長編47
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17日間の人類消失

ある朝、僕が目を覚ました時。

地球上の全ての人間が、消えていた。

地球総人口 およそ71.25億人が、消失した。

想像できるか?

たった一人の、世界を。

共に語る者も、

共に過ごす者も、

共に生きる者も、

誰一人存在しない。

一人ぼっちで生きねばならない、この世界を。

けど、それが…、

そんな世界が、

…僕の願い…理想郷だったのかもしれない。

それは、世界に異変が生じて、二日目の事だった。

人の姿を求めて、僕は都会…街に到着した。

この街は、僕の住む県内でも有数の都市だった。

これが日常であるならば、街の中を人がひしめき合い、喧騒と混雑が支配している筈である。

だが、今、街の中を支配するのは、耳が痛い程の無音の静寂でだった。

持ち主の消えた車が、閑散としたアスファルトの道路に何十台も停まっている。

人気店舗が所狭しと建ち並ぶショッピングモールにも、誰一人いない。

有名ブランドを扱う大型デパートの中で、僕は叫んだ。

「誰か! 誰かいませんかー!!」

誰もいない。誰もいない世界で、ブランドなど何の意味もない。

大手地方銀行本店の窓口で、僕は叫んだ。

「誰か、居たら返事をしてくださーい!!」

誰もいない。人のいない世界で、金銭などまるで無価値である。

街に人は、誰一人、いなかった。

猫一匹、いなかった。

一切の人間が消失した街の散策に僕は一日を費やした。

そして、

「…解ったよ」

僕は、理解して、言葉にする。

いや。やっと、現実を、受け入れた。

「…誰も、いないんだな…。」

今、この世界には、僕以外、誰もいないのだ…。

やっと、確信した。

どうしようもない孤独感と、先の見えない絶望感を抱きながら、僕は街の散策を終わらせる。

世界から人間が消えても、地球は回る。陽は沈む。

街に夜の帳が下りる頃。世界のいたる場所で、ある変化が現れ始めた。

人間の管理が行き届かなくなった発電所が、その機能を停止し始めたのだ。

その結果生じたのは、

…闇、である。

僕はその時、街灯とネオンに照らされた道路をトボトボと歩いてた。

と、突然、街を照らしていた光が、消え始める。

次々と消える街灯。闇が口を開けて、僕に迫る!

文明が作り出す絶えることのない灯りに慣れていた僕は、突然に目の前を覆う闇の襲来に慄いた!

今まで歩いていた道を振り返る。だが、歩んで来た道は闇に呑まれてた。

慌てた僕は、足元もおぼつかず、周囲を見渡す。それが間違いだった。

灯り一つ見えない闇の深淵が、僕の視界に広がる。

完全な暗闇の中で、人は方向を見失う。混乱のさなかで右も左も分からない状態に陥る。

まるで航空機のパイロットが陥る、空と海の青さの見分けすらつかなくなる状態…バーテイゴ(空間失調状態)に罹ったようだった。

暗闇の中に浮かぶ光は、月と星だけ。か細く小さな、仄かな光。

目前を照らすには、細過ぎる光だけ。

ネオンの消えたビル群。

街灯の無い道路。

無音の静寂。

その闇は都会に慣れた自分が初めて体感する、恐怖であった。

幼い頃、明かりのない森の中で、懐中電灯一つ灯しながら、同級生と肝試しをしたことがある。

その時にも、恐怖はあった。

闇の中から、草葉の陰から、壁の向こうから、幽霊が、怪物が、飛び出してくるのではないかという恐怖心。

だが、あの時と根本的に違うことがある。

今は、隣にも、前にも後ろにも、草葉の根分けて探しても、どこにも、誰一人いないのだ。

僕が叫び声を挙げても、誰も駆けつけてきてはくれないのだ。

例え恐怖に晒されても、誰も助けてはくれないのだ。

僕は、闇の中で混乱する頭を振り、どうにか心を落ち着けようとする。

落ち着け…。落ち着け…。

だが、動悸は収まらない。

僕は、もう一度辺りを見渡し、光を探す。

…まるで、街灯に群がる小さな蛾だ。

そう。僕は、この誰もいない世界で、虫けらに等しい程、ちっぽけで小さな存在だった。

暗闇の中で、僕の脳裏に走馬灯のような過去の記憶が、蘇る。

「なんで、こんな事になったんだっけ…。」

【人類消失に至るまで】

僕は幼くして家族を亡くした。

高校を卒業し、大人になり、社会に出て、就職した。職業はプログラマーだ。

入社初日。上司であるチームリーダーが僕の席にドスンと古い型のパソコンを設置する。

「あれとこれと、あと、それ。インスロールしとけな。あとは自分で頑張れよ。」

そう指示され、数冊の仕様書とノルマが書き連ねられたファイルを渡され、景気付けのつもりか、最後に背中を叩かれた。

無理無茶無謀な注文と、無責任な叱咤と共に、僕の社会人一日目が始まる。

だが、その無理無茶無謀過ぎる注文と無責任なだけの叱咤は、その後も続いた。

僕は負けじとばかりに必死で仕事を覚え、課せられたノルマをこなす。

…ああ、これがよく聞くプログラミング業界の、死の行軍…通称『デスマーチ』か…。

そんな慣例句が僕の脳裏を過る。

(出社)仕事仕事仕事(10分間昼食)仕事仕事仕事仕事仕事仕事(終電で帰宅)…。これが僕の一日。

月曜日仕事、火曜日仕事、水曜日仕事、木曜日仕事、金曜日仕事、土曜日仕事、日曜日休日(ただ寝るだけ)…。これが僕の一週間。(たまに日曜日が無くなるけれど)

仕事、仕事、仕事。寝ても覚めても、ああ…仕事。

…正直、疲れた…。

だがある日。そんな僕に、転機が訪れた。

仕事で疲れ果てた僕の前に、彼女が現れたのだ。

彼女は会社の同僚である。

普段真面目で口数の少ない彼女だったが、僕とは気が合った。

会社での彼女は、事務経理という神経を使う仕事を黙々とこなす。

その分、僕といる時は趣味の話などで盛り上がり、たくさんの言葉を交わした。

彼女は、小説や映画が好きだった。その為か、彼女はとても博識で、日頃の僕では触れることのなような話題をよく教えてくれた。

僕も、彼女の話が楽しかった。

そんな二人が親密になるのに、時間はかからなかった。

今までは、ただ毎日、ただただ課せられた仕事をして、たまの休日に疲れ果てた体を休めるだけの日々だった。

だが、彼女と出会い、その生活は変わった。それは、充実した日々だった。

自分の時間を設けるために、仕事も要領良く出来るようになった。

それでも少ない時間を、精一杯有意義に使おうと考えるようになった。

疲れた身体は、休めば回復する。

けれど、身体の奥底にある精神は、休んでも回復しない。休みを如何に過ごすかで、回復量は決まる。

どこぞの国民的RPGのように、宿屋に泊まればHPとMPが全快するわけではないのだ。

僕は、彼女と休日を過ごすうちに、多くの新しい楽しみを知った。

たくさんの人達と、楽しくお酒を飲んだ。

美味しいものをたくさん食べた。

遊園地に行った。

旅行に出掛けた。

友人も出来た。

仕事に対する僕の姿勢にも、変化があった。

喧騒と多忙の日々に中で、僕は、仕事に対する上達の実感を感じていた。

それは、僕の中に生まれた、数少ない自身への価値だった。

そうやって新たな経験を、体験をするうちに、自分に自信が付いた。

…その自信は、彼女が支えてくれたから、彼女がいたから生まれたものだという事を、その時の僕は認識していなかった。

それに気付かない僕の心に、醜い贅肉が付いた。僕は自分に贅沢になったのだ。

ある日、彼女が僕に言った。結婚しようよ、と。

彼女は、真剣な眼差しだった。

それは、彼女にとって、決断の時だった。

だが、僕はまだ若かった。いや。幼かった。

まだまだ遊びたかった。

束縛が嫌だった。自由でいたかった。

だから、僕は、『嫌だ』と返事をした。

数日後、彼女は、死んだ。事故だった。赤信号であるにも拘らず、ボンヤリと道を横断しようとして、トラックに轢かれた。

頭部への外傷が酷く、即死だったそうだ。

彼女がその時、何を考えていたのかは、解らない。

だが、一つ確かな事がある。それは、彼女の死亡診断で解った。

彼女は…身籠っていた。たぶん、僕の子供を。

彼女が死んだのは、きっと、僕のせいだなのだ。僕は、そう悟った。

罪悪感…。

罪悪感の対象が死んでしまう。それは、いつか償うことができる、という希望を剥奪されること。

殺人が最も忌まわしい罪なのは、償うことができないからだ。

「あなたを赦します」、その言葉を、この先の未来永劫もう二度と、受け取ることができないからだ。

その瞬間、僕は、過去に、縛られた。

死んだ彼女は、病院と警察から心神喪失を疑われた。

彼女の家族は会社を訴えた。彼女が勤めていた僕のいる会社を。

会社は、彼女と僕に関係があったことを特定した。

そして、会社とは関係ない個人の付き合いが彼女を精神的に追い詰めたのだと、結論を出した。

会社は、僕が彼女を、精神を病む程に追い込んだのだと、答えを『造った』。

事実解明を理由に、僕と彼女の蜜月の日々と不幸な別れの出来事は、赤裸々にされた。

僕の言葉の何が彼女を追い詰めたのかを、繰り返し聞き出された。

何度も何度も、追求された。

会社内の誰もが、僕と彼女に起こった事態を知り、面白可笑しく寓話立てて無責任に噂した。

会社は僕の味方には、なってくれない。今まで会社にしてきた貢献は、無視された。

身を削る努力は、無為で無駄な時間となった。

僕は、彼女の家族に、多額の慰謝料を払った。

気持ちを切り替えるために、仕事に没頭しようとした。

だが、いとも簡単に水泡に帰すかもしれないあの忙しい日々を繰り返せる気力は、今の僕には無かった。

そうこうしているうちに、会社は、僕から仕事を奪った。

会社は、組織を守るために、僕を切り捨てた。懲戒解雇である。退職手当も払わず、新就職先の斡旋もせず、僕を放り出した。

僕にはプログラマーの技能しかない。だから、同系の会社で再就職をするために、幾つかの会社で面談を受けた。だが、僕を雇ってくれる会社は無かった。

面接の度に、『解雇された理由』を追及され、僕は固まる。言葉が出なくなる。追求の日々と嘲笑の毎日を思い出し、心が凍りつく。

そして面接は破断する。その繰り返しだった。

仕事に逃げる事は、出来なかった。

勇気を出して、他者との関わりの場に顔を出したが、自分を責めるかのような他人の視線に耐えられず、孤立の気持ちを深めるだけだった。

僕は悟る。世界に、僕の居場所は、もう存在しないのだと。

一年後。

少ない貯金を食い潰しながら、僕は無気力で虚しい日々を送っていた。

ボロアパートの小さな部屋で、万年床の寝床に力無く身体を預けながら、僕は考える。

あの、忙しくて慌ただしい日々には、もう戻れない。…戻りたくない。

僕に出来ることは、唯一つ。

彼女との過去を思い返すだけ。

そして、自責と後悔の思いを抱えながら、自らの身を削り、心を蝕まらせ、緩慢に死んでいくだけの毎日。

それだけだ。

罪悪感に囚われた日々の中で、何気無く触れる言葉が、僕を責め続ける。

手にした携帯電話の画面に表示されるインターネットの掲示板の中で…、

『スレタイ:セクハラ社長捕まるww』

『大手自動車メーカーの社長がセクハラで捕まったww』

『セクハラ男ザマァ』

『慰謝料××円だってさ(笑)』

『ワロスww』

慰謝料…。涙を流す彼女の両親の顔が瞼に蘇る。

僕も似たようなことしたんだ…。

テレビの中のニュースで、経済学者が述べる。

『近年、働き盛りである若者の、生活保護の不正受給者が増加しています。何かと自分本位な理由を並べ立てる働かない若者が生活保障費を不当に搾取している現状を解決するために、厚労省は新法案である社会不適合者保護法を立案、先日の閣議決定を経て、国会に提出されることが決定されました…』

…社会不適合者か…。まるで僕の事だな…。ざまあねえな…。

些細な言葉が、情報が、僕の感情をささくれだたせ、自らを責める言葉へ勝手に脳内変換される。

過去が、僕を縛る。

寝ても覚めても、過去が、後悔が、僕の瞼に浮かぶ。

過去とは、僕が今までの生きてきた証。

忘れるわけがなく、消え去るわけもない。

その過去が、過去の記憶が、自責の念と後悔に変わる時、過去は僕の『根』に変わる。

どんなに前に進もうとしても、過去がまるで蔦のように僕に足に絡み付く。前に進む事を阻む。後悔が、罪悪感が、僕が未来に歩を進めることを、許さない。

その蔦は、次第に僕の腕にも絡み付く。僕の自由を、奪う。明日を求めて希望を探す術を奪う。

そして、その蔦は、僕の視界を覆う。未来を見つける事を、見つめることすらも、奪う。

仮に…、仮にだ。

例え、僕が僕を許そうとも、他人は、社会は、世界は、きっと僕を許さない。

今まで浴びせられてきた、他者の嘲笑が僕の視界に散らつき、耳元でざわつく。

後悔の傷を無理矢理に穿り返す社会のメスが、僕の身体を抉る。

これからも、僕が死ぬまで…、あるいは僕の過去を知る者が全て存在しなくなるまで、それは、終わらない。罪悪感は、終わらない。

寝ても覚めても。

目を開けていても瞑っていても。

彼女は、消えない。

後悔と自責の念で作られた過去と言う名の彼女の残像は、消えない。

本棚から、一通の封筒がハラリと落ちる。

埃の堆積する畳の上に舞い落ちた封筒から、一枚の写真が零れた。

…それは、彼女が写る、僕の手元に残された、たった一枚の写真だった。

他の写真は、全部燃やした。

過去よ消えろと願いを込めて、全部燃やした。

だが、この一枚だけは、燃やせなかった。

未練、ではないと思う。

言わばこの写真は、僕にとっての彼女の、遺影、である。

ドンドン!!

ドアを叩く音が聞こえる。

「ちょっとー!」

中年の女性の声…。アパートの大家さんの声だった。

「家賃、もう三ヶ月も滞納してるんですよー! そろそろ払ってくれませんかねぇー! 居るんでしょーー!!」

僕は残高の殆どない預金通帳を手に取り、本棚に投げつける。

「うるさい…。」

万年床の寝床の上で、惨めに力無く身体を預けながら、僕は呟く。

「うるさい、うるさい、うるさい! みんな、うるさい!!!!」

そして最後に、

「一人に、なりたい」

そう呟いた。

誰にも聞こえる筈の無い、その小さな言葉は、僕の眼前を覆う薄汚れた天井に虚しく吸い込まれていった。

そして、僕の願いは、…叶った。

【人類消失一日目】

ボロアパートの万年床の上で、何時もと変わらず眼を開けた僕が最初に感じた違和感は、

音、だった。

音がしない。全くの無音なのだ。

普段なら、近隣の国道を走る自動車の音が煩い程にする筈である。

だが今は、静寂で耳が痛くなるくらい、何の音も聞こえない。

僕は携帯電話を開き、時計を見る。

…8時。朝の8時。間違いない。けれど…、

夜中ならまだしも、この時間に物音が何一つしないなんて、不自然だ。

車の音だけではない。

普段なら何気無く聞こえる隣の部屋の住人が醸し出す生活音や、外を羽ばたく鳥の鳴き声すら、聞こえない。

僕は、まだ眠気の残る頭を起こし、目脂のくっついた瞼を無理矢理開けて、家の外に出る。

…家の前の道路には、誰もいない。

鞄を抱えて足早に道行くサラリーマンも、

ワイワイと騒ぎ立てながら学校に向かう子供も、

愛犬と一緒に近所を散歩するお年寄りも、

誰も、いなかった。人っこ一人、いなかった。

…僕が知らない間に、今日は祭日にでもなったのだろうか…。

僕は、この不自然な状況を、何とか理由を付けて、いや、思い込ませて部屋に戻る。

部屋の戻ると、テレビのスイッチを入れた。

テレビの中にも、違和感が生じていた。

朝八時のニュース番組。生中継のニュース番組。

その内容を見て、僕は驚く。

画面の中には、ニュースキャスターが座る放送席が映っている。

その下には、ニュースの内容を端的に示すニュースのテロップも流れている。

『与党政治資金三千万円を会計責任者が私的に流用』

…ニュースの内容は、政治家の横領…、よく耳にする下らない内容だった。

だが、僕の驚きは、別のことだった。

テレビ画面の中に、

…ニュースキャスターが、映っていないのだ。

放送席とマイクを残して、ニュースキャスターの姿は、消えていた。

まるで放送の途中で、姿を消したかのように。

では、なぜ、放送は続いているんだ?

放送事故なら、すぐにお詫びのテロップなり、場面切り替えなりするはずだ。

僕は、数分間、その番組を凝視し続けた。そして、待った。

ひょっこり「すいませーん」とか言いながら、ニュースキャスターが戻ってくるのを。

または、場面が切り替わり終わりのテロップが流れるのを。

だが、いつまで経っても、場面は変わらない。空席の放送席を、ただただ、流すのみだった。

静止画像ではない。その証拠に、放送席後ろのビジョンに映された天気予報図は、止まることなく動いている。

そして、僕は気付く。まさか…。

消えたのは、ニュースキャスターだけではないのではないか。

カメラを動かすカメラマンも、

番組を仕切る放送関係者も、

全て、いなくなったのではないか、と。

何かやばい事が起きている…。僕の本能が、僕に告げる。

何が起こっているのか、確認しなければ…。

僕は慌てて表に出ると、大家さんの部屋の扉を叩く。

「すいません!! いますか !! 開けてください!!」

僕は声を大に叫びながら大家さんを呼ぶ。

だが、返事はない。

僕は、大家の部屋の扉のドアノブに手を触れる。カチャ。

鍵はかかっておらず、扉がゆっくりと開いた。

「ごめんくださーい…、入りまーす。」

僕は大家の部屋に足を踏み入れる。

台所のテーブルの上には、まだ暖かいご飯と味噌汁、そして焼き魚が、乗っていた。

これから朝食を食べる。

そんな当たり前の光景が僕の目の前にあった。

唯一、おかしかったのは、

部屋の中に、誰もいない、という事だった。

床にお茶が零れている。湯呑みが転がっている。

一組の箸がテーブルの上に無造作に落ちている。

椅子はテーブルから人一人座るスペース分、離れている。

『大家のおばさんは、朝食を作ると、テーブルに並べた。椅子に座り、湯呑みでお茶を啜りながら、箸を持つ』

『そして、そのまま、…消えた』

僕の目の前の光景は、それを物語っていた。

「う、うわーーーーーーーー!!」

混乱する僕は、初めて叫び声を挙げた。

その後、僕は、アパートの住人や近所の家を訪ねて周った。

だが、やはり、誰いなかった。

まだ温かい食べかけの朝食…。

読み掛けの開かれた新聞紙…。

鳴り続ける目覚まし時計…。

朝の光景のままで時が止まったかのように、人が、いなくなっていた。

なんなんだこれは? 一体何が起きているんだ!

僕は困惑した頭を抱えながら、人の姿を求めて近所の家々を次々と周った。

…太陽が空の真ん中に来る頃。

散々歩き回り、疲れ果ててアパートに戻った。

アパートの鍵は開けっ放しだが、泥棒の侵入はない。

もし泥棒がいたら、逆に抱きしめてやりたい気分だった。

僕は、改めてテレビのスイッチを入れると、先ほどのニュース番組のチャンネルに合わす。

画面の中に映る内容は、先程のニュース番組から、変化していた。

砂嵐だった。

どこにチャンネルを合わしても、砂嵐だった。

僕は、携帯電話を手に取ると、昔の友人達に連絡を入れてみる。

結果は、

誰にも繋がらない。又は『お掛けになった電話番号は電波の〜云々』である。

僕は、押し入れからラジオを引っ張り出した。

もし何かしらの災害で町中の人間が避難していたとしても、少なくともラジオは機能しているはずである。僕はスイッチを入れると、チャンネルを操作する。

結果は、

AMFM、全て全滅である。

僕は、壁にもたれかかる。

これは、きっと、夢なんだ。

硬く目を瞑ると、心の中で念じた。目が覚めろ!と。

だが、目は覚めない。

いつしか疲労で僕は、眠りについた。

夕方。僕は眼を覚ました。グーと腹の鳴る音が聞こえる。

部屋の灯りを付けた。

電気は使える。コンセントも、機能している。

僕は電気ポットで湯を沸かすと、買い溜めしていたカップラーメンを貪り腹を満たす。

そして、無理矢理、寝た。

この異常な事態が夢で有る事を、期待して。

だが、もしこれが夢でなければ。

もし、世界に残された人間が僕一人きりだったなら…。

僕は、明日から、どうやって生きていけばいいんだ?

【人類消失二日目】

朝。目が覚めた。

僕は万年床の上で、耳を澄ます。

無音の状況は変わらない。

外に出ると、僕は、力の限りに叫んだ。

「誰か!! 誰か、いませんか !!」

誰も返事を返さない。静寂に包まれた町と、薄暗い暗雲に包まれた灰色の空が、あるだけ。

僕の声は、残響を残したまま、住宅街に消えていった。

人の姿を求め、僕は北にある街に向かった。

移動手段は…徒歩である。

一応、最寄りの駅にも寄ってみたが、やはり無人と化していた。

電車は、駅に止まったままで動くことはない。普段の人詰め状態が嘘のようだった。

僕は、本来電車が通るべき無人の線路に沿って、街に向かって歩く。

距離的に、線路を通るのが最も早く目的地に着ける。

普段なら、鉄道関係者に捕まるか、下手すれば警察に突き出される。

もしくは、電車に轢かれて命を失う。日常だったら、絶対にしない行為だ。

だが、この今の僕の行動を咎める人間は、誰もいない。

咎める人間がいるのなら、逆に感謝を述べたい程だ。

僕は線路の合間に敷き詰められたアスファルトと砂利を踏み進めながら、不思議な気分に浸る。

そして、物語は、冒頭に戻る。

街に着き、人の姿を探し求め…、

僕以外の人間が誰もいない事を、理解した。

放心した僕の元に、孤独の闇が、舞い降りた。

暗闇の中で、僕は立ち竦む。一歩も動けない。

「…そうだ…。」

ふと僕は思い出し、ポケットを探る。

あった…。

僕はポケットから携帯電話を取り出した。

携帯電話…。誰にも繋がることはないのに、普段の癖で無意識にポケットに入れていたのだ。

僕は携帯電話の電源を入れる。

僕の顔を、微弱な光が照らした。

良かった…。まだ充電が切れていなかった。

微かに手にした、小さな光を見つめて、僕は安堵する。

だが、この小さな光がいつまで保つか、解らない。

他の光を手に入れなければ…。

携帯電話が照らす数十センチの光の円を頼りに、僕は付近の建物に辿り着く。

暗闇の中で、見慣れたコンビニの四角い看板が目に入る。

コンビニの中で、僕は懐中電灯を入手する。予備の乾電池をありったけポケットに詰め込む。

なんとか懐中電灯は手に入れたが…、

…これではもう、今から自宅に戻るのは危険だ。

そう思い、新たに得た光…懐中電灯を頼りに、僕は、今夜、身を匿う場所を探した。

デパートの片隅に蹲りながら、僕は孤独が齎す闇の恐怖を、初めて知った。

あれから懐中電灯は山程手に入れた。電池も持てるだけ持った。

だが、何本同時に懐中電灯を灯しても、闇は消えない。強大で深い闇が、まるで深淵など存在しないかのように、僕が灯した小さな光の束を飲み込んで行く。

僕は、壁に背を預けながら、毛布を頭から被る。

そして、膝を抱えながら、早く朝が、光が訪れる事を願う。

それから幾時間かが経過した。

闇と静寂は、変わらず目前にある。

だが、変化はあった。

闇に慣れたためか、はたまた時間の経過が齎した恩恵か、僕は思考を取り戻しつつあった。

そして、一つの疑問を心に抱いた。

なぜ、闇を怖がる必要があるのか、と。

僕は闇の中で考える。

…人は、何故に闇を恐怖するのか。

闇の黒の向こう側に畏怖する存在がいるとする。

怪物がいる。化け物がいる。幽霊がいるとする。

それらは、空想上の生物だ。

その空想を、恐怖の存在を、人は物語という形で作り続けてきた。

つまりは、怪物は、人が作り出したのだ。

では、人の消えたこの世界には、怪物はいるのか?

否。怪物など、初めからいないのだ。

もしいるのだとすれば、その怪物は、僕の心が作り出したのだものだ。

だから、僕が怪物などいないのだと思えば、怪物は存在しない、という事になる。

ならば、なぜ、恐怖を感じる必要がある?

僕は、頭に被っていた毛布を取り払った。

そして、懐中電灯の光を消す。

闇の世界が、僕の視界に入る。その光景は、毛布を被っていてもいなくても、変わらない。

ただの闇だった。

では、なぜ、人は闇を忌避するのか?

人は、視覚を通すことで外界の情報の八割を得ていると言われている。

情報が遮断される…、つまり、視界が閉ざされるから、恐怖を抱くのだ。

視界が閉ざされ、外敵から身を守れなくなるのだ。

だが、今のこの世界のどこにも、怪物はいないのだ。

僕を脅かす人は、存在しないのだ。

つまり、

今の僕にとって、誰もいない世界でたった一人の僕にとって、闇とは、なんだ?

…ただの、夜だ。

僕が生まれてから、数え切れないほど体験してきた、夜だ。

明かりが無いから不便なだけの、ただの夜、だ。

僕の中の恐怖は、消えた。

僕は再び目を瞑る。そして僕は、闇と同化した。

【人類消失三日目】

朝日が目に眩しい。

いつの間にか眠っていたようだ。

太陽の光と共に、闇は消え去った。

だが夜がくれば、また闇が世界を支配する。

だが、もう闇は怖くない。

闇で過ごすことの不便さには備えなければならないが、闇そのものを恐怖する必要は、もうないのだから。

僕はトイレの洗面台で顔を洗う。

電気は相変わらず使えないが、水はまだ使える。

窓を開けて外を眺めた。空気はまだ、肌寒い。

僕はデパートの男性衣料品店から、動き安さと防寒生の高さを重視した服を適当に選び、身に付ける。

タグを見ると、普段の僕なら絶対に買わない金額のブランド物だった。

自慢する相手もいないような世界でブランド物を好む必要はないが、高いだけあって、やはりモノはいい。僕は少しだけブランド物への偏見を改めた。

飲食店階で見つけた缶詰で腹を満たし、僕はデパートから外に出る。

相変わらず、街は閑散としている。

だが、空は快晴。風もない。

これが日常だったら、散歩をするなら絶好の日になったであろう。

僕は念の為、もう一度、街の中を散策した。

そして、暗くなる前に帰路のつく。

散策の結果、新たに発見したことがある。

嬉しい発見ではない。

街には、人だけではなく、動物もいなかったのだ。

考えてみれば、一昨日から犬や猫を一匹も見かけていない。

空には、鳥もいない。

念の為、動物園の中も確認したが…、やはり、檻の中にいる筈の全ての動物は消えていた。

…まさか、この世界からは、人間だけでなく、動物も消えたのか?

どうやらこの世界で、野良犬や猛獣に襲われる危険はないらしい。

安堵と同時に、更なる孤立感を募らせた僕は、何度目かの溜息をつく。

【人類消失四日目〜七日目】

誰もいない世界で、生きる。

この孤独な世界を、これから一人で歩まねばならないのだ。

まるで無人島でのサバイバルである。

サバイバルの基本…。

僕は、本屋から(無論、無断で)持ってきたサバイバルの本を読み漁った。

それによると…、

①【飲み水の確保】

②【火(灯)の確保】

③【住居の確保】

④【食料の確保】

⑤【移動手段の確保】

⑥【病気や怪我への対処】

以上が、サバイバルの基本となる。

電気は使えない。

水もいつまで保つか、解らない。

食料はどうする?

灯りはどうする?

病気になったらどうする?

誰もいない世界で、どうやって生きればいい?

僕は、考えた。この世界で生きる術を考えた。

まず、【住居の確保】だが…、

今、僕はすでに住居を持っている。このままこの場所に住んでいればいいのだ。

…といか、どうせ誰もいないのだから、何処に住んでも一緒だ。

僕は、自分の住居をボロアパートから二軒隣の豪邸に移す事にした。

何をするにも、広い場所を確保するのは悪くない。

身の周りの物を鞄に詰めて、僕は二軒先の豪邸に向かう。

「お邪魔しまーす」

当然返事はない。僕は苦笑しながら豪邸に上がり込む。

次は…夜に備えて【火(灯)の確保】を考える。

電気の供給は既に停止している。人の手によって管理されない発電設備は数日間でその機能を完全に停止する。

特に、原子炉は安全管理上、二日間弱で自動に停止する仕組みであり、少なくとも放射能が漏れ出すような心配はない。

さて、灯りだが、これも既に半分は解決済みである。

鞄一杯の乾電池と、数十本の大小様々なライトは既に確保している。

夜を照らす程度なら、何ら問題ない。

電気同様、ガスも停止していたが、火を起こす方法も、幾らでもある。

燃やすものは、ライターでも紙でも木材でも幾らでも手に入るし、ガソリンスタンドに行けば灯油でもガソリンでも、なんでも入手できる。

…僕が最も懸念していたのは、【飲み水の確保】と【食料の確保】だった。

この数日間は、近所のコンビニを漁り、売れ残りのパンで腹を満たした。

けれど、食物はいずれ腐る。ペットボトルに入った飲料も、数年で腐敗が始まる。

電気がないから、冷凍での保存もできない。冷蔵庫は機能を停止している。氷もいずれ溶ける。

だがこの課題は、意外な方法…というか発見で、解決した。

この世界では、食物が、腐らないのだ。

スーパーの陳列棚に並ぶ食物の腐敗が一向に始まらないのを見て、僕はそれに気付いた。

腐る…腐敗とは、有機物(特にタンパク質)が微生物に分解されることである。

微生物とは、細菌や真菌、酵母である。

しかし、この世界には、僕以外の生物は存在しない。

つまり、細菌も、存在しない。

それは、有機物…食物を腐らせる原因がいない、という事である。

こうして、僕の食糧事情は解決された。

…どうやら、この世界では漬物は作れないらしい。と、そんなどうでもいい事を考えて、一人苦笑いをする。

微生物がいない。それは、【病気や怪我】についての課題も解決させた。

細菌がいないのなら、病気を恐れる必要はない。怪我をしても、化膿はしない。

無論、栄養失調や大量出血に繋がるような事態は避けなければならないが。

夜。

住処とする豪邸のリビングにある(僕の貯金では絶対に買えないような)高価なソファーに身を沈めながら、僕は考える。

住処は手に入れた。問題があったら、また場所を変えればいいのだ。

灯りはいくらでも手に入る。スーパーからでも。ホームセンターからでも。コンビニからでも。いざとなれば、灯油で火を起こせばいい。

食料や水の調達も、問題ない。腐敗しないのだから。それに、缶詰だって、幾らでも手に入る。

どうやら無人島と違い、人間の文明の作り出した町から離れない限り、命を失う心配は、ほぼ皆無のようだ。生きるだけなら何ら問題は無い。

僕は胸を撫で下ろすと、近くに置いていた鞄を手にする。

明日は再び街に行って、物品を調達せねば。僕は鞄の整理を始める。

その時。僕の鞄から、一枚の封筒が落ちた。

それは、たった一枚残された、彼女の写真が入った封筒だった。

ふと、僕は、思い出した。

いや。思い出したというより、今まで忘れていたのだ。

この世界に来てからの7日間。一切考える余裕がなかったのだ。

そう、彼女の事を。

数日前まで毎日のように考え続け、寝ても覚めても脳裏でフラッシュバックのように瞬き続けた、自責と後悔と罪悪感に覆われた、過去の記憶を。

少し話が逸れるのだが…。

【マズローの欲求段階説】という心理的法則を耳にしたことはあるだろうか?

アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローは『人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである』と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化した。マズローは、欲求の第一段階を【生理的欲求(食べて寝て排泄する)】と定義し、次の段階を【安全欲求(安全に過ごせる環境を求める】とした。

…この世界で、僕は孤独の絶望を感じた。そして、この世界で生きねばならないと、無意識に考えた。

『生きる』。それは、生物の持つ根源的な欲求である。

同時に僕の欲求段階は、生きる為に、ゼロの段階…原初の欲求に戻る。

結果、僕は、飢えを凌ぎ、安全を確保する手段を探し求め、この世界で行き抜ける術を見出した。

それは、『余裕』を得た事に等しい。

ヒトは進化して、余裕を得た。その余裕をもってして、他の生物を圧倒し、文明を手に入れた。

…思考を、感情を、愛を、手に入れた。

余裕を得た僕が、次に求める段階は…【社会的欲求】である。

社会的欲求…それは、例えば、仲間を求める、孤独感や社会的不安を無くす、そういう欲求。

それは、この世界では絶対に叶うことのない、欲求である。

零れ落ちた写真に写る彼女の姿を見て…僕は過去の記憶を辿る。

だが、そんな僕の心に舞い降りた感情は…、

それは、意外にも…『開放感』であった。

この世界では、僕を蔑む人間はいない。

過去を抉り返す存在もない。

忌まわしい記憶を思い出す必要もない。

この世界で目覚める前に感じていた感覚…罪悪感。

寝ても覚めても消えなかった。

目を開けていても瞑っていても消えなかった。。

何をしていても、彼女は、消えなかった。

後悔と自責の念で作られた過去と言う名の彼女の残像は、消えなかった。

消えることを何度も願ったが、現実は無慈悲だった。

だが、この世界の僕は、違った。

彼女が、消えた。罪悪感が、消えた。

過去に囚われる必要もなく、思い起こさせる他人もいない。気にする必要もない。

僕は、もう二度と感じることのないと思っていた感情…過去からの開放感に包まれる。

…もしかしたら、この世界は、

…僕が願った通りの、世界なのかもしれない。

だけど、僕は気付いていなかった。

その開放感が、ほんの一時の錯覚であること…。

過去は、消えないのだ。僕の生きた証は、絶対に、消えないのだ。

【人類消失八日目】

無性に走りたかった。

何処迄も。

何時迄も。

それは、開放感の体現だった。

僕は街のスポーツショップで自転車を調達する。

無論、自動車の運転が出来ない僕にとっての移動手段の確保が目的ではあったが、

もうひとつの目的は、『走りたかった』からだ。

自らの足で、肉体で、力で、生きている証拠を感じたかったのだ。

調達した自転車は、スイスのメーカーBMC製の、赤いロードレーサー。

何気無く価格を見て、僕は驚嘆する。

ゼロが、5個…百二十万円!

…まあいいか。

周囲を見渡せば、まだ200台程の自転車が置いてある。

壊れたら、勝手に交換すればいいんだ。

無断で持ち出す罪悪感は、僕の中には既にない。

舗装された滑らかなアスファルトの道路を、僕は疾走する。

普段なら競い合いかのように自動車が犇き通る道路だが、今は誰もいない。

ペダルを踏む度に、ロードレーサーは静かに音もなく、だが確実に信じられない速度で、前に進んだ。僕の力を推進力に変えた。

かなりのハイペースで漕いでいるにも拘らず、心拍数はそれ程上昇しない。

興奮でアドレナリンが出ている。それが解る。

道ゆく人々も、道を阻む車もいない。

この世界で僕の行く道を遮るものは、何もない。

僕は圧倒的に、自由だった。

「この世界は、素晴らしい!」

疾走する最中、声が発する振動すらも後方に置いていく速度の中で、僕は力一杯、この世界に生きる喜びを、叫んだ。

一瞬、彼女の姿が脳裏に過る。だが、すぐに消えた。消し去った。

【人類消失九日目】

僕は自由だ。

何をしても咎める者は存在しない。

どこで食事をしようが、

どれだけゴミを散らかそうが、

どこで排泄しようが、

大声で喚き散らそうが、

例え裸で歩こうが、

誰も僕を咎めない。

僕は、この世界では、王様だ。

『万能感』、僕を支配していた感情は、それだった。

万能感とは、心理学の用語である。

「私の好き勝手に何でも出来る」と錯覚する感覚。

それは、「舞い上がる」「天狗になる」「調子に乗る」と同義。

人には願いがある。思いがある。

思う、願う、願望、希求、企み、考え、理想、目的、そして祈り。

それらは全て、人間なら誰でも抱く感情。

子供は、万能感の塊である。我儘は、万能感の体現である。

けれど人間は成長するにつれて、他人との関わりを通じて、「なんでも思い通りにならない」事を悟る。

万能感との決別は、常識と分別ある大人になる為の、欠かせないステップとなる。

では逆に、万能感に囚われると、人はどうなるのか?

分別を、常識を、コントロールできなくなるのだ。

万能感の放置は、「社会(又は社会で生活する人々)の迷惑になる行為」に繋がる。

つまりそれは、モラルの崩壊、である。

万能感に浸る傍で、僕は苛ついていた。

何に苛ついていたのか、その時の僕は気付いていなかった。

苛つく僕は、苛つきの原因と、その解放の手段を求めて、街を彷徨った。

僕は、この街での数少ない思い出の場所…以前に勤めていた会社に行ってみた。

3階建ての小さなビル。

そこが、僕が以前に勤めていた会社。

大人の厳しさも、社会の辛さも喜びも、出会いも別れも、期待も裏切りも、全てここから始まった。

少し前の僕なら、絶対に足を踏み入れなかっただろう。

今、再びこの場所を訪れることが出来たのは、ひとえに『誰もいないから』だと思う。

では何故、僕はこの場所の来たのだろうか?

誰もいない、この場所に。

…以前、僕はここで社会から弾き出された。

無責任で一方的な、半ば暴力じみた他人からの嘲笑の餌食となった。

だが、今この場所には、僕を蔑む人間は、誰もいない。

過去を思い出させる人間は、もういない。

ならばなぜ、ここに来た?

懐かしさ?

…違う。

僕は、この場所が、ここにいた奴らが、嫌いなんだ!!

僕は、以前僕が使っていた机を…、今では誰が使っていたのか解らない机を、思いっきり蹴飛ばした。

机の上のパソコンが派手な音を立てて床に落ちる。

割れるモニター。飛び散る部品。

…だが、その行為を咎める人は、誰もいない。

何十台もあるパソコンを、片っ端から破壊した。

何百枚にもなる書類を、破り捨てた。

分厚い仕様書を、窓ガラスに向かって投げつけた。何度も何度も。その階の全ての窓が砕けるまで。

…けれど、その行為を咎める人は、誰もいない。

…そして、僕の抱える苛つきも、消えない。

僕はペタリと冷たい床に座り込むと、数少ない思い出の場所の、破壊の跡に目をやる。

何をしても、何をやっても、誰も何も言わない。咎めない。

一瞬、彼女の顔が、散らついた。

ここには、非難も、賞賛も、無い。何も、ない。

そんな行為に、何の意味がある?

「僕は一体、何をやっているんだ…」

行き場のない虚しさを胸に感じながら、僕は会社を後にした。

【人類消失十日目】

人は、例え、生命が、衣食住が保証されていたとしても、それだけでは満足しない。

生きているだけでは、命があるだけでは、人の生は…人生は、決して満たされないのだ。

心理学者・アブラハム・マズローは、欲求の第三段階を【社会的欲求】と定義した。

仲間を求め、集団に属したい、という欲求である。

さらにマズローは、欲求の第四段階を【尊厳(承認)欲求】と定義した。

その意味するところは、『他人に認められたい』、つまり『他人の存在を介し、自己の価値を感じたい』欲求である。

先述したが、

この世界では、それらの欲求は、絶対に、満たされない。

僕がどれほどに開放感を感じようとも、万能感を得ようとも、破壊を繰り返しても、その欲求は、満たされない。

満たされる事の無い孤独感と虚しさの狭間の中で、ある変化が生じた。

…彼女が、現れたのだ。

昼間。街の公園のベンチに腰掛けながら、僕はぼんやりしていた。

空腹感は無い。腹は満たされている。

闇に怯えて眠れない、という事もない。

移動に使っていたロードレーサーが、灰色の道路に横たわっている。

そこで僕は、誰にも聞こえることのない独り言をブツブツと喋っていた。

「僕はこの世界が好きだここなら僕は王様だこの世界にずっといたい他人なんかいらない他人は僕を傷つけるだけだあの世界に戻りたいなんてこれっぽっちも思わない僕はずっとここにいたい

昔の事なんて思い出したくないあの頃には戻りたくない…ここなら過去の事を思い出す必要もない罪悪感に苦しまずに済むんだ…、彼女の事を、思い出さなくていいんだ…」

その時、ただひたすら独り言を呟く僕の右の耳元を、風がびゅうと通り過ぎた。風の勢いで僕は目を瞑る。

一瞬、声が聞こえたような気がした。

目を開けた僕は、…何気無く右を向いた。

…僕の視線の先、目の前30センチ程の場所に、

彼 女 の 顔 が、あ っ た。真 っ 赤 な 鮮 血 を 滴 ら せ た、血 塗 れ の、彼 女 の、顔 が あ っ た。

ギョッと僕は目を見開く。瞬きを忘れ、血に覆われた彼女の姿を凝視する。

彼女の顔半分は、鮮血で染まっていた。頭の右側が陥没し、歪な瓢箪のように歪んでいる。

右腕は、右肩と肘の関節が捻じ曲がり、ダラリと垂れ下がっている。

他にも大小様々な傷が彼女の体を覆っていた。

そして、彼女の視線は、真っ赤に充血したその瞳は、僕をジィっと、見つめていた。

妙に冷静な心が、僕に語りかけてくる。

…僕は狂ったのかもしれない…。

もう一度、風が吹いた。一瞬、目を瞑る。

再び目を開けた時。

彼女は、消えていた…。

え?……。

……。

…。

「ゥわァァァあァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

僕は、この世界に来て最大級の叫び声を挙げた。

彼女の出現は、終わらなかった。

震える足を奮い立たせ、帰路に着く為にロードレーサーを疾駆させる僕の視界の片隅で、僕を見つめる彼女がいた。

ショッピングモールの窓ガラスの向こう側で、血濡れた手をガラス窓にベタリと押し付ける彼女がいた。

ロードレーサーを停車させ、息を切らせながら住処とする家の玄関ドアを開けた僕は、彼女から逃れるかのように急ぎ玄関の扉を閉める。その時、ドアの隙間から、彼女の頭が、一瞬見えた。

夜になり、

眠れずに眼を開ける。ふと何かの気配を感じて、暗闇にライトを向ける。そこにも、音も無く佇む彼女がいる。

彼女の存在を否定するかのように、僕は無理矢理に眼を閉じた。

朝が来て、

陽の光に照らされた僕は眼を開けた。その真正面に、真っ赤な瞳があった。鼻も触れるような距離に、彼女がいた。

【人類消失十一日目】

その日、僕は住処とする家から一歩も出ることはなかった。

僕は混乱していた。

混乱した頭で、彼女の姿をした何かの存在について考えを巡らした。

あれは何だ!

彼女の姿をした、あれはなんだ!

彼女は死んだはずだ。

じゃあ、あれは…、幽…霊…?

馬鹿な!! 幽霊なんて、いるはずない!

この世界には、僕しかいないんだ!

混乱の極みの僕の視界の先で、彼女は、ゆらりと姿を現し続ける。

柱の影から。

家具の隙間から。

彼女の顔が、血塗れの生首が、見え続ける。

何故、彼女が僕の前に姿を現したのか。

それは、幻だった。

僕が置かれた世界の究極的な孤独が見せた、幻想だった。

絶対に叶うことのない【社会的欲求】と【尊厳欲求】…他人の存在を無意識に求める僕が見た、幻だった。

それと同時に、血濡れの彼女の姿は、開放感と万能感で無理やりに忘却の彼方へ葬ろうとしていた、僕の『罪悪感』、そのものだったのかもしれない…。

だが、あの時の僕は、まだそれに気付かない。受け入れない。

【人類消失十二日目】

血塗れの彼女は、それから後も、何度も何度も、僕の前に現れた。

彼女は消えない。彼女はどこまでも追ってくる。

心を、侵食する。精神を、蝕む。

「僕は、この世界で生きて行くんだ。」

「彼女のことを、過去を、忘れて生きていきたんだ!」

「だから、僕は彼女を、葬る!」

そう決意した僕の足は、ある場所に向かった。

僕の会社。

嫌な思い出しかない、会社。

彼女と出会った、会社。

3階建ての小さなビル。

ビルの入り口で、僕は上を見上げる。

二階の窓ガラスは、残らず割れている。

僕が割った窓ガラスだ。その行為に後悔は無い。

割れたガラスの向こうに、彼女が佇んでいる。

紅の瞳が、僕を見下している。

僕は彼女を無視して、作業に取り掛かる。

近くのガソリンスタンドからガソリンを運んできた。

携行缶のチューブから噴出されるガソリンをビルに周囲に撒き散らす。

揮発性を含み液体の独特の臭気が僕の鼻を包む。

ガラン!

携行缶を投げ出すと、僕はポケットからライターを取り出した。

シュボ!

小さな火の灯る音がする。

僕は、その小さな灯火を、テラテラと輝きを放つ液体に、近付ける。

それらの一連の行動を、僕は自動的に行っていた。

意識はあったのだが、今、自分が何をしようとしているのか、理解していなかった。

精神が麻痺して、考えていなかった。

液体に火が灯る。

その小さな火は、酸素と揮発油を媒介に、炎となって燃焼し、瞬く間に小さなビルを覆い隠す。

赤い炎が、ビルを舐め尽くす。

彼女の姿が、炎に飲み込まれる。

燃えろ。燃えろ。

僕の過去。僕の罪。僕の罪悪感。

消えてしまえ。嫌なものは、全部、消えてしまえ。

その時の僕は、浅はかだった。

僕は、忘れていた。

この世界には、僕しかいなかったことを。

ビル火災。

文明社会で火災が起きれば、鎮火と消火の活動が始まる。

消防法に基づき設置されたスプリンクラーが火の熱を感知し、放水を始める。

即時、消防署に通報が行き、最高速度で消防車が現地に押し寄せる。

命を賭けた消防隊員が、炎に立ち向かい、人の命を救う。

…だが、この世界に、人を助ける人はいない。設備を動かす機能も既に停止した。

つまり、一度発生した炎を、消すことは、不可能なのだ。

それを、僕は失念していた。

炎が、隣のビルを侵食する。

さらに隣の建物に燃え広がる。

それを止める手段は、無い。

僕は唖然とながら、燃え広がる炎の行方を見つめた。

熱気が僕の近くに伝わる。

この場所は危険だ!

僕は急ぎロードレーサーに跨り、燃えるビル群から距離を取る。

その無責任な自身の行動に、胸がチクリと…いや、ザクリと痛む。

その炎は、街の全てを飲み込もうとしていた。

闇の中、寝泊まりをしたデパートも、

人を求めて彷徨ったショッピングモールも、大手銀行も、

ロードレーサーを入手したスポーツショップも、

全て、炎が包んだ。紅い炎が、街を支配した。破壊した。

その光景を、僕はなす術なく見つめる。

文明を失った社会で、火災を止める手段は、まず存在しない。

自然の中でも、落雷による火災が起こるケースは多々にあり、山や森を燃やし尽くす例は幾らでもある。

自然の中で、人は無力だ。

だが、その恐ろしい火災を止める手段は、ある。

人は、祈り、その手段が天から降り注ぐのを待つしかないのだ。

火災積雲。

火災によって生じる、濃密な積雲である。

加熱により押し上げられた水蒸気が雲を形成する。

待機中の水蒸気は雲の中で凝固して、雨となる。

丸一日、炎は消えることなくゆっくりと燃え広がり、街を焼き尽くした。

僕は、その光景を呆然として眺める。

僕の表情は、ピクリとも動かない。

顔の筋肉が、動きを止めている。

過去を消そうとしただけなのに。そう願った僕の浅はかな行動は、街に大惨事を齎した。

人は存在しないのだから、死傷者はいない。

そうは思っても、僕の動悸は治まらない。

そういう問題ではない。

僕は、祈った。祈り続けた。

僕は無力だった。自分がしでかしたことに対して、何もできる事はない。

僕に出来ることは、祈ることだけだった。

全身に雨の雫を降り注ぐ。

ずぶ濡れになる事も厭わず、無量の雨が街の火を止める光景を、僕は見つめ続ける。

…安堵する僕の視界の先に、

煤と煙と瓦礫の先で、

彼女が、佇んでいた。

彼女の姿を確認した僕は、全身の息を吸い出されるような感覚に襲われる。

そして、呟いた。

「逃げられないんだな…。過去からは。」

…。

全身を雨に濡らす僕は、唇を噛む。

「死ぬまで罪悪感を抱いて生きろというのか…。」

罪と罰を抱えて疲れきった視線を、彼女に送る…。

【人類消失十三日目】

過去からは逃げられない。

世界から人が消えようとも、

僕を責める人間が誰一人いなくなろうとも、

過去は僕を責め立てる。

それは、僕が死ぬまで、終わらない…。

…。

街を燃やした。もし街に人がいたのなら、…いや。たとえ誰もいなくても…、僕は恐ろしいことをしてしまった。

もう、この街には、いられない…。

僕は、旅に出た。

持ち物は、携帯食料と衣類の予備。鞄に詰め込む。

必要な物があれば、旅先で調達すればいい。

この世界で、飢えて死ぬなんて事は、あり得ない。

この世界は、僕一人で生きるのに都合が良過ぎるように出来ている。

ロードレーサーに跨り、ゆっくりとペダルを漕ぐ脚に、力を入れる。

彼女の写真は、置いてきた。

南に向かった。南を選んだ理由は特にない。廃墟と化した街のある方角に行きたくなかっただけだ。

だが、目的地はある。

旅をやめる場所。それが僕の目的地だ。

もしかしたらその目的地は、『旅』だけではなく、『生きること』をやめる場所と同義なのかもしれない。

僕は、死に場所を、探していた。

この世界で生きていたいのか?

生きてはいける。生きるだけなら、出来る。

けれど、それだけでいいのか?

生きているだけで、いいのか?

僕の心のある欲求は、それを許さない。

過去はそれを許さない。

…もしこの世界が夢ならば、僕は再び目が覚めることを望むのか?

目が覚めた先の世界は、過去に囚われた世界。無慈悲な他人が僕に罪悪感を突きつける世界。

その過酷さは、あの頃の過酷さは、この世界で感じている罪悪感などとは比べもににならないほど、僕に辛い世界…。

そこに帰るということは、僕を傷付けるだけの世界に戻る、という事。

それを、僕は、望むのか?

…。

「戻りたくない。…でも、ただ、生きているだけなのも、…辛い。」

それが、この時の僕の結論だった。

だから、僕は、死に場所を探した。

【人類消失十四日から十六日の旅】

警察署に寝泊まりした時。

拳銃を拾った。

黒い金属の塊は、想像以上にズシリと重かった。

一撃で確実に人を殺せる鉛の弾丸。

たとえ戦を知らぬ幼子でも、引き金を引くだけで他人を無慈悲に抹殺できる殺戮兵器。

僕は拳銃を鞄に詰め込んだ。

いつか、役に立つ。

雨にあった。

僕の脳裏に、燃え盛る街並みの光景が過る。

なんとか濡れずに済んだが、天気予報の放送を聞くことはできないこの世界では、自力で天候を予想しなければならない。

文明社会に至る以前、農民や船乗りは、雲と星を見て明日の空を予想したらしい。

僕に出来るか?

真夜中。

満点の星空の下で、僕は地面に身を投げ出して、空を見つめていた。

都会から見る星は、美しさに欠けると言われている。

文明が作り出す光化学スモッグや人工の光が、空の星の光から輝きを奪うからだ。

だが、この世界では、星の光を妨げるものは何もない。

僕の眼前に、天然のプラネタリウムが広がる。

こんな美しい星の空を見たのは、いつの頃以来だろうか。

星空に包まれた時。

僕は、過去、彼女が薦めてくれた小説を思い出す。

その小説のタイトル…【天の光はすべて星】

米国の作家フレドリック・ブラウンのSF小説。

結局僕がその本を読むことはなかったが、その印象深いタイトルだけは、僕の心の記憶に刻み込まれていた。

僕は、想いを巡らす。

ゆっくりと。星空に包まれながら。

大丈夫。この孤独な世界で、僕の邪魔をするものは、何もない。

眼前に浮かぶ輝く天の光。あれは、抽象的な、絵画的な意味での、光ではない。

あの光は、全てが星である。

あれは、光という『景色』ではない。確実に存在している、『星』なのだ。

一つ一つ、生まれて死ぬまでの歴史を持つ、熱と輝きを放つ、『星』なのだ。

輝きと熱を放つ星を、恒星という。恒星とは、太陽系で言うところの太陽に等しい存在である。

その星の近くには、惑星があるかもしれない。

その惑星の中には、地球と同じ、命を育む星もあるかもしれない。

つまり、星空に浮かぶ全ての光は、命を生み出す星なのだ。

星は命…。

では、星と光を『人』に例えたら、どうなる?

その『天の光』が、人の群れを例える『集団』だったなら?

僕が望んで消し去ったのかもしれない人々は、『人の群れ』ではなく、『人類』という生物種上の巨大なカテゴリーではなく、

一人一人が人として生きた歴史を持つ、人生という物語を綴る、人間なのだ。

僕は、旅の途中、寝泊まりや食料調達の傍ら、人の生きた痕跡を探した。

自らの人生を語る人間は、誰もいない。

必然的に僕は、家屋内にある写真や日記、メモを探すことになる。

他人の日記を見る罪悪感はあったが、それでも僕は、他人の人生に触れてみたかった。

【先輩は家族を失いました。でも、その現実が受け入れられず、先輩は今でも誰も写っていない家族の写真を持ち歩いています。社内の人間はそれを揶揄しますが、私はその先輩を見ていると、心が痛みます。でも、私には何もできません】

【学校で虐めにあっている。毎日殴られている。なんで殴られるんだろう…。僕の何が人と違うんだ? なんで僕は特別なんだ? …どうすれば、僕は虐めから解放されるんだ?】

【みんな、鬱陶しんだよ。そりゃあ、俺は要領も悪いし、仕事はできないさ。だけどさ、俺にもペースや考えがあるんだよ! みんなで寄ってたかって世話してくれなくたって、大丈夫なんだよ! まったく…。他人の余計な世話が煩わしくて堪らねえ…】

数日間で、何人もの人生の物語に触れた。

その多くは、自己の弱さと他人の脅威に怯えるものだった。

だが、幸せな物語も、確かに存在していた。

じゃあ、僕の物語は、なんなのだろうか?

不幸なだけが、僕の物語だったのだろか?

僕は、過去に、向き合った。

ゆっくりと。静かに。

大丈夫。この一人ぼっちな世界では、僕を邪魔するものは、誰もいない。

僕は悪い子供だった。独りよがりで、我儘で、親の言うことなど聞かなかった。

高校一年生の頃。両親は家族旅行を考えた。僕は行きたくなかった。駄々を捏ねて、行かなかった。

僕を残して両親は旅行に出た。旅先で、両親が死んだ。悲しい事故だった。

高校を卒業するまで、僕は叔父と叔母に育てられた。

真面目に生きよう。そう思った。

会社の上司が、膨大なノルマを僕に課す。おいおいマジかよ。上司は僕の背を叩き、激励する。「お前なら出来るさ。期待してるぜ」

「あ、あの、それはね、テ、テキストのコピーをさ…」少々コミュ障気味の先輩が、僕に仕事を教えてくれた。指導の要領は悪いけど、有難かった。

始めての給料。過酷さに見合わない額だったが、嬉しかった、叔父叔母に花を贈った。

会社の事務机で、彼女が僕に会釈する。綺麗な顔だった。

一人会社に残り、黙々とパソコンに向かい合う。今日は泊りになるかもしれない。夜警のおじさんが「お疲れさん」と缶コーヒーを奢ってくれた。

仕事が終わらない。時間が足りない。休日出勤する。会社で偶然、彼女に会った。彼女も経理の仕事が終わらず、こっそり会社に来たらしい。なにやってるんだかな。僕らは笑った。

「この小説、面白いんだよ、特にね、宇宙への情熱を捨てられない主人公の格好悪いけど格好いい生き様がね…」【天の光はすべて星】。彼女が薦めてくれた小説。

カラオケに行った。「この前ね、私の好きな歌手が珍しく歌番組に出ててね」「うん、素敵だった!」

昇給した。「これからも頑張れよ!」上司が僕の背中を叩く。微々たる額の昇給に、僕はこっそり舌打ちする。

仕事を終わらせ、彼女に会う。けれど仕事に手を抜けないのは僕の悪い癖。デートにはいつも遅刻した。

「子供は好き?」彼女に聞かれた。僕は子供が好きではない。我儘な頃の自分を思い出す。「嫌いだ」と答えた。

「結婚しようよ」彼女は、僕を真っ直ぐ見つめて、その言葉を口にした。

それは、彼女にとって、決断の時だった。

だが、僕はまだ若かった。いや。幼かった。

まだまだ遊びたかった。

束縛が嫌だった。自由でいたかった。

両親を失ってから、ずっと真面目に生きてきた。僕は、自由に飢えていた。

だから、僕は、『嫌だ』と返事をした。

そして、彼女は、死んだ。

罪悪感が、僕を包む。

罪悪感からは、逃げられない。

【人類消失十七日目】

考えることに疲れ果て、僕は、旅をやめた。

気が付けば、僕は、僕の家に…ボロアパートに戻っていた。

久しぶりに見る、ボロアパート。汚れた天井。

結局、スタート地点に戻ってしまった…。

当てもなく彷徨い、僕は街に着いた。僕が燃やし尽くした、廃墟の街。

僕の罪の場所。

旅の、終わりの場所。

僕の世界を終わらす場所。

死ぬなら、ここだろう。

焼け落ちた駅の跡地で。地下に続く階段に腰掛けて、

鞄から拳銃を取り出した。

膝を付き、銃口を口腔内に捩じ込む。

歯にカチリと金属がぶつかる。

歯医者で味わうような、口腔内に触れる金属の不快感、その何十倍も嫌な味と不快な匂いが、僅かな火薬の香りと共に口いっぱいに、広がった。

後は、引き金を、引くだけだ。

拳銃を持つ震える右手を、左手が無理矢理に抑え込む。

僕は、引き金に掛ける指に、力を込める…。

玉の汗が、額に浮かぶ。

視界の片隅で、彼女が、僕を見つめている。

なぜか、彼女は、美しかった。血の紅は、消えていた。

…。

…。

…。

…。

…。

…。

…。

…。

…。

撃てない!

撃てなかった。

…僕は、引き金を、引けなかった。

僕は力なく、口腔から唾液で濡れそぼる銃口を引き抜く。

「なんでだよ…。なんで死ねないんだよ…」

頭を抱えて蹲る。

「う…ううぅ…。ううううううう…、うぅ…」

嗚咽を漏らす。

誰も、何も、言ってはくれない。僕に言葉をかける者は誰もいない。

「ちくしょう!!」

僕は、やけくそ気味に階段を勢いよく駆け降り、拳銃をコンクリートの地面に力一杯叩きつけた。

…自身の惨めさの憂さを晴らすかのように。

その時である。

地面が、揺れた。

黒い水が、コンクリートを割って、吹き出した。

人が消え、電力供給が途絶え、機械が止まる。

都市の地下には、地下鉄や地下駅、ショッピングモールなどの広い地下空間が構築されている。

これらの地下空間に何故雨水が溜まらないかというと、絶えずポンプが稼働し、地下に溜まる水を引き上げているからである。

だが、その機能が停止した時、地下空間は数度の雨で地底湖と化し、建物に圧迫を強いる。

しかも、先日の火災で建築物の耐久度は限界なまでに低下していたのだった…。

街の地下は、ギリギリの瀬戸際で、均衡を保っていた。

だが、僅かな衝撃でその均衡は脆くも砕ける。

そして引き起こされるのは、

地盤の沈下。まさに、崩壊である。

足元の地面に亀裂が入る!

亀裂から、灰と煤で黒く濁った液体が滲み出る!

やばい! 僕は階段に向かって駆け出す。

僕の真後ろで、地面が大きく裂ける。

黒い液体が裂傷から噴出する血液のように吹き出した!

その衝撃で、地面が大きく陥没する。

陥没した地面の穴は、漆黒に染まり、底が見えない。

あれの中に落ちれば、助からない!

僕の後ろに、死の穴が迫る。

揺れる地面に耐えながら、僕は階段に辿り着く。

だが、死の影は僕を逃さなかった。

階段にも裂け目が生じる。

踏み出すごとに階段の崩壊は広がる。

僕は手足を使って、階段をよじ登る。

僕が触れたコンクリートの階段が、抵抗なく崩れた。

僕はバランスを崩す。

その一瞬の間に。

目の前の階段が崩落する。

死の穴が足元に広がった。

バランスを崩したまま、僕は崩落に飲まれる。

必死で手を伸ばした。

コンクリートが、右手に触れた。

片手で残されたコンクリートの階段に手をかける。

片腕でぶら下がっている状態だ。

手を離せば、死に直結する穴が僕を飲み込む。

数秒間。そのまま、耐えた。だが、限界だった。

僕の右手から、力が抜ける。

このまま僕は、死ぬのか?

いや。待てよ。

死ぬのが、僕の願いだったのではないか?

罪悪感に囚われたままなのなら、死んだ方が良かったのではないのか?

…。

けど。けれど。

…本当に、それでいいのか?

右手一本で体を支える痛みのせいか、僕の瞳に涙が滲む。

…。

…その時。涙に滲む僕に視界の先に、

彼女が、現れた。

紅に染まらない、彼女の瞳。

それは、僕の罪悪感の、顕現。

彼女は、僕に手を差し出した。差し伸ばした。

…。

一瞬の躊躇いのあと。

僕は、残された左の手で、彼女の腕を、掴んだ。

…。

…。

僕の左手が、コンクリートの階段を掴んでいる。

彼女は、消えた。

両の腕を使い、僕は上体を持ち上げて、肘を階段に乗せる。

腕に力を込め、膝を、足を乗せる。

そのまま、階段をよじ登り外に出る。

太陽が、眩しい。

僕は、助かった。

太陽を見つめたまま。

…僕は、呟いた。

「それでも僕は、過去に縋って、生きろというのか?

…そうやってでも、僕は、生きていたいのか?」

生きるとは、自分の歩んできた人生に、過去の寄り添うことに、他ならない。

過去を受け入れて、それでも前に進むこと。

それが…『生きる』…という事なのだ。

僕は助かった。生きている。

僕は地面に身を投げ出して、横たわる。

空の青さが、眩しい。

青い。青すぎる。

こんなにも青い空の下で、

僕は涙を流す。涙が頬を伝って、乾いた地面に零れる。

彼女は、見えない。

でも僕は、彼女に会いたかった。

もう一度、会いたかった。

…。

僕は、空に向かって、叫んだ。心の底から、叫んだ。

「一人ぼっちは、寂しいんだよ…。一人は、嫌なんだよ…。」

それは、この世界での、彼の初めての呟き。

自分の望みを、ありのままの姿を、寂しさを、初めて受け入れた言葉。

【瓦礫の街で。こんなにも青い空を眺めながら】

寂しさとは、繋がりを求める力である。

寂しさという感情は、人間にとって、とても深く切実なもの。

人間は、その感情を常に何かで埋めようとする、又は我慢する。

それは、抑圧する事が当たり前だと思い込める程、強く、深い、心の動き。

この世に無駄なものは無い。全ての事象に、存在する理由がある。

寂しいという感情にも、必ず意味がある。

寂しい時、人は他人を求める。

他人の息遣いを、動きを、温もりを、存在感を感じたくなる。

自分が他人から必要とされる実感を求めたくなる。

(それが叶わない時、人は寂しさを感じる)

「自分を必要として欲しい、認めて欲しい」

その感情の中心は、自分、である。

つまりそれは、自分自身が自分の存在を受け入れ認めることに他ならない。

寂しさとは、自己の存在の肯定である。

人は、生まれた瞬間は、一人である。

人はこの世に生まれ出でた瞬間、母の子宮の中で揺れる感覚を求め、温もりを求め、産声を上げる。

その産声を聞き、母は再び子をその手に抱く。

子は成長し、いずれ母から距離を取る。

その過程で、友を、仲間を、恋人を…、他人との繋がりを作り、寂しさを埋めていく。

だが、別れの瞬間は、必ず来る。他人との決別の時は、必ず訪れる。

別れ失い、そしてまた、新たな繋がりを求めていく。

人生は、その繰り返しである。

そして、その繋がりを求める感情の源こそ、『寂しさ』の本質である。

崩壊に中で、彼女は僕に、生きろと伝えた。手を差し伸べた。

彼女は、僕が抱き続けた、寂しさそのものだったのかもしれない。

この世界で、僕は一人だった。寂しかった。

けれどこの世界は、僕を傷付けない。傷付ける事は無い。

たった一人でも、生きていける。過去に向き合わないで、生きていける。

この世界は、僕に優しかった。僕に穏やかだった。過去の喧騒が、嘘のようだった。

それでも僕は、戻りたいのか? あの頃に…。

…。

青い空と重なるように、天井が見えた。

ボロアパートの、薄汚れた天井。

空の青さと汚れた天井が、混じり重なる。

…。

寝転ぶ僕の隣に、彼女が現れた。

傷一つない綺麗な顔を、僕に向ける。

彼女に目を向けながら、僕は問う。

「これは、夢なのかな?」

彼女は優しく答える。

「違うよ。これは、君の現実の続き。」

「じゃあ、これは現実なのか?」

「違うよ。これは、君に与えられた、決断の選択肢。」

僕は理解した。

今が、選ぶ時、なのだと。

再び、空と天井の混じる光景に視線を戻し、僕は語る。

彼女に。自分の選択を。

僕は、人が嫌いだ。

人は裏切る。蔑む。見捨てる。

今、僕が感じている寂しさも、人の繋がりを求める意思も、他人には無関係な事なんだ。

見せかけだけの、自分勝手な思い込みなんだ。

祈りみたいなもので、ずっと続くはずのないものなんだ。

他人が僕の心を、願いを、全部理解してくれる事なんて、絶対にあり得ないんだ。

…。

「それでも、あなたは、あの世界に戻りたいの? あの喧騒の日々に、帰りたいの?」

…。

この世界で独りになって。

一生懸命に生きて、

生きるために歩いて、

自分の力で街を走って、

光り輝く星に包まれて、

流れる雲を眺めて、

他人の人生の物語を知って、

自分の人生の物語に向き合って、

…寂しくて…、空を見て…、それでも生きたくて…。

…。

この世界での、一人きりの時間の中で、僕は思った。

「自分に、過去に、他人に、そして、君に、…もう一度向き合いたい。

そう思ったんだ。

僕は、君を、過去を、受け入れる。もう逃げない。忘れない!」

青は消えた。天井だけが、見えた。

そして僕は、…目が覚めた。

【目が覚めて、それから】

万年床の寝床の上で、僕は目を開けた。

薄汚れたボロアパートの天井が見える。

体を起こし、玄関から外に出た。

外には、

人がいた。

鞄を抱えて足早に道行くサラリーマンも、

ワイワイと騒ぎ立てながら学校に向かう子供も、

愛犬と一緒に近所を散歩するお年寄りも、

何一つ変わること無い、日常の朝が、人々が、そこにいた。

…あれは夢だったのか?

僕は頬に手を当てる。

そこには、乾いた涙の跡があった。

…いや。きっと、夢じゃない。

さて、何をしようか。

僕は周囲を見渡した。

本棚の近くに落ちている預金通帳が視界に入る。

…取り敢えず、大家さんに家賃について、相談に行こう。

僕は苦笑いを浮かべながら、温かい朝食の香る大家さんの部屋に向かって、階段を降る。

部屋の床に、彼女の写真が落ちている。

僕には、その写真の中の彼女が笑っているように見えた。

それから半年後。

僕は、福祉関係の介護施設で働いている。

デスクワークしか経験の無い僕は、介護施設の業務に慣れるまでは苦労した。

けれど、人と関わり続けることを求められるこの仕事は、楽しかった。

今でも忘れることはない。

あの、一人ぼっちの17日間を。

あの世界が夢か現か幻だったのか、興味はない。

けれど、あの孤独の時間は、

神様が、僕に与えてくれた時間だっだのだと思う。

生きて歩いて走って空を見て、過去と世界と、自分に向き合う為の時間だったのではないかと、思う。

朝。出勤して。

「おはようございます!」

僕の声に、矢代先輩が返事を返す。

「おう、叶瀬! 今日も忙しいが、頑張るぞ!」

今日も僕…叶瀬悠人の、窮屈で忙しなくて喧騒に包まれた、それでも意味のある一日が始まる。

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ネタバレ注意

凄く面白かったです!!

夢でこんなの見たんですか…怖いですね(・・;)

やあ寂しがりやのロビンミッシェルだ。
壮大な世界観に引き込まれてしまったよ。俺には三日ともたない世界だな!…ひひ…そしてなぜか後半涙が…う…ごほごほ…い、いかん!年のせいかな…ひ…

とても面白かったです