幼い頃、祖母の家で遊んでいた私は手鏡を割ってしまい、砕けたガラスの欠片によって左目を失った。
あまりに幼かったので、私自身は何も覚えていない。
指で瞼の内に触れると、乾いた肉の感触だけが返ってくる。眼窩の中には何もない。時折、乾いた肉が痒くなることがある。そっと指を入れ、優しく掻くと奇妙な気持ちになった。
ありもしない、左目でしか視えないものがある。
それは決まって、鏡の中に棲んでいた。
初めて、それを視たのは五つになった頃だった。もしかすると、もっと幼い頃から見ていたのかもしれないが、私がそれをそれとして意識できるようになったのは、この時からだ。
私の家は古い日本家屋で、和室ばかりの平屋造りだ。その一番奥の和室で、私は絵を描いて遊ぶことが多かった。なんとなしに、母の鏡台が気になった。いつも閉じられている鏡台の戸が開いていて、中の鏡がこちらを覗いていた。不意に、その鏡のなかで何かが身を翻したような気がした。
私は戸を開き、三面鏡の前に立った。そこには様々な色彩を放つ魚のようなものが泳ぎ回っていた。驚いて室内を振り返るが、そこには何もいない。視線を鏡に戻すと、変わらず鏡のなかを悠然と泳ぎ回っている。
以来、私は鏡の中にそれらを視る。
鏡でなくてもいい。よく磨かれた銀器など、ものを写すものなら何処にでもいた。
それらは私にしか視えない。しかも、左目を手で覆うと見えなくなってしまうので、どうやらこれらは私の左眼にしか映らないらしい。同じ形をしたものは一匹もおらず、漠然と魚のような形をしているとしか言いようがない。尾びれや背びれのようなものがあり、泳いでいるので魚のようだと感じるのかも知れなかった。
最も私を魅了したのは、それらの放つ色だ。それらの放つ色とりどりの鮮やかさ。それをどうしても形容したくて、私は本屋で日本の伝統色を紹介した本を買い、鏡を眺めて過ごした。
菖蒲色、翡翠色、撫子色、多種多様な色が深く混じり合い、にわかに輝いて泳ぎ回る姿は美しかった。私は暇さえあれば鏡を覗いて過ごし、いつの間にか高校生になった。
高校に行ったのは入学式の当日だけ。
知らない他人でいっぱいの部屋。それだけで息が詰まって死にそうになった。同じ服、同じ髪型、同じ靴。型にはめた大量生産品のひとつに自分がなったような気がして吐き気がした。担任に気分が悪いと訴えて、逃れるように家に帰った。それきり、学校には行っていない。
私は、他人と折り合いをつけて生きていくことができないでいた。
母親はそんな私を責めず、いつも悲しそうに謝った。
「ごめんなさい。私が目を離したばっかりに」
母の気持ちもわからぬではないが、私には失くしてしまった左目などよりも、憐れむように私を見つめる母の視線の方が辛かった。
「お父さんの分も私がしっかりしなくちゃいけないのにね。ごめんね」
そうして、若くして亡くなった父の名を呼んで泣くのだ。
私は自分の家が嫌いだった。いつも薄暗い水の底に蹲っているような気分になる。だから、私は家に帰るとまっすぐに自室へ篭り、鏡を眺めた。異形の妖しい輝きは、いつだって私を慰めてくれた。
その日は、朝から針のように細い雨が降っていた。
「雨だ」
黄色いレインコートを羽織り、すぐに家を後にする。雨の日は、私にとってこれ以上ない良い日だ。
家をでると、街の至る所に水たまりができている。プランターに溜まった水、土壁の隙間から流れ落ちる水、側溝を轟々と流れる水のなかにも、それらが視えた。そして、それらは妖しい色を放って街中を泳ぎ回るのだ。街はそれらの光に溢れて視えた。
いつの間にか、屋敷町までやってきていた。そろそろ戻ろう、そう思ったとき、近衛湖疎水をじぃと眺めている男の人を見つけた。その人は骸骨のように痩せこけていて、鳶色の着流しに身を包んでいる。病人のようにも見えたが、疎水を見つめ続けるその目だけが獣じみていた。赤い和傘が妙に鮮やかで、雨の中に浮かんでいるようだった。
視線に気づいたのか、男がこちらを振り返って微笑した。青白い顔に亀裂のような笑みが走った。
「ほう。君はケンキか」
そう私に向かって呟いた。歩みをこちらに向けながら、私のことを値踏みするように睨め回した。
「ケンキ?」
男は欄干に指先で「見鬼」と書いてみせた。
「君はあれらが視えるのだろう?」
指差した先、道路の端に広がるひときわ大きな水溜り。そこに緋色の光を放つ魚が泳ぎ回っていた。
「美しい。そうは思わないかね」
「あなたも、あれが視えるのですか」
男は薄く微笑し、良いことを教えてあげよう、と呟いた。袂から小さな袋を取り出し、その中から淡く桜色の光を放つ、蛤を模した根付けを摘みあげた。
「見ていてごらん」
手を伸ばし、水面へと根付けを落とした。
あ、という間もなく根付けが疎水に落ちて、小さな水音をあげた。すると、餌が放り込まれたかのように、いっせいに異形の魚たちは蛤にむらがり、うごめく玉のようになって根付けを貪り始めた。血の滴る肉に群がるサメのようで、なんだか気味が悪かった。
「あれらはああいうものを特に好む。しかし、なかなか好みに煩くていけない。あの蛤の根付けもなかなかの逸品だったんだがね」
「あれらは、なんなのでしょう」
「妖怪、化け物、怪異。なんとでも好きに呼べばいい。あれらが視える者などそうはいない」
「あの、」
「木山だ。私は、木山という」
彼が名乗ったので、私も名乗る。
「左目は事故か何かで失ったのかね」
眼帯を外してもいないのに、木山さんは私の左目がないことを言い当てた。
「はい」
「そうか。だが、人とは違うものが視えるというのは悪くないだろう? 私はどういうわけか、生まれつきあれらが視えた。こうして同類に会うのは、珍しいことだ」
「他にも視える人はいるのですね」
「決して多くはないがね」
「あの蛤はなんだったのですか」
昔、ああやってあれらに餌をやろうとしたことがあったが、一度も食いつかなかった。それどころか、まるで視えていないようだった。
「あれらをよく見てみなさい。あれらには眼がないのだ」
確かに言われてみれば、あれらには眼らしきものはなにもない。
「こちらの世界のものは捉えられない。が、あの蛤のように持ち主の念がこもったものなら、嗅ぎ分けることができるらしい」
「念?」
「いわゆる曰く付きという物だ。あの根付けはそういう曰く付きの骨董品だった」
そういうものをあれらは喰う、と彼は笑みを深くした。
疎水に降り散る桜を眺めながら、私は木山さんの懐をようく視た。
あの輝きが、袂の奥にいくつも転がっているのが視えた。
「私はこういうものを蒐集している。もしよければ、君にも少し分けてあげよう。同類のよしみだ」
ついて来たまえ、と先に歩き出した木山さんの後を、私は特に何も考えずについていった。
木山さんの邸宅は竹林の奥に蹲るようにしてあった。まだ昼間だというのに、長く伸びた竹に遮られて、まるで夕暮れのように暗かった。漆喰の塀で覆われた古い日本家屋は、なんだか祖母の家によく似ていた。玄関先には家紋入りの提灯がついていて、門には「木山」という表札がかけられていた。
「寂しい中年の独り暮らしだ。遠慮はいらない」
門の前で私が戸惑っていると、木山さんはくすくすと微笑した。
「用心するのはよい心がけだが、あまりそこにいない方がいい。このあたりは狐が出る。噛まれたら厄介だぞ。門を閉めて、とりあえずこちらに入りなさい」
私はうなづいて、門の内側へ入った。門扉を閉めると、扉の向こうで獣の息遣いのようなものが聞こえたような気がした。
「お茶でも出そう。寛いでいきなさい」
屋敷の中は想像していたよりもずっと暗く、気味が悪かった。そうして、その屋敷のあちらこちらにあの輝きを放つ品物が幾つもあり、灯り一つ点いていない屋敷の中を、それらの輝きだけが照らしあげていた。
お邪魔します、と断ってから後に続く。
縁側から日本庭園風の中庭が見えた。小さな池があり、淡く白い輝きを放つ魚が泳いでいるのが視えた。片隅には土蔵があり、分厚い錠前がぶら下がっている。
「蔵の中も視てみるかね。手に負えない駄作ばかりでね、処分に困っている。欲しければ、好きなだけ持って行ってくれてかまわんよ。どちらにせよ、近々、山に捨てに行かせるつもりだ」
私は首を横に振った。
「君は賢い」
木山さんは肩を揺らして嗤い、口元を手で隠した。
通されたのは三十畳ほどの広い和室。和紙を握りつぶしたような形の照明が吊るされ、淡い光が四方を妖しく照らしあげていた。床の間には香炉があり、眩暈を覚えるような甘い煙を吐いている。
「座りたまえ。君の欲しいものを持ってこよう」
そういって、木山さんはどこかへ消えた。
下座に腰を下ろしながら、私はやってきたことを激しく後悔した。どうしてこんなことになったのか。
耳に痛いほどの静寂。時計の針の音さえ聞こえない。
ふいに、足音が戻ってきて、障子が開く。
「若い子にはつまらない場所だろう。私はテレビやラジオの類は嫌いでね」
すべて捨ててしまった、と囁いた。
木山さんは台のうえに小さな箱を置いた。黒漆の艶やかな箱で、なんだか昔どこかで見たことがあるような気がした。螺鈿細工で牡丹の花が描かれていて、ぼんやりと牡丹色に淡く輝いている。甘い匂いに頭がぼぅっとなる。
「これも曰く付きというものですか」
「そうだ。だが、君が欲しいものは、この中身の方だろう」
木山さんがそういって、箱を外す。中の物を見た瞬間、私は思わず悲鳴をあげた。
それは、人間の眼球だった。
「よく見たまえ。これは水晶を削って作られた義眼だ。本物ではない」
恐る恐る見てみると、確かにそれはよくできていたが、本物ではないようだった。瞳の部分が角度によって輝きを変え、七色に輝いて見えた。
「とある名家の当主が、幼くして目を奪われた娘の為に作らせたものだ。君の左目に入れたなら、きっと君のお母さんも喜ぶだろう。学校で奇異の目にさらされることもない。これがあれば、君はようやく普通になれる」
木山さんは穏やかな口調でそう言って、義眼を手のひらのうえに乗せた。床の間から漂ってくる甘い匂いに、頭の芯がじんわりと痺れる。
「取引をしよう。これは君に譲渡しよう。お代はいらない。その代わり、私の手伝いをして欲しい」
「手伝い?」
「君は、魚釣りをしたことがあるかね?」
ぼうっとする頭で、首を横に振る。
「あれらを釣り上げて欲しい。とりあえずはそうだな。この化粧箱にでも入れておけばいい。目当ての魚籠はまだ暫くは私の手元にはやってこないようだから」
木山さんは右手で顔を覆うように掴み、左手で義眼を手に取った。指の間から見える木山さんの瞳が、細く細く変じていた。強い潮の香りが鼻をついた。
「目を閉じろ」
亀裂のような笑みが、白い顔に刻まれているのを見た。
そこで、私の記憶は途絶えた。
気がつくと、自室のベッドで横になっていた。レインコートも着ていなければ、寝間着から着替えてもいなかった。酷い寝汗をかいていて、ひどく気持ちが悪かった。
酷い夢を見た、と思った。
ふいに、異変に気がつく。
視界がおかしい。
恐る恐る、左目に触れる。そこには柔らかい肉をした、私の左目があった。
◯
友人と別れ、電車に乗り込み、外の風景をぼんやりと両方の眼で眺める。滑るようにして右から左へと流れていく町並みは夕暮れに染まり、いかにも夏の黄昏といった風だった。
電車がトンネルに入り、窓に自分の顔が映る。眼帯で隠していた日々が懐かしい。あれからもう二年。この左目にも随分と慣れた。
木山さんが義眼だと言った、この左目は私の右目以上にいろんなものを視る。表面上、私は他の人と変わらないようになり、なんとか学校でもやっていけている。それを一番に喜んだのは、母だった。この妖しい目のことを問うでもなく、ただよかったと妄信した母が少し怖かった。
あれから暫く、私は木山さんの屋敷を訪れることができなかった。確かめにいけば、あれが夢ではなかったのだと認めてしまうような気がした。
そうこうしている内に、木山さんが死んでしまったことを新聞の紙面で知った。どうやら誰かに殺されたらしい。犯人は捕まっておらず、きっと捕まえられないだろうなと思った。
結局、あの屋敷を訪ねたのはついひと月ほど前のことで、記憶を頼りに辿り着いた木山さんの屋敷は全焼してしまっていた。誰かが火を放ったのだろう。焼け跡には何も残っていなかった。
自宅へ戻ると、テーブルの上に夕飯についての書き置きがあった。今日も残業で帰るのが遅くなるという。
私は着替えて自室へ戻ると、クローゼットの中から化粧箱を取り出した。ぬらぬらと光沢を放つ黒く漆を塗られた化粧箱。静かに蓋を持ち上げると、深い井戸を覗き込むような形になった。漆黒の箱の奥底には、あれらが輝きながら泳ぎ回っている。
「また減っている」
どこかと繋がっているのか、時折それらは姿を消してしまう。
私は手鏡を取り出し、床に置いた。覗き込むと、反射した天井を悠然と泳ぐモノを見つけた。鈍色の輝きを放ちながら、それらは楽しげに泳ぎ回る。
「今日は少ないな」
ひとりごちて、私は自分の髪の毛を一本、根元からそっと引き抜く。長く黒い髪の毛の先、そこに小さな鏡の欠片を結びつけ、そっと糸先を鏡へと沈めた。
つ、とほんの一瞬の抵抗の後、潜るようにして破片と髪の毛が沈む。あとは、ただ待つしかない。
暫くして、あの異形が破片に囚われた。逃げようともがくけれど、これといった重みは感じない。私はゆっくりと髪の毛を引き上げ、異形は鏡から出ると姿を消した。代わりに、結びつけた破片が淡く鈍色に輝く。
髪の毛を解いて、破片を化粧箱のなかへ落とす。水中に墨を落としたように、異形が姿を現して、身を翻して奥底へと泳いでいった。
私は蓋を閉めて、それから体を横にした。
魚釣り、と木山さんは言っていた。
この方法を思いついたのは、この眼を手に入れてからだ。なんとなく思いついて、なんとなくやってみたら上手くいった。あれらは鏡の外では姿形を保てないらしく、他の餌では釣り上げることができなかった。
木山さんの言っていたことを、どうしてこうやって続けているのか分からない。ただ、あの人はこれは取引だといった。この眼を手にいれた以上、あの人が望んでいたことをすることが正しいような気がした。そうしなければ、なにか恐ろしいことが起きてしまいそうな予感があった。
眼が覚めると、部屋の中はすっかり暗くなっていた。時間を確認すると、もうとっくに夜になっている。
最近、なんだか身体が疲れやすい気がする。倦怠感が抜けず、すぐに眠ってしまう。受験勉強で疲れているのかもしれない。
不意に、呼び鈴が鳴った。母なら鍵を持っているはずだ。こんな時間に来客なんて珍しい。
階下へ降りていくと、曇りガラスの向こう側に人影が見えた。私はチェーンをかけたままドアを開き、その隙間から来訪者を伺い見た。
「どうも」
そこには、見覚えのない若い男が立っていた。片腕がないのか、片方の袖がぷらぷらと夜風に揺れている。
「あの、どなたでしょうか?」
「夜行堂の使いの者です」
「夜行堂?」
私が不思議そうに尋ねると、男はなんだか怪訝そうな顔をした。
「ここって御厨さんの家だよね」
「はい。御厨はうちです」
「おかしいな。なにも聞いてない?」
「なにも。母にご用ですか? なんのご用件でしょうか」
「そんなに警戒するなよ。俺だって使いで来ただけなんだ。困ったな。事情は知らされていないのか。あの化け物、行けばわかるとか適当なこと言いやがって」
「なんのことですか」
「君さ、木山さんと取引しただろう」
心臓が、止まるかと思った。
青ざめた私の表情を見て、男は安堵したような顔になった。
「やっと見つけた。苦労したよ」
「あなたは木山さんのお知り合いですか」
「知り合いといえば、知り合いかな。決して仲良くしていたわけじゃないがね」
尻拭いさ、と男は忌々しそうに言った。
「俺は夜行堂という骨董店の主人から、木山さんの遺した骨董品を回収するように言われている。君もあの男と取引をしただろう」
「どうして、それを」
「俺には分からないよ。夜行堂の主人に聞いてみればいい。でも会わない方がいいと思うぜ。あれとは関わり合いにならない方がいい。あの男から受け取ったものを持ってきてくれ。俺が預かろう」
私は少し考えてから、首を横に振った。
「少し待っていてください。品物を持ってきますから、私をその夜行堂という店へ連れて行ってください。直接、話を伺いたいと思います」
「怖いもの知らずだな」
男はそう言って困ったような顔をしてみせた。
◯
夜行堂という骨董店は屋敷町の外れ、入り組んだ路地裏にひっそりと佇んでいた。
曇りガラスの戸を開けて中へ入ると、埃の匂いが鼻をついた。店内は薄暗く、中央に吊るされた裸電球が辺りをぼんやりと照らしあげていた。棚の上には値札も貼られていない品物が乱雑に並び、そのどれもが淡く独特の光を放っているように私には視えた。
「いらっしゃい」
声の先、帳場に腰をかける人の姿を捉えた瞬間、思わず吐きそうになった。
男、女、老人、幼女、獣、とぐにゃぐにゃと姿が変わる。まるでどのようなカタチを取ろうかと思案しているように。そうして、影がひとつに纏まるようにして、若く綺麗な女性の姿へと転変した。少なくとも、私の眼にはそう視えた。
背筋が、泡立つ。
「ほう。君は見鬼か。これほど私を深く視たものは珍しい。木山さんが気に入るわけだ」
女性はそう言って、長いキセルを口に咥えて微笑む。甘い紫煙を天井に吐くと、なんだか目がチクチクした。
「連れてきたぞ。御厨さん、こちらがこの店の店主だ。聞きたいことはこいつに聞いてくれ。おい、俺の仕事はここまでだ。あとは彼女と話をすればいいだろう」
「ああ。ご苦労様。悪かったね、使い走りをさせてしまって」
「微塵も悪いなんて思ってない癖に。よくもそんなことが言える」
「今度は仕事を頼もう。気をつけて帰っておくれ」
男は忌々しそうに眉をひそめて、それから踵を返して店を出て行ってしまった。
女の人はカーディガンを羽織り、私のことを値踏みするように眺めた。
「君の眼に見える、あの光を放つ魚はなんだと思うね?」
驚きはしなかった。きっとこの人は何もかもを知っている。
「わかりません。昔から、鏡などの中に棲んでいるのは知っていましたが、あれがなんなのかは知りません」
「本当に? 薄々、感づいているだろうに。勘違いをして欲しくないんだが、私は別に君を責めたいのでも、糾弾したいのでもない」
私は一度眼を閉じて、それから口を開いた。
「人の魂だと思います」
ご名答、と女主人は微笑んだ。
「あれらは人の魂というものだ。鏡というのは厄介なものでね、映った者の魂を少なからず写し取ってしまう。鏡の世界というのはあちらと繋がっているから、あれらはどこからともなくやってくる」
私は恐ろしくなり、持ってきた化粧箱を店主に見せた。
「この中に、私が捕まえた魚が入っています。どうしたらいいでしょうか」
「木山さんはね、人の魂というものに飢えていた。これは籠のようなものなのだけれど、魂を閉じ込めておけるわけじゃない。その証拠に、たまに数が減っていることがあるだろう?」
「はい。でも、魂というものが抜けてしまっても大丈夫なのでしょうか?」
「写し取られるのは文字通り、影だけだからどうということはないよ。彼もあの輝きで満足していればよかったのだけれど、そうはならなかった。人間の魂そのものを蒐集したくなってしまった結果、身を滅ぼしたのさ」
強欲だからね、と店主は笑う。
「蓋をあけて置いておけば、そのうちすべて居なくなる。閉じこめておいてもよいけれど、あまり集まると災いを呼ぶから止めた方がいい」
「いえ。これはこちらにお返しします」
「いや。それは君の物だ。初めから君の元へたどり着くようになっていた。これはね、君を主人として選んだんだ。どこへ捨てても君の元へ帰ってくるだろう」
「では、この左眼はどうしたらよいでしょう」
「それもそのままで構わないよ。ないと不便だろうし、それは君の眼窩から引き抜けば、君を殺してしまうだろうから、死ぬまでそのままだ。左目があって不便ということもないだろう?」
「私が死んだら、どうなるのでしょうか」
「新しい主人を求めて、また人の手を渡り歩くだけだ。心配せずとも、君に害を為すことはない。便利な目を手に入れたとでも思っておけばいい」
「回収するのではなかったのですか」
「回収というのは語弊がある。相応しい人の元にあるかどうか、それだけが知りたかった。なにしろ、あの人の蒐集品はどれも危険なものばかりでね。所在と持ち主は知っておきたかったのだよ」
「ひとつ、聞いてもいいでしょうか」
「なんだい」
「あなたは、人間ですか?」
女主人は喉を鳴らして笑う。可笑しくて仕方がない、とでもいうように。
問うてから、私はこの質問になんの意味があるのかと後悔した。
聞くべきではなかった。確かめるべきではなかったのだ。
「決まった姿形に囚われているのは、人間くらいのものだよ」
そう囁くように言った。
もう帰りなさい、そう女主人が促して、軽く手を振った。
私は頭を下げて踵を返し、一度も振り返らずに店を出た。
私は今、きっと蜘蛛の糸のように細い紐の上で、危険な綱渡りをしているのだ。
足を踏み外してはいけない。
私は、木山さんとは違う。
まだやり直せる。
店を出て、すぐに化粧箱の蓋を外した。
中を覗き込むと、一匹の魚も見当たらなかった。
あの女主人のいっていたように、どこかへ消えてしまったのだろう。もしかすると、あの店のなかに泳いでいってしまったのかもしれない。
振り返ると、夜行堂は霞のように掻き消えていた。
そこにはただ、傾いで今にも倒壊しそうな廃屋が蹲るようにしてあるばかりで、先ほどの店はどこにもなかった。
以来、私は鏡を視ない。
時折、あの箱の中身を覗いてみたけれど、あれらが戻って来ることは二度となかった。
作者退会会員
新作になります。
少しずつ、夜行堂の本質的なものを書いていこうと思います。
楽しんで頂ければ光栄です。
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