中編5
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セミとり

大阪ではクマゼミが天下を取って、ミンミンゼミが絶滅したと言われているんです。

セミのわりに繊細というか湿気や暑さに弱いミンミンゼミは、湿度が高く亜熱帯気候と呼ばれる大阪では生きていけず、暑さに強くタフなクマゼミが、幅を利かせているわけですが……

「お父さん、ぼくミンミンゼミが見てみたい」

小学一年生の息子に言われたら、親父としては張り切らざるをえないでしょう。

「よっしゃ! 探しに行こう」

そんなわけで、早朝四時からハイキングで有名な900メートル程度の低山に行ったんですよ。

sound:40

低山とは言っても、一歩登山道を離れれば深い笹藪で、木々も鬱蒼と茂っていて、まだ薄暗い中を歩いていると自然に圧倒される感じがします。

目の前をちょっと大きめの蛾が横切っただけで、「わぁっ」と声を上げてしまう始末。

息子の前だから威張ってますけど、一人だと絶対歩きませんね。

明るくなると、鳥が鳴き始めて、ちょっとほっとしました。

sound:1

クマゼミ三匹とアブラゼミ二匹採って、山頂に上がったのは正午過ぎ。

おにぎりを食べたあと、今度は山を下りがてらミンミンゼミを探すことにしました。

車を停めた駐車場まで戻るわけですが、同じ道の往復だとつまらないので、ハイキング道を逸れて沢の中に入ってみたり、地図を見て近道になりそうな小さな崖を滑り降りたり、そういう遊び下山をしていました。

午後二時十五分でした。

獣道を歩いていると、どこからか聞こえたんです。

ミーンミンミンミンミンミンミン……

息子が「お父さん、ミンミンゼミ!」と声を上げたので、慌てて口を手で押さえました。

鳴いているのはわずか一匹、そいつが逃げたら困りますからね。

ミーンミンミンミンミンミーン……

「もう少し下だな」

獣道から下の急傾斜を覗くと、ここから三メートルほど下れば木が森のように茂っていて、さらに私の身長ほどもある低木が密集し、先が見通せません。

もちろん道なんてなく、一面が緑のジャングルのようです。

見た目にも崖に近い傾斜で、正直これは大変だと思いました。

しかし、

「お父さん、あの木のあたりにいるかな?」

息子の声に背中を押され、私は虫取り編みを杖にして、木の幹に掴まりながら、じりじりと傾斜を下りたのです。

順番に下の木に掴まれば、なんとか滑り落ちずにすみそうでした。

「ここは危ない。おまえは待ってなさい」

「うん」

ミーンミンミンミンミンミンミン……

徐々に鳴き声が近づいてきます。

傾斜の上から心配そうにこちらを伺う息子の姿も、やがて低木に邪魔されて見えなくなりました。

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ミーンミンミンミンミンミーン……

獣道から二十メートルほど下りたところで、ほぼ頭上から鳴き声が聞こえました。

すぐ周りにある三本の木のどこかにいるはずです。

地面も見えないほど低木の葉が重なる中、枝を探して上を向きながら、私は崖を滑り落ちないように足をしっかり地に踏みしめました。やわらかい腐葉土が足を包んでくれます。

ミーンミンミンミンミンミンミン……

それは一本の大木でした。

木の高さ二メートルあたりから横に張った枝に掴まる黒いものが見え、私は枝ごと巻き込むように網を振り下ろしました。

sound:26

黒いかたまりがぽろり、と網の中に落ちるのが見え、

次の瞬間それは想像以上の重さで網をひっくり返し、私の肩の上に落ちてきました。

「うわっ!」

真っ黒なそれは、数本の巨大な角を持つ甲虫に見えました。

しかし、よく見ると色は人工的なくすんだ黒で、

凝視するうちに片側に五つの突起のある奇妙な物体だとわかりました。

まるで私の肩を叩くかのように――肩の上に止まったそれ。

五本の突起を持つそれは、黒い手袋をはめた手首、だったのです。

「ぎゃっ!」

思わず振り落とすと、それは私の腰から下に重なる低木の葉に落ち、そのせいで足もとの地面が開けました。

私は、柔らかく黒い腐葉土の上に立っていると思っていたら、

すっかり朽ちた何者かの遺骸を包む、黒い服を踏んでいるのでした。

sound:19

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ミーンミンミンミンミンミンミン……

再び始まった鳴き声に、私は我に返り、必死に崖を登ろうとしましたが、足が金縛りか泥沼にはまったかのように上がりません。

なんとか手が動いたので虫網で必死に傾斜を突いて、ようやく片足が少し上がったと思えば、その場で転んでしまいました。

sound:26

ぽとり――

music:3

ふたたび肩に重みを感じて見ると、

葉の上に落ちていた手が、なぜか再び私の肩を掴むように乗っているのです。

「ぎゃああああ!」

私は肩から黒い手を振るい落とし、必死に別の幹に掴まりました。

足が動くと遮二無二、幹から幹に駆け上がるのですが、登っても登っても息子の待つ獣道に出ない。

もしかすると、上がる方角を間違えたのかもしれないと思うほど長い時間を登り続けて、ふと気が付くと、ほんの二メートルほど向こうの木の陰に、黒い手が「おいでおいで」と揺れているんです。

ミーンミンミンミンミンミンミン……

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観念しました。

私は傾斜に膝をついて、両手を合わせ、黒い手に向かって心から冥福を祈りました。

どこのどなたかは知りませんが、どうぞ成仏なさってください。

私を息子のもとに帰してください。

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「お父さん、セミ捕れた?」

突然、葉の陰から息子の顔が見えて、私は体の力が抜けてしまいました。

さっき、ひらひらと揺れていた黒い手は、

何度も崖を滑り降りる間にすっかり土で汚れた息子の手だったのです。

あれほどうるさかったミンミンゼミの声は、聞こえなくなっていました。

「逃げられた、すまん」

「いいよ、もう帰ろう。ぼく本物のミンミンゼミの声を聞けただけでもよかった」

「おまえ、お父さんが戻ってくるまでの間、何か変なことなかったか」

「え、ないよ。お父さんすぐ帰って来たし」

「すぐ?」

私の感覚では一時間ぐらい山中をさまよっていた気がしたのですが、時計を見ると二時二十分――わずか五分しか経っていなかったのです。

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その後ずいぶんたってから、あの遺体が八年前の冬に出かけたまま行方を断った地元の人だと判明しました。

おそらく登山道を外れて道に迷い、崖を落ちたのだろうということです。

木の枝に手が残っていたのは、珍しく大雪の年だったからでしょうね。

彼は、あのセミが育った腐葉土に八年も溶け込んで、発見される時を待ったのでしょうか。

つまりあれは、奇跡のミンミンゼミだったのかと。

それ以来、息子も私もセミとりをしていません。

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