中編3
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におい

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坂さんは動物が大好きだ。

犬でも猫でも鳥でも、おおよそ生きている物ならなんでも好きだ。

視界に入ると思わず追いかけてしまうほどで、

一緒に歩いていて突然いなくなったかと思えば、路地裏で野良猫に話しかけていた――なんてのはしょっちゅうある。

しかし、動物の方は坂さんに決してなつかない。

どんなに大人しい犬でも、人に慣れた猫でも、坂さんを前にすると吠えて暴れて収拾がつかなくなる。

まるでこの世の終わりのような騒乱が起こるので、

坂さんの店から半径5km以内にあるペットショップには、立ち入り禁止になっている。

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僕が飼っていた犬も、普段は僕の躾のおかげで吠えない噛まない逃げない賢い犬だったのに、

坂さんの前では狂ったように――或いは何かに怯えるように、力の限り吠え続け、しまいには噛みついてしまった。

幸い傷は浅かったから良かったものの、下手すると大惨事になっていた。

青い顔で救急箱を探す僕とは対照的に、坂さんは涼しい顔で、

「君んちの犬、顎弱いなぁ。柔らかいもんばっかりやっとったらあかんで」とケラケラ笑っていた。

スケールの大きさで負けた感じがする。

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「原因は匂いやね」

包帯を巻いていると、坂さんはぽつりと呟いた。

「……加齢臭っすか?」

冗談めかして言う僕に対し、坂さんは皮肉げな笑みを浮かべた。

「犬も猫も、人間とは比べ物にならんくらい鼻がええからなあ。

 どんな薄い匂いでも気付いてまうんやろね」

試しに僕は、鼻を近付けて坂さんの匂いを嗅いでみた。

……なんてことはない。少し黴臭い、通い慣れた店の中と同じ匂いがしただけだ。

僕にとっては親しみがあって落ち着く匂いだけど、動物はこれが苦手なんだろうか?

納得出来ていない僕を見て、坂さんは手を振った。

「君は長いこと一緒におるから、麻痺してもうてるんやろね」

「けど、初めて会った時から匂いなんてしませんでしたけど」

「ん?……ああ、言い方が悪かったか」

坂さんはすっかり手当ての終わった手で僕の鼻を抓んだ。

「僕が言うとる匂いは、君が感じるところの――悪意やね」

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途端に、鼻孔の奥に悪臭が沸いた。肉が腐ったような、胸が悪くなる匂い。

背筋が凍り、頭痛がして気が遠くなる匂い。

脳髄まで犯され、酸っぱい物が込み上げてくる。

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僕は坂さんの手を振り払うと、トイレに駆け込み腹の中の物を全て吐いた。

体が震えて止まらない。苦しくて仕方がない。指先から熱が消えていく。

胃液まで吐いても、気分は全く良くならなかった。

便器にすがりつく僕の滲む視界の端に、坂さんの無表情な白い顔が映った。

「……なんなんすか、一体」

どうにか息を落ち着け、僕はどうにかそれだけを絞り出した。

坂さんは答えず、ただ曖昧に笑った。その笑みに、また匂いが沸く。

見慣れた顔の筈なのに、それが恐ろしい。

これは、本当に僕が知っている坂さんなのか?

それとも、僕の知らない一面が覗いたのか?

「悪意を感じるなんて、ただ無防備なだけやな」

哀れむような、悲しむような声がした。

僕は振り返ることも出来ずに、ちからなくトイレの床にへたりこむしかなかった。

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僕が感じたのが本当に悪意なら、一体坂さんに何があったのだろう。

無差別に振り撒かれる悪意は、まるで全てを憎んでいるようだった。

坂さんは僕の友人で、古美術商をしている。店が坂の途中にあるから、通称『坂さん』。

外にあまり出ないせいで日に焼けていない白い顔で、

今日もレジスターの前に座り、壊れたテレビをぼんやりと眺めている。

僕は彼について、名前と歳と一つの厄介な趣味しか知らない。

それ以外を、知る勇気がない。

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