒りも愛情の現われ。

それが温かくて、嬉しいのだろう。

そして俊の父親はそれ以降無言となり、運転に集中する。

二人も疲れていたせいか、それに合わせて静かになっていった。

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孝は静かになって、すぐに眠ってしまったようだ。

疲れたせいであろう、寝息を立てている。

俊はそれを確認すると、軽く微笑んでふと窓の外を見た。

車の窓越しに見える、緑色の山。

ふとその中腹には、自分達の屋敷。

いや、あの女と男の屋敷が見えた。

悲しき結末を辿った、女と男の魂が宿る家。

それを土足で踏み込み、我が物としようとした末路がこれだった。

申し訳ない気持ちと、やはり自分達の屋敷にしたかったという名残惜しさが俊の心の中で複雑に絡み合う。

だが、その名残惜しさも邪な気持ちの表れ。

彼は顔を左右に振りながら、邪な気持ちを振り払った。

少し寝よう。

そう思った俊は、ゆっくり目蓋を閉じた。

疲れもあってか、すぐに眠りに誘われ、意識を失っていく。

そしていつの間にか、眠りの世界に旅立っていた。

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チリンチリン――。

家屋の前で風鈴を手に持ち、軽く揺らす女。

走り去る車を覗き込みながら、口元をつり上げる。

「私の目玉……」

それだけを呟いていた。

しかし。

女を見つめる一つの視線。

恰幅のいい男の姿がそこにはあった。

着物や顔は地に染まり、表情は怒りと哀しみに満ちている。

手には血塗られて赤黒く染まった簪を握っていた。

「許さない……」

男の低く擦れた声が小さく響くと、風に紛れていった。

 

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第五章 男の悲しみと若人の誓い

恐怖の一夜から、数か月。

俊と孝の二人は、あの山へ再び訪れていた。

もうここには、焦がれるような暑さも日射もない。

日射は厚い雲に阻まれて弱々しく、凍えるほどの冷たい風が幾度となく吹き抜ける。

茂っていた草木の緑や地面の茶色も、降り積もった雪に隠されて姿を隠している。

ただ一面の銀……。

いや、灰色の世界。

とうに夏は終わり、短い秋もいつの間にか過ぎ去った。

長い冬が訪れていた。

「寒いな……」

「ああ、メッチャ寒い」

雪にまみれた登山道を登りながら、俊と孝の会話。

吐く息は白く、大きく膨らんでは周囲に紛れている。

二人の青白い顔色が、山の寒さを物語っていた。

「ばあちゃん、元気にしてるかな?」

軽く息を切らせながら、問いかける孝。

あの一夜以来、二人は老婆と会っていない。

孝は、老婆がこの寒さに体調を崩していないか心配だった。

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「大丈夫だと思うよ。今日も一緒に来てくれるみたいだし。この前話した時も、元気そうだった」

孝の心配に、俊は笑顔で答えた。

彼はここに来る前、老婆と電話でやり取りをしていたため、孝よりは近況について詳しかったからだ。

ありのままの事実を述べた上で、孝を安心させるための笑顔も見せていた。

「そうだよな。早く会いたいな」

「ああ。おばあさんの淹れる美味しいお茶で温まりたいよ」

「それ、同感」

優しい笑顔に、孝も胸を撫で下ろす。

自然と笑みが漏れ、老婆との記憶に思いを馳せた。

そう。

この山に二人が再び訪れたのは、老婆からの誘いがあったからだ。

少し前、俊に老婆から連絡があった。

とうとう、あの日本家屋を取り壊す手はずがついたらしい。

それで、あの日からそのままになっている荷物の引取りを兼ねて、ここに来るよう言われたのだった。

俊は二つ返事で了承し、すぐに孝にも連絡した。

もちろん、孝もそれを快く了承する。

そして今日、登山も兼ねてこの山へと来たのであった。

 

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とりあえずは老婆の家を目指して登山し、老婆と合流後に日本家屋へと向かう。

日本家屋を取り壊すのは、明朝から。

今日は老婆が呼び寄せた除霊師と共に、男と女の霊を供養するのだ。

ただ取り壊すのでは二人の霊も静まらないだろうと、老婆の取り計らいである。

「そろそろ、見えるぞ」

少し荒い息遣いで声を張り上げる俊。

滑らないように地面へと視線を向けて歩いていた孝も、その声に顔を上げる。

すると、少し離れた場所に、見覚えのある家屋。

屋根に雪の化粧を纏った姿で、二人の前に姿を現した。

「うー寒い!早く中に入らせて貰おうぜ」

玄関のすぐ前まで歩いてきた二人。

孝は分厚い手袋を拝むように擦らせながら、体を縮込ませる。

「馬鹿、いきなり入ったら失礼だろう?それとも、久しぶりに会うのに最初から説教を喰らうか?」

「い……いや。それは勘弁願いたい」

「だろ?ほら、そこに呼び鈴がある」

こうやって、焦って行動をする孝をなだめたり制したりするのはいつも俊の役目だ。

俊はそのいつも通りの行動をしながら、呼び鈴を押した。

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「ご免下さい!」

呼び鈴の音に合わせて、俊は声を張り上げて挨拶をした。

吹き抜ける風は孝だけを寒さに追いやっているわけではない。

俊も冷静を装いながらも、体はしっかりと震えていた。

体に力を入れて、寒さを無理矢理誤魔化している。

しかし、返事は中々聞こえて来なかった。

「ばあちゃん、留守か?」

「いや、そんなことはないはずだけど……」

「もしかして、日にちを間違えたとか?」

「そ、そんなわけ……、ちょっと待って」

予定の管理に俊は抜かりない。

しかし、老婆が出てこないせいか、孝の問いに彼は不安に苛まれた。

背中に背負ったリュックを地面に降ろし、中身を探る。

「えっと、手帳……」

小さくボソボソと呟きながら、慌てて手を動かしていた。

しかし。

「待たせたね」

戸が開いたと同時に、表れる老婆。

優しそうな笑顔が、二人を迎えた。

 

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「あ……」

間の抜けた声を上げる孝と驚いて老婆を見上げる俊。

「ど、どうもご無沙汰しています」

俊は立ち上がって、満面の笑みで挨拶をしていた。

「ばあちゃん、久しぶり……」

続いて、孝も挨拶をしたのだが、どうも言葉がぎこちない。

そのぎこちなさは、俊を疑ったことへのばつの悪さだったのだろう。

「挨拶は取りあえず置いといて、早く中に入りなさい。山の冬は下の町に比べて、うんと寒かろう。さっ、遠慮はせんでええ」

微妙な空気を、老婆が知る由もない。

二人を気遣って、早く中へ入るように招く。

「じゃあお言葉に甘えて、失礼します」

「お邪魔しまーす」

孝は逃げるように家の中に入っていき、俊はリュックを重たそうに抱えながら入っていく。

「ああ、暖かい」

「お前、今度焼きそばパン一個だからな?」

先ほどの会話がなかったかのように振舞う孝を、俊は簡単に逃がはしなかった。

「……だよね」

背負ったリュックを降ろしながら俊へと視線を向ける孝は、ため息混じりに呟いた。

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「さあ、適当にくつろいでくれ。すぐに茶を淹れるから。出掛けるのは午後でええし、まずは冷えた体を温めんとな」

老婆は二人を今に招いて座らせると、自身は台所へと向かった。

慣れた動きで湯飲みを用意している。

その様子を二人は上着を脱ぎながら、光景を懐かしむように眺めていた。

「もう少し待ってな」

湯飲みと急須を運んできた老婆は、ストーブの上に置いてあったやかんを掴み、湯を急須へと注ぐ。

辺りには茶葉の芳醇な香りが立ち込め、二人の鼻をくすぐった。

それに合わせて、二人の期待は高まる。

孝は待ちきれないようで、身を乗り出すようにして老婆の様子を眺めていた。

「ほれ、待たせたな」

待ちきれない様子の孝に、老婆は湯飲みを真っ先に渡した。

「おお、あったけぇ……」

受け取った湯飲みの温もりに、孝は軽く身震い。

その様子に、老婆は笑顔になった。

続いて、俊にも湯飲みを手渡す。

「ありがとうございます」

俊は湯飲みを大事そうに受け取ると、しみじみと温もりを味わうかの様に両手で優しく掴んでいた。

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「うめぇ。やっぱ、ばあちゃんのお茶は最高」

熱いお茶を啜りながら、孝は声を張り上げる。

余程、老婆の淹れるお茶を気に入っているのだろう。

「温まる……」

冷えた体にも、もちろん優しい。

孝は何度も続けてお茶を飲み、やはり俊は温もりを噛み締めていた。

「そりゃ、良かった。お変わりはいくらでもあるから、たくさん飲んで温まりなさい」

二人の様子を眺めながら、嬉しそうに老婆は呟く。

その視線は、とても優しかった。

二人はしばらくの間、老婆の淹れるお茶を堪能し、冷え切った心身を温めた。

もちろん、無言で過ごしたわけではない。

近況を交えた世間話をしたり、他愛のない話をしたり。

どの話も、老婆は優しそうな笑みを浮べて、頷いていた。

老婆の笑みはとても嬉しそうで、何よりも楽しそうだった。

山里には、こうやって話をする人間も少ないのだろう。

俊はふとそんなことを思い、孝も何となくだがそれを感じ取った。

孝はいつも通りではあるが、俊はいつもより口を動かす。

それは、彼等なりの優しさであり、彼等にできる精一杯のお礼だったのかもしれない。 

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ひと時の団欒を三人は過ごし、それから昼食をとった。

老婆お手製の、豚汁である。

この山で採れる山菜や、根菜類がふんだんに使われていて、若い二人の腹も充分に満たす量だった。

孝は相変わらずガツガツと平らげ、何度もおかわりをしていた。

俊は淡々と口に運び、時折満足そうな笑みを浮べる。

老婆も少量ではあるが豚汁を口に運び、何より楽しそうに食事をしていた。

「そろそろ、準備しようかの。もうじき、先生が来られる」

食事を終え、少し休憩を取った三人。

頃合いを見て、老婆が呟いた。

「わかりました」

俊の返事と共に、二人はゆっくりと立ち上がった。

老婆も、少し遅れて立ち上がる。

俊と孝は、先ほど脱いだ上着をもう一度羽織り、老婆は壁にかけてあった上着を羽織った。

「ご免下さい」

三人が準備をほぼ終えたところで、玄関の方から挨拶が聞こえてきた。

老婆が先生と言っていた、除霊師の人だろうか。

俊と孝の視線が声の方へと向かう。

 

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「ご苦労様です、先生」

老婆は玄関の方へ向かうと、訪れた人へ挨拶をした。

やはり、先生と呼んでいる。

除霊師なのだろう。

俊と孝はそんなことを考えながら、玄関の方へと向かった。

玄関には、白い装束を来た男女がいた。

一人だと思っていた二人は軽く驚くも、ゆっくりと頭を下げる。

「こんにちは」

「こんちは」

続けて挨拶をしていた。

「こんにちは。君達が、俊君と孝君だね」

「そうです」

「はい」

「おばあさんから、話は聞いているよ。今日はよろしくね」

男の声は力強さがあって、優しさに溢れている。

爽やかな雰囲気と相まって、二人にはとても格好良く見えた。

「よろしくお願いします!」

二人は声を重ねながら、元気良く挨拶を返していた。

 

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「お茶でも飲んで行きますか?外は寒かったでしょうに」

「いえ、車で伺いしましたので、大丈夫です。準備はできていますので、すぐに向かいましょう」

気を遣う老婆に、男は優しい笑みを覗かせながらやんわりと断る。

嫌味はなく、気遣いに有難さを感じた上での断りだった。

老婆は笑顔でわかりましたと答える。

「それでは、車でお待ちしていますので、準備ができましたら来てください。車までは、助手が案内します。」

男が話し終えると、助手と言われた女が一歩前に出て、軽く頭を下げる。

「準備は、急ぐ必要はありませんので。よろしくお願いします」

女の声もゆっくりとしたもので落ち着いていて、嫌味は全く感じられなかった。

男は家を出ると、女だけが玄関に残り、三人は再び今へと戻って準備を続けた。

しかし、既にほとんどの準備は終えていた。

すぐに整い、三人は玄関へと向かう。

「お待たせしました。向かいましょう」

老婆が女へと、声をかけた。

助手を含め四人は、玄関から外に出る。

温かい家の中とは違い、外は極寒。

先ほどよりも風が強くなっていて、軽く吹雪いていた。

 

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「サブイ……」

「寒いな……」

せっかく温まった体は、瞬く間に冷えていく。

それを少しでも遅らそうと、二人は体を縮込ませた。

しかし、除霊師の助手はそんなことを気にもせずに歩き始める。

老婆もこれといって寒い様子もなく、後ろをゆっくりとついていった。

二人は遅れまいと歩き始め、必死に前の二人についていく。

視界は吹雪に隠され、ほとんど見えなくなっていた。

歩いて十分ほどのところに、一台の車が止まっていた。

業務用の車両で、四人が乗るには充分な広さがある。

除霊師の所有する車なのだろう。

助手の女は、慣れた手つきで後部座席の扉を開く。

「こちらにどうぞ」

そう言って、三人へ笑顔を向けていた。

まず始めに、俊と孝の二人が一番後ろの座席に座り、老婆は中央の座席。

助手は扉を閉めると、助手席の扉を開いて座っていた。

「暖かい」

暖房の効いた社内は、驚くほど暖かい。

孝は思わず、声を漏らしていた。

 

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「それでは、向かいますね」

除霊師の男は後部座席を軽く見渡すと、前を向いて呟いた。

そして、車はゆっくりとした速度で動き始める。

タイヤにチェーンを履いているのか、社内にゴツゴツと鈍い音が響き、合わせて振動していた。

車窓から見える景色は、ほぼ吹雪いている様子だけ。

一面の灰色である。

前に進んでいるのか、止まっているのかさえわからない。

唯一進んでいることを実感できるのは、鈍い音と振動が絶えず続いているからだった。

もちろん、車内にはこれといった会話はない。

沈黙を保っている。

俊と孝も、吹雪いている様子を車窓からじっと眺めているだけ。

孝は、酷くつまらなそうな顔をしていた。

しかし、俊に限ってはそうではなかった。

緊張しているといった雰囲気だった。

間もなく、あの女と再会するかもしれない。

そう思うと、緊張が押し迫ってくるのだろう。

俊は、孝と違い女と少しではあるがやり取りをしている。

恐怖を植えつけられているのだ。

無理もないのかもしれない。 

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車はゆっくりと前に進み、三十分ほどで目的の日本家屋に到着した。

途中、他の車とすれ違うことはなかった。

冬の山に、わざわざ踏み入る者はいない。

スキーなどのリゾート施設があるのであればその限りではないだろうが、この山には何もない。

わざわざ危険を冒してまで、ここに来る必要はないのだ。

当然といえば当然なのかも知れない。

車を止めた除霊師は、後ろを振り返った。

「これから、準備に取り掛かります。外は寒いので、車内でお待ち下さい」

皆を安心させるためなのかは解らないが、声は驚くほど優しく丁寧なものだった。

「はい」

俊が返事をすると、孝と老婆は合わせて無言で頷く。

除霊師の男はそれを確認すると、体の向きを入れ替えて車の外へと出て行った。

助手の女も、それについて車の外へ出て行く。

二人は車の後ろへと回っていた。

後ろの扉を開く除霊師。

寒風が車内に舞い込み、一瞬にして暖かい空気が奪われる。

たちまち、皆の吐く息が白く濁った。

 

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しばらくがさごそと雑音が聴こえ、それが止むとすぐに扉が閉められた。

吹き付ける寒風はなくなり、車内は静寂に包まれる。

しかし、一度下がった温度は、すぐに上がることはなかった。

ゆっくり、じんわりと暖房の風によって暖められていく。

俊は、窓の外へ視線を向けた。

見えるのは、懐かしき日本家屋。

雪化粧を纏っているが、それ以外はなんら変わりない。

厳かな雰囲気を保ちつつ、そこに存在した。

この屋敷の威厳が保たれるのも、取り壊しが始まるまで。

始まってしまえば、瞬く間に威厳は消えゆくだろう。

屋敷はただの残骸となり、ゴミと化す。

同じものであっても、形が変わるだけで大きく意味合いは変わる。

そう思うと、俊は何だかいたたまれない気持ちになった。

しかし、その感情に邪な気持ちは含まれていない。

最初こそ、自分達の屋敷にしようと企んでいたわけではあるが、今はそんな気持ちなど皆無だった。

老婆の話を聞いたからというのもある。

女と男の想いが詰まった屋敷。

それがなくなるというのが悲しく思えたのだった。

 

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「おばあちゃん……」

不意に、俊が老婆へ声をかけた。

「ん?どうした?」

老婆は俊の落ち込んだ声に、すぐに体を振り向かせて返事をする。

「女の人と男の人の霊、鎮まってくれますかね?」

俊は、老婆の顔をじっと見つめながら、問いかけた。

「うーん、そうじゃの……」

俊の問いに、老婆は難しい表情。

老婆にも、それはわからなかったからだ。

しかし。

「悪い方向に考えれば、物事は上手くいかん。何事も良い方向に考えれば、上手くいくこともある。それじゃ駄目かの?」

老婆は直接的ではなく、自分の経験からの答えを俊へと返した。

長い人生を歩んできた、老婆ならではの回答。

それはしっかりと重みがあり、説得力がある。

もし孝が同じことを言ったとしても、全く説得力のない言葉である。

「そうですよね。そう思うことにします」

俊は俊なりに納得したのか、少しだけ笑みを見せて答えた。

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「準備が整いましたので、こちらへどうぞ」

急に開いた後部座席の扉。

そこから助手の女が顔を出し、三人へ声をかける。

少しだけ和んでいた空気が、緊張したものへと一変した。

三人は各々頷くと、老婆を先頭に車を降りる。

やはり外は凍えるように寒く、心なしか弱くなった吹雪がせめてもの救いだった。

助手の先導により、車を回り込むように移動する三人。

目の前には、あの日本家屋。

俊は息を飲み込みながら、それを見上げる。

重厚な作りはいかにも厳かで、力強くさえ感じる。

自分の描いた夢がいかに愚かだったことか。

改めて気付かされたのだった。

「この中へ入って下さい」

先導していた助手は立ち止まると、自分の隣の位置を指差した。

地面には赤い線で何かが描かれている。

そして隅には小さな皿に盛られた白い何か。

線は結界のようなもので、白い何かは盛り塩ではないか。

三人にも、それは安易に想像できた。

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「これは結界です。安全のため、絶対にここから出ないで下さい」

今まで優しい口調だった、助手の声が俄かに厳しいものへと変わる。

それくらい、重要なことなのだろう。

「ここから出た場合は、安全の保障はありません。それだけは肝に銘じて下さい。何が起こったとしてもです」

更に強い口調で、助手は付け加えた。

三人は、声には出さなかったが、深く頷いてそれに答える。

『何が起こっても』という言葉は色々な意味合いが含まれている。

俊と孝は、更に緊張した面持ちへと変わった。

「それでは、始めさせて頂きます」

助手は軽く頭を下げると、踵を返してその場から離れた。

そして、少し離れたところにいた除霊師の下へと向かう。

更に雪は弱くなり、視界が段々と晴れてきた。

風も一挙に弱くなり、辺りは静寂に包まれた。

助手は到着するや否や、除霊師に声をかける。

何を話しているか、三人にはわからなかったが、音としては充分に聞き取れた。

二、三度の会話を交わした二人は、正面の日本家屋へと向きを変える。

しばらくじっと見つめてから、突然何かを語りだした。

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呪文なのだろうか。

それとも、お経のようなものだろうか。

除霊師は独特のテンポで声を発し、言葉を紡いでいく。

淡々と、ひたすら淡々と。

三人は、その様子をじっと眺めた。

その時である。

チリン――。

高らかな音色が、辺りに響いた。

俊と孝は、聞き覚えのあるその音色に、背筋が凍る。

特に俊の反応は強くて、体を大きくビクつかせていた。

チリン――。

チリンチリン――。

音色は幾度となく辺りに響き、段々と音色を大きくする。

それは、段々と近づいているということ。

俊と孝にとっては、恐怖そのものが近づいているのと同じだった。

孝の顔色は青ざめ、血の気が一気に引いていく。

俊は、顔面蒼白で体を震わせていた。

歯を食い縛っているのか、小刻みにぶつかる音が小さく響く。

老婆は目を細めていたが、それ以外に反応はなかった。

 

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チリン――。

今までで一番、大きい音色。

それを最後に、音は止んだ。

しかし、代わりに日本家屋の玄関が開く大きな音が辺りに響いた。

そこには、白い着物を着た女が一人。

長い黒髪の、あの女だった。

(あいつだ。あの時のあいつだ……)

心の中で呟く孝。

全身に力が入り、拳を握る。

体の全てが、女への警戒を発していた。

(ヤバイ、怖い……)

俊も同じく心の中で呟く。

しかし、孝とは違い、その心は恐怖によって満たされていた。

恐ろしい記憶が、脳内に鮮明に映し出される。

冷たい指先。

目のない顔。

血に染まる着物……。

逃げたい。

怖い。

その感情が勝手に体を動かし、彼はゆっくりと後ずさりを始めていた。

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「出てはならん!」

俊を一喝する老婆。

彼の腕を掴み、力任せに引き留める。

俊はハッとした表情で、立ち止まった。

「大丈夫じゃ、みんなここにおる。怖れに負けてはならん。主は、何のためにここに来たんじゃ」

老婆の力強い声。

真剣な眼差し。

その言葉に、俊は目を見開いた。

(そうだ。ここに来たのは、自分にけじめをつけるため。逃げちゃダメなんだ。負けちゃダメなんだ!)

「……すいません、もう大丈夫です」

ようやく我に返った俊。

もう恐怖に埋め尽くされ、支配されている表情ではなかった。

「それでええ」

再び前を向きなおす老婆。

俊の目には、老婆の背中がすごく心強く感じられた。

(ありがとう、おばあちゃん)

目を覚ましてくれた老婆に感謝。

彼は心の中で、老婆に礼を言った。

 

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俊が再びこの地に訪れたのには理由があった。

自らが抱き、始まった夢。

それを完全に終わらせ、最後を見守る。

そうすることで、邪な夢と完全に決別するつもりだったのだ。

抱いた夢は、楽をして自らの城を得ようという邪なもの。

それにより、女と男を解き放ってしまったのだ。

老婆を含めた集落の人達や、除霊師へ迷惑をかけている。

責任を感じずにはいられなかったというのが本音だ。

それにも関わらず、女に怯えて逃げ出すのは本末転倒。

何の解決にも繋がらない。

それでは意味がなかったのだ。

実は最初、老婆は俊と孝をここへ呼び寄せる意思はなかった。

俊へ電話をかけた時も、手はずがついたことを伝え、荷物を送るための宛先を聞いただけ。

老婆としても、恐怖の記憶しか残っていないこの地へ呼び寄せるのは抵抗があったのだ。

しかし、ここへ来ることを志願したのは俊だった。

止めた方が良いと言う老婆を、理由を説明した上で説得し、渋々ながら了承を得た。

だからこそ、俊は逃げ出すわけにはいかなかった。

 

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恐怖によって危うく、本来の目的を忘れるところだった俊。

我に返ったことにより思い出し、安堵のため息を吐く。

自分の気持ちを汲んでくれた老婆には、感謝してもしきれない。

彼にとって老婆の存在は、本当に有難かった。

ひと時の間恐怖を忘れ、俊は暖かい気持ちになった。

しかし。

ザクッ――。

ザクッ――。

風鈴の音色とは違う、鈍い音。

それが急に背後から聞こえてきた。

音に驚いた俊は後ろを振り向き、孝もそれに気付いて振り向く。

そこには、青白い顔色をした恰幅の良い男の姿があった。

足を引きずるように、すり足で近づいている男。

その度に雪を掻き分けるような音が聞こえ、それが辺りに響く。

何とも不気味な音。

近づいてくるにつれ、その容姿がハッキリとわかり始めた。

俊と孝の表情が、恐怖に歪む。

 

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「ヒィッ……」

思わず、声にならない声を上げる孝。

俊は、青ざめて口を噤んでいる。

しかし、体は震えて明らかに恐怖に包まれていた。

遅れて振り向いた老婆の目が見開く。

男の顔は、見るも無残に潰れていた。

青白い肌と、流れる血。

潰れた部分の肉は剥き出しになっていて、赤黒くなっていた。

最早、顔の原型は留めていない。

口元が裂けて、歯の一部が剥き出しになっている状態も、余計に皆の恐怖を煽った。

ゆっくり、ゆっくり近づいてくる男。

左肩から下はもげてしまったのかついてはおらず、右手には簪を握っている。

先端は尖り、赤黒く変色している。

老婆の話では、それで若い男と女を刺し殺したはずだ。

簪に気付いた孝の視線は、釘付けになっている。

最早声にはならず、口を開けては閉じを繰り返し、パクパクと動かすだけだった。

俊は、目を見開いたまま完全に固まってしまっている。

完全に硬直していた。

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ザクッ――。

とうとう三人の前までやってきた男。

立ち止まり、様子を伺っているのか動かなくなった。

再び静寂が、辺りを包み込む。

しかし、それは長くは続かなかった。

男は急に右腕を振り上げ、簪を振り下ろす。

「うわああああ」

ほぼ同時に叫ぶ俊と孝。

両手を顔の前に持ってきて、咄嗟に顔を守った。

老婆も体に力を込め、目蓋を閉じた。

振り下ろされた簪の先端が、三人を目がけ突き進む。

ガンッ――。

しかし、簪の先端は三人へと届くことがなかった。

途中で見えない何かにぶつかり、激しい衝突音と共に動きを止める。

ガンッ、ガンッ――。

男はもう何度か簪を振り下ろしたが、同じことの繰り返し。

何かに阻まれ、三人の肉体へと届くことはなかった。

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しばらくすると、衝突音が途絶えた。

俊と孝はゆっくりと目蓋を開き、辺りの様子を伺う。

目の前にいたはずの男の姿がない。

二人はキョロキョロと視線を動かして姿を追う。

すると、二人の視線は少し離れたところにいた男の方で止まった。

足を引きずりながら、歩く男。

その方向の先には、除霊師とその助手。

二人の姿があった。

俊と孝は暴力を避けられたことには安堵するが、同時に二人のことが心配になる。

しかし、ここからは出ることは固く禁じられており、どうすることもできない。

ただじっと、様子を眺めることしかできなかった。

そしてとうとう、男は除霊師と助手の目の前まで到着した。

少しの間立ち尽くし、しかし簪を握った手を振り上げた。

俊と孝は息を飲む。

きっとここにも結界を張っていてくれたから、自分達の場所にも施しているはず。

でももしかしたら。

色々な考えが浮かんでは消えていく。

不安は膨れるばかりだった。

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ガンッ――。

激しい衝突音。

でも、自分達の時と同じ音。

男の振り下ろされた簪は、二人には届いていない。

目に見えない何かにぶつかり、肉体へと届くことはなかった。

俊と孝の表情にも、安堵の色が滲む。

除霊師と助手は、最初横に並んで家屋の方を向いていたが、急に背中合わせに並び直し、除霊師は男の方、助手は女の方へと体を向けた。

俊と孝から見て、助手は相変わらず背を向けている状態なため、表情は確認できなかったが、除霊師の表情は良く見えた。

目蓋は半開きの状態で、表情はいたって冷静。

口は開いたり閉じたりと、相変わらず何かを呟いている。

動じる気配はない。

俊と孝には、それが心強く感じられた。

「大丈夫かな?」

「どうだろう……」

「大丈夫じゃ」

次第に動かなくなった男と女の様子に、俊と孝が不安を零す。

しかし、老婆はすぐに二人へ声をかけ、力強く言い切った。

老婆の存在もまた、二人にとっては心強かっただろう。

 

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「なんとまあ……哀れな姿だ。さぞ痛かっただろう」

呪文を唱え終わったのだろうか。

急に除霊師が、男へ声をかけた。

「あなたも、痛かったでしょうね」

続けて、助手が女へと声をかける。

家屋の玄関に立っていた女は、その声に反応してゆっくりと歩き始めた。

「もう苦しむことはない。私達が責任を持って、そなた達を解放しよう」

「ええ。痛みも苦しみも、憎しみも悲しみも、その全てから解放します」

除霊師と助手の声は、何故か良く聞こえてくる。

俊と孝、老婆のいる場所からは少し離れていた。

いくら無音といっても、ここまでハッキリと聞こえてくるはずはない。

しかし、その声はハッキリと聞こえ、三人にもしっかりと聞き取れた。

そしてその言葉が、心に響く。

心がじんわりと暖かくなるような、不思議な感覚だった。

「その惨めな姿では辛かろう。そなたらの本当の姿を見せなさい。私に委ねなさい。委ね任せるのです」

除霊師は優しく呟くと、懐から何かを取り出した。

それを右手に持ち、天高く掲げる。

そして、それを小さく一度、振ってみせた。

 

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シャン――。

シャンシャン――。

急に辺りに響いた音色。

風鈴の音色ではない。

鈴のような、金属音。

一度鳴ると、その後も何度か鳴り響く。

そして、除霊師と助手は、再び何かの呪文を唱え始めた。

シャン――。

シャンシャン――。

呪文と共に、何度も響く鈴の音色。

嫌な感じは全くなく、心に沁みていくような、優しい感覚。

俊と孝もそれを心地良いと思い、抱いていた不安もかき消されていく。

そんな気さえしていた。

しばらくその光景が続くと、急に男と女の姿が霞み始めた。

二人はうずくまり、動かなくなる。

霞む様子が、徐々に加速していった。

男のなかったはずの左腕が、いつしかしっかりとくっついている。

血にまみれていた背中も、綺麗になっている。

血に染まる女の着物も、気がつけば白く綺麗になっていた。

 

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「さあ、姿は元通りになった。後は想いを遂げなさい。醜きわだかまりは捨て去り、心の底に眠る想いを伝えるのです」

除霊師は呪文を唱えるのを止めて、再び男に語りかける。

「逃げてはなりません。心の闇を吐き出すのです」

今度は助手が、女へと語りかける。

そして二人は結界から出ると、数歩ほ横にズレテ結界から出る。

二人が離れたことで、男と女が正面に向き合った。

やがてうずくまっていた二人は立ち上がり、お互いに視線を重ねあった。

「お前……」

「あんた……」

見つめ合う男女。

その表情は嬉しくもあり、悲しくもある

様々な感情が混じっては複雑だった。

しかし。

「お前!」

男の声色が突如として変わった。

怒りに満ちた、酷く荒れた声だ。

前かがみになった途端に、女へと駆け寄る。

「待ちなさい!」

除霊師の声に、緊張の色が滲んだ。 

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男は女の下に駆け寄ると、そのまま押し倒して馬乗りになる。

「裏切り者め!」

怒鳴り声を上げながら、右手に持つ簪を振りかざす。

「いやっ……、やめ……」

必死に抵抗する女。

その声は恐怖に震え、必死さが入り混じる。

しかし、男の力には敵うことなく、なすがままの状態だった。

「同じことを繰り返すつもりか!」

ようやく男の下へ駆けつけた除霊師。

男の腕を掴み、簪が振り下ろされるのを阻止した。

しかし、男は止まることなく躍起になる。

「放せ!放せ!」

雄たけびのような怒号を轟かせながら、なおも振り下ろそうとしていた。

「ふ、札を」

更に合流した助手に、除霊師は御札を求めた。

助手は男の腕にしがみつきながらも求められたものを取り出し、それを男の腕へとつけようとする。

しかし。

男はそれを左腕ではじき返し、御札は宙を舞った。

 

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ひらひらと宙を漂い、やがて地面に落ちた御札。

その様子を俊と孝、そして老婆が見つめる。

「ど、どうするよ?」

孝は、真っ先に俊へと問いかけた。

「ど、どうするって……」

孝の問いに、俊は困った顔をした。

自分や孝が御札を取りにいった方が良い。

そう思ったからだ。

しかし助手からは、どんなことがあってもここを出てはならないと言われている。

この今の状況下が、どんなことに含まれているのか含まれていないのか、見極めるのは至難だった。

(どうする?どうすればいい?)

俊は自問自答する。

しかし、中々答えなど出てくるわけもなく。

相変わらず男の怒号が辺りに響くのも、俊を焦らせた。

「行ってはならん。わしが行く」

俊や孝の様子を見ていた老婆が、突然呟いた。

二人の視線が一斉に老婆へと向く。

 

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「わしは生い先、そう長くはない。主等には未来がある。ここはわしが行かんとな」

ニッコリと、優しく微笑む老婆。

そして、ゆっくりと歩き始めて結界から出ようとする。

二人の未来を考えた、老婆なりの決断だった。

しかし。

「やっぱり、僕が行きます」

俊は声を張り上げ、颯爽と走った。

「お、俺も」

孝もそれに続いて、走り始める。

あっという間に老婆を追い抜き、二人は除霊師や男達のいる方へと向かった。

「これ、待たんか!」

走り進む二人を、老婆は止めようとした。

「僕達なら大丈夫です」

「その方が早いし」

しかし二人はそれで止まることはなく、老婆を安心させるために元気の良い声を出す。

そして、お互いの顔を見合わせ、軽く頷くと前を向いて走る速度を加速させた。

 

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(ただ見てるだけじゃ、見守ってるだけじゃダメだ。自分にできることを、精一杯やらないと)

俊は、ただ見守っていることが悔しかった。

自分の撒いた種にも関わらず、頼っては見守るだけ。

そんな自分が許せなかったのだ。

やっと、自分が役に立てるかもしれないチャンス。

迷いはあったが、その決断に至った。

(俊が頑張ってるんだ。俺だって負けてられねぇ)

孝は、親友の勇気に感化されていた。

いや、親友でありライバルでもある俊の勇気に、自分も負けてられないと躍起になったのだ。

孝は、俊のように負い目を感じているわけではないが、話さなくても俊が負い目を感じていることぐらいは理解していた。

負けたくない気持ちと、親友の手助けをしたい気持ちが彼を突き動かしていた。

「俊、俺は抑えに回る。お前は御札を!」

「わかった!」

短いやり取りをした二人。

「うおおおおっ!」

孝は雄たけびをあげながらそのまま男へと突っ込み。

振りかざす右腕に抱きついた。

 

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俊は男達の手前で立ち止まり、御札を拾う。

そしてすぐに男の方へと向かった。

男の表情は憎悪と悲しみに染まっている。

見るだけでも恐怖を植えつけられるような感覚だった。

前に進もうと思う気持ちが、削がれていく。

しかし。

男にしがみつく除霊師、助手は必死な表情をしていた。

再び死の恐怖に震えている女もまた、必死な表情を浮べていた。

孝も懸命に、勇敢に男の腕にしがみついている。

その必死さが、俊に勇気を与えた。

(大丈夫。俺もやれる。やらなきゃダメなんだ!)

「これで!」

恐怖を声で制し、勇気を振絞る。

もう、表情に恐怖はない。

ただ必死に、果敢に。

真剣な表情をしている。

そして、握った御札を振り上げ、男の手へと叩きつけた。

 

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御札が貼り付けられると、急に男の動きが止まった。

男は何とか動こうと必死な表情を見せるが、やはり体はピクりとも動かない

「動け!動けよ!」

声を出してみるが、結果は同じ。

虚しく響くだけだった。

「もう、大丈夫」

男の様子に、しがみつく手を離す除霊師。

続いて、助手も手を離した。

しかし、孝はしがみついたまま。

彼は目をつぶったまま、なおも必死に腕を押さえつけていた。

「孝、もう大丈夫だって」

俊は孝の肩を軽く叩きながら、声をかける。

それでようやく孝は閉じた目蓋を開き、俊の方へと視線を向けた。

「と、止まった?」

「ああ、止まったよ」

俊は優しく微笑みながら、孝の問いに答えた。

孝はそれでようやく事態を把握し、男から離れる。

「ああ、良かった」

余程疲れたのか、その場にへたり込んでいた。

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再び、辺りには静けさが戻る。

男は観念したのか、声を出さなくなったからだ。

ただ聞こえてくるのは、皆の激しい息遣い。

それぞれの口元から、白い息が幾度となく膨らんでは消えていく。

「ごめん……なさい」

しかし突然、女が声を出したことで、静けさは終わりを告げた。

皆の視線が一斉に、女の方へと向く。

女は両手で顔を覆っている状態だった。

「私が、私が悪いの……。ごめんなさい」

もう一度呟く女。

それは謝罪の言葉で、悲しみを強く含んでいた。

「寂しかった……。あんたの隣にいたかった。でも、あんたの邪魔にはなりたくなくて。苦しくて、もどかしくて……。耐えられなかった」

語り出す女の声は酷く弱々しい。

辛そうで、切なさに満ちている。

嘘偽りのない、本心の言葉であることは安易にわかるほどだった。

女は顔を覆う両手を外し、男からゆっくりと抜け出す。

その頬には、大粒の涙が幾度となく伝っていた。

 

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「最初は、一度だけのつもりだった。一時の快楽に身を委ねれば、寂しさや苦しさを紛らわせられると思った。でも、終われば罪悪感ばかりが膨らんで、余計に寂しくなって、苦しくなって……。それを誤魔化そうとまた手を染めてしまった。そこからは、ずっと繰り返し。止めたいと思っても止められなかった。助けて欲しいと願っても、助けてくれる人はいなかった……」

止めようにも止められない、禁断の果実に手を出してしまったこと。

女はそれを、酷く後悔していた。

そして助けを求めていたのだった。

話を聞いた俊も孝も、沈痛な面持ち。

二人には完全に理解できる話ではない。

そういう経験は、まだ早いからだ。

しかし、女の苦しみが声を通して、表情を通して、嫌と言うほど伝わってきた。

女は悪くないのではないかと錯覚するほどだった。

「だからって、裏切って良いのか……」

無言を貫いていた男の呟きが、突如として零れた。

怒りと悲しみが混じった、擦れた声。

皆の視線が男へと戻った。

血走った瞳は、微かに揺れている。

その弱々しくも禍々しい視線を、女の方へと向けていた。

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「俺はただお前のために、お前に幸せになって貰うために、一生懸命だった。俺を献身的に支えてくれるお前に、笑って欲しかったから。ひもじい思いもして欲しくなかった。だから、がむしゃらに働いたんだ……。確かに、寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれない。辛い思いをさせてしまっていたのかもしれない。でも……あんまりじゃないか。俺はお前のために、お前のために……」

瞳から大粒の涙が溢れ、ゆっくりと頬を伝う。

直向きに、ひたすら直向きに。

男は、女を愛していた。

ただ、あまりにも不器用だった。

行為でしか伝えることができなかった、男の想い。

しかし、それは裏切りによって無に帰した。

その悲しみは深く、底のない沼に落ちていくような感覚。

俊と孝でさえ、息苦しさを感じるほどだった。

男の言葉を最後に、再び辺りは静寂に包まれる。

ただ、女と男の啜り泣く声が聞こえてくるだけ。

いたたまれない雰囲気だけが膨れあがる。

女の強い後悔と、男の深い悲しみ。

誰が悪くて、誰が正しいのか。

答えの出ない押し問答だった。

 

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「もう……、止めませんか?」

突然、呟いた俊。

皆の視線が一斉に彼へと向けられる。

女と男の視線さえ、向けられていた。

「誰が悪いとか、どっちが悪いとか。きっと答えは出ないと思うんです。答えを突き詰めれば、結局憎さだけが残る。また同じことの繰り返しになると思います。だって、どちらにも非はあるし、どちらも心に傷を負っているじゃないですか。分かり合うこともしないのに、悪意だけを比べるのは間違っていますから。それよりも、もっと大事なことに目を向けるべきだと思います」

「大事な…こと?」

俊の言葉に対して、問いかける女。

彼はゆっくりと、深く頷いた。

「それは、お互いの想いです。なんで、お姉さんは寂しかったんですか。傍に居て欲しいと思ったんですか。それはお兄さんへの想いがあったからですよね。その想いは、愛情だったんじゃないですか?」

俊のいつになく真剣な表情。

そこにはもう、恐怖はない。

二人のためにと必死に自らの想いを伝える。

「そうだと、思う……」

女は、視線を外して頷く。

少し、声色が戸惑っていた。

 

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次に、男へと顔を向ける俊。

それに合わせて孝も男の方を向いた。

「お兄……」

「兄ちゃんだってそうだろ?」

俊の言葉を半ば強引に奪い取るように、割って入った孝。

二人は顔を見合わせ、頷き合う。

孝もまた、いつになく真剣な表情だった。

「その手に持ってる簪は誰のために作ったんだ。あの綺麗な音がする風鈴も。まさか、姉ちゃんを殺すためじゃないよな?」

「あ、当たり前だ。あれは、長い髪を結っている」

「姉ちゃんのためだろ?」

「あ、ああ。風鈴は、少しでも自分を感じて欲しくて」

「そうだろ。それって、嫌いな相手にすることかな?」

「いや、それは……」

「それは?」

「慕っているからこそ……だ」

「そうだよな」

尋問さながらの質問攻めをする孝。

男の返事に満足そうに頷いていた。

 

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「ほら、もう答えは出てんじゃん。お互いにどうなのよ?」

「お互いに、想い合っていますよね。愛情を抱いてますよね。それって、お互いに伝え合っていますか」

俊と孝の、息の合った問いかけ。

女と男は互いに首を振って答えた。

「それが原因なんだと思います」

そんな二人に、俊は少し強い感情をぶつける。

怒っているわけでも、苛ついているわけでもない。

ただ必死な気持ちが、彼の語気を強くした。

「心と心で通じ合うって、すごく難しいことなんです。誰もがそれだけで通じ合えるなら、間違いやすれ違いは起こらない。言葉って、すごく大事だから。心と心で通じ合うには、それだけの努力が必要です。数え切れないほどの言葉を交わして、会話を重ねて、お互いを分かり合って。そこで初めて、心と心は通じ合うんだと僕は思います。お二人はそれだけの言葉を交わしてきましたか。重ねてきましたか?」

「ううん……」

「……交わしていない」

「だからお姉さんは寂しい思いをしたんです。お兄さんは悲しい思いをしたんです。それって、悲しいじゃないですか。想い合っているのに、伝えないから傷つけ合う。もう……そういうのは止めましょうよ」

感極まった俊の頬に、一筋の涙。

女と男の表情は、驚きに包まれた。

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自分達のために、必死になってくれる青年達。

涙まで流して、説いてくれる様に心を打たれた。

醜い心をさらけ出して、憎しみ合う心の愚かさが恥ずかしい。

そう思った故の驚きだった。

「ありがとう、ごめんなさい」

「本当に済まなかった」

男と女は俊と孝に謝ると、柔らかく微笑んだ。

そこにはもう、悲しみも憎しみもない。

ただ優しさに包まれた、二人の穏やかさだけが広がっていた。

「あんた……」

「お前……」

お互いを呼び合い、ゆっくりと近付く女。

男は御札のせいで動くことはできない。

しかし。

「これはもう、必要ないでしょう」

除霊師は微笑みながら呟くと、男の腕に貼り付けられた御札を剥がす。

自由になった男の体は、すぐに立ち上がって女の元へと向かった。

 

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男は女の体を強く抱き締めると、女もそれを返す。

長い時間をかけて、ようやく辿り着いた抱擁だった。

「ずっと、こうしたかった。お前を感じたかった」

「私も……。ずっとあんたを感じたかった」

二人の間には、積年の想いが溢れる。

言葉を交わし、見つめ合う二人。

それを見届ける俊と孝には、呪縛から解き放たれた瞬間のように感じられた。

「そうだ、これ……」

男は女から一旦離れると、手に持つ簪を女の前へ差し出して、恥ずかしそうに微笑む。

「お前に似合うと思って」

ガラス細工で造られた、繊細な簪。

いつの間にか現れていた日差しを反射して、金色に輝く。

「ありがとう、ありがとう……」

再び女の瞳には、大粒の涙。

しかし、悲しみに暮れる涙ではない。

嬉しさと幸せに包まれた、優しい涙だ。

女はそれを隠しもせず、男から簪を受け取る。

そして長い髪を掻き分け、簪で髪を結った。

 

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「綺麗……」

「だな……」

ようやく全てが露わになった女の顔。

白く透き通る肌と大きな瞳が印象的で、長く結われた髪が清廉さを醸し出す。

思わず俊と孝が、見惚れるほどだった。

「どうだい、あんた。似合うかい?」

「ああ、とても似合ってる」

ゆっくりと一度だけ回転してみせ、男に自らの姿を晒し問いかける女。

男は気恥ずかしそうだが、しっかりと本心を伝えていた。

女は嬉しそうに、はにかんだ。

「ありがとう」

感謝の言葉を伝える女の表情は、とても幸せそうだった。

「今までは、ずっと寂しい想いをさせてきた。だが、これからはずっと一緒だ」

「うん……」

「心から慕っている」

「私も、心から慕っています……」

再び抱き合う男と女。

俊と孝に従い、自らの想いを言葉に乗せた。

 

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シャン――。

シャンシャン――。

急に辺りに響いた音色。

この鈴の音は、除霊師のものだ。

俊と孝が後ろを振り向くと、除霊師と助手は鈴を掲げて目蓋を閉じる。

まもなく、呪文を唱え始めた。

「鎮まった心を解き放ちなさい。在るべき所へ戻る時が来たのです。全てを委ね、身を任せなさい。鈴の音色が、そなたらを導いてくれるでしょう」

呪文は短く、すぐに聞き取れる言葉が俊と孝に届いた。

そして振り向いた顔を元に戻すと、既に男と女の姿が霞んでいるのがわかった。

これで二人の魂は開放される。

そう思った俊は、嬉しさと寂しさが入り交じって複雑な気持ちになった。

しかし。

(あの世で、幸せに)

寂しさは間違い。

嬉しい気持ちで見送ることこそが、二人へのはなむけになる。

そう思った俊は、寂しさを振り払うように顔を二、三度振って笑顔を見せた。

 

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「幸せにな!」

孝は一歩前に出て、二人に手を振った。

「お幸せに」

俊も孝に合わせて、手を振った。

二人には、本当に幸せになって欲しい。

俊と孝の二人は、心の底から願った。

長きに渡り、辛い想いを抱き続けた二人だからこそ、余計にかもしれない。

二人の霞む姿は徐々に早くなっていく。

そしてもうほとんど見えなくなった時に、女が俊と孝の方へと振り向いた。

「ありがとう、君達」

優しい笑顔と、感謝の言葉。

この言葉を最後に、二人の姿は完全に消え去った。

しかし俊と孝の二人は、しばらくの間ずっと見送り続けた。

男と女が結ばれた瞬間を、名残惜しむように。

山の空は変わりやすい。

厚い雲はいつの間にか消え去り、青空が広がっている。

まるで俊と孝の心を空に映しているかのようだった。

日差しも辺りを優しく照らしている。

男と女の門出を、祝っているようだった。

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日付は変わり、山は俄に騒がしくなった。

除霊師とその助手は、もうここにはいない。

前日のうちに、山を降りたからだ。

しかし代わりに、大きな重機や作業服を着た人達が日本家屋へと向かい、作業を始めたからだ。

男と女の想いが詰まった家屋を、取り壊す。

俊と孝は、最後まで見届けるために残り、立ち会っていた。

重機が力づくで家屋を壊していき、あっという間になぎ倒していく。

その際、たくさんの砂塵を撒き散らし、砂埃を撒き上げた。

「壊すのって、あっという間だな」

「そうだな……」

瞬く間に壊れていく家屋を見つめながら、呟く二人。

厳かな雰囲気を醸し出していた家屋も、壊れてしまえばただの残骸。

ゴミでしかないのだ。

寂しい気持ちと、これで良いと納得する気持ち。

複雑な感情を、二人は抱いていた。

結局、家屋はものの数十分で崩壊した。

そして残骸を片付けるのに、数時間。

一日どころか半日で、家屋は跡形もなく消え去った。

雪の積もった白い大地に、ポツンと一箇所だけ地面の茶色が主張する。

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「これで、完全に終わったの」

跡地を眺める二人に声をかけたのは、老婆だった。

二人は振り返り、何とも言えない複雑な表情を向ける。

「どうした?やっぱり、あの家屋が名残惜しいか?」

そんな二人に、老婆は少し皮肉混じりに問いかけた。

「そうですね。住みたいっていう意味の名残惜しさはないですけど、やっぱりお二人の住まいが無くなるっているのは何だか名残惜しいです」

「そうそう。何だか二人の記憶まで消されてるような感覚だよな」

二人の心に、邪な夢はもういない。

やはりこの家屋は男と女のもので、自分達は部外者だからだ。

二人はちゃんと理解しているし、気持ちに区切りをつけていた。

「それは大丈夫じゃ。主等の心に、ちゃんと残っておる。人の想いはの、心に宿ることで受け継がれていくんじゃ」

老婆は嬉しそうに微笑み、青空へと視線を向ける。

「心に宿る?」

「どういうこと?」

しかし、俊と孝の二人には老婆の言葉を理解できない。

不思議そうに、顔を傾げていた。

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「ものは、いずれ無くなるもんじゃ。でも人の想いは伝えることができるじゃろ?だから受け継がれ、引き継ぐことができる。この家屋がなくなっても、主等があの二人を忘れない限り、記憶は消えん。だから、想いは心に宿るんじゃ」

「そっか……。何だか嬉しいですね、それ」

「ああ。心に宿るかぁ!何か強くなった気分」

「いや、それは違うだろ?」

老婆の言葉を理解して、それぞれ喜ぶ二人。

しかし、孝は少し捉え方を間違っていて、すかさず俊が突っ込んだ。

「アッハッハッハ……、面白いことを言うのう。確かに体は強くならんが、心は強くなる。それは身を以て知ったじゃろ?」

孝の言葉に大きく笑った老婆。

しかし、あながち孝の言葉は間違ってはいなかったようだ。

それを思い出させるように問いかける。

「確かに、自分でも驚きました。とにかく必死でしたけど、まさか自分の口から、あんな言葉が出るなんて」

「それは俺も」

「ああいう時こそな、人っていうのは本心が出る。あの二人を何とかしてあげたいっていう優しい気持ちが、主等を成長させたのかも知れん」

驚いた表情を見せる俊と孝に、老婆は嬉しそうに頷く。

二人の成長が、男と女の悲劇を終わらせた。

それはやはり、嬉しかったのだ。

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「でも、自分の言葉に気付かされました。心と心を通わすには、それ相応の努力が必要だってことを。もっと、思っていることをしっかり言葉にして伝えなきゃいけないって」

「そうじゃの。以心伝心ってことわざを知っているか?あれは言葉や文字がなくても心と心で通じ合うって意味じゃが、あれは大事な部分が抜けとるんじゃ」

「大事な部分って」

「数え切れないほどの言葉や文字、想いを伝え合うことじゃ。それで初めて、それらがなくても心と心だけで伝わるという意味合いになる。何もせずに、心だけでやり取りなんかできるはずもない」

「確かに。大事な部分ですよね」

老婆の言葉は、深くて重い。

俊と孝は今回のことでしみじみそう感じていたから、深く頷くことができた。

「だからじゃの。これからは家族や友達、好きな娘でもええ。心から思っていることはちゃんと伝えなさい。もちろん、何でも言ってええという意味じゃないがの」

「大切なことはちゃんと伝えます」

「当たり前!俺もちゃんと使うよ」

「それでええ」

俊と孝の返事に満足そうに頷く老婆。

二人の素直さが、何よりも嬉しかった。

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「あのさ、提案なんだけど」

急に声色を変えた孝。

俊と老婆の視線が、彼へと向けられる。

「これ、屋敷で見つけたんだ。二人の墓を作ってやりたくて」

孝は右腕を二人の前へ差し出し、手を開く。

すると手のひらには、風鈴と簪が乗っていた。

「これって、二人の……」

風鈴は、俊にも見覚えがあるものだった。

ぶら下げていた位置も把握できる。

簪は、どこにあったのか検討もつかなかった。

「そう。風鈴はあの時のやつだけど、簪は玄関で見つけたんだ。ほら、布がぶら下がってた」

「ああ、俺が最初に驚いた時の」

「そう!あの時、布を止めていたのは簪だったみたいなんだ。布を取った時に落ちたみたいで、床に転がってた」

孝の説明で、合点がいった俊。

驚いた表情で孝を見つめる。

孝は、少し照れくさそうに左手で、頭を掻いていた。

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「それは名案じゃの。この先に、見晴らしの良い場所がある。そこに作ってやると良い」

老婆もすぐに賛同して、体を方向転換した。

すぐに歩き始め、俊と孝はそれを追う。

数分ほど歩いた所で、老婆は立ち止まった。

「ここじゃ。そっちを見てみい、良い景色じゃろ」

老婆が指さす方向。

そこは崖となっていて、見晴らしがとても良かった。

辺り一面の景色を一望できる場所。

「ここ、綺麗だね」

「ああ、最高だ」

すぐに二人もこの場所を気に入った様だった。

嬉しさに、笑顔が零れている。

「おっ、あそこがいいんじゃねえ?」

孝は声を上げながら、気に入った場所へと駆け出す。

俊もそれに続き、老婆もゆっくりとそれを追いかけた。

「すごく良いかも」

孝が指した場所は土が盛り上がっていて、雪も何故か積もっていない。

理由はわからないが、俊もすぐにここだと思った。

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「これを、こうやって……」

孝はすぐにしゃがみ込み、土に小さな穴を掘り始める。

俊もそれを手伝い、老婆は見守っていた。

「冷てぇっての」

「ほら、我慢我慢」

雪ではない土とは言えど、指先がかじかむほどに冷たい。

軽く文句を言う孝を俊はなだめながら、二人は黙々と作業を続けた。

「できた!」

「おう!」

しばらくして、どうやら墓はできあがったようだった。

二人が満足そうに声を上げる。

「おおっ、良いの」

老婆は完成したそれを覗き込みながら、笑顔を見せた。

小さく盛り上がっていた土に、周りの土を足して更に大きくした。

頂上部分には窪みがあり、そこに風鈴の紐を結んだ簪が刺さっている。

男と女の想いが詰まった風鈴と簪。

紐を結ぶことで、二人の心も結ばれた証とした。

俊と孝は顔を見合わせると、すぐに墓へと視線を向けて顔の前で手を合わせた。

 

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(たくさん言葉を交わして、心を通わせて、以心伝心となるといいですね。お二人のことは、ずっと記憶に留めます。そして、僕も大事な人達に、自分の想いをちゃんと伝えていこうと思います。どうか、安らかに眠って下さい)

(兄ちゃん、姉ちゃん、幸せにな。いつかそっちに行くときは、観光がてら案内をよろしく。まあ、だいぶ先のことだけど、忘れんなよ?俺も絶対忘れないから)

俊と孝それぞれが、男と女へ言葉を贈る。

自分なりの言葉を用いて。

言葉を贈り終えると、二人はゆっくりと閉じていた目蓋を開いた。

「孝、これからもよろしくな。頼りにしてる」

「俊こそ。これからもよろしく。お前のメシを、一生俺に食わせてくれ」

「それはお前次第だな。頑張れよ、未来の雇い主」

「おう!待ってろよ、未来の専属料理人」

二人は、大きく笑い合った。

嬉しそうに、楽しそうに。

自らの想いを、ちゃんと大事な人に伝えて。

「さあ、帰るか」

孝は元気良く立ち上がる。

続いて、俊も立ち上がった。

老婆と共に、ゆっくりと歩き出す。

この日も青空が広がり、快晴だった。 

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山を下る三人。

ゆっくりと、会話をしながら。

すると急に、強い風が吹いた。

チリンチリン――。

風鈴が、風になびいて音を奏でる。

俊が音に気付いて立ち止まり、後ろを振り返った。

「どうした、俊?」

視線の先には、誰もいない。

「ううん、なんでもない」

気のせいだろうか。

そう思った俊は、前を向き直して孝に返事をすると、笑顔を見せた。

チリンチリン――。

チリンチリン――。

墓を作った崖から、三人の様子を見下ろす男と女。

二人は寄り添い、優しそうな表情を浮かべている。

「ありがとう」

感謝の言葉は風に乗り、少しの間漂う。

やがては風鈴の音色と共に消えていった。

 

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茜さんお久しぶりです。前のアカウントが凍結してしまったので、名前とアイコンはそのままでまた読みに伺いました。
もう活動はされて無いのでしょうか?
これ程の作品を書かれる方なので、またお会い出来る日を楽しみしております。

はてなさん

コメントありがとうございます。

お誉め頂き恐縮しておりますが、とても嬉しく思います。

良い作品に巡り会えたことを感謝します。

なぁさん

コメントありがとうございます。

楽しんで頂けたようでなによりです。

すっごくよかったです。

怖いだけじゃなく、最後はなんだか感動しました。

琉聖さん
コメントありがとうございます。
お誉め頂き大変恐縮しておりますが、とても嬉しく思います。

とても読み易く、長編でも引き込まれました。まとまりも良く恐怖からの最後に感動もあって凄く良い作品でした。
ありがとうございました。